All Chapters of 離婚後、捨てられた私は人生の頂点に立つ: Chapter 131 - Chapter 140

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第131話

水琴は再び入念に手を洗うと、火力を強め、買ってきた肉を鍋に投入する。湯気とともに白い灰汁が浮き上がり、熱い蒸気が顔にまとわりついた。じわじわと額に滲んできた汗を、腕で拭おうとしたその時。不意に、横から伸びてきた手が清潔なティッシュでそっと水琴の額を押さえた。「……あ、ありがとうございます」至近距離にある灼也の温かな気配に、水琴は視線を落としたまま、小さな声で礼を言った。灼也はティッシュをゴミ箱に捨てると、手を拭いて野菜を切り始めた。白く、骨格の際立つしなやかな指先。灼也が握ると、ただの無骨な包丁すら芸術品のように見えてくる。鮮やかな緑色の野菜に添えられた手は、眩しいほどに白かった。水琴はそっとその手元を盗み見た。先ほど汗を拭ってくれた指の感触が、まだ額に残っているような気がして、ふいに頬が熱くなる。茹で上がった肉を鍋から引き上げながら、ぽつりと声をかけた。「そっちのピーマン、洗ってもらえる?」「ああ、わかった」灼也は素直に包丁を置き、ピーマンを水洗いし始める。その隙に水琴は包丁を引き継いで野菜を刻み始めた。だが、意識はどうしても隣の灼也に向いてしまい、つい手元がお留守になっていた。「あっ!」「どうした?」灼也がハッとして手を止める。水琴は指先を強く押さえていた。その隙間から、じわりと鮮明な血が滲み出している。よそ見をして、うっかり指を切ってしまったのだ。「指を……切っちゃって」灼也は急いで手を水で流し、ティッシュを取って傷口にそっと押し当てた。「救急箱はどこだ?」「テレビ台の下に……」灼也は手早くコンロの火を止めると、リビングへ向かった。水琴も血の滲む指を押さえたまま、そのあとに続く。傷自体はそれほど深くないはずだが、指先の神経は鋭敏だ。ズキズキと脈打つような痛みが、心臓まで響いてくるようだった。灼也は水琴をソファに座らせると、自分はその前で片膝をついた。救急箱から消毒液を取り出し、綿棒で丁寧に傷口を消毒し始める。「どうしてこんなに不注意なんだ」その声には、隠しきれない心配が滲んでいた。「ちょっと、よそ見しちゃって……」傷口に消毒液が染みて、ヒリヒリと痛む。思わず指を引っ込めようとしたが、灼也の大きな手でしっかりと握り留められてしまった。「よそ見?」深く、甘く響きのある声が問いかけてくる
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第132話

リビングでは、紗夜が待ちわびていた。「おかえりなさい、臣さん」貞淑な笑みで出迎えると、臣の持つ書類とスイーツの箱をそっと受け取る。そして箱に入ったロゴを見るなり、パッと顔を輝かせた。「これ、南鳥市ですごく人気のお店じゃない!一度食べてみたいって思ってたの。わざわざ私のために?」臣は一瞬気まずそうに目を丸くしたが、誤魔化すように短く頷いた。「ああ。……気に入ったなら、次は一緒に行こう」「ふふ、嬉しいわ」紗夜がテーブルに箱を置いている間に、臣はそそくさと階段を上がっていった。やっぱり、私の考えすぎだったんだわ。臣さんは昔と何も変わらない。甘い優越感に浸りながら、紗夜はウキウキとした手つきで箱を開けた。だが、箱の隅に転がっていた銀色のチューブを見た瞬間、彼女の表情が凍りついた。――火傷用の塗り薬。どうしてスイーツの箱に、こんなものが紛れ込んでいるの?その瞬間、紗夜の脳裏に、この間のコンテストで熱湯を浴びた水琴の姿がフラッシュバックした。チューブを握りしめる手に、ギリッと爪が食い込む。また、静沢水琴……!この薬も、そしてこのスイーツでさえも、私に用意されたものではない。すべてあの女への貢ぎ物だ。それをわざわざ家に持ち帰ってきた理由など、受け取りを拒否された以外にあり得ない。箱からは濃厚なミルクの甘い香りが漂っていたが、もはや何の食欲も湧かなかった。あの女が突き返したゴミなんて、誰が食べるものか。紗夜はスイーツも薬もひとまとめにして、容赦なくゴミ箱へ叩き込んだ。そして一つ深呼吸をして、冷え切った表情をふたたび「完璧で優しい顔」へと作り直す。彼女は丁寧に淹れた紅茶をトレイに乗せ、臣のいる二階へと静かに足を踏み出した。食事が終わり、水琴が食器を片付けようと立ち上がると、灼也がその身を遮った。絆創膏の貼られた指先を一瞥し、低く静かな声で告げる。「俺がやるよ」その有無を言わせない眼差しに、水琴は少し視線を逸らし、素直に引き下がった。リビングのソファに腰を下ろす。点けっぱなしのテレビからは賑やかな番組の音が流れていたが、内容はまったく頭に入ってこなかった。どうにも心が落ち着かない。最近、自分と灼也の距離が近づきすぎている。どう考えても適正な境界線を越えていた。最初は、彼が自分のことをただの『妹の主治医』として見ているの
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第133話

その甘すぎる言葉に返す言葉が見つからず、水琴は真っ赤になった顔を隠すように、黙々と苦い薬を飲み干した。その日の夜。帰宅の準備を整えた灼也は、ふと思い出したように水琴に声をかけた。「明日の朝、紗音を迎えに来るよ。祖父の家へ連れて行く用事があってね。この数日、あいつの面倒を見てくれてありがとう」水琴はふわりと微笑んだ。「お礼なんていりません。紗音ちゃんは、もう私の本当の妹みたいなものですから」翌日の昼。紗音は予定通り灼也に引き取られ、水琴が一人で昼食をとっていた時のことだ。スマートフォンの画面に『鷹司臣』の文字が点滅した。条件反射で通話拒否のアイコンをスライドさせたが、すぐにまた着信音が鳴り響く。苛立ちを隠せないまま、水琴は通話ボタンをタップした。「一体何の用?」「水琴、頼むから切らないでくれ。今回は……お祖父様のことなんだ」その言葉に、水琴は険しい表情を少しだけ緩めた。「宗一郎様が?どうかされたの?」鷹司家の中で、当主の宗一郎だけは唯一、水琴を本物の孫のように温かく迎え入れてくれた恩人だった。「最近、ずっと食欲がないみたいでね。これから病院へ検査に連れて行こうと思うんだが……どうしても君に会いたいとしきりに言っていて。少しだけ、付き添ってくれないだろうか」水琴は少し考えた末、頷いた。臣のことは顔を見るのも不快だが、宗一郎の体調は心底心配だった。「わかった。行くわ」「ありがとう。今から君のマンションに迎えに……」「来ないで」水琴は間髪入れずに遮った。「自力で行くから」電話の向こうで数秒の沈黙があった後、臣は力なく「……わかった」と引き下がった。一時間後、水琴は本家の広大な敷地に足を踏み入れた。出迎えた老執事は、彼女の姿を見るなり習慣で声を弾ませた。「若奥様。よくおいでなさいました」水琴は困ったように微笑み、そっと訂正する。「もう若奥様ではないですよ」「……申し訳ございません。水琴様、失礼いたしました」執事は深々と頭を下げると、彼女をメインリビングへと案内した。高級なソファに腰掛けていた宗一郎は、水琴の姿を認めるなり、パッと顔にシワを寄せて相好を崩した。「水琴!やっとわしに会いに来てくれたか!いくらあの馬鹿孫に愛想を尽かしたからといって、わしとの縁まで切られては堪らんぞ!」水琴は宗一郎の隣に座り、
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第134話

「そ、そうですか。では、こちらの応接室でお待ちください。すぐに宗一郎様に……いえ、臣様にお伝えしてまいります」執事は慌てて大広間へ駆け込み、臣に耳打ちをした。臣はサッと血の気を引かせ、足早に紗夜の待つ応接室へ向かった。「なぜ君がここへ?」その声には、隠しきれない苛立ちが混じっていた。紗夜は不機嫌な態度に気づかないふりをして、涼しい顔で答える。「宗一郎様の食欲がないって聞いたから、栄養のつくものをお持ちしたのよ。本当は一緒にお見舞いに来たかったけれど、臣さんったら急いで家を出ちゃうんだもの。だから自分で運転してきたの」臣は紗夜が持参した紙袋など一瞥もせず、無理に作ったような優しい声で諭す。「紗夜、君もわかっているだろう?お祖父様は君のことを……まだ受け入れていない。今日はこのまま引き返してくれないか」紗夜はハッと息を呑み、信じられないというように臣を見つめた。みるみるうちにその目頭が赤く染まっていく。「臣さん……私、純粋な気持ちでお見舞いに来たのに。このまま追い返すつもり?私たち、いずれは結婚するのよ。これから先のためにも、宗一郎様と仲良くならなきゃいけないじゃない。私、臣さんのためならどんなことだって頑張れるわ。信じて」「でも……」臣が眉間を寄せ、口ごもった瞬間だった。「宗一郎様には、絶対に私の誠意が伝わるはずよ」紗夜は臣を背後に残し、紙袋を握りしめたままスタスタとメインリビングへ向かってしまった。「宗一郎様、お見舞いに参りました──」満面の笑みで足を踏み入れた紗夜だったが、そこで一番見たくない人物の姿を捉え、ピタリと足を止める。「紗夜!」後ろから臣が血相を変えて追いついてきた。紗夜の顔からスッと血の気が引き、気まずそうに唇を噛みしめる。それでも必死に引きつった笑みを作り上げた。「静沢さん……いらしてたのね」水琴は顔を上げると、ただ軽く会釈だけを返し、再び手元の碁盤へ視線を戻した。完全に無視された形になった紗夜は、悔しさを押し殺し、今度は宗一郎へ愛想よく声を張った。「宗一郎様!最近食欲がおありにならないと伺いまして、栄養のつくものをお持ちしました。後で執事の方にでも作っていただいて、お口に合うか試してみてください。もしお気に召したら、これからは私が……」しかし、宗一郎は手元の石に集中したまま、ピクリとも動かない
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第135話

宗一郎は氷のように冷たい目を紗夜に向けた。「わしは人に碁を教える趣味などない。それに、囲碁そのものが好きなわけでもない。水琴が暇な時に、こうしてこの老いぼれの相手をしてくれれば、それで十分なんじゃ」その瞬間、紗夜の目の色が変わった。ことごとくプライドを折られ、徹底的に排除される状況下で、もはや「上品で寛容な女」を演じ続ける余裕など残されていなかった。静沢水琴が一体どんな手を使ってこの老人を籠絡したのか知らないが、これほどの屈辱は耐え難い。感情の糸がプツリと切れ、紗夜の口から初めて棘のある言葉が飛び出した。「宗一郎様。……静沢さんは所詮、赤の他人です。あなたの本当の孫の嫁になるのは、私なんですよ」「紗夜、何を馬鹿なことを言っている!」臣が血相を変えて怒鳴った。「何よ、臣さん。私の言っていること、間違ってる?」紗夜は臣を睨み返し、意地を張ったように言い放つ。「最後にあなたが娶るのは、この私でしょう?」パチンッ!宗一郎が手元の白石を盤上に叩きつけるように置いた。「臣、お前は会社で仕事があるんじゃなかったのか。もう帰れ。わしの体調はすこぶる良い。これ以上わしの寿命を縮めに来んでくれ」地を這うような低い声がリビングに響き渡る。「……すみません、お祖父様。今日はこれで失礼します」臣は申し訳なさそうに水琴へ視線を向けたが、彼女はこちらを振り返りすらしない。彼は諦めて紗夜の腕を強く掴んだ。「お前も来い」不満げに顔を歪める紗夜を引っ張るようにして、臣は足早に本家を後にした。屋敷の外へ出た途端、臣は紗夜を問い詰めた。「どうして急に押しかけてきたんだ?」「……さっきは言い過ぎたわ。でも、事実じゃない!あなたがこれから結婚するのは私なのよ?なのに宗一郎様はどうしてあんなに私に冷たくするの?」紗夜の我慢は限界に達し、堰を切ったように言葉が溢れ出した。「臣さんだって、ここへ来るなら一言くらい教えてくれてもよかったじゃない。行ってみたらあの女がいるし。三人で仲良く笑い合って……まるで私だけが部外者みたいだった!私だって、早くあなたの家族になりたいのよ。宗一郎様に嫌われてるってわかってるからこそ、なんとか振り向いてもらおうって必死だったのに……っ」大粒の涙が、ポロポロと彼女の美しい顔を伝ってこぼれ落ちる。その涙を見て、臣の心はスッと和らいだ。いつも人前で
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第136話

パチリ、と宗一郎が小気味よい音を立てて白石を置き、少し不満げに口をとがらせる。「水琴よ、この老いぼれの目を誤魔化せると思うなよ。前の局も、お前がわざと勝ちを譲ってくれたのはお見通しじゃ」「宗一郎様には敵いませんよ。負け続きの私を慰めようとしてくださってるんでしょう?」水琴も笑みを浮かべ、黒石を盤に置く。「お前の性格なんぞ、とうに分かっとる」そう言うと、宗一郎はふと真顔になり、重い溜息をついた。「水琴。……うちのあの馬鹿孫のことは、今後一切相手にせんでいい。わしから見ても腹立たしい男じゃからな」これほど素晴らしい娘を手放してしまった鷹司家の縁の薄さが、宗一郎には口惜しくてならなかった。自分から水琴を追い出して離婚したくせに、今になって未練たらしくまとわりつくとは。宗一郎もまだそこまでボケてはいない。先ほどの対局中も、臣が水琴から一瞬たりとも目を離そうとしなかったことには気づいていた。二人が離婚した時から、いつかあの馬鹿孫が後悔してすがりつく日が来るだろうと予想はしていたのだ。「はい、宗一郎様」彼の不器用な優しさと心遣いを感じ取り、水琴は深く頷いた。その後、手早く二局を打ち終えると、水琴は宗一郎に礼を言って屋敷を出た。一人残された宗一郎は、静かに盤面を見下ろした。黒石が白石を完全に包囲している。本来なら黒の圧倒的勝利で終わるはずの局だ。しかし、黒はわざと不自然な隙間をひとつ開け、白の息継ぎを許して自滅していた。……まったく。下手くそな演技じゃ。宗一郎は嬉しそうに目を細め、静かに笑い声をこぼした。その後、執事が広間の片付けにやってきた。彼は紗夜が置いていった紙袋を手に取り、控えめに尋ねる。「宗一郎様、せっかくですから少し召し上がりますか?かなり値の張る滋養品のようですが」宗一郎は横目で一瞥すると、吐き捨てるように言った。「いらん。どこかへしまっておけ。わしにはあんなものを口にする福などない」一方、水琴は本家の屋敷を出たが、灼也の車はまだ到着していなかった。門の前で数分待とうと立ち止まった時、不意に正面から行く手を塞がれた。「静沢さん」ハッとして振り返ると、そこには車から降り立った紗夜が、冷ややかな笑みを浮かべて立っていた。帰ったはずの彼女の車が、屋敷から少し離れた木陰に停まっていたのだ。「月城さん……?帰った
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第137話

水琴は完全に呆れ返った。「彼がそこまであなたを愛しているって自信があるなら、どうしてわざわざ私に突っかかってくるのよ」紗夜がさらに何かを言い返そうと口を開きかけた時、一台のポルシェ・カイエンがスッと路肩に滑り込んで停まった。運転席から降りてきたのは、灼也だった。彼は真っ直ぐに水琴を見つめる。水琴は紗夜を完全に無視し、灼也の方へと歩み寄った。「高遠さん、わざわざ迎えにまで来て、何の用だったんですか?」「詳しい話は車で。乗って」灼也はスマートに助手席のドアを開けた。水琴は小さく頷き、車に乗り込む。その様子を黙って見ていられず、紗夜は怒りで双眸を赤く染めながら、すがるように灼也に向かって声を張り上げた。「高遠さん!ご存知ですか?静沢さんはずっと、私の臣さんに未練がましく付き纏っているんですよ!」灼也は車に乗り込もうとしていた動きを止め、冷ややかな視線を紗夜に向けた。「俺の知る限り、一方的に付き纏っているのは鷹司臣の方だが。……あれは未練ではなく、ただの迷惑行為だろう」それだけ言い捨てると、灼也はバンッ、と容赦なくドアを閉めた。車が走り出すと、水琴は深々と溜息をついた。「……あの二人、本当に似た者同士ですね。お似合いのカップルと言うべきか」「鷹司臣に呼び出されたのか?」ハンドルを握りながら、灼也が低い声で尋ねる。水琴はこくりと頷いた。「宗一郎様の体調が悪いから会ってほしいと言われて。だから来ただけです」「あいつは下心があって君を呼んだんだ」灼也の声には、氷のような冷たさが混じっていた。「さあ、何を企んでいるかは知りませんが」「あいつの企みが、君自身を取り戻すことだとしたら?」灼也の切れ長な瞳が、わずかに昏く沈んだ。「まさか」水琴は信じられないというように首を振る。「彼は月城さんに夢中ですから、あり得ませんよ。確かに最近の彼の態度は少し不気味ですが、私にとっては心底迷惑なだけです」そして、本題を思い出したように話題を変える。「そういえば、私に何か用だったんですよね?」「……紗音のやつが泣き出してね。君に会いたいとごねて、手がつけられないんだ」「えっ!どうしてそれを早く言ってくれないんですか!」水琴の顔が途端に心配そうに曇り、身を乗り出した。マンションに戻り、ひとまず灼也の部屋へ。寝室に入ると、紗音はベッド
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第138話

……私は紗音ちゃんの主治医。それ以上でも以下でもない。彼の優しさに、溺れないように。決して、絆されないように。自分の立場を、見誤ってはいけない。水琴は、理性を総動員して高鳴る心臓を必死に押さえ込んだ。夜、紗夜が抜け殻のような足取りで帰宅したとき、臣はちょうどシャワーを浴び終えたところだった。「ずいぶん遅かったね」紗夜は無理に笑みを作った。「お母さんと、少し話し込んでしまって」「そうか。俺は書斎でやることがあるから」臣はそれだけ言うと、あっさりとすれ違って行く。その無関心な背中を見つめる紗夜の瞳には、ドロドロとした鬱憤が渦巻いていた。三十分後。紗夜は胸元が深く開いた、タイトなシルクのネグリジェに着替えていた。体の線をわざと強調し、半乾きの髪にしっとりと香水を纏わせる。念入りに口紅を引き直すと、グラスを手にして書斎のドアを開けた。デスクに向かう臣のそばへ歩み寄り、コトリとワイングラスを置く。「臣さん。最近、ちっとも私とお話ししてくれないわね」しっとりと濡れたような、甘く澄んだ声だった。臣は無言でグラスを手に取って一口飲んだが、キーボードを叩く手は止めようとしない。ちらりと紗夜を一瞥しただけで、すぐにモニターへ視線を戻してしまった。「そうか?」「ええ。ずっとお仕事ばかりで、寂しいわ」紗夜は可哀想な子犬のように甘えながら臣の前に回り込み、肩にそっと手を置くと、その耳たぶを指先でなぞった。彼女が何を求めているのか、臣に分からないはずがなかった。だが今の彼にはそれに応える気負いも熱もない。ただ疲労に耐えるように軽く抱き寄せると、あしらうように言った。「紗夜、この書類はどうしても今日中に終わらせないといけないんだ。悪いけど先に休んでいてくれ。待たなくていい」「臣さん、少しも一緒にいてくれないの……?」懇願するように、指先が臣の胸元へと這う。しかし、臣は無情にもその手を引き剝がした。「紗夜、聞き分けてくれ」「臣さん、私……」「頼むから。明日は必ず時間を作る」ため息混じりに言い切る臣の目には、色気など微塵もなく、ただ濃い疲労だけが淀んでいた。モニターから視線を外そうとしない臣と、虚しく着飾った自分の姿を交互に見比べ、紗夜は失意のまま寝室へと引き返した。以前の彼なら、絶対にこんな扱いはしなかった。どんなに仕事が立て
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第139話

【静沢先生、前回お話ししてからすごく気が楽になりました。早く戻ってきてください。また色々聞いてほしいです】【先生、私の論文を憧れの人に渡してくれてありがとうございます。なんとメールの返信が来ました!】【静沢先生、みんな心配してます!早く帰ってきて!】......数え切れないほどの真っ直ぐで温かい言葉に触れ、水琴の視界はたちまち涙で滲んだ。彼女はそっと目尻を拭うと、ゆっくりとドアを開けた。室内は以前と変わらない落ち着きを保っていた。ふと見ると、あの騒動で壊されたはずの金庫が綺麗に修理され、元の場所に収まっている。定位置に腰を下ろし、パソコンを立ち上げて久しぶりの業務に取り掛かった。気になって大学のネット掲示板を開いてみたが、以前のように悪意と誹謗中傷で荒れ狂っていたスレッドはとうに削除されていた。まるで誰かが意図的に大掃除をしてくれたかのように、今は本来の穏やかな学術交流の場に戻っている。南鳥市警察署。出口の前に、佳乃と紗夜が立っていた。数分後、重いドアが開き、警察官に付き添われて雅が出てきた。連行された日と同じままの服を着て、髪はボサボサに乱れている。すっかり土気色になって痩せ細った雅は、よろけるように佳乃の胸に飛び込んだ。「お母様……っ!やっと出られたよぉ……!」「雅!ああ、心配したのよ。こんなに痩せてしまって……中ではよっぽど辛い思いをしたのね!」佳乃は愛娘をきつく抱き締め、胸を痛めるように声を震わせた。その横で、紗夜が甲斐甲斐しく雅の荷物を手に取った。「佳乃様。積もる話は、ひとまず車に乗ってからにしましょう」車に乗り込んでも、雅は身をよじって泣き続けていた。「お母様っ……!ぜんぶあの女のせいよ。絶対あの女に復讐してやる!……それでお兄様は?なんで迎えに来てくれないの!?」ボロボロと涙をこぼしながら、雅はヒステリックに喚き散らした。すかさず、紗夜が優しくフォローを入れる。「会社で急なトラブルがあって、どうしても抜けられなかったみたいなの。だけど臣さん、雅さんのことすごく心配していてね。今朝も私に、絶対迎えに行ってやってくれって念を押していたのよ」「嘘ばっかり!私が何日も閉じ込められてたのに、一度だって面会に来なかったじゃない!あんなに泣きついて助けてってお願いしたのに、お兄様は私を見殺しにしたん
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第140話

こんなの全部デタラメだ。私は水琴にハメられただけなのに!だが、目を閉じても誹謗中傷の文字がまぶたに焼き付いて離れず、耳を塞いでも嘲笑と怒声が頭のなかでガンガンと反響して止まらない。雅は両手で耳を強く塞ぎ、ギリッと歯を食いしばった。「絶対に……絶対に許さないからね、水琴!」翌日、雅は大学へ姿を見せた。だが、キャンパスに足を踏み入れた瞬間から、すれ違う学生たちの目が明らかな嫌悪に満ちていることに気づかされる。教室に入れば、机を囲んで談笑していたクラスメイトたちが、まるで汚いものから逃げるようにサッと散っていった。雅は苛立ちを露わにしながら、取り巻きの亜紀のもとへ歩み寄った。「どいつもこいつも、勝手なことばかり言って。私はただ嵌められただけなのに!」だが、いつもなら真っ先にご機嫌を取ってくるはずの亜紀が、冷房のように冷ややかな口調で言い放った。「あの騒動、全校学生が見てたのよ。ニュースで動画まで出回ってるのに、まだ自分が嵌められたなんて言うつもり?」予想外の反発に、雅は信じられないものを見るように亜紀を睨みつけた。「あんた……水琴の肩を持つ気?自分の立場分かってんの!?今まで私がどれだけ良くしてあげたと思ってんの。私に味方しないっていうわけ!?」「雅、もう全校の誰もが、あなたの本性を知ってるのよ」「……あっそう!あんたまで私を裏切るのね!」水琴が紗音のもとへ向かう道中のことだった。ちょうど廊下の突き当たりで、雅が亜紀をいじめている現場に出くわす。雅は無理やり亜紀のブラウスを引き裂き、片手でスマホを構えて動画を撮りながら罵声を浴びせていた。「まだ逃げる気!?私が捕まったからって、調子に乗らないでよ!鷹司家はまだ理事会にいるの。私の一声で、あんたなんかいつでも退学にできるんだからね!」周囲には野次馬の学生たちが集まっていたが、誰一人として止めようとはしない。相手はあの鷹司雅である。彼女の非道な振る舞いに憤ってはいても、とばっちりを受けるのは誰もが御免だった。「雅、何をしているの」水琴は冷ややかな声で、雅の背後から声をかけた。その彼女の後ろには、紗音がすっかり怯えた様子で隠れるようにしがみついている。「またあんた!余計な口出ししないでよ!まだあんたとのケリはついてないんだからね!」振り返った雅は、人を食い殺すよ
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