All Chapters of プライド崩壊の夜~元妻、二人目の妊娠~: Chapter 61 - Chapter 70

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第61話

慎吾はその男の方を見て、目を輝かせながら尋ねた。「誠さん、本当ですか?」田中誠(たなか まこと)はタバコに火をつけ、いやらしい目つきで明里を見つめながら言った。「本当に、あなたのお姉さんなのか?」慎吾の見た目はせいぜい爽やか系のイケメンといったところだが、明里の顔立ちは、彼が今まで見てきた女の中でも群を抜いて美しかった。明里は病院で付き添いをしていたため、服装はシンプルで、上にはショート丈のダウンジャケットを羽織っている。そして下には、ダークカラーのジーンズを履いていた。ごく普通のジーンズだが、それが彼女の真っ直ぐで長い脚を一層際立たせていた。言うまでもなく、その顔立ちは陶器のように白く整っており、特にその漆黒の瞳は、一目見ただけで男を虜にするほどの魅力があった。さらに、明里が纏うクールな雰囲気が、より一層誠の独占欲を掻き立てた。こういう女であればあるほど、誠は自分の腕の中で彼女がどんな風に乱れるのか、見てみたくてたまらないのだった。誠は隣にいた女を押し退け、ドアのところまで歩いて行った。間近で見てみると、明里は化粧をしていないにもかかわらず、その顔立ちはさらに美しく見えた。慎吾は、誠がどういう人間かを知っていた。金持ちではあるが、その評判は実によくないのだ。次から次へと女を乗り換え、以前には女子中学生に手を出して、その子は後に飛び降り自殺をしたという噂まであった。ただ、田中家が金でもみ消したおかげで、一人の人間の命が、そうやっていとも簡単に闇に葬り去られたのだ。慎吾は無意識のうちに、明里のそばに寄り、彼女を庇うように立った。彼は投資してもらいたいとは思っていたが、誠が明里と関わるのだけはごめんだった。彼は慌てて言った。「誠さん、こちらが姉です。さっきに言いましたよね、潤さんが俺の義理の兄です」慎吾は、潤の名前を出せば、誠も少しは大人しくなるだろうと考えたのだ。しかし、誠が彼の言葉を全く信じていなかった。明里は潤の名前を聞くと、さらに眉をひそめた。彼女は口を開いた。「慎吾、帰るわよ」誠のいやらしい視線に気づいた慎吾は、明里をここに呼んだことを少し後悔した。誠は格好つけてタバコの灰を弾き、明里をじっと見つめて言った。「おい、せっかく来たんだからさ、座って一杯どう?こういう出会いも何かの
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第62話

明里は慎吾を連れ出すと車に乗り込んだ。しかし、エンジンはかけずに運転席で数秒黙り込んだ後、口を開いた。「慎吾」慎吾はなぜか気まずそうに言った。「お姉さん……」明里は彼の方を見ず、窓の外、駐車場のタイルをじっと見つめていた。「辛いことを思い出させたくはないのだが、おじさんたちが亡くなってから、うちの両親はあなたのことを本当の息子のように思ってるし、私もあなたのことを本当の弟のように扱ってきた」と彼女は言った。「うん、分かってるよ」明里は続けた。「だから、今日のことは、二度と起こしてほしくないの。慎吾、私たちはただの一般家庭で、お金も権力もない……」慎吾は思わず口を挟んだ。「でもお姉さん、あなたと潤さんって夫婦で、二宮家は……」その言葉に、明里は初めて彼に視線を向けた。その冷たい瞳には氷のような光が宿っていた。「私は潤と、もうすぐ離婚する。慎吾、あの人はもう、あなたの義理の兄じゃなくなるの」慎吾は途端に焦り出した。「お姉さん……おじさんとおばさんには、離婚しないって約束したんじゃなかったの?」明里はもう一度、彼に目をやった。その眼差しから、慎吾は多くのことを読み取った。明里はさらに言葉を続けた。「慎吾、私はあなたのことを本当の弟だと思ってる。でも、物事には越えてはいけない一線があるの。両親があなたにどう接するかは、私が口出しすることじゃない。でも、私の前では……」彼女は真剣な眼差しで彼を見つめ、一語一句はっきりと告げた。「絶対に、羽目を外したことをしないで。分かった?」そう言われて、慎吾の胸がどきりとして、明里の視線から逃れるように目を逸らした。「うん、分かってるよ。俺はただ……早く成功したかったんだ」明里はため息をついた。「誰でも簡単に成功できるわけじゃないの。今夜のあの人たち……彼らがどういう人間か、分かってるの?」「でも、金は持ってる」明里は言った。「こんなこと聞きたくないでしょうけど、私としては、あなたがもっと正直で誠実な、善良な人たちと付き合ってほしいと思ってる」だが、それを聞いても、慎吾はうんともすんとも言わなかった。ビジネスは綺麗事だけでは成り立たない。正直で善良なだけでは、他人に食い物にされるだけだ。明里は車で慎吾を病院まで送ると、彼に玲奈と一緒に帰るよう促した。それから
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第63話

これでやっと彼女が帰ってきくれたので、健太は嬉しさのあまり、つい飲みすぎてしまったのだ。食事が終わると、拓海と明里は健太夫婦を家まで送り届けた。食事会に向かう際、拓海が直接大学まで健太と明里を迎えに行ったため、彼の車一台しか使わなかったのだ。健太夫婦を無事に送り届けると、二人は階下へ降りた。そして拓海は助手席のドアを開けながら言った。「乗って、送るよ」一方で明里のかばんには借用書が入っていた。彼女は助手席に乗り込み、拓海が運転席に座るのを待ってから、その借用書を彼に差し出した。拓海はちらりとそれに目をやると、「そこ置いといて」と言った。明里はそれをグローブボックスにしまった。「先輩、大学までで大丈夫です。そこに車を停めていますので」「大学は回り道になるから」拓海は言った。「直接家まで送るよ」「え?」明里は一瞬きょとんとした。「でも、明日も車を使いますし……」「明日の朝、迎えに行くよ」拓海は言った。「ちょうど明日、大学に行く用事があるんだ」明里は彼の顔をじっと見た。しかし、拓海の表情はいつもと変わらなかった。明里は頷くしかなかった。「はい、では……お手数おかけします」車はすぐに明里のマンションに着き、彼女は彼に手を振って別れを告げた。今回、拓海は車から降りず、明里にさよならを言うと、そのまま車を走らせて去っていった。マンションの敷地を出ると、彼は明里の借用書を取り出し、しばらく眺めていたが、やがてライターで火をつけ、それが燃えて灰になるのを見届けた。翌朝早く、明里は迎えに来た拓海の車に乗り込んだ。すると、「朝ごはん」拓海が袋を一つ差し出した。明里が袋を開けると、嬉しそうに声を上げた。「これ、もしかして、あの店のパンですか?」拓海は静かに、「ああ」と頷いた。明里は尋ねた。「先輩はもう召し上がりましたか?」「もう食べたよ」と拓海は答えた。明里は礼を言い、静かにパンを頬張り、牛乳を飲み始めた。その間、二人は特に言葉を交わすことはなかった。大学に着くと彼女は車を降り、再び拓海に礼を言って手を振って別れた。そしてまずは健太に会いに行くため、彼女は校舎に入ってエレベーターに乗り込むと、思いに更けた。そして、チーンというエレベーターの到着音に、彼女はようやく我に返った。正
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第64話

高貴で近寄りがたい雰囲気を纏った男が、病院によくある簡素なパイプ椅子に腰掛けており、その姿は彼の上等な身なりとは不釣り合いだった。一方で、明里の姿を見つけると、玲奈は満面の笑みを浮かべた。「アキ、やっと来たのね。潤がずっと待っててくれたのよ」潤が、自分を待っていた?ありえない。彼女が潤に視線を向けると、彼が口を開いた。「俺も来たばかりだ」やっぱり。潤が自分を待つわけがないのだ。潤の前でやけにへりくだる両親の姿を思うと、明里は胸が苦しくなった。彼女は尋ねた。「どうしたの?」これを聞いたのは、潤が自分の父親のためだけに来たというのが、到底思えなかったからだ。しかし、潤が口を開くより先に、玲奈が明里の腕を軽く叩いた。「なんて口の利き方するの?潤はあなたのお父さんのお見舞いに来てのよ!」それを聞いて、明里は力が抜けたように笑った。さらに少し言葉を交わすと、両親が潤を前にして気詰まりな様子なのを察し、明里は口を開いた。「忙しいんでしょ。もう帰ったら」そこをすかさず、玲奈は言った。「あなたも潤と一緒に帰って。私は後で慎吾に迎えに来てもらうから」それを聞いて、潤は立ち上がりながら言った。「じゃ、我々はこれで失礼する」その一言で、彼一人で帰ってほしいという明里の考えは通せなくった。両親に何かを勘繰られないよう、彼女は仕方なく潤について病室を出た。そして、病院の廊下を二人並んで歩きながら、明里は少し考えた後、口を開いた。「ありがとう」ともかく、潤がわざわざ足を運んでくれたことで、両親からしばらく詰め寄られることもなくなるだろう。「別に」と潤は淡々とした声で答えた。その後、二人の間に会話はなかった。病院の駐車場に着くと、明里は彼と別れようとした。「私の車はあっちだから、ここで」以前は潤を見るたびに高鳴っていた胸も、今では凪いだままでいられる。我ながら随分と成長したものだ、と彼女は思った。結局潤は何も言わなかった。明里も彼が愛想を言うなどと期待もしておらず、くるりと背を向けて歩き出した。しかし、数歩歩いたところで違和感を覚えて振り返ると、潤がすぐ後ろをついてきていた。彼の車も同じ方向にあるのかもしれないと思い直し、明里は結局何も言わず、再び前へ進んだ。ところが、彼女が自分の車のそばに着いて
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第65話

潤は数秒黙り込んだ後、口を開いた。「俺たちはまだ離婚はしていないんだ」それは彼が何度も口にしたセリフだった。明里はフッと鼻で笑った。もちろん、嬉しいから笑ったわけではない。数秒の沈黙の後、彼女は口を開いた。「潤、あなたは愛情がなくても、相手が誰であろうと、自分がしたいと思えば誰とでも寝られるわけなのね?」それを聞いて、潤の目線は漆黒の闇のように深まっていた。彼は何も言わず、ただ明里を深く見つめるだけだった。明里はその目線に一瞬胸のトキメキを感じ、とっさに視線を逸らした。すると、潤は冷ややかな声で言った。「俺たちは夫婦だ。欲求が生まれた時、妻に求めずして、誰に求めろと言うんだ?」「私たちはもうすぐ離婚するのよ」明里は言い返した。「あなたは感情のない相手ともできるかもしれないけど、ごめん、私には無理」結婚前、明里は潤とほとんど接点がなく、彼の評判といえば、「クールで淡泊な美男子」というものばかり耳にしていた。これほどの権力を持つ男でありながら、その私生活はまるで白紙のようにクリーンだったのである。そのため、彼が女性を好まないのではないかと噂する者さえいた。しかし結婚して初めて、潤が性欲の塊でまさに化けの皮を被った獣なのだと身に染みて感じたのだ。自制心が強く、淡泊でクール。そんな言葉は、全くと言っていいほど彼とは結びつかないことを、彼女は思い知らされた。離婚の話し合いが進んでいるにもかかわらず、潤は平然と明里を求めることができる男なのだ。彼女は彼に心を動かされ、情を抱いていたからこそ、その腕の中で体を委ねることができたのだ。しかし、ひとたび愛情が冷めてしまえば、いかなる密な接触もしたくなかったのだ。ましてや、夫婦の営みなど、明里にとってはどうしても受け入れたくないことなのだ。だが、潤は明らかにそうではなかった。彼は陽菜に思いを寄せる一方で、明里と愛し合う時は、貪欲で、いつも彼女が死にそうになるほどまで熱烈で激しくするのだ。そう思うと明里は心の中で自嘲した。こんな男、とっくに見切りをつけるべきだったのだ。「無理だと?」潤のさらに冷え切った声が耳元で響いた。「思い出させてやろうか?お前が俺の下で、両脚を俺の腰に絡みつけ、離さないと強請っていた姿を……」それを言われ、明里はただただ、
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第66話

しかし、潤の心の中では、自分も平気で体を売るような女だと思われていたとは、夢にも思わなかった。​羞恥と屈辱にまみれて、明里はついに心が折れるということ以上に悲しいことはないと悟った。「お金は、返すわ」明里は、その大金を彼の顔に叩きつけてやりたい衝動に駆られた。しかし、彼女には金がなかった。「返すだと?」潤は鼻で笑った。「この前の1000万円もか?」明里は屈辱と怒りで死にそうになりながら、ハンドルを固く握りしめ、一言も発することができなかった。「行け」潤の声は平然としており、優位に立つものならではの余裕が感じられた。しかし、その声は明里の耳には、ただの屈辱としか響かなかった。彼女の手は震え始め、もはやハンドルを握ることさえ困難だった。涙で視界が滲む。明里は歯を食いしばり、涙がこぼれ落ちないよう必死に堪えた。だが、感情の昂りを抑えることはできず、肩は小刻みに震え、喉の奥が詰まり、目の縁が熱くなった。車内は静まり返り、潤もそれ以上何も言わなかった。どれくらいの時間が経っただろうか。明里はハンドルから手を離し、シートベルトを外すと、ドアを開けて車から降りた。そして、振り返ることなく、まっすぐに前へと歩き出した。潤は明里を数秒見つめた後、車を降りて大股で追いかけた。彼が腕を掴もうとすると、彼女はそれを振り払った。さらに肩を抱こうとするが、明里は走り出そうとした。その瞬間、潤は一歩前に出て力ずくで彼女を抱き寄せると、次の瞬間には横抱きにしていた。明里がもがくのも構わず、足早に自分の車の前まで行くと、彼女を後部座席に放り込んだ。しかし、まるでバネ仕掛けがあるように、潤が身を起こした途端、明里は跳ね起きて彼を突き飛ばし、車から降りようとした。我慢の限界に達した潤は、彼女を後部座席に押さえつけ、冷たい表情で言い放った。「もう一度動いてみろ。ここで無理やりお前を抱いてやるぞ!」明里はぴたりと動きを止め、涙をたたえた漆黒の瞳で、ただ黙って潤を見つめた。目元は赤く染まっていたが、その眼差しは氷のように冷たかった。彼女が動かなくなったのを見ると、潤は身を起こし、バタンとドアを閉めた。そして運転席に回り込んで車を発進させ、病院を後にした。後部座席に横たわったまま、明里はついに堪えきれず涙を流
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第67話

あのダイヤのピアス、あの日の朝食、そしてパーティーで靴擦れを心配してくれたこと……それら一つ一つが、陽菜と比べて自分がどれほど惨めで滑稽であるかを、ただはっきりと見せつけられるだけだった。明里は避けもせず、身じろぎもせず、潤が顔を拭くのに任せていた。最初は潤も良心が咎めて、今夜は手を出してこないだろうと、彼女は思っていたのだ。だけど、しばらく考える、どうやら、それは思い過ごしのようで、潤はきっと、自分を綺麗にしてから抱くつもりなのだろうと明里は改めて思った。涙で汚れた顔では、キスする気にもなれないとでもいうことか。明里は、彼が自分の顔を拭くのをされるがままになっていた。顔が綺麗に拭かれると、明里は確かに少しさっぱりした。「腹は減っていないか?」耳元で潤の声が響く。「外に出たくないなら、食事をここに運ばせる」明里は黙っていた。食欲がなかった。ここ数日、何も食べる気がしなかった。一つには哲也の病気のことが心配だったし、それに加えて、彼女自身も最近は以前ほど食欲がなかった。疲れすぎているのかもしれない。彼女が黙っていると、ごそごそと何かが擦れる音がした後、潤の足音はまた遠ざかっていった。明里はそのまま布団を引き寄せ、すっぽりとその中にくるまった。以前の彼女は、潤に心を奪われ、恋をしていただけでなく、彼に対して得体の知れない畏怖の念を抱いていたのだ。おそらく心のどこかで分かっていたのだろう。このような男は、決して自分のものにはならない運命なのだと。また、潤の纏う威厳あるオーラが、明里を萎縮させ、軽率な振る舞いを許さなかった。しかし今や、明里はすっかり絶望していた。まもなく離婚するのだから、もうどうにでもなれと開き直り、何もかもどうでもよくなっていたのだ。再び部屋に戻ってきた潤は、布団に頭までくるまっている明里の姿を目にした。彼はベッドに歩み寄り布団を剥ぎ取ると、涙に濡れた明里の小さな顔が現れた。普段の彼女はいつも冷めた表情で、人を寄せ付けない雰囲気を纏っている。しかし、泣いたばかりの今の明里の顔には、女性ならではの儚さが漂っていた。俯いた彼女のまつ毛は、長くて、まるで羽のようだった。「起きろ。飯だ」と、潤は言った。「あなたには力で敵わないし、逃げられない」明里は無表情に口
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第68話

それを聞いて、潤の動きが止まり、そして顔を上げて彼女を見た。彼はいつも落ち着き払っていて、何事にも動じないように見える。だから、明里は、潤が取り乱す姿など一生見られないだろうと思っていた。「こんな時に、離婚協議書の話をするのは場違いだとは思わないのか?」潤は尋ねた。「何がいけないんだっていうの?」明里は無表情に返した。潤はふっと笑うと、食事を再開し、それ以上は何も言わなかった。明里は目の前に並べられた豪華な食事を前にして、一口も食べる気が起きなかった。しばらくして、潤が彼女を見た。「腹は空いていないのか?」明里は箸を置き、椅子の背もたれに寄りかかった。「食べたくない」「口に合わないか?」潤はテーブルの上の料理に目をやった。それは以前行ったことのある、評判のいい料亭の料理だった。だが、その時、明里のお腹がきゅるりと鳴った。静かな部屋の中だったため、その音はひどく際立って聞こえた。瞬間、明里の顔は赤く染まり、たまらなく気まずかった。潤は一瞬きょとんとしてから、ふっと笑った。「俺に意地を張るのはいいが、自分の体を粗末にするな。他人の過ちのせいで自分を罰するなんて、一番馬鹿げていることだぞ」「馬鹿げてなんかない」気まずさの後、どこからか怒りが湧いてきて、明里は言った。「あなたが頼んだもの、どれも好きじゃないの」潤は箸を置いた。「何が食べたいんだ。持ってこさせる」その言葉だけ聞けば、まるで潤がとても優しく思いやりのある男のように聞こえる。このような男が、プライドを捨てて優しく接してきたら、誰が抗えるだろうか。しかし、明里は特に嬉しいとは感じなかった。潤は金も権力もあるのだ。彼が一言命じれば、誰かがすぐに事を運ぶのは当然だ。だから、これらのことも特に感動するほどのものではないように思えた。ただ今になってやっとその理屈を理解できるようになったのだから、明里は今までの自分に腹が立った。だが、今気づくのはまだ遅くはない。彼女は言った。「激辛油そばが食べたい」「激辛……油そば?」潤は訝しげな目を向けた。「激辛油そばってなんだ?」「B級グルメよ」と明里は説明した。「​二宮社長は超多忙だし、地位も高いから、庶民の食べ物なんて知らないのも無理ないよ」潤は彼女の皮肉めいた口調に気づいたが
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第69話

このような場所において、潤はその顔立ちも服装も、人混みの中でも一際目立つ存在だった。多くの人が彼に視線を送っていることに、明里はすでに気づいていた。潤の大きな手が、彼女の手首を伝い、その指を掴んだ。明里は抵抗することなく、ただ潤を見つめていた。すると、潤はすらりとした指を彼女の指の間に滑り込ませ、指を絡ませてきたのだ。明里は一瞬遅れて俯き、固く結ばれた二人の手を見つめた。「人が多すぎる」潤は相変わらず淡々とした声で言った。「はぐれるなよ」体は何度も重ねてきたのだから、今さらどんな親密な触れ合いにも心は動かされないはずだった。しかし、この瞬間、潤と指を絡ませて手を繋いだことで、彼女の胸はまた一瞬、ときめいたのだ。明里は何も言わず、そのまま前に進み続けた。やがて、激辛油そばの屋台にたどり着いた。その屋台はとあるレストランの前にあり、店舗というよりは、まさに出店という感じだった。すでに数人が並んでおり、明里と潤も素直にその最後尾についた。「そんなに美味いのか?」不意に耳元で潤の声がした。明里が顔を上げると、真剣な眼差しを向ける潤と視線がぶつかった。明里は言った。「後で食べてみれば分かるでしょ?」「いい匂いがするな」潤は言った。「お前が食べたがるのも無理はない」明里は、周りの多くの人が潤をちらちらと窺っていることに気づいた。そして、少なからず自分にも視線が注がれていることにも気づいた。明里は自分の容姿が決して悪くないことは自覚していたが、それでも大勢の注目を集めるほどではないなのだ。人々の視線の先にいるのは、やはり主に潤なのだろう。高級な仕立てのスーツに黒いカシミヤのコートを羽織った彼は、その全身から気高さと冷徹な雰囲気を漂わせていた。この賑やかで騒がしい屋台の雰囲気とは、全くそぐわなかった。激辛油そばは手際よく作られ、ほどなくして彼らの順番が来た。店主も、この二人の客が、容姿にしろ雰囲気にしろ、今まで見たこともないほどずば抜けていることに気づいていた。特に男性の纏う雰囲気は、このような屋台に足を運ぶようなタイプには到底見えなかった。明里はごくりと唾を飲み込み、店主に注文を伝えた。「辛さは控えめで、ソースを多めにお願いします。あと、ネギは抜きです」数分も経たないう
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第70話

だが、潤は何も言わず、ただ明里の手を引いて前へと進んだ。すぐに二人が車を停めた場所に着くと、潤は明里を助手席に押し込むように乗せ、そして自分も運転席に乗り込んだ。車に乗ると、彼女を見て言った。「どうして食べないんだ?」彼が気にしていない様子なのを見て、明里はもう遠慮するのをやめた。箸を手に取ると、そばをつまみ上げ、ふーふーと息を吹きかけて冷まし、一気に頬張った。ソースがしみ込んだ旨味、そして香辛料が効いた香ばしい香り。明里の口の中で一気に広がり、彼女は一口、また一口と夢中で食べた。車に乗るとすぐに、潤はエンジンをかけて暖房を入れていた。香辛料と暖房のせいか、あっという間に明里の額には大粒の汗がじわりと滲んできた。それを見て、不意に、潤がフッと笑った。その笑い声に、明里の食べる手がぴたりと止まった。箸からそばが滑り落ち、ソースが飛び散った。その数滴が車の本革シートに、そして一滴が明里の鼻先に跳ねた。明里が鼻をくんと鳴らすと、不意に目の前に大きな手が伸びてきた。潤は彼女の鼻先についたソースを拭ってやりながら言った。「気をつけろ。目に入ったら大変だぞ」明里は今更ながら少し恥ずかしくなった。そもそも、潤を連れ出したのは自分だ。味について聞かれた時も、食べれば分かると言ったのに。それなのに、車に乗るやいなや自分だけが夢中で食べてしまっていた。今日の自分はどうしてしまったのだろう。この匂いを嗅いだら、どうしても我慢できなかったのだ。ようやく我に返った彼女は、潤をちらりと見て、そばを差し出した。「あなたも、食べてみる?」もう何度も体を重ねた仲だ。同じ器のものを食べることくらい、どうってことはない。明里も、そんなことで躊躇うような女ではなかった。潤は箸を受け取ると、そばを口にした。すると、明里がキラキラした瞳でこちらを見つめているのに気づいた。「どう?」明里は期待に満ちた声で尋ねた。「おいしい?」潤は頷いた。「ああ、うまい」「でしょ」明里は少し嬉しそうに言った。「ここのが一番おいしいの。いつも行列なんだから。あのね……」しかし、潤がそれ以上箸を動かそうとしないのを見て、明里は言いかけた言葉をふと飲み込んだ。自分はなんて馬鹿なんだろう。どうして潤にこんな話をしてしまったのか。潤は生まれなが
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