All Chapters of 離婚後、捨てられた私は人生の頂点に立つ: Chapter 171 - Chapter 180

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第171話

ふと、以前灼也がキッチンに立ってこの薬を煎じてくれた背中を思い出す。水琴はその余韻に浸りながら鍋に水を張り、自分でも一杯分を煮出した。盗作事件の処理は早く、それから二日も経たないうちに鳴海の論文は取り下げられて学内に通報された。大学側も即座に鳴海を厳処し、懲戒解雇という重い処分を下した。オフィスでその掲示を確認した直後、水琴のスマホに『学術総合ジャーナル』から電話が入った。相手は前置きなしに単刀直入に切り出してきた。「静沢先生、あなたの今回の論文は非常に意義深いものです。正式な発表を待って、ぜひ『学術総合ジャーナル』への掲載をご相談できませんか?」水琴は驕ることなく、「発表後に、私から改めてご連絡します」と冷静に返をした。同時に、権威ある専門誌『心理学報』の担当者からもメールが届いていた。内容は、先日の電話での非礼を詫びるものだった。【前回は我々が事情をよく把握しておらず、失礼いたしました。水琴先生の論文は非常に価値が高いと評価しております。鳴海の論文が先に発表されたのを見て、つい焦ってしまったのです。すべては誤解でした。改めて、うちでの掲載をご検討いただけないでしょうか】【承知いたしました】水琴は短く返信を打った。二つの権威から同時に掲載のオファーを受けたわけだが、選べるのは当然一つだけだ。マグカップを片手に窓辺に立つと、ちょうど私物を抱えた鳴海が大学の敷地から出ていくところだった。彼女に同情する気はない。ただ、どうやってあのデータを手に入れたのかだけが疑問だった。蓮見教授と一緒に学内の防犯カメラを確認したが、鳴海は真っ直ぐに出勤し、退勤するだけの毎日だった。教授自身も、彼女が研究室に訪ねてきたことは一度もないと断言している。ふと、歩いていた鳴海が立ち止まり、振り返ってこちらを見上げた。その目は、どす黒い憎悪に満ちていた。単なる逆恨みだろう——水琴はそう思っていた。しかし翌日、執務中の彼女の元に一本の電話がかかってきた。「高遠紗音はこっちで預かってるよ。痛い目を見たくなきゃ、今すぐ正門まで来な!誰かに言ったら、この子がどうなっても知らないからね!」反論する隙もなく切れた電話に、水琴は咄嗟にかけ直そうとした。だが直後、一通のメッセージが届く。開くと、そこには手足を縛られてぐったりしている紗音の画像が添付され
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第172話

「ピンピンしてるよ!死なないように見張らせてるからね!」鳴海は薄気味悪い笑みを浮かべて吐き捨てた。水琴の胸は不安でいっぱいになった。紗音は重度のトラウマを抱えている。ただでさえ精神的に不安定なのに、縛られたり脅されたりすれば、発作を起こしかねない。「あの子は心の病気を抱えていて、強い刺激を受けたら本当に危ないの。お願い、私を紗音ちゃんのところに連れて行って。無事な顔さえ見せてくれたら、いくらでも論文を書いてあげるわ」水琴は意識して声を和らげた。鳴海の様子を見るに、彼女自身も精神的に崩壊する寸前なのは明らかだった。一連の手で追い詰められた結果、こんな過激な行動に出たのだろう。水琴は心理カウンセラーとしての落ち着きを取り戻し、優しく語りかけた。「鳴海先生。あなただって、数日前までは誇りある教師だったじゃないですか。A大で何年もお教えになっていたのでしょう?紗音ちゃんだって、あなたの教え子のはずです。立場の弱い学生を守るのが、教師というものではありませんか?」鳴海の横顔を見つめながら、水琴は静かに言葉を紡ぐ。「こんなこと、先生の本心じゃないと信じています。大ごとになる前なら、まだ引き返せます。論文が必要なら私が書きます……でも、少し冷静になって考えてみてください。この間のように、また代筆が明るみに出たら、次こそどうなるか。先生ご自身も心理学の専門家です。自分が今どれほど危うい状態にあるか、客観的に見れば分かるはずです。どうか、取り返しのつかないことはしないでください……!」「うるさいっ!」鳴海が思いきりハンドルを叩きつけた。「この間のことがなきゃ、あの論文はすぐに機関誌に載ってたはずなんだよ!あんたさえ余計な真似しなきゃ、バレるはずなかったのに!」「落ち着いて。A大学にいられなくても、他の大学や研究所を探すことはできるでしょう?それが無理なら、自分で心理相談室を開業する道だってある。こんな犯罪に手を染めるより、よっぽどマシな未来があるはずよ」「無理って言われたんだよ!私の未来はもう完全に終わったの!」「……誰に、そんなことを言われたの?」水琴は目を細めて問いかけた。背後にいる【誰か】の存在を確信した瞬間だった。「あんたには関係ない!とにかく高遠紗音は無事だ。怪我一つさせちゃいないよ!」それきり、鳴海は頑なに口を閉ざし、運転にのみ集中
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第173話

灼也の顔色は青ざめていた。焦燥しきった声で問い詰める。「……無事なのか!?」「無事もなにも、写真撮ってただけだけど……どうかしたの?」紗音はきょとんと首を傾げた。灼也は大きく息を吐き出し、乱れた呼吸を整えた。「水琴が……お前を助けに向かったんだ」「助ける?どういうこと?」紗音が目を丸くする。「時間がない、話は後だ。すぐ乗れ!」灼也が身を乗り出してドアを開けると、紗音はただならぬ雰囲気に慌てて後部座席に潜り込んだ。車が急発進し、灼也は運転しながら事の顛末をかいつまんで説明した。「ええっ!?何それ!わたしのスマホ、充電が切れてて電話なんて鳴らなかったよ!」紗音がショックを受けたようにスマホを取り出す。助手席には灼也の部下が座っており、ノートパソコンを開いて猛スピードで車のナンバーを追跡していた。ハンドルを握る灼也の手にギリッと力がこもる。午後の会議中、水琴から着信があった。出ても全く喋らず、何度呼びかけても無言だったため、最初は誤発信かと思った。だが、切らずに耳を澄ませていたおかげで、もっとも肝心なやり取りを聞き取ることができたのだ。彼はすぐさま部下に指示を飛ばし、鳴海志緒の個人情報とワンボックスカーの足取りを追跡させた。同時に大学周辺の防犯カメラの映像を洗わせ、紗音が無事にスタジオへ向かっているのを確認した時点で、水琴が罠に嵌められたと確信したのだ。──その頃、廃工場の一室では、水琴が怯えた目で鳴海の方を睨みつけていた。「鳴海さん!よく考えて。取り返しのつかないことだけはしないで!紗音ちゃんに会わせるって言ったわよね?彼女はどこ!?」「あんた、あの子のこと本気で心配してるんだねぇ。狂言かどうかも確かめずに飛び出してくるとは思わなかったよ。上手く引っかかってくれるか不安だったけど、全くの杞憂だったね」鳴海は薄気味悪く笑いながら、机の上に紙とペンを放り投げた。「書け!さっさと書きな!」水琴は乱暴に紙とペンを床に払い落とした。「紗音ちゃんはここにはいないのね?私を騙したってことは、この状況であなたの言うことの何が本当で何が嘘か、どうやって信用しろっていうの?」直後、首筋にヒヤリと冷たい刃先が押し当てられた。水琴の背筋が凍りつき、全身が硬直する。「……人殺しになるつもり?」「書けって言ってんだろ!!」鳴海が狂ったよう
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第174話

水琴は一瞥もくれず、窓枠を乗り越えて一階と二階の間にある庇へと思い切り飛び降りた。そこからさらに地面へと着地し、敷地の門を抜けて外へ駆け出す。間もなく、鳴海が猛スピードで車を出して追ってきた。水琴は咄嗟に車が入れないような細く険しい道へと逃げ込み、なんとか標的から外れることに成功した。しかし、再び見つかるのを恐れて大通りに出ることはできない。ひたすら人気のない裏道を走り続ける。靴擦れで足にはいくつも血豆が潰れていた。スマホもない。一時間近く無我夢中で走ったが、人っ子一人通りかからなかった。ゴロゴロ……!突然、空を引き裂くような雷鳴が轟いた。自分がどこにいるのかも分からない。見渡す限り荒涼とした畑が広がるばかりで、雨露をしのげそうな場所すら見当たらない。鉛のように重い足を引きずって前へ進むしかなかった。やがて大粒の雨が降り出し、容赦なく水琴の頭や背中を打ち据える。あっという間に全身ずぶ濡れになり、足元から這い上がるような冷えに襲われた。濡れた衣服から体温が奪われ、吹きすさぶ風が氷のように冷たく感じられた。両腕を抱きしめるようにして、水琴は標識を頼りにさらに歩き続けた。土砂降りの雨の向こうから、チカチカとヘッドライトの光が近づいてくるのが見えた。力を振り絞って手を挙げる。「助けて……」車は彼女のすぐ前で急停車した。運転席から飛び出してきた人影が、水琴に向かって駆け寄ってくる。「みーちゃん?みーちゃん!」灼也の心臓は狂ったように暴れていた。崩れ落ちる水琴を慌てて抱きとめる。「みーちゃん!」南鳥市立病院。水琴が目を覚ました時、そこはすでに病室のベッドの上だった。手には点滴の針が刺さっており、額が焼けつくように熱くだるい。少し咳き込んだところに、保温ジャーを持った灼也が部屋に入ってきた。ベッドの上に引き出し式の小さなテーブルをセットし、ジャーから温かいスープを器に移す。「七緒が作ったんだ。冷めないうちに飲んでくれ」水琴はぼんやりとスープと灼也の顔を交互に見つめた。「私……どうして病院に?」雨の中で意識を失ったところまでは覚えているのだが。「俺の部下が、例のワンボックスカーを発見したんだ。鳴海が血眼になって君を捜し回っていたから、自力で脱出したのだと分かった。すぐに十台の車を別々のルートに派遣して捜索したんだが、な
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第175話

ベッドの上で大人しく器を口に運ぶ水琴を見つめながら、灼也の脳裏には、またしても雨の中で倒れていた彼女の姿がフラッシュバックしていた。土砂降りの雨の中、泥にまみれて気を失っていた彼女を見つけた瞬間、まるで自分の心臓が抉り取られたかのような恐ろしい喪失感に襲われたのだ。灼也は黙って窓辺に寄り、病院の裏庭に広がる緑の芝生を見下ろした。そこには、今にも咲きそうな見事な花の蕾がいくつか顔を出していた。ふと、一人の入院患者がこそこそと芝生に入り込み、その花の茎を無残にへし折るのが見えた。ドクンッ——!その瞬間、灼也の心臓が激しく跳ね上がり、顔からすっと血の気が引いた。『血の海に倒れ、全身を赤く染めた女性……そして、その傍らで狂ったように泣き叫び、やがて糸が切れたように意識を失う少女——』凄惨な過去の記憶が濁流のように脳内を駆け巡る。立っていられなくなり、灼也は咄嗟に片手で壁を支え、もう片方の手で強く自分のこめかみを押さえた。「……どうかしたんですか?」水琴の心配そうな声にハッと我に返る。灼也は強張った顔でどうにか笑みを作り、ゆっくりと眉間の皺を伸ばした。「いや、何でもない。……全部飲んだか?」「はい」水琴はティッシュで口元を拭き、そのまま手の甲に刺さった点滴の針を引き抜こうとしたが、灼也にすかさず腕を掴まれて止められた。「そんなに急ぐ必要はない。それに、君の熱はまだ完全に下がりきっていないんだ」廃工場。敷地内に停まったカイエンから、病院の寝巻き姿のままの水琴が降り立つ。その顔色はまだ青白い。灼也がすかさず傍らに寄り添い、彼女の体を支えた。建物の中へ足を踏み入れると、かつて水琴が縛り付けられていた椅子に、今は鳴海自身が縛り上げられていた。狂ったように身をよじって抵抗しているが、灼也の部下たちが用意した極太のロープはびくともしない。おまけに、一階から二階に至るすべての出入り口には黒服の男たちが隙なく配置されている。万が一ひもを解くことができたとしても、この場所から逃げ出すのは絶対に不可能だ。水琴の姿を見るなり、鳴海は激しく身を乗り出してきた。口には幅広のガムテープが貼られており、くぐもった叫び声しか出せないでいる。灼也が顎で合図を送ると、傍らの部下が勢いよくそのテープを剥がした。「静沢水琴!一体どういうつも
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第176話

鳴海の瞳にうっすらと涙が滲み、その唇が小刻みに震えた。「でも……あなたは絶対に私を許さないわ。今日あんなことをしなくても、私はどっちみち法を犯したんだもの」「私、最初からあなたを追い詰めるつもりなんてなかったわ。だって、あなたは既に大学を解雇されているし、あの論文も私の名義で改めて発表されることが決まったの。今、いくつもの権威ある学会誌が先を争って私に掲載オファーを出してきている状態よ。これ以上、あなたを破滅させる理由なんてないわ」水琴は真っ直ぐに鳴海を見つめた。その眼差しに嘘偽りは一切なかった。鳴海は信じられないというように水琴を凝視し、「嘘よ!あり得ないわ!」ともがきながら叫び出した。「あの女は……あなたがこの業界から私を完全に追放しようとしてるって言ったのよ!大学をクビになっても個人でカウンセリングルームを開けばいいって思ってたのに、あなたが絶対に私を逃がさないって……私、もうどうしようもなくて、本当にどうしようもなくて、だからあなたを脅して論文を代筆させようとしたのよ!」「仮に私が書いたとして、それをどうやって発表するつもりだったの?」水琴が冷ややかに問い質す。「できるわ!あの女が手伝ってくれるって言ったの。実家がものすごく権力を持っているから、絶対に私を助けてくれるって……」水琴は小さくため息をついた。「私個人に、あなたを業界追放にするほどの影響力があると思ったの?」鳴海はちらりと灼也に視線を遣った。「あなたには無理でも、高遠灼也にならできるわ。あの女が言っていたの……二人はただならぬ関係だって」水琴は思わず隣に立つ灼也を見上げた。そして再び鳴海に向き直る。「その『あの女』って、一体誰なの?」「駄目、言えないわ。喋ったら絶対に報復されるもの!」鳴海は狂ったように首を横に振った。水琴は隣の灼也を指し示し、冷徹に告げた。「ここに彼がいる以上、その人物はあなたに指一本手出しできないわ」その言葉に、鳴海はゆっくりと目を伏せた。再び顔を上げたときには、その瞳からは堪えきれずに涙が零れ落ちていた。「……私が悪かったわ。あの論文は、鷹司雅が私に渡したものよ。私の名前で発表しろって言われたの。最初は何か裏があるんじゃないかって疑ったわ。でも、あの論文を一度読んだら、あまりの完成度に手放せなくなってしまった。私自身、これまでたくさ
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第177話

水琴が冷ややかに言い放つ。「雅が私を蛇蝎の如く嫌っているのは今に始まった事じゃないわ。大学での彼女の評判は、あなたの方がよく知っているはずよね。昔、あの子を教えていたんだから。あの子は昔から、ああいう小賢しい罠を仕掛けるのが好きなのよ。仮にあなたが私の新しい論文を手に入れたとしても、雅があなたを助けることなんて絶対にないわ。あの女の狙いは私を潰すことだけ。目的を果たせば、あなたの事なんて見捨てるに決まっているじゃない」鳴海の両目から大粒の涙が溢れ出した。彼女は強く唇を噛み締めた。「私が馬鹿だった……あの女の言葉を真に受けて、あなたを拉致するなんて……全部、私が悪かったわ」「送られてきたあの写真は何だったの?」水琴は尋ねた。あの日、自分がまんまと罠に嵌まったのは、送りつけられたあの写真のせいだった。鳴海は少し沈黙し、躊躇うように唇を舐めた。「……鷹司雅の手口よ。彼女が手下を使って高遠紗音に近づかせ、無理やり撮らせたのよ。半分は演技で、半分は本当の状況だったわ」そこまで言い終えると、鳴海の顔から完全に血の気が引き、がっくりと首をうなだれた。水琴と灼也は無言で視線を交わした。無邪気で人を疑わない紗音の性格なら、誰かが意図的に近づくことなどいともたやすい。二人はそれをよく分かっていた。遊び好きで人懐っこいあの子なら、半日もあればすぐ誰とでも友達になってしまう。だが、もし自分のせいで水琴がこんな目に遭ったと知れば、あの子は深く自分を責めるに違いない。水琴は鳴海をじっと見据えた。鷹司雅――あの女だけは、もう二度と野放しにはしておけない。水琴が目配せすると、灼也は部下に命じて鳴海のロープを解かせた。「私を……解放するの?」自由になった腕を押さえながら、鳴海は信じられないという顔で水琴を見た。「まさか、そんな簡単に許すわけないでしょう。あなたには、雅を拉致教唆で立件するための証人になってもらうわ。その代わり、あなたのために私が嘆願書を書いてあげる」「ほ、本当に……?」もし被害者である水琴が減刑を求める嘆願書を提出してくれれば、罪に問われても確実に量刑は軽くなる。「ええ、本当よ」「……分かったわ、証言する」鳴海は決意を込めて深く頷いた。廃工場を出て車に乗り込んだ途端、水琴はどっと疲労感に襲われた。実は先ほどからずっと頭がくらくらして
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第178話

「何のことか全然わかんないよっ……!紗音ちゃん、頭冷やして!ここは学校なのに、こんな暴力を振るうなんて絶対におかしいよ!」有咲は泣き喚きながら訴える。「分からないって言うなら、はっきり見せてあげる!」紗音は再び有咲の髪を掴み上げた。「昨日、わたしのスマホの電源を勝手に切って隠したわよね!わたしに電話を受けさせないようにするためだったんでしょう!」紗音は有咲の鞄から無理やりスマホを奪い取ると、有咲の指を画面に押し付けて強制的にロックを解除した。メッセージアプリを開き、雅とのトーク履歴をスクロールする。案の定、そこには雅が有咲に指示を出した証拠が残っていた。偶然を装って自分に接近し、退屈凌ぎを口実に写真撮影へ誘い出し、その隙にスマホを隠すよう命じる生々しいやり取り。読めば読むほど腸が煮えくり返る思いだった。こいつのせいで、水琴お姉ちゃんはわたしと連絡が取れず、あんな恐ろしい目に遭ってしまったのだ。絶対に、絶対に許さない。「証拠は全部残ってる。これでもまだ言い逃れするつもり?」紗音は氷のように冷たい声で見下ろした。そして、遠巻きに事態を窺っているクラスメイトたちを鋭く睨みつける。「この女、昨日わたしのスマホを盗んだのよ!しかも鷹司雅と結託してわたしを利用したの!あんたたち、こいつを庇う気あるの!?」その凄みに、学生たちは一斉に首を横に振り、蜘蛛の子を散らすように数歩後退した。衆人環視の中で殴り倒され、プライドをずたずたにされた有咲は、もはや理性を失っていた。「紗音ちゃん!ここは学校なんだよ!学部長に言いつけてやるんだから!」「いいわよ!今すぐ言いつけに行きなさいよ!ついでにあなたが何をやったか、わたしが全部報告してあげるから!」その時、騒ぎを聞きつけた学部長と担当教員が教室に駆け込んできた。学部長は紗音の姿を認めるなり、目元をすっと和らげた。教員が慌てて有咲を助け起こす。「一体どうしたの、これは」紗音はふんと鼻を鳴らした。「先生、学部長。有咲が不注意で転んで、わたしまで巻き込まれそうになったんです。彼女、わたしに謝るべきだと思いません?」学部長が有咲に視線を向ける。有咲は拳をきつく握り締め、深く息をついてから震える声で言った。「……はい、そうです。ごめんなさい、紗音ちゃん」「事故だったようだし、本人も謝っていることだ
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第179話

逃げるように去っていく雅の後ろ姿に唖然としていた有咲だったが、ふと何かを思い出したようにハッとし、彼女もまた慌てて走り去った。鞄を取りに戻る余裕すらなく、もちろん欠席届も出さずに、雅は校門を飛び出した。偶然通りかかったタクシーを捕まえ、そのまま実家へと逃げ帰る。ふいに帰ってきた娘の姿に、佳乃は目を丸くした。「雅、今日の午後は授業じゃなかったの?これから鈴木夫人や佐藤夫人をお茶に呼んでいるのに」「お母様!どうしよう、警察が私を捕まえに来る!」雅はパニック状態で母親に縋り付いた。「何を馬鹿なこと言ってるの。警察があなたを捕まえるって、どうして?」佳乃は訳が分からないという顔をした。だが、娘の異常なまでのテンパり具合を見て、血相を変える。「まさか……また何かやらかしたの!?」「お母様!あの女よ!絶対にあの水琴がまた警察に通報したのよ!」雅の声は恐怖で震えていた。佳乃は娘の肩を両手でしっかりと掴み、落ち着かせてから何度も問い質した。ようやく、雅はガタガタと震えながら事の顛末を白状した。「お母様……うちの大学で、先生が他人の論文を盗んでネットで発表した事件があったでしょ?その後、クビになったその先生が、昨日……水琴を拉致したの。もう少しで殺しちゃうところだったのよ!」「それがあなたと何の関係があるの。捕まったって、せいぜいその先生が罪を被るだけでしょ」「お母様!まだ分かんないの!?その先生が盗んだ論文って、私が水琴から盗み出して渡してやったものなの!それに、拉致するようけしかけたのも私よ!だってむかついたんだもん!どうして灼也様が、何度も何度もあんな女の味方をするのよ!」雅はついに堪えきれず、わっと泣き出した。「お母様、私どうしよう!さっき学校に警察が来てたの!絶対にすぐこの家まで来るわ!」佳乃は平静を装いながら、しばし考え込んだ。「……今すぐパスポートとビザを持ってきなさい。すぐに出国するのよ!M国にいる従叔父さんなら、なんとか面倒を見てくれるはずだわ」雅は佳乃の言葉を最後まで聞く前に自室へ駆け上がり、パスポートとビザを引っ張り出した。つい先日、友人と海外旅行へ行くために取得したばかりのものだったが、まさかこんな形で役立つとは思ってもみなかった。スーツケースを一つだけ引きずって一階に下りると、既に佳乃の手配で玄関前に車が横
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第180話

いくら愚かでも、たった一人の妹だ。あいつを刑務所に送るわけにはいかない。幹線道路を、漆黒のマイバッハが弾丸のように疾走していた。制限速度もオービスも完全に無視し、運転手はベタ踏みでアクセルを吹かしている。ハンドルを握る手からコントロールを失いそうなほどの速度だった。それでも雅にとっては、まだ遅すぎた。車に飛び乗った直後、既に三十分後に出発する国際便のチケットは手配してある。空港にさえ着けば、無事にM国へ逃げ切れるのだ。ところが、空港のターミナルビルがうっすらと視界に入ってきたその時。真横に警察の白バイがピタリと並んだ。「そこの車、止まりなさい!」拡声器からの警告がサイレンと共に響き渡る。「止まらないで!」雅は金切り声を上げた。運転手もその気迫に逆らえず、再びアクセルを強く踏み込んだ。車体はさらに加速して前へ飛び出す。しかし、安堵したのも束の間だった。左右の脇道からさらに数台の白バイが合流し、後方からは猛スピードでパトカーが追走してくる。けたたましいサイレンの音が、幹線道路全体を包み込んだ。雅の心臓は早鐘のように打ち鳴り、恐怖で窓の外を凝視した。「お嬢様、どうしましょう……!」運転手がパニックに陥って叫ぶ。「どうするも何もないわよ!止まるな!もっと飛ばせ!」血走った目で喚き散らす雅は、既に完全に理性を失っていた。前方から白バイがマイバッハの進路を塞ごうとじりじりと距離を詰めてくる。「左に寄せて停車しなさい!」ついにはパトカーの一台がマイバッハの真横にぴったりと張り付いた。「お嬢様、もう限界です……!」完全に包囲され、運転手はもうこれ以上スピードを出せなかった。雅は狂ったように座席を何度も叩きつけた後、糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。絶望的な視線を外に向け、力なく呟く。「……止めて」マイバッハがゆっくりと路肩に停車すると、警官たちが一斉に取り囲んだ。「降りなさい!」雅は赤く腫れた目でドアノブに手をかけ、ゆっくりと扉を開けた。車から足を踏み出した瞬間、自分の人生の全てが終わったのだと、彼女は悟った。市立病院。水琴がまだ点滴を受けている病室に、電話の通話を終えた灼也が戻ってきた。「鷹司雅が捕まった。大学へ向かったパトカーを見て、逃亡を図ったらしい。まんまと空港へ向かっている最中に身柄を確保されたよ」水琴
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