All Chapters of プライド崩壊の夜~元妻、二人目の妊娠~: Chapter 81 - Chapter 90

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第81話

「合理的なら応じよう」潤は言った。「だが、お前にやましいことがないのが前提だ」「やましいことなんてあるわけないでしょ?」明里は彼と議論する気にもなれなかった。「財産分与にこだわらないのは、ただあなたの資産は私には関係ないと考えたからよ」「明里」潤は彼女を見つめた。「夫婦とは何か、分かっているのか?」もちろん、明里は知っていた。しかし、潤との結婚生活では、夫婦の本当の意味など見いだせるはずもなかった。彼女は言った。「もしかしたら、私たちの始まりは間違いだったのかもしれない。もしやり直せるなら……」明里は潤と結婚したばかりの頃を思い出していた。あの頃は夢を抱いていた。彼と触れ合うことに少し恐怖を感じながらも、結婚生活には希望で胸を膨らませていたのだ。今思えば、あの恐怖の理由は、きっと劣等感だったのだろう。二人の家柄は、あまりにも違いすぎた。潤が普段接するのは、皆名家の令嬢ばかりだった。それにひきかえ、彼女には容姿以外に取り柄などない。誰が見ても、明里が玉の輿に乗ったと思うに違いなかった。それでも、彼女が常にびくびくとして、細心の注意を払っていたのは、ただ彼を愛していたからに他ならない。愛しているからこそ不安になり、気に入られないのではと怖くなったり、そして愛されないことに憎しみが生まれてしまうのだ。そうやって彼らの結婚生活は一歩ずつ、終わりへと行きついてしまったのだ。しかし明里も今は、ようやく吹っ切れた。彼女は早くこの結婚生活を終わらせて、自分の人生をやり直したいと切に願っていた。これからは物理と化学の研究に没頭するのだ。自分が愛する専門分野に身を投じるのだ。これからはもう二度と、恋というものに縛られたり、傷つけられたりすることはないと彼女は心に誓った。いや、あるいは何年も経てば、価値観が合い、自分を尊重し、大切にしてくれ、一途に愛してくれる男性に出会えるかもしれない。だが、潤との間に……もうこれで終わりだ。明里は潤を見つめ、言った。「もしやり直せるなら、私はあなたに出会いたくなかった」そう言うと、彼女は背を向けて歩き出した。ドアの前まで来て、明里は振り返った。「一番腕の立つ弁護士に頼むよ。離婚協議書ができたら、すぐに届けさせるから」そう言って、彼女は振り返ることなく去っ
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第82話

「黒崎先生のオフィスへご案内します」明里は頷き、彼女に礼を言った。中に入ると、その建物は趣のある和風の内装で、一階は法律事務所というよりは、どこかの名家の邸宅といった雰囲気だった。三階に上がって、明里はようやくオフィスらしき部屋があることに気づいた。そう思っていると、童顔の女性がドアをノックして開けてくれた。「どうぞお入りください」明里は再び礼を言うと、部屋に入った。そして、顔を上げると、そこにいたのは知的で端正な顔立ちの男性だった。明里のイメージでは、弁護士というのはどこか鋭い雰囲気を持っているものだった。しかし、目の前の男性から受ける印象は……大学の講師といった感じだ。彼女の方から口を開いた。「はじめまして、村田明里です。葛城さんの紹介で伺いました」「黒崎樹(くろさき いつき)です」男は簡潔に名乗ると、名刺を差し出した。明里はそれを受け取ると、尋ねた。「私の状況については、ご存知でしょうか?」樹は言った。「胡桃から少しは聞いていますが、詳しい状況については、改めてお伺いする必要があります」胡桃?彼も胡桃のことを名前で呼ぶなんて?明里は胡桃の性格をよく知っている。よほど親しい仲でなければ、彼女がそんな風に呼ばせるわけがないのだ。しかし、胡桃が樹と親しい間柄だというなら、自分が知らないはずはないのだが。彼女から、弁護士の友人がいるなどと聞いたことは一度もなかった。「どうぞ、お座りください」樹の声に、明里ははっと我に返った。彼女は席に着くと、簡潔に自分と潤の状況を説明した。明里の話を聞き終えると、樹は単刀直入に尋ねた。「二宮さんは離婚に同意してくれているのですか?」明里は頷いた。「はい、同意しています」樹はさらに続けた。「俺の知る限り、二宮社長には専属の弁護士チームがいるはずですが……」「黒崎先生、他のことは気にせず、私にふさわしい離婚協議書を作成してくだされば結構です」明里は言った。「最終的に使うかどうかにかかわらず、然るべき報酬はお支払いします」樹は微笑んだ。「あなたは胡桃の友人ですから、報酬は結構ですよ」「いえ、そういうわけにはいきません」明里は立ち上がった。「もしそうおっしゃるなら、他の方にお願いするしかありません」樹も立ち上がった。「そこまでおっしゃる
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第83話

明里は法律事務所に到着し、樹と話した後、彼に見送られて外に出た。一階に着き、階段を下りきったところで、玄関のドアが開いた。明里は顔を上げてそちらを見た。そこにいたのは、グレーのクラシックなスーツを身にまとい、髪をオールバックにして端正な顔立ちを露わにした大輔だった。その顔立ちもさることながら、彼が纏うオーラはさらに目を引くものがあった。まるで古き良き時代の貴公子のような雰囲気を漂わせているのだ。そんな雰囲気は、傍から見れば、映画のワンシーンかと思うだろう。だが、映画スターでさえ、大輔ほど気品のある者はそうそういないのだから。その性格や人柄を抜きにすれば、彼の容姿は、明里が今まで見た中で最も美しいものだった。明里はきょとんとした。なぜここで大輔に会うのだろうか。これまでの数回の出会いを考えると、彼の無遠慮な言動から、今回もわざと偶然を装って現れたのではないかと、明里はとっさに勘ぐった。一体、何を企んでいるのか。目的は分からないが、ろくな人間でないことだけは確かだ。そんなことを考えていると、隣にいた樹が口を開いた。「来たか」しかし、大輔は彼に答えず、まっすぐに明里を見つめていた。樹のその一言で、明里は自分の勘違いに気づいた。どうやら、本当に偶然だったようだ。「アキ?」大輔がそう呼んだ途端、明里の顔はこわばった。樹は一瞬驚いた。「知り合いなのか?」「いいえ、知りません」「もちろん!」二人は同時に口を開いたが、その答えは全く逆だった。大輔はくすりと笑った。「へえ、アキも堂々と嘘をつくんだ。なんだか可愛いね」明里は大輔と一切関わりたくなかったし、彼の馴れ馴れしい態度が何より嫌だった。彼女は樹の方を向き直って言った。「黒崎先生、それでは私はこれで失礼します。何かあれば、またお電話します」そう言うと、彼女は大輔には目もくれず、彼の横を通り過ぎていった。大輔は腹を立てる様子もなく、明里に手を振りながら言った。「バイバイ、アキ!」明里の姿が見えなくなるまで見送ると、彼はようやく視線を戻した。樹は眉をひそめて彼を見た。「また何を企んでる?」クラシックなスーツを着ているというのに、大輔の態度は少しも重々しくない。彼は樹の肩を軽く叩いた。「何を言うんだ。俺が何を企むって?知り
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第84話

「明里さん!」優香は明里の姿を見つけると、嬉しそうに駆け寄ってきた。この間会ってからというもの、直接顔を合わせる機会はなかったが、二人は暇を見つけてはスマホで連絡を取り合っていたのだ。もっとも、明里がいつも返信できるわけではなかった。そのため、時々、優香から怒りのスタンプが送られてくることもあった。優香は幼い頃から家族に可愛がられて育ってきたから、周りの人間からも常にちやほやされてきたため、明里のような態度の人間に出会うのは初めてだった。しかし、それがかえって彼女の気に入ったようだった。明里も優香のことがかなり気に入っていた。だからこそ、彼女のことを気にかけて、今日はわざわざ日焼け止めを届けに来たのである。「三連休の旅行は楽しかった?」明里は優香と軽くハグを交わしてから、そう尋ねた。優香は三連休に家族と海外へ行き、常夏の島で過ごしたらしい。明里は彼女がインスタに投稿しているのを見て知っていた。「うん、楽しかった!ねえ、明里さん、今度機会があったら、一緒にどこかへ遊びに行こうよ!」と優香は大きな瞳をにっこりとさせながら言った。「いいわね。でも、私もうすぐ博士課程に進むから、この2年くらいは時間が取れないかもしれない」と明里は微笑んだ。「わあ、博士課程に進むの?すごい!」「大したことないよ。はい、これ、日焼け止め。スキンケアの後に塗るだけでいいから。効果は結構あると思う。でも、まずはパッチテストしてみてね」明里は持っていた袋を彼女に渡した。「わかった、ありがとう!ねえ、一緒に夕飯食べない?」しかし、明里はこれから大学に行かなければならず、残念ながら食事をする時間はなかった。断られると、優香は唇を尖らせた。「じゃあ、いつなら空いてるの?」それは明里にもはっきりとは言えなかった。「時間ができたら、連絡するよ。それでいい?」「『また今度』とか、『そのうち』とか、そういう言葉で誤魔化すのはなしだからね」「うんうん、そんなことしない。時間ができたら、真っ先にあなたに連絡する」明里は思わず笑ってしまった。二人はさらに少し言葉を交わした後、明里は車に乗ってその場を去った。その時になって、優香は彼女が乗っていた車が……高級車ではないことに気づいた。どうして?あの夜のパーティーに参加で
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第85話

拓海は渡されたお茶を一口すすると、明里に目をやった。「先生から出された課題、どうだった?」明里は苦笑いを浮かべて健太を一瞥し、それから口を開いた。「先輩、さっき先生にこっぴどく叱られたばかりなんです。もうその話は勘弁してください。お願いです!」食卓にいた一同は、彼女の言葉に思わず吹き出してしまった。健太が口を開いた。「今は辛く苦しいだろうが、これを乗り越えれば後はずっと楽になる。我々の道は、もとより険しいものだ。物理学や化学を学ぶ者はごまんといるが、世界的に名を馳せる者が一体何人いる?新しい成果を出せる者となると、さらに少ないだろう」「先生、分かっています」明里は素直に言った。「何かを成し遂げようなんて大それたことは思いません。でも、自分を卑下するつもりもありません。ご安心ください、苦労は厭いません」健太は、この教え子には常々満足していた。食事は終始和やかな雰囲気で、誰もが大いに楽しんだ。食後もしばらく談笑していたが、やがて明里が席を立つと言うと、拓海もそれに合わせて立ち上がった。二人は階下へ降り、明里は手を振った。「先輩、それじゃ、もう帰りますね!」「アキ、明日は時間あるか?」拓海は彼女に尋ねた。「工場の方に行く予定はあない?」「明日は行きません。別の用事がありますね」明里は微笑んだ。「先輩も、運転気をつけてくださいね。お先に失礼します!」彼女はすぐに車に乗り込み、その場を後にした。拓海は明里の車が角を曲がって見えなくなるのを見送ってから、ようやく自分の車に乗り込んだ。夜九時近くになり、明里は再び病院へと向かった。哲也は退院したがっていたが、医師はもうしばらく入院を続けるよう勧めていた。明里が病院に着くと、ちょうど哲也の主治医が当直だったので、彼女は直接彼に伝えた。「先生が退院していいとおっしゃるまで、あとしばらく入院させてください」そして病室へ行くと、明里は哲也に安心して療養に専念するよう言った。哲也はぶつぶつと文句を言った。「金がかかるだろうが。きりがないよ」それを聞いても明里は何も言わなかった。彼女は本当に疲れ果てていたのだ。マンションに戻ると、服を脱ぎ捨ててシャワーを浴び、そのままベッドに身を投げ出した。ここんとこ哲也が倒れ、慎吾は問題を起こし、おまけに潤と陽菜による度重なる挑
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第86話

潤は眉をひそめた。「どういう意味だ?」しかし、彼への返答は、明里が力任せにドアを閉める音だけだった。潤は数秒間その場に立ち尽くした後、ようやく立ち去った。一方で起こされた明里は、もう一度眠る気にはなれなかった。彼女は洗顔してパックをし、それからベッドに横になってデリバリーを頼んだ。朝食を終えると、さらに一時間ヨガをした。久しぶりだったためか、体が硬くなっていて思うようにポーズがとれなかったが、明里は焦ることなく、ゆっくりと体を慣らしていった。これからの人生は、充実させ、そして楽しく過ごすのだ。お金を稼ぐことは焦らず、ゆっくりと。努力さえすれば、きっとこの家を支えられるようになると、彼女は信じていた。陽菜が事故に遭ったことについて、明里は全く関心がなく、尋ねようともしなかった。そして、彼女は熟考の末、再び法律事務所を訪れた。今回は滞在時間が長く、事務所を出たのは二時間近く経ってからだった。数日後、哲也が退院すると言い張った。それは、あと2週間もすれば、お正月を迎えるからだ。お正月なんだから、彼はどうしても病院で過ごしたくなかったのだ。明里は医師に相談した後、哲也のために退院手続きを行った。事前に支払っていた入院費や保険適用による払い戻しなどを精算した結果、合計で1600万円あまりが戻ってきた。明里は1000万円を手元に置き、残りの600万円あまりは両親に渡した。そして彼女はその1000万円を潤の口座に振り込んだ。潤は多数の口座を持っていたため、日々資金の動きも多かった。だから、そこに振り込まれた1000万円は、ほんの僅かのもののようで、何ら波風が立つことはなかった。明里は振込完了画面のスクリーンショットを撮ると、哲也を家まで送った。慎吾は荷物を運びながら明里を見かけ、口を動かしたが、結局何も言わなかった。明里も彼を相手にする気はなかった。片付けを終えて帰ろうとすると、玲奈が彼女を引き止めた。「アキ、お父さんも退院したことだし、いつか潤が暇なときにでも、二人で食事に来て」明里はきっぱりと言った。「彼は出張中なの。いつ帰ってくるか分からないの」「年内には戻ってくるでしょ」と玲奈は言った。「その時にでも一緒に来て。お父さんの退院祝いもあるし、もうすぐお正月だし、それに……」玲
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第87話

しかし、今となっては明里はその姿を見ても、もう心が揺らぐことはなかった。もう彼女は潤に対して、何の期待も憧れも抱いていないのだ。ただ、彼が一刻も早く離婚協議書にサインしてくれることだけを望んでいた。そうなれば、二人で役所に離婚届を提出するだけで済む。しかし、潤という男……明里は今に至るまで、彼の考えが読めず、なぜ離婚を引き延ばそうとするのか、その理由が分からなかった。だが、明里はもう潤にこれ以上、神経をすり減らすようなことはしたくなかった。再び法律事務所を訪れた明里は、離婚協議書を手に事務所を後にした。前回会った時、彼女は樹に本当のことを話していた。潤は口では離婚に同意すると言いながら、いつまで経っても離婚協議書を準備しようとしないでいるのだ。樹はいくつか解決策を提案したが、明里はそのどれも望ましくないと思った。そして最後に、樹が口を開いた。「そうなると、残された手は一つしかありません」「何ですか?」樹のもとを離れた明里は、そのまま保険会社へと向かった。その日の午後、彼女は潤に電話をかけた。電話はすぐにつながった。「まだ出張中?」明里は尋ねた。「いつ戻るの?」潤の声は感情が読み取れなかった。「何か用か?」「前に加入した保険が満期になるんだけど、受取人があなたになってるから、サインが必要な書類があるの」「用件はそれだけか?」と潤は尋ねた。「ええ、それだけ」と明里は答えた。電話の向こうは数秒間黙り、そして、「明日戻る」とだけ言った。「何時ごろ?会社に行こうか?」「夜になるだろう。二宮家の屋敷で待っててくれ」と潤は言った。「いいえ、二宮家にはいかないから」明里は陽菜に顔を合わせたくなかった。「何時になるか教えて。別荘の入口で待ってるから」それを聞いて、潤はまた少し黙り込んだ後、「なら、わざわざ来なくていい。帰りにそっちに寄るから、待っててくれればいい」と言った。明里は彼に自宅に来てほしくはなかったが、向こうが譲歩した以上、彼女もあまり文句は言えなかった。「分かった。じゃあ、待ってる」明里は子供の頃から理数系が好きで、幼いながら、数字に対する鋭い感覚を見せていた。他の子が外で遊びまわっている間も、彼女は静かに数学のドリルを何枚もこなすことができた。それは難問であれ
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第88話

明里はそれを受け取ると立ち上がり言った。「ありがとう。長旅でお疲れだろうし、早く帰って休んで」潤は彼女に目を向けた。気のせいか、明里はその眼差しに、どこか切なげな色を感じ取った。彼女は一瞬戸惑ったが、再び視線を向けると、潤はもう目を逸らしていた。「まだ食事をしていないんだ」と彼は言った。だからなんだ?食事をしてないとか自分には関係ないんだけど、と明里は心の中で毒づいた。「私はもう食べたので」と彼女は口を開いた。潤は腕時計に目をやり言った。「もう少し、付き合ってくれないか?デリバリーを頼むから」明里は手元の書類に目を落とし、断らなかった。「ええ」潤は立ち上がり、「先にシャワーを浴びる」と言った。明里は眉をひそめた。「それはちょっと……」潤は彼女を見て言った。「何がまずいんだ?」ことを荒立てたくなかったので、明里は折れた。「どうぞ」潤は口の端を上げて笑うと、浴室へと向かった。平然を装えると思っていたのに、潤の笑みは、明里の心を揺さぶるには十分だった。彼女は影響されないようにと目を閉じ、深く息を吸い込んだ。そして、再び自分の勉強の資料に目を落とした。十分後、潤が上半身裸で出てきた。腰にはバスタオルが一枚巻かれているだけで、鍛え上げられた腹筋が露わになっていた。潤と関係を持つまで、明里は成人男性の裸などまともに見たことがなかった。どちらかと言えば、胡桃の方がよくショート動画でイケメンを見ていて、ついでに彼女も一緒に見せられた。明里はその時、こんなに腰が細く、肩幅が広く、そして美しく魅力的な腹筋を持つ男性が本当にいるのだろうか、と思ったものだ。胡桃も言っていた。「見てるだけにしときなよ。アングルの問題だったり、メイクしてたりするんだから」とにかく目の保養になればそれでいいのであって、本物かどうかなどどうでもいい、ということだ。だから、明里も結婚したあと、潤と夜を共にするまではずっとそういう体系の男性が実在するとは思わなかった。服を着ていると、潤の本当の体格はよく分からなかった。ただ、背が高く、肩幅が広く、足が長い男だということだけは感じられた。しかし、そのすべてを脱ぎ去った時、明里は初めて知ったのだ。この世には、本当にこれほどまでにスタイルの良い男性がいるのだ。それどころか
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第89話

明里は、心臓が喉までせり上がってくるのを感じた。だが、彼女は落ち着きを装って微笑んだ。「どうしたの?」「別に」潤はそう言うと、ペンを走らせてサインをした。明里は次のページをめくった。「ここもお願い」潤がサインを終えると、明里はペンをしまい、書類をバッグに入れた。「それじゃ、私、帰るね」潤は彼女に冷ややかな視線を送った。「用が済んだらポイか?」その時の明里は心臓が激しく高鳴っており、他のことまで気に掛ける余裕はなかった。すると、隣にいた啓太が口を挟んだ。「おいおい明里さん、そりゃねえだろ。使い捨てかよ?」それを聞いて明里は眉をひそめた。すると、隣にいた潤が啓太を蹴り飛ばした。「黙れ!」啓太はひらりと身をかわした。「おい!女にうつつを抜かして、友達をも構わなくなったってか!」潤は彼を無視して明里に視線を戻した。「何か急いで帰る用事でもあるのか?」明里はただこの場を離れ、気持ちを落ち着かせたかった。彼女は適当に頷いた。「ええ、見なきゃいけない資料がまだあって」潤は立ち上がった。「送るよ」「車で来てるから」啓太が隣でニヤニヤしながら言った。「『送るよ』って言葉は『やりたい』とも解釈できるよな……」啓太が言い終わらないうちに、潤が再び彼を蹴りあげた。啓太はそれを避けて言った。「おい!図星を指されて逆ギレか?それで俺を黙らせる気かよ?」だが、潤はそれ以上彼の相手をすることなく、明里の手首を掴むと、個室から出た。廊下に出ると随分と静かになった。「あいつは昔から口が悪いんだ。気にしないでくれ」と潤は言った。それを聞いて、明里は何も言わなかった。むしろ、彼女は啓太の言葉が的を射ていると感じていたからだ。潤が自分に会いたがるのは、他に用事があるわけではなく、本当にただ単にやりたかったからだろう。今までだって、二人の間はそれ以外に何の交流もなかったのだから。階下に下り、煌びやかなクラブを出ると、明里は言った。「一人で帰れるから」潤は黙って彼女を見下ろした。明里は彼を一瞥した。三年間も夫婦だったのだから、多かれ少なかれ、潤のことは理解している。例えば、今の彼の眼差しには……幾分の欲求不満が滲んでいたのだ。だから今日のサインはあんなにすんなり済んだのかと、明里は合点がいった
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第90話

「ええ、早まったの」と明里は言った。「だから、もう帰ってもいい?」そう言って背を向けたとたん、潤は彼女の手首を掴んだ。「お前のなかでは、俺がお前に会いに来るのは、そういうことだけが目的なのか?」明里は不思議そうな顔で彼を見つめた。「違うの?」いつも冷静な潤だったが、その顔から落ち着きが消え、怒りを露わにした。「明里!」明里は彼の手を振り払った。「何怒鳴ってるのよ。事実じゃない?私が何か間違ったことでも言った?」潤は深く息を吸い込んで、ようやく心の怒りを抑え込んだ。「他のことはともかく、俺たちは夫婦だ。夫婦の営みがあるのが、そんなに悪いことか?」と彼は言った。「そんなことなんて言ってない」明里は言った。「でも、あなたはいつも私のこと尊重してくれないじゃない?私が嫌だと言っても、あなたは聞き入れたことはないでしょ?」「お前……」潤は一瞬言葉に詰まった。「だが、俺だって欲求があるんだ。それをどうしろって言うんだ?」「だから前もって、生理中だから無理だって言ったじゃない?」それを言われ、潤は何も言えなかった。明里はその隙にさっさとその場を去ろうとした。しかし、数歩歩いたところで、後ろから人の気配がした。振り返ると、案の定、潤がついてきていた。「まだ何か用?」「お前に聞きたいことがある」と潤は言った。「どうぞ」「お前の家に行って話すか、それとも俺と屋敷に戻るかどっちがいい?」潤は続けた。「安心しろ、手は出さないと約束する」明里は顔を上げて言った。「じゃ、あなたは自分の車に乗って」「車で来てない。啓太に送ってもらったんだ」潤はしれっと嘘をついた。本当かどうか分からなかったが、明里は仕方なく彼を車に乗せることに同意した。この車を買った当初、明里は、まさか潤が身を屈めてこの車に何度も乗ることになるとは思ってもみなかった。明里はファイルを慎重にバッグに入れ、そのバッグを後部座席に置いてから車に乗り込んだ。車内では、二人はほとんど口をきかなかった。明里の住まいに着き、腰を下ろすと、彼女はすぐに切り出した。「用件は何、言って」潤はコートを脱ぎ、ネクタイを緩めながら言った。「水の一杯も出ないのか?」仕方なく明里は立ち上がり、彼のために水を一杯注ぎに行った。戻ってみると、潤はシャツ一枚
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