All Chapters of プライド崩壊の夜~元妻、二人目の妊娠~: Chapter 661 - Chapter 670

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第661話

「ふざけるな!俺はお前のことなんて知らないぞ!キスなんてしてないし!」真子はまったく動じる様子を見せなかった。「ヴェイラン・クラブでのことよ。そっちがキスしようとしてきたとき、遠藤大輔もその場にいたわ。今すぐ電話して確かめてもらう?」樹は、その瞬間すべてを思い出した。あのとき場をセッティングしたのは、他でもない大輔だった。「ちがっ……胡桃、俺の話を聞いてくれ!」慌てて彼女の手を掴もうとする。「……いいわ、説明を聞かせて」胡桃は取り乱すこともなく彼を見つめた。その顔には何の感情も浮かんでおらず、怒っているようには見えなかった。でも、樹にはわかっていた。――終わった。完全に終わった、と。込み上げる怒りをぐっと呑み込み、まずは真子に向き直る。「いいか、俺はお前と付き合ったことなんてないし、キスだってそっちが勝手にしてきただけだろ!違うか!?」真子はわずかに顔を引きつらせた。「キスしようとしたのは本当でしょ?それって気味があったってことじゃない?でもまあ、怒らなくていいわよ。あのときはふたりとも独身だったんだから、浮気でも何でもないじゃない。そっちの奥さんも怒らないでよ。妊娠中なんだから、ストレスは体に毒よ」言いたいことだけを言い放つと、真子は連れの友人たちに向かってあっけらかんと言った。「行きましょ」彼女たちがさっさと立ち去ると、残された樹は、びくびくしながら胡桃の顔色をうかがった。しかし胡桃はとくに反応も示さず、彼を見向きもせずにそのまま歩き出してしまう。樹は慌てて追いすがり、そっと彼女の腰に手を回した。胡桃はそれを払いのけなかった。少しだけ安堵した樹は、恐る恐る口を開く。「実はあのとき……」「言い訳なんて聞きたくないわ」胡桃は静かな声で遮った。「あの子も言ってたでしょ、ふたりとも独身だったんだから何も問題ないって。キスどころか、もし寝ていたとしても、私がとやかく言う筋合いはないわ」樹は彼女の手をきつく握りしめた。「胡桃、違うんだ。あのとき君に別れを告げられて、俺は本当に傷ついていた。他の女で忘れられるか、試したかっただけなんだ。でも答えは、無理だった……」「じゃあ、相性が悪かったのよ」胡桃は冷ややかに微笑んだ。「さっきの子が好みじゃなかっただけかもしれないじゃない。もっと色んな子で試してみたらどう
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第662話

ほどなくして胡桃のスマホが鳴った。着信は、大輔からだった。洗面所から出てきた胡桃は電話に出る。その声は、感情の起伏を一切感じさせない、ひどく冷めた声だった。「あら、遠藤家の御曹司。どういう風の吹き回し?」明里が海外にいたこの三年間、ふたりとも度々彼女に会いに行っていたため、自然と顔を合わせる機会が増えていた。とはいえ、このふたりはどうにもそりが合わない。お互いに負けず嫌いで、顔を合わせるたびに口論になっていた。「暇じゃないと連絡しちゃいけないのか。それに、お腹の甥っ子か姪っ子のことも気になるだろ」ゆくゆくは、彼も叔父としてお腹の子の成長を見守っていく立場なのだから。「気にかけてくれてありがとう。私も赤ちゃんも元気よ」「なんで急に電話したか、わかってるだろ」大輔は冗談めかした態度を捨て、真剣な声で言った。「あいつがお前のことをどれだけ大切に思ってるかは、お前自身が一番よくわかってるはずだ。あの女の子のことだって、あのとき初めて会った相手で……」「初対面でキスしようとするなんて、ずいぶんと節操がないのね」「あいつ、あのときは酷く酔ってたんだよ。俺たちも横でいろいろと煽っちまったし。お前だってわかってるだろ、お前に別れを告げられて、あいつがどれだけ辛かったか……」「なに、じゃあ私のせいだって言うの?」「お前だって人のことは言えないだろ。ホストの腹筋をベタベタ触りまくったりしてさ。自分はやりたい放題のくせに、相手にはダメだって言うのかよ」「そうよ、それが何か?」胡桃はさらりと笑ってのけた。「私って勝手でしょ」「まったく……」大輔は深々とため息をついた。「あいつは結局、キスなんてできなかったんだよ。最後は、あの子が隙を見て向こうから一方的にしてきただけだ。これ以上、あいつに何を望む?あいつはもう、お前のためなら命だって懸けられるくらいベタ惚れなのに」「そんなもの、いらないわよ!」胡桃が芯まで凍てつくような声で言い放った。「切るわ!」通話を切って顔を上げると、樹が縋るような目を向けて傍らに立っていた。「居座るつもり?」胡桃は冷ややかな表情で言い放った。「え?」「ここは私の家よ」胡桃はソファに腰を下ろした。「送ってくれてありがとう。帰り道、気をつけてね」「胡桃……」「出て行って」静かに、しかしはっきり
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第663話

そう、私は自分のことを棚に上げる女なんだから。自分は何をしても許される。でも、樹が同じことをするのは絶対にダメ!こっちはちょっとホストの腹筋を触っただけなのに、あっちはキスまでしようとしたんだから!他の女にキスしようとするなんて!考えるだけで、腹が立って仕方ない!胡桃がギリギリと奥歯を噛み締めていると、またしてもスマホが鳴った。画面に表示された名前を見て、ひとつ深呼吸をしてから電話に出る。「……アキ」「怒ってる?」明里が単刀直入に切り出した。「別に……」図星を突かれてハッとしながら、胡桃はごまかすように言った。「大輔から連絡が行ったの?それとも、樹のやつがあなたに泣きついたの?」「樹はそんな人じゃないでしょ」明里は窘めるように言った。「大輔から大体の事情は聞いたわよ」「なに、私を説得しに来たわけ?」「本当に怒ってるのか、確かめたくてね」「怒ってなんかないわよ」胡桃は強がった。「あいつが他の女と寝たって、別に構わないもの」「もう、胡桃ってば……強がらないの」明里は呆れたように言った。「素直に気にしてるって、どうして言えないの?」「別に隠すつもりもないわよ。だって、彼の子まで産もうとしてるんだから」「よくもまあ、そんなことが言えるわね」明里はピシャリと言い返した。「最初は黙って隠してたくせに。妊娠したことも知らせたくなかったくせに、今さら『産んであげる』なんてよく言えたものね。苗字だって変える気はないし、向こうのご両親にも会わせないつもりかもしれないのに、それのどこが『彼のために産んであげる』ことになるのよ」「ちょっとアキ、どっちの味方なのよ?なんで彼の肩ばかり持つの?」「正論を言ってるだけで、誰の肩も持ってないわ」明里は諭すように言った。「樹があなたのことをどれだけ深く愛してるか、周りのみんなには痛いほどわかってるのよ」「わかってるわよ」胡桃はトーンを落とした。「ただ……どうしても気持ちがモヤモヤするの」「モヤモヤするなら、殴っても怒鳴ってもいいわ。でも、ひとりで抱え込まないで。今はもうひとりじゃないんだから。お腹に赤ちゃんがいるでしょ。お母さんの情緒が不安定だと、生まれてくる赤ちゃんがよく笑う子にならないって。それ、前にあなたが私に言った言葉よ?いざ自分のことになったら忘れちゃっ
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第664話

明里は胸を痛めた。「わかってるわ、胡桃。口では強いことを言っていても、あなたが彼のことをどれだけ深く想っているか、私にはちゃんとわかってる。でも、この一件で彼の気持ちまで全部否定しないで」「ただ……胸が苦しくて」明里は居ても立ってもいられなくなった。「心配しないで、今からそっちに行くわ」「いいのよ、大丈夫だから」胡桃は小さく鼻をすすった。「待ってて。三十分で行くから」そのとき、明里は潤の家にいた。かいつまんで事情を話すと、潤はすぐに立ち上がり、車のキーを手にした。「妊娠中は、ただでさえ情緒が不安定になりやすいんだ」潤は言った。「胡桃のところへ行って、ゆっくり話を聞いてやってくれ」「わかったわ」「それにしても、あの樹も」潤はハンドルを握りながら続けた。「よりによってこんな時期に。胡桃のお腹には赤ちゃんもいるっていうのに……」「誤解だって言っていたわ」明里はかばうように言った。「樹がそんな不誠実な人じゃないってこと、私は信じてる」「それでも、胡桃は傷ついたはずだ」潤は静かに指摘した。「他の誰かで試そうとしたということは、ほんの一瞬でも、彼が胡桃を諦めようとした証拠だからな」「男として肩を持って、胡桃を説得しろって言い出すかと思っていたわ」「俺を、そんなデリカシーのない男だと思っていたのか?」「そうじゃないわ」明里は微笑んだ。「ただ……このこと、事情を知らない人からすれば、胡桃が大げさに騒ぎすぎだと思われるかもしれないなって」「つまるところ、樹が彼女に十分な安心感を与えられていなかった、それだけの話さ」「あら、人の感情の機微が随分とわかるようになったのね」「心理学や恋愛の指南書を、いろいろと読んだんだ」「はいはい、お詳しいこって」明里はわざとらしくため息をついた。「私の負け。あなたの言う通りね。妊娠中はとにかく気持ちが落ち着かないもの。私だってあの頃は、何でもないのに急に泣き出したくなったりしたんだから」潤は片手で彼女の手を取ると、自分の唇へと引き寄せ、そっと口づけた。「……悪かった。あのとき、俺がそばにいてやれなくて」「ううん、あなただけのせいじゃないわ」明里は優しく言った。「責めてなんかいないわ」胡桃のマンションに到着すると、潤は明里の手を引いてエレベーターに乗り込んだ。目的の
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第665話

「アキ、私を特別扱いしなくていいわ。妊娠したからって、急に弱くなったわけじゃないの。不満があれば自分でどうにかするし、腹が立ったらその場で言い返すわ。だから、私のこと可哀想なんて思わないで」「他の誰かはともかく、あなたのことなら私が一番よくわかってる」明里は真剣な眼差しを向けた。「身近な人ほど、一番言いたいことが言えなくなってしまうんでしょ」「樹は例外よ。さっきだって、もうちゃんと怒鳴りつけてやったんだから」「よく言えたわね。それでも腹の虫が治まらないなら、いっそ殴ってやればいいわ。男なんて、そのくらいじゃびくともしないんだから」胡桃はふっと笑みをこぼした。「もう、本当に大丈夫よ。そんなに心配しないで」「でも、樹をいつまでも外に立たせておくわけにもいかないでしょ」明里はたしなめた。「まさか一晩中立たせるつもり?あなたがひとりでいるのが心配で、きっと帰りたくても帰れないのよ」「ねえ、アキ」胡桃はぽつりと静かに言った。「誰かを想う気持ちって、この世で一番贅沢なものだと思わない?どんな高級品にだって値段がついているけれど、心にだけは値札をつけられないんだもの」「わかるわ」「だから、潤と一緒にいるなら、その気持ちをどうか大切にしてね」「あなたたちだって同じよ。何度も別れを繰り返したのに、結局まだ一緒にいるんだから。それだけ縁が深いってことよ。それに、もうお腹に赤ちゃんもいるし……」「赤ちゃんがいたら、何だって言うの」胡桃は突き放すように言った。「アキまでそんな古臭い考えを押し付けるのね」「子供にとってはやっぱり、父親も母親も揃っている方がいいに決まってるわ。しかも、あなたたちふたりの間には、根本的な問題なんて何もないじゃない」「私が理不尽で、わがままばかり言ってると思ってる?」「そんなこと思ってないわよ!」明里は慌てて否定した。「潤だって、今回は樹が悪いってちゃんと言ってたんだから」「じゃあ、いつもは私が悪いってことね」胡桃はかすかにため息をついた。「だから別れようとしてるのよ。彼にはもっとふさわしい人がいるわ。さっぱり別れた方が、お互いのためなんだわ」「もう……ちょっとしたことで嫉妬して、もし彼が本当に他の女のところへ行ってしまったら、それこそ気が狂いそうになるんじゃないの?」「もし本当に他の人のところへ行っ
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第666話

潤と大輔は長年の犬猿の仲であり、樹と潤も、これまではほとんど接点がなかったのだ。「それがどうした。俺とあの忌々しい遠藤でさえ、今は普通に言葉を交わしているんだからな」「……それもそうだね」樹は声に出して笑った。「どうせ胡桃を諦めきれないんなら、もっとしっかり彼女の機嫌を取ることだ。今回は、どう見てもお前が悪い」「わかってるよ」樹は深く頷いた。「正直、俺自身の腹の中にも鬱憤が溜まっていたんだ。だからほんの一瞬、他の誰かでも受け入れられるのか、馬鹿な真似をして、試してみたくなった」「だから胡桃は怒ってるんだよ」潤は諭すように言った。「たった一瞬でも、お前が彼女を諦めようとしたのは揺るぎない事実なんだから」「完敗だよ。俺の落ち度だ」樹は嘆息した。「ちゃんと彼女に謝るさ」「俺からも、明里ちゃんにうまく口添えしてくれるよう頼んでおくよ」「ありがとう」樹は少し表情を和らげた。「そうだ、ふたりのこと、まだ直接お祝いを言えていなかったね。おめでとう」「お祝いの言葉は、結婚式のときに直接聞かせてもらうよ」「準備、頑張ってね」樹は言った。「できれば、胡桃が出産する前に式に参加できるといいんだけど」「それは少し難しいかもしれないな」潤は考え込んだ。「明里ちゃんの話だと、先に朱美さんが式を挙げるらしい。それに俺は九月に式を挙げたくてね。明里ちゃんのために買ったあの小島でやるつもりだ。九月が一番、あそこの景色がきれいだから」「九月なら大丈夫だよ。胡桃は、その頃にはもう無事に出産を終えているから」ふたりが穏やかに話していると、潤のスマホが震えた。「明里ちゃんからだ。ちょっと出る」潤は電話に出た。「ああ、俺たちは今、エントランスにいる。もう話は終わったのか?わかった、今行く」「戻ろう」潤の声が聞こえていた樹も立ち上がった。「もう夜も遅いし、ふたりは早く帰って休んでくれ」「お前はどうするつもりだ。またあの寒いドアの外で立ち尽くすつもりか?」樹は力なく笑った。「それでも構わないよ」上の階に戻ると、ちょうど明里が胡桃の部屋の玄関から出てくるところだった。「胡桃、冷たい風が入るから、そんなところに立ってないで中に入りなさい」そう言いながら、明里は樹の姿に気づいた。「樹、胡桃のことをよろしくお願いね。外は冷えるから、あ
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第667話

明里は言葉が出なかった。それでも、回した両腕で潤の首をきつく抱きしめた。幸せでないはずがなかった。愛する人とこうして求め合える喜びは、天にも昇るような心地だった。しかも、潤はもうすぐ出張へ行ってしまう。まだ出発してもいないのに、明里はもう彼が恋しくて寂しくなっていた。そんな甘い時間を過ごすふたりとは対照的に、樹は胡桃の寝室にすら入れてもらえていなかった。それでも、彼は現状に満足していた。少なくとも、もう一度冷たい外へ追い出されることはなかったのだから。とはいえ、胡桃はあと二か月ほどで出産を迎える身だ。ひとりで寝かせておくのは、どうしても心配だった。別の部屋で寝ていては、夜中に何かあってもすぐに駆けつけられない。そう考えた樹は、結局リビングのソファで横になることにした。深夜、何時頃だっただろうか。不意に物音がして目を覚ますと、胡桃が寝室のドアを開けて出てくるところだった。寝室から漏れる明かりを背に受けた胡桃のシルエットが、樹の目に焼き付く。明るい部屋から暗い廊下へと出てきた胡桃は、数秒かけて目を凝らしてから、リビングの電気をつけた。ソファに座っている人影に気づき、胡桃はビクッと肩を揺らした。「なんであんたがいるのよ!」樹はゆっくりと起き上がった。「こんな時間に目が覚めたのか……?」胡桃は彼を相手にせず、まっすぐキッチンへと向かった。お腹は空いたのだが、具体的に何が食べたいのか自分でもよくわからない。とりあえず冷蔵庫を開けてみる。樹も慌てて後を追った。「お腹が空いたのか?俺が何か作るよ」冷蔵庫の中はいつも食材でパンパンだった。すべて樹が手配し、定期便で届くようにしているものだ。新鮮な野菜や果物、鶏肉、豚肉、魚介類に牛肉と、ありとあらゆるものが揃っている。もともと大型の両開き冷蔵庫なのに、それでも入りきらなくなってきたほどで、樹はもう一台買い足そうとまで言い出していた。二人暮らしでそんなに食べきれるわけがない。使い切れずにダメにするだけだと胡桃が本気で怒り、ようやくその考えを引っ込めてくれたのだ。樹としては、ただ色んな種類の食材を揃えておきたかっただけなのだ。胡桃がいつ何を欲しがるかわからないからこそ、何でもある状態が一番安心できる。古くなったら新しいものと替えればいい、ただそれだけの話だった
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第668話

樹は軽く眉を上げた。「そういうことにしておこうか。どうせ、俺にこんなに手厳しいのは君くらいだからな」胡桃は少しだけ距離を詰め、キッチンカウンターに寄りかかった。「もし、これからもずっと私がこんな感じだったらどうするの?」「こんなに長い付き合いなんだ、君がどういう人かなんて痛いほどわかってる。それに、俺が悪いことをしたんだから、罰を受けるのは覚悟の上だ」「自分が悪かったって、ちゃんとわかってるの?」「わかってるさ」樹は真剣な面持ちで答えた。「俺は君を深く傷つけてしまった」胡桃はふんと鼻を鳴らした。「私は傷ついてなんかいないわよ。最初から本気になんてならなければ、傷つくこともないんだから」「それも俺のせいだよ。こんなに長く一緒にいたのに、君の心を完全に開かせることができなかった俺の情けなさだ」「そうよ、全部あんたのせい」「だから今、こうしてここで償ってる。何でもするよ、何でも言うことを聞くよ」」胡桃はピシャリと断じた。「やっぱりドMね」口では散々文句を言いながらも、海鮮粥ができ上がると、胡桃は遠慮なく匙を動かし、いつの間にか半分以上を平らげていた。だが、そこから先はもうお腹に入らなくなり、静かに匙を置いた。樹は傍らで彼女の様子を見守っていた。「もう食べないのか?」「満腹」胡桃は昔から、目は卑しいくせに食が細かった。恐ろしいほどの食欲を見せるのに、少し食べるとすぐにお腹がいっぱいになってしまうのだ。樹は残りの粥を引き取ると、そのままためらいなく食べ始めた。胡桃はソファに深く腰掛けた。食べすぎて、横になることすらできない。樹はさっさと残りを食べ終えると、彼女の隣に腰を下ろした。「もう少し休んだら寝るか?」「苦しくて無理」「お腹、さすろうか?」「結構よ」胡桃はゆっくりと立ち上がった。「少し歩いてくる」「外は冷えるからダメだ」樹も弾かれたように身を起こした。「部屋の中を歩くだけよ」胡桃は広いリビングをぐるぐると歩き回り、樹はそのすぐ隣を、寄り添うように付いて歩いた。「胡桃、俺に怒ってもいい、罰してくれてもいい。でも、そんな不幸せそうな顔だけはしないでくれ」樹は切実な声で言った。「前に君がよく言ってたじゃないか。いつまでも怒っているのは、他人の過ちのせいで自分が苦しむだけだって」「それ
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第669話

「じゃあ、少しずつ許してあげるわ」胡桃は小さな声で言った。「これからは私の気分次第なんだから、絶対に逆らっちゃダメよ」樹はしょんぼりと彼女を見つめた。「俺がいつ君に逆らったって言うんだ?」「どいて、邪魔」胡桃は軽く彼を押しのけた。樹はしかたなく彼女の手を引き、胡桃が部屋をぐるぐる歩き回るのに延々と付き合い続けた。翌朝早く、潤は予定通り飛行機で海外へ旅立った。学校に到着した明里は、どうにも気になって胡桃に電話をかけた。昨夜、ふたりがどうなったのか確かめたかったのだ。電話に出たのは樹だった。「昨夜は真夜中に彼女がお腹を空かせて、起きて海鮮粥を作って食べさせたんだ。そのあと、お腹が苦しくてしばらく寝つけなくて。さっき、やっと一時間だけ眠れたところだ」「じゃあ、もうふたりは大丈夫なの?」「安心していいよ」樹の声には、かすかな笑みが混じっていた。「少なくとも、また外に追い出されるようなことはなかったから」「妊娠中は気持ちが揺れやすい時期だから、どうか大目に見てあげてね」「わかっている」樹は穏やかに答えた。「俺が責任を持って支えるから」「何かあれば、すぐに私に連絡してね」「ああ、ありがとう」短い会話を終えて、明里はホッとしながら電話を切った。午後、明里のスマホに通知が入った。何気なく画面を開いた彼女は、そのまま息を呑んで固まった。見知らぬ番号から、写真が何枚か連続で送られてきていた。そこに写っていたのは――潤と、ある見知らぬ女性が親しげに寄り添っている姿だった。撮る角度のせいで女性の顔ははっきり見えないが、艶やかな長い髪だけがはっきりと見て取れた。親密に抱き合っているもの、唇を重ねているもの、そしてふたりで連れ立ってホテルへ入っていくもの……潤は出張だと言っていた。ちょうど一時間前に彼から電話があり、無事に飛行機が到着したと告げられたばかりだ。なのに、この写真は一体――明里は、頭の中が真っ白になるような感覚に陥った。思考が千々に乱れ、次の瞬間にはすっぽりと抜け落ちてしまったような、ひどい混乱に陥った。潤は電話で、このあとは仕事が立て込むから連絡は遅くなると言っていた。その日の夜、明里が再び潤からメッセージを受け取ったのは、夜の十一時を回ってからだった。【早く寝るように】、そして【
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第670話

「朱美、ごめんね。ずっと我慢させてしまって」「そんなこと言わなくていいのよ」朱美は優しく微笑んだ。「ただ、もう一つだけ相談があって」「何だい、言ってごらん」「私たち、結婚してからも今みたいに、通い婚のような形でもいいかしら。私、アキやゆうちっちと離れて暮らすのがどうしても寂しくて」「半月近くも会えないことばかりじゃないか。結婚してまで、そんな仮面夫婦のような生活は嫌だよ」「でも……」「アキと潤は、結婚のことについて何か言っていたかい?ふたりが結婚したら、君も結局はアキと離れて暮らすことになるんだよ」「そのことは私も考えたわ。ふたりが結婚したら、もし迷惑でなければの話だけど、アキに頼んで一緒に住ませてもらおうかと思って」「じゃあ、俺はどうなるんだ?」裕之はあからさまに落胆した声を漏らした。「俺はひとりにされるのか?」「どうしようもないじゃない。お互い再婚同士だし、それぞれの子供たちとの関係もあるから、一緒に住むのは難しいでしょ……?」「そんなことはない」裕之はきっぱりと言った。「アキがひとり暮らしなら俺も遠慮するけど、潤も一緒の家族としてなら、みんなで一緒に住んでもいいんじゃないか」「あなた、そんな風に思ってくれていたの?嫌じゃないの?」朱美は心底意外そうに目を丸くした。裕之という人は、もともと自分のテリトリーやプライベートな空間を人一倍大切にする気質の持ち主だ。仕事が忙しすぎて自分の身の回りのことをする余裕もなく、食事もほぼ職場の社食で済ませているような生活だった。朱美と付き合い始めた頃、彼女が「コックかハウスキーパーでも雇いましょうか」と提案したことがあったが、裕之は頑なに拒んだ。家に他人が入り込むのが、どうにも苦手なのだ。朱美との付き合いにおいても、自分のことは何でも自分でやってきた。仕事がどれだけ多忙を極めようと、他人を家に招き入れたくないという思いは徹底していた。実の息子でさえ、独立してからは年に数えるほどしか顔を合わせず、家族揃って食事をする機会があっても、決まって外のレストランだった。そんな、自分の息子とすら別々に暮らしている人が、潤や明里と同居することなど、朱美はこれまで想像すらしたことがなかった。「君と一緒にいられれば、俺はそれでいいんだ。もう離れたくない。これからは、少しでも時
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