All Chapters of 離婚後、捨てられた私は人生の頂点に立つ: Chapter 121 - Chapter 130

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第121話

だが、紗音はそれ以上何も答えなかった。どれだけ問いかけても、ただ黙って水琴の服の裾を固く握りしめたまま、決して離そうとはしなかった。「すまない、すっかり君に依存してしまっているようだな」 灼也は申し訳なさそうに眉を下げた。水琴は少し不思議に思いつつも、紗音に服の裾を握らせたまま微笑んだ。「気にしないでください。今は安心感がなくて、誰かに寄り添っていたいだけですよ」時間ももう遅い。こんな状態の紗音を見て、水琴もこのまま帰すのは忍びなかった。「よければ、今日は紗音ちゃん、うちに泊まっていきませんか?」実は灼也も車中で同じことを考えていた。だが、水琴の赤く腫れたままの足を見て思い直す。「君自身も怪我をしているのに、どうやって紗音の面倒を見るんだ。やはり俺が連れて帰るよ」今日の発作はひどかった。自分一人でも抑えるのがやっとだったのに、怪我をしている水琴に何かあれば取り返しがつかない。そう考えた灼也が紗音の腕を引こうとした瞬間、彼女は再び泣き出した。今度は大声で暴れるのではなく、部屋の隅に縮こまり、膝を抱えて可哀想に啜り泣くのだ。誰もが同情してしまうような、あまりにも痛々しい姿だった。「嫌だ……水琴お姉ちゃんから、離れたくない……」その呟きを聞いて、水琴は完全に絆されてしまった。「大丈夫ですから、泊めてあげましょうよ。この様子なら、暴れたりもしないでしょう?」「……発作が起きた時が心配だ。今夜は俺も残る。ソファで寝るから、何かあったらすぐ呼んでくれ」水琴はとっさに断ろうとしたものの、灼也の疲労の色が濃い顔を見て思いとどまった。今日一日、彼は多くのトラブルに対処し、誰よりも疲れているはずだ。「ソファなんてダメです。紗音ちゃんは私と一緒に寝ますから、空いているゲストルームを使ってください。お布団はクローゼットにあるので、自分で敷いてくださいね」「……ありがとう」灼也は真剣な面持ちで礼を言った。「お気になさらず」水琴はふんわりと笑う。「今日はいろいろと助けていただきましたし」コンテストのトラブルから医務室での手当てまで、彼女は灼也の不器用で優しい庇護に心から感謝していたのだ。夜が深まり、紗音はすでに静かな寝息を立てていた。だが、水琴はベッドで寝返りを打つばかりで一向に眠れなかった。今日の紗音の反応は、あまり
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第122話

「それなら、自信はありそうだね」水琴は頷いた。「カウンセラーと患者の間において、最も越えるのが難しい壁は発症の誘因や症状じゃないんです。一番の障害は『信頼』。患者が無条件にカウンセラーを信じてくれれば治療は半分成功したようなものですが、先ほども言った通り、あの子は私をひどく信頼し、依存すらしています」「紗音は子供みたいなところがあるからな。他人の気配に敏いんだ。君が優しくしてくれているのを感じ取っているんだろう」「いいえ、それだけじゃありません」水琴の表情が引き締まった。「この短期間の付き合いだけで、ここまでの信頼関係は築けません。何か別の理由があるはずです。それが何なのかは、まだ分かりませんが……」灼也の指先がわずかに震えた。だが彼は表情には少しも出さず、「俺はみーちゃんを信じてるよ」と穏やかに微笑んだ。「……そうだ、雅の件はどうなさるつもりですか?」水琴は静かに話題を変えた。「警察に任せるさ。人証、物証、映像データ……手持ちの証拠はすべて提出済みだ。あとは大学側が対応するだろう。鷹司臣が各所に手を回して揉み消そうと必死らしいが、誰一人として要請を受けていないそうだよ」事もなげに言う灼也の声には、「誰も手を貸さなくて当然だ」という権力者特有の冷徹さがあった。水琴は短く頷く。もちろん、今さら雅を庇ってやる義理などない。「だが、奴がこのまま引き下がるとは思えない。また君のところに来るかもしれないぞ」灼也の目が冷たく細められた。水琴の顔に明確な嫌悪が走る。今や彼女にとって、元夫の存在は反吐が出るほど不快だった。「この件は私の一存でどうにかなる問題じゃないって、本人にはっきり言いましたから」「向こうに身の程をわきまえる知能があるかどうか、だな」「あの人のことなんてどうでもいいです。私はもう部屋に戻ります。高遠さんも、早く休んでくださいね」水琴はコップを手に取り、踵を返した。足を引きずる痛々しい後ろ姿を見て、灼也が咄嗟にそばへ寄り、彼女の腕を支えようとする。「俺が手を貸そう」「結構です!」水琴は弾かれたように身を引いた。手の中のコップが危うく手から滑り落ちそうになる。無意識のうちに灼也の手を振り払ってしまった直後、二人の視線が一瞬だけ交錯した。気まずい沈黙が落ち、二人は同時にパッと目を逸らした。水琴は逃げるよう
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第123話

寝室を出ると、すでに灼也の姿はなかった。だがダイニングテーブルの上には、きちんと二人分の朝食が用意されていた。身支度を済ませて朝食をとり、足に火傷の薬を塗り直す。紗音はまだ眠ったままだ。彼女の症状について考えを巡らせていると、不意にスマートフォンが鳴った。画面には見知らぬ番号が表示されている。「はい、もしもし」不思議に思いながら電話に出ると、受話器の向こうからかすかな笑い声が聞こえ、続いて小林菫の落ち着いた声が響いた。「もう私の声を忘れてしまったのかしら?昨日のコンテストの後は声をかけられなかったけれど、火傷の具合はどう?」「先輩でしたか。ご心配おかけしました。まだ赤く腫れてはいますが、薬を塗ったので痛みはだいぶ引きました。……そういえば、もうすぐお帰りになるのでしたよね?」菫の滞在予定は一週間だったはずだ。今日がちょうどその最終日にあたる。「ええ、今夜のフライトよ。あちらに戻ってすぐ、早朝から座談会の予定が入っているの」「そんなにすぐですか?」水琴は驚きを隠せなかった。「仕方ないわ。今回の帰国で持ち帰るべき課題がたくさんあるから。でも、南鳥市にも優秀な心理士や専門家がたくさんいて、多角的な知見が得られたわ。試してみる価値はあるでしょうね」菫の明るい声を聞きながら、水琴はちらりと掛け時計に目をやった。「先輩!今、少しだけお時間をいただけませんか?」電話の向こうで菫が小さく息を呑む気配がした。すぐに返事がある。「今は隣の市の病院にいるのだけれど、ここの会議が終われば少しは空くわ。どうしたの?」「実は……紗音ちゃんのことで。彼女の現在の状態について、少しご相談したいことがあるんです」水琴にとって、今の紗音の症状は一人で抱え込むには重すぎた。「そういうことね。分かったわ。私がそちらの活動を終えるのがだいたい午後三時。そこから一時間くらいなら時間は取れるわよ」「ありがとうございます。助かります」電話を切り、ふと振り返ると、いつの間にか目を覚ましていた紗音の姿があった。彼女は水琴の後ろに立ち、ただボーッとこちらを見つめている。「紗音ちゃん、起きてたの?」さっきの会話をどこまで聞かれたか分からず、水琴は少し戸惑いながら声をかけた。だが、紗音は何も答えない。ただ静かに歩み寄ってくると、水琴の隣に大人しく座り、
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第124話

昨日会った時の、あの真っ直ぐで活発な姿は見る影もない。たった一日でここまで人が変わってしまうものかと、菫は内心驚いていた。「……何が引き金になったか、心当たりはある?」菫は紗音を刺激しないよう、そっと声を落として尋ねた。水琴は心配そうに紗音の頭を撫でながら答える。「昨日、家で私の足の火傷を見た途端、急に様子がおかしくなったんです。昨夜は今よりもっとパニックになっていて……目につくものすべてに怯えて、寝かしつけるのにも本当に苦労しました」「なるほど、大体の状況は読めたわ」菫は少し考え込んでから言った。「おそらく彼女自身も過去に深い傷を負った経験があって、今の状態はいわゆるPTSD(心的外傷後ストレス障害)の症状でしょうね。何かの刺激によってフラッシュバックを引き起こし、当時の凄惨な記憶の中に完全に閉じ込められてしまっているのよ」しかし、水琴が最も疑問に感じているのはそこではなかった。「もし彼女が過去の環境に囚われていて、目に見えるものすべてに恐怖を抱いている状態なのだとしたら、少しおかしいんです。お兄さんにすら怯えていたのに、知り合って間もない私に対しては、無条件の信頼と依存を向けてくるんですよ」——出会ったばかりの自分に、ここまで異常な執着を見せるのはどう考えても不自然だ。水琴はそう言いたかったのだ。菫はわずかに眉をひそめ、考え込むように言った。「おそらくあなたは、『彼女が過去にどんなトラウマを負ったのか』という原因の方にばかり気を取られているんじゃないかしら。でもね、精神に疾患を抱えた患者の症状は千差万別よ。それに、フラッシュバックの最中は、時間の感覚だって完全に狂っているものなの」「あっ……!」水琴はハッとして顔を上げた。「そういうことですか……」ここ数日、ずっとその疑問ばかりにとらわれていたが、一番根本的なことを見落としていた。精神に障害を抱えた状態では、現実の時間と脳内の時間が完全に一致しているわけではなく、認識そのものが混濁しているのだ。つまり、紗音は無意識に水琴を信頼し頼っているうちに、混乱した脳が「現実で自分を守ってくれる水琴」を「過去のトラウマの空間」にまで無理やり引きずり込み、融合させてしまっただけなのかもしれない。「今の深刻な状態を見るに、治療にはかなり長い時間がかかると思うわ。私としては、投薬と心理療法の
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第125話

紗音は泣き叫びながら、すがるように水琴の腕に抱きついた。そうすることでしか、己の身を守れないとでもいうように。水琴は抵抗せず、彼女がしがみつくままに腕を貸した。一体この子は過去に何があって、ここまで怯えきっているのだろう——疑問が頭をよぎるが、今はとにかく彼女を落ち着かせるのが先決だ。「私がいるわ。怖くないよ、ずっと一緒にいるからね」水琴も菫に倣い、優しくなだめるように言葉を重ねた。やがて紗音は落ち着きを取り戻したが、依然として水琴の腕に抱きついたまま、怯えた目で周囲をキョロキョロと窺っている。コーヒーを一口飲んだ菫が、腕時計に目を落とした。「静沢さん、そろそろ時間ね。家まで送るわ」「はい。ありがとうございます、先輩」三人で店を出て菫の車に乗り込むと、すぐにマンションの前まで到着した。別れ際、菫がふと思い出したように言う。「そうそう、静沢さん。近いうちに私の兄弟子が帰国するの。私よりずっとキャリアのあるベテランの心理士なんだけど、彼にあなたのことを話しておくわ。もしかしたら、そのうち連絡がいくかもしれない」「先輩……ありがとうございます」水琴は心からの感謝を込めて頭を下げた。そして車を降り、マンションへ向かおうとした時、背後で窓の開く音がした。「それからね」菫の真剣な声に、水琴は足を止めて振り返る。「あなたの書いたあの論文、非常に価値が高いわ。私なりの見解や疑問点はメールで送っておいた。静沢さん、あなたはA大の枠に収まるような人じゃない。あなたの才能を、あんなところで埋もれさせてはいけないわ」そのまま走り去っていく車を見送りながら、水琴の胸の奥で、小さな波紋が静かに広がっていった。帰宅した水琴は、まず紗音のお気に入りの本を二階から持ってきて渡し、そばで読ませることにした。それからソファに座り、紗音に傷口を見せないように背を向けて、火傷の薬を塗り始める。だが、塗り終わる前に玄関のチャイムが鳴った。灼也だった。「みーちゃん、苦労をかけるね」彼は手にしていた書類袋をテーブルに置くと、水琴の手から軟膏を取ろうとした。「もう痛くないですし、自分で塗れますから」水琴はスッと手を引いて彼を避けた。「君は一日中紗音の面倒を見てくれた上に、小林菫さんのところまで行って紗音の相談に乗ってもらっていたんだろう?俺が何もしない
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第126話

「母さん!うちが持ってる大学の株はたったの5パーセントだ!それに比べて、高遠家は40パーセント……半分近くの株を握ってるんだぞ!学長がうちのために高遠家を敵に回すわけがないだろう!」それに、決定的な理由はまだ他にもあった。雅は大学内での素行が最悪だったのだ。鷹司家の威光を笠に着て、気に入らない生徒を日常的に標的にし、これまで何人もの優秀な学生をいじめで退学にまで追い込んできた。学長は言葉を選んではいたが、本音は明らかだった。これまでは鷹司家の圧力によって揉み消してきたが、高遠家が直々に動き出した今となっては、もはや雅を庇う義理などどこにもないのだ。「どいつもこいつも、権力に媚びへつらうだけの卑怯者じゃないの!ああっ、私の雅はどうなってしまうの!?」電話の向こうで、佳乃が泣き喚き始めた。臣の声がすっと冷たくなる。「雅が大学でどんな悪評を買っていたか、俺よりも母さんの方がよく知っているはずだ。いいか、母さん。俺が見捨てるんじゃない。あいつが自分で蒔いた種だ!母さんもあいつを甘やかしすぎたんだよ。もう、この件は終わらせる。どれだけ痛い目を見ようと、あいつ自身に責任を取らせるべきだ。ここで反省しなければ、次はもっととんでもない事件を起こすぞ!」「臣……っ!あなた、本当に実の妹を見捨てる気なの!?」佳乃が信じられないというような声を出した。「ああ、そうだ!俺はしばらく家には帰らない。雅のことなら、もう二度と電話してこないでくれ」臣は通話を切ると、どっと押し寄せる疲労に深く息をついた。昨日のコンテストから今まで、彼は雅のために東奔西走し、ありとあらゆる場所に頭を下げて回った。だが今日、学長から聞かされた妹のあまりにも酷い素行の数々を知り、これ以上庇うのは無意味だと悟ったのだ。あのまま雅の暴走を許せば、いつか必ず鷹司家の根幹を揺るがすような致命的な不祥事に出くわすだろう。現に今、高遠家との関係は最悪になり、大学の学長でさえ鷹司家に対して強い不信感を抱いている。——これ以上は、絶対にダメだ。そう決意した臣は、その足で真っ直ぐ警察署へ向かい、留置場にいる雅に面会して自らの決定を告げた。「弁護士に確認した。いくら重くても、刑期は二十日の拘留を越えることはないそうだ。お前は子供の頃から何の苦労も挫折も知らずに育ってきたから、こんな取り返しのつか
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第127話

臣は声を荒らげた。「鷹司の顔に泥を塗りたくったのはお前だ!裏サイトへの書き込みの件も含めて、もう俺の手に負える範囲を超えている!」「お兄様!私は、お兄様のためにやったのよ!結婚中に浮気してたのはあの女のほうなのに、お兄様ったらあんな大金とマンションまで渡してさ!あいつはお金目当てで結婚したのよ!私はただ、あいつが目障りだったの!あんな図々しい女が、鷹司のお金を持ち逃げするなんて絶対に許せなかったんだから!」雅は顔を真っ赤にしてヒステリックに喚き散らした。「……いい加減にしろ!」臣の顔色がさらに青黒く染まる。「もはや助ける、助けないの問題じゃないんだ。お前をここに突き出したのが誰か分かっているのか?高遠家だ。誰がどう足掻こうと、助け出すことなんてできない!ここでしっかり頭を冷やせ!」そう言い捨てると、臣はすぐさま踵を返して面会室を出た。「待って!お兄様!行かないで!」雅は狂乱してアクリル板を叩きまくったが、暴れる彼女を制止しようと、すぐさま二人の警官が飛んできた。「気安く触らないで!私は鷹司の人間なのよ!」狂気にとり憑かれたようにわめき散らす雅の声がこだまする。だが当然、その叫びを聞き入れる者など誰一人いなかった。夜になると、灼也が夕食の入った包みを持ってやって来て、手際よくテーブルに料理を並べ始めた。忙しそうに立ち働く灼也の背中と、かたわらで静かに絵本を読んでいる紗音。その光景をぼんやりと眺めているうち、水琴の胸にふと奇妙な感覚がよぎる。——まるで、家族三人で暮らしているみたい。夫が仕事から帰ってきて夕食の準備をし、その横で子供が勉強して、妻である自分はそれをのんびりと見守っている。そんな、絵に描いたような……ちょっと待って!水琴は慌ててその恐ろしい妄想を打ち消した。私、一体何を考えてるのよ……!ぶんぶんと首を振って思考を振り払うと、いつの間にか灼也が口元に笑みを浮かべ、こちらをじっと見つめていた。途端に、顔がカッと熱くなる。「な、何よ。人のことジロジロ見て」「いや、さっきから呼んでいたのに上の空だったからね。さあ、ご飯にしよう」そう言って水琴のそばに歩み寄るなり、彼はごく自然な動作で彼女を抱き上げようと手を伸ばしてきた。水琴は咄嗟に身を引いた。「た、高遠さん?」「テーブルまで抱えていくよ」「結構です!
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第128話

それでも灼也は、動揺を見せずに答えを返す。「いいや、遅くない。ほら、二人ともこうして俺が救い出したじゃないか」「水琴お姉ちゃん、……今はもう、安全?」突拍子もない問いに水琴は戸惑ったが、すぐに優しく微笑んで頷いた。「ええ、もう安全よ」「……そっか」それを最後に、紗音は再び口を閉ざした。ただ目の前のスープを、一口ずつ静かに飲み進めていく。灼也はそんな妹の姿を、どこか遠くを見るような目で見つめていた。夜が更け、片付けを終えた灼也が帰路についた後も、水琴は眠れずにいた。暗い部屋で、どうしても灼也のことばかりを考えてしまう。彼は非の打ち所のない、完璧な男だ。自分の中で彼に対する感情が、少しずつ、けれど確実に形を変えている。それはもう、理性でどうこうできる範疇を超えつつあった。抑え込もうとすればするほど、遠ざけようとすればするほど、皮肉にも心は彼を求めてしまうのだった。......【――最新のニュースです。鷹司家の令嬢である鷹司雅が、A大学の心理学コンクールにて試験問題を窃盗し、同級生に罪をなすりつけようとした上、逆上して審査員に熱湯を浴びせ……】【……十日間の拘留および、賠償金の支払いが命じられました……】スマホの画面には、わざわざ検索するまでもなく最新の報道が次から次へとポップアップしてくる。雅のやったことが、重い実刑判決が下るようなものではないと水琴もわかっていた。だが、プライドが高く、鷹司のご令嬢という肩書きだけを盾に威張り散らしてきたあの娘にとっては、中途半端な法的処罰よりも、この『社会的制裁』のほうがよほど堪えるはずだ。ネットニュースからゴシップ誌に至るまで、あらゆるところで彼女は「権力を笠に着て同級生を陥れた悪辣な学生」として大々的に書き立てられていた。考えるまでもなく、すべては灼也の手引きだろう。この南鳥市において、鷹司家の痛々しいスキャンダルをここまで容赦なくメディアに流せる権力を持つのは、高遠家しか存在しないのだから。ここ数日、水琴は休暇をもらい、先輩である菫の提案に従って紗音を遊園地や書店へと連れ出していた。これも紗音に安心感を与えるための心理療法の一環だ。もちろん灼也も二人のことが心配らしく、少しでも時間が空けば、必ずと言っていいほど保護者のように付き添ってくれている。水琴とし
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第129話

高級茶房での契約を終えた臣の心は、少しも晴れなかった。脳裏を占めていたのは、水琴が灼也の傍らに立ち、穏やかな空気を纏っていたあの光景だ。店を出ると、向かいにあるスイーツ店『尋味(じんみ)』に、街の喧騒を象徴するような長い行列ができていた。「臣様、あそこは南鳥市でも有名な店ですよ。わざわざ数時間かけて買いに来る人もいるほどの人気スポットで、いつも限定品を巡って争奪戦になるんです」秘書が何気なくそう口にした。『尋味』――どこかで聞いた名だ。記憶の糸を辿ると、いつかの光景が鮮明に浮かび上がった。仕事帰りの臣を、水琴が弾けるような笑顔で迎えたあの日。テーブルには、誇らしげに並べられたお菓子の箱があった。「臣さん、見て!ここのアイス・タルト、すごく有名なんだよ。三時間も並んで、やっと買えたの。早く食べてみて?」喜びを分かち合おうと、水琴は一口分を臣の口元へ運ぼうとした。だが、当時の臣はそれを冷たく一瞥しただけだった。「時間がない。仕事をするから、邪魔をしないでくれ」差し出されたタルト。拒絶された瞬間、水琴の瞳から光が消え、みるみるうちに色褪せていったのを覚えている。当時の臣にとって、彼女がどれほど傷つこうが知ったことではなかった。自分のたった一口のために、彼女が炎天下で三時間も費やしたことなど、価値のないことだと思っていたのだ。不意に、その食べなかったはずのタルトの冷たく甘い香りが、記憶の奥から蘇ってくる。「……アイス・タルトはあるか」臣が唐突に尋ねると、秘書は呆気に取られながらも「はい、一番の人気商品のはずです」と答えた。「買ってこい。他の菓子も、ありったけだ」秘書が列に並ぶのを車内で待ちながら、臣は不快なほどの胸の疼きを感じていた。心臓に細かなひびが入り、そこから熱が漏れ出していくような、奇妙で落ち着かない感覚。水琴のことなど、好きではないはずだ。これはただの、昔の無礼に対する埋め合わせに過ぎない。自分を苛むこの『罪悪感』を、どうにかして消し去りたいだけだ――列が少しずつ短くなっていくのを窓越しに見つめながら、臣はひとり、自問を繰り返していた。あの日、彼女は三時間もの間。一体、どんな思いで、誰の顔を思い浮かべて並んでいたのだろうか。秘書がスイーツの箱を抱えて戻ってくると、車内はたちまち甘い香りに包まれ
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第130話

二人で夕食の準備を進めていると、突然インターホンが鳴る。「わたしが出る!」ソファでくつろいでいた紗音が立ち上がり、玄関へ向かった。だが、ドアを開けた途端に怯えたように後ずさりし、慌ててキッチンへ駆け戻ってくる。「水琴お姉ちゃん……だれか、いるの……」「誰だろう?」水琴は不思議に思いながら手を拭き、玄関へ向かった。だが、ドアの向こうに立っていた人物を見て、息を呑む。そこにいたのは、元夫の鷹司臣だった。水琴の表情からスッと温もりが消え、氷のように冷たい顔つきに変わる。「……鷹司さん。一体何の用ですか?」「水琴……高遠家の娘がなぜ君の家に?」臣のほうも、まさか紗音が出てくるとは思っていなかったようで、戸惑いを隠せない。しかし、エプロン姿で自分を見据える水琴の姿が目に入ると、かつて仕事から帰る自分を温かく出迎えてくれていた満ち足りた日常が脳裏に蘇り――臣は思わず、その姿に釘付けになっていた。「鷹司さん、私の家に誰を招こうとあなたには関係のないことです。用件は何ですか?何もないならお引き取りください。手が離せないんです、あなたとここで無駄な時間を過ごす暇はありません」水琴の冷ややかな言葉に、臣は慌てて手に持っていた箱を差し出した。「今日、近くで商談があってね。行列ができていたから、君が好きだった『尋味』のタルトを買ってきたんだ。昔、よく食べていただろう?」水琴は答える気にもならず、ただ温度のない瞳で彼を射抜いた。「……わざわざタルトを届けるためだけに、ここへ?」「それだけじゃない。この前の雅の件の賠償金は口座に振り込んでおいたが、それとは別に、これを。薬局で見つけた火傷の塗り薬だ」袋から取り出された薬を一瞥し、水琴は短く切り捨てる。「もう必要ありません。それを塗る時期はとうに過ぎましたから」「だが……」臣がなおも食下がろうとしたその時、奥から一人の男が姿を現した。「みーちゃん、誰だい?ずいぶん長いようだけど」聞き惚れるような甘く穏やかな声。キッチンから出てきた灼也の堂々たる佇まいに、臣の顔が瞬時に険しくなった。「……なぜ、あいつまでここにいるんだ?」臣は手にしていた薬の袋を握りつぶさんばかりの勢いでしまい込み、水琴を激しく詰問するように睨みつけた。なぜ、いつも高遠灼也が水琴のそばにいるのか。二人はすでにそうい
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