Alle Kapitel von 離婚後、捨てられた私は人生の頂点に立つ: Kapitel 161 – Kapitel 170

254 Kapitel

第161話

紗音は両手をぎゅっと握り込み、震える声で答えた。「……水琴お姉ちゃん……」「そう、私よ。私が手を伸ばして、あなたはボートに乗り込んだ。二人の乗ったボートは波間に漂って、風に吹かれて遠くへ流されていく……ねえ、あなたはそもそも、どうして海の中にいたのか思い出せる?」「わたし……わたしね、人を、探してたの」「そう。そして、あなたはその人を見つけた。その人は今、あなたのそばにいるわ。これであなたのそばには、私と、あなたが探していた人、合わせて二人がいるわね?」すると、紗音の眉間にぎゅっとシワが寄った。「ううん、いない。……一人だけ……」水琴は一瞬戸惑ったが、焦らずに言葉を繋いだ。「わかったわ。探していた人は見つからなかったのね。私たちのボートはそのまま漂い続けている。ふと気づくと、周りにたくさんの船が現れて、私たちのボートに向かって近づいてくる。この人たちは、何をするつもりだと思う?」「人殺し!」紗音の甲高い悲鳴のような声が響いた。「あの人たち、人を殺す気だわ!」「その時、ある匂いがしてきたわ。とってもいい匂いが、その船のひとつから漂ってくるの。近づいてきた人たちは、私たちを傷つける気なんてなかった。むしろ、とっても親切に、捕まえたばかりのお魚を分けてくれたのよ」紗音の固く握りしめられていた拳が、少しだけ緩んだ。「……うん。見えた」「そこで水琴は姿を消したわ。今、ボートにはあなた一人だけ。これからどうする?」「……人を探すの」「ええ。あなたはボートを進め、何層にも重なる霧をかき分けていく。そして、ふと振り返ると、探していたその人があなたのボートに乗っていた」水琴の声はさらに落ち着きを増す。「あなたは、その人を乗せて海を漂い続ける。目的地はあの小島。でもそこに、十数人の悪い人たちがいて、あなたをいじめようとしてくるの。あなたは必死に抵抗して、助けを求めた。そしてその時、彼らが人を痛めつけている場面を目の当たりにしてしまう……ねえ、あなたは何を見たの?」途端に、紗音の息遣いが荒くなり、声が激しく上ずった。「血……!血が見えたの!あいつら、人を……人を食べてる!」人を食べてる……?水琴の目に鋭い光が走った。一体この子は何を見たというのか。「怖がらないで。大丈夫。彼らが人を痛めつけているのを見た、その時よ。あなたの後ろか
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第162話

昨夜、警察署から釈放された足で、家に帰らずこのバーへ直行した。最初はただ抜け殻のように虚空を見つめていただけだったが、店が賑わうにつれて酒を煽るペースが上がり、今に至る。自分が警察に捕まった原因。通報者が誰だったかなど、考えるまでもない。だが、水琴がここまで冷酷になれることが、臣には到底理解できなかった。記憶の中の水琴は、いつだって温厚で優しかったのだ。自分が何をしようと文句一つ言わず、微笑みを浮かべて献身的に寄り添ってくれていた。もしかすると、自分は本当の水琴を一度も理解していなかったのかもしれない。自分を見つめるあの瞳から、一滴の愛情も残らず消え失せてしまったことが信じられない。だが、その残酷な事実をはっきりと突きつけられ、受け入れるしかなかった。紗夜か、水琴か——二人の間で、ここまで醜く思い悩む日が来るなんて。離婚届に判を押したあの日には、微塵も感じなかった感情だ。未練がましく苦しんだところで、結局のところ、すべては自分の自業自得にすぎないというのに。エントランスで、友人の女性が鹿耶の腕に絡みつきながら口をとがらせた。「鹿耶、最近ずっと何してたの?何度も誘ったのに、すっかり付き合い悪くなっちゃって」「今日は私のおごり!これで許して!」謝りながらフロアへ足を踏み入れた鹿耶は、ふと見慣れた人影に気づいて足を止めた。友人とともにボックス席へ向かいながら、もう一度その姿を確認する。間違いない。鷹司臣だ。どうしてあんなクズが、こんなところに?露出の激しい服を着た女が一人、臣の隣に座り、馴れ馴れしく肩に手を回した。だが次の瞬間、臣は女を乱暴に突き飛ばした。「失せろ!」「なんなの、サイテー!」女は顔を真っ赤にして立ち去っていった。鹿耶は呆れと軽蔑の混じった笑いを漏らす。クズ男め、今日こそ私の餌食にしてやるわ。しばらくすると、臣の周りを別の数人の女たちが取り囲んでいた。すっかり泥酔している本人は、抵抗する気力もないのかされるがままになっている。ある者はふざけて口に酒を注ぎ込み、ある者は腕にすり寄り、べったりと密着していた。鹿耶は冷たい笑みを浮かべ、スマホのカメラを向けた。妖しげなネオンの光の下、何人もの女に埋もれてだらしない姿を晒す男の動画が、しっかりと記録されていく。フロアの隅の少し静かな場所へ移動し、
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第163話

紗夜は血相を変えて駆け寄り、慌てて体を支えた。「臣さん、こんなところで何をしているの!」想いを寄せる男が、よりによって自分の目の前で元妻の部屋にすがりついている。これほどの屈辱があっただろうか。「帰ら……ない」酒の匂いをぷんぷんとさせ、顔を真っ赤に染めた臣は、その場から動こうとしない。「ここは静沢さんの家よ。いい加減に目を覚まして」紗夜の声がドス黒く沈む。だが、女性の力で大柄な男を立たせるのは至難の業だ。しかも臣は、水琴の部屋のドアノブにしがみついたまま頑として離れようとしない。やがて限界を迎えた紗夜の腕から力が抜け、臣は冷たい床に重い音を立てて倒れ込んだ。それでも目は覚めず、うわ言のように繰り返している。「水琴……開けろ!開けてくれ……!」「臣さん!私が誰だかよく見て!」紗夜は声を荒らげ、冷ややかな目で見下ろした。だが、酔っぱらいに何を言っても無駄だ。臣は紗夜の存在など完全に無視して、ただひたすらドアを叩き、水琴の名前を呼び続けている。その姿を見て、紗夜の脳裏に過去の記憶がフラッシュバックした。臣は昔から、酔い潰れるとよく紗夜に電話をかけてきて、我を忘れたように何度も名を呼んできた。この男は、本気で執着している相手にほど、理性を失うのだ。紗夜は複雑な眼差しで、固く閉ざされた水琴のドアを睨みつけた。まさか……この男は、本当に静沢水琴を好きになってしまったというの?いや、絶対にありえない!そんなこと、絶対に許さない!臣は自分を選ぶために、水琴と離婚したのだ。その事実こそが紗夜のプライドを満たしていたというのに。ようやく邪魔者が消えたのに、またあの女を取り戻したいだなんて、冗談じゃない。ガチャリ、と無機質な音を立ててドアが開いた。水琴はうんざりした顔で紗夜を見下ろし、冷ややかに告げた。「さっさと連れて帰って。これ以上ドアを叩くなら、また警察を呼ぶわよ」「静沢さん……!あなた、臣さんに一体何をしたの?」紗夜は険しい表情で水琴を睨みつけた。水琴は眉をひそめる。言いがかりにもほどがある。「何をしたかですって?この人が勝手に泥酔してうちの前に現れて、迷惑をかけてるだけでしょう。あなたに連絡してあげただけでも感謝してほしいくらいだわ。私に責任を押し付けないで」ただでさえ、鷹司家の人間がしつこく付きまとってくることに辟
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第164話

先ほどの脅しは覿面だった。苛立たしいノックの音はこれ以上続くことなく、やがてエレベーターが下りていく稼働音が聞こえた。どうやらようやく諦めて帰ったらしい。一方、臣を自宅へ連れ帰り、ベッドに乱暴に放り投げた紗夜は、腹の底から湧き上がる怒りで顔を歪めていた。あの憎き女の目の前で、こんな大恥をかかされるなんて!今頃、水琴は自室で勝ち誇っているに違いない。絶対に負けるものか。臣さんは私のものだ!数日後。水琴は書き上げたばかりの論文を心理学の専門誌へ提出した。査読の結果が出るには、一週間ほどかかるだろう。相談室のデスクで、ノートに無造作にペンを走らせていると、パソコンの画面にニュース動画のポップアップ広告が飛び出してきた。マウスで閉じようとした水琴の手が、ふと止まる。画面に映し出されていたのは、インタビューに答える灼也の姿だった。端正で涼やかな顔立ち。落ち着いて控えめな物腰でありながら、その一挙手一投足には圧倒的なオーラと艶やかな色気が漂っている。画面越しの彼を見つめているうち、水琴の脳裏に誕生日の夜の記憶が不意に甦った。大勢の前で、彼が自分への想いを堂々と公言したあの瞬間が。ペンを握る手に、無意識に力が入っていた。ふと視線を落とした水琴は、ハッと息を呑んだ。メモを取っていたはずのノートの真っ白なページが、いつの間にか「高遠灼也」という名前でびっしりと埋め尽くされているではないか。ニュースの音声が終わり、我に返った水琴の頬は、自分でも分かるほど真っ赤に染まっていた。「水琴お姉ちゃん!」不意にドアが開いて、紗音が弾むような足取りで駆け込んできた。前回の催眠療法で激しいパニックを起こして気絶した彼女だったが、目を覚ました後は一度も発作を起こしておらず、すっかり元の明るい笑顔を取り戻しているようだった。水琴はビクッと肩を震わせ、咄嗟に腕でノートを隠した。だが、慌てすぎてページを覆いきれていない。「紗音ちゃん……!今日はどこか具合の悪いところはない?」ごまかすように早口で尋ねる。「ううん、元気!あのね、水琴お姉ちゃんに一つお願いがあるの!」期待に満ちた目で身を乗り出してくる紗音から視線を逸らし、水琴はさりげなくノートを閉じて脇に追いやった。「お願いって?」「数日後にチャリティーオークションがあるんだけど、一緒に行ってくれ
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第165話

だが、廊下に出た瞬間、彼女の唇は意地悪な弧を描いた。先ほどの電話の内容は、一言一句、すべて聞いていたからだ。夕方、紗音を迎えにきた灼也の車で、水琴も一緒に帰路についていた。あの誕生日パーティーの一夜を境に、二人の距離は劇的に縮まっていた。言葉にして確かめ合ったわけではないが、お互いの間にあった見えない壁は、もうほとんど透けて消えかかっている。それに加え、後部座席にいるおせっかいなキューピッドの存在が、さらに拍車をかけていた。「ねーねえ、水琴お姉ちゃん!最近、兄様ってば電話するたびに水琴お姉ちゃんのことばっかり聞いてくるんだよ。直接電話すればいいじゃないって言ったのに、理由は教えてくれなかったの。わたし、絶対兄様が照れてるんだと思うなー!」「適当なことを言うな」運転席の灼也がわざとらしく声のトーンを落としたが、少しも怖さはない。「適当じゃないもーん!」紗音は後部座席から身を乗り出し、運転席の灼也の耳元で内緒話をするように囁いた。「ねえ兄様、水琴お姉ちゃんの『秘密』、知りたい?」助手席に座っていた水琴はピクリと肩を揺らし、怪訝な顔で紗音を振り返った。自分に秘密なんてあっただろうか?「……聞かせてもらおうか」灼也はどこか楽しげな、軽やかな声で応じた。紗音は得意げに眉を上げてみせた。「今日ね、水琴お姉ちゃんのところに行ったら、ノートに何か書いてたの。でもね、そのページに書いてあったのはぜーんぶ、兄様の名前だったの!」水琴はパッチリと目を見開き、真っ赤な顔で慌てて紗音の口を手で塞いだ。「なっ……何言ってるの!そんなことないわ!」「だーかーら、わたし、ばっちり見ちゃったんだもん!」紗音は水琴の手を器用にすり抜け、運転席の灼也に向かって力強く頷いてみせた。水琴はもう反論する言葉も見つからず、アパートの下に到着するまで顔を真っ赤にして黙り込むしかなかった。車がエントランスの前に停まるなり、紗音はそそくさと車を降りて「先に行ってるね!」と階段を駆け上がっていった。車内には、灼也と水琴の二人だけが取り残される。気まずい沈黙の後、水琴がぽつりと口を開いた。「……さっきのは、紗音ちゃんの見間違いですから」灼也は微かに微笑み、静かに首を振った。「あの子は嘘をつかないよ。どうして隠そうとするんだ?……俺はすごく嬉しいのに」しっとり
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第166話

けれど——灼也が本当に、自分とこれから先も一緒にいる覚悟があるのか、水琴には自信が持てなかった。誕生日パーティーで堂々と宣言してくれた真っ直ぐな想いは痛いほど分かっている。それでも、現実問題として二人が結ばれるとは限らない。「雲の上の高遠家」と、「一度結婚に失敗したバツイチの女」なのだから。身分差という残酷な現実を前に、今までの高揚感がすうっと引いていく。顔に集まっていた熱が冷水で一気に消火されたように、水琴の表情は暗く沈み込んだ。一方、水琴がそれほど深く思い悩んでいるとは露知らず。アパートの下に取り残された灼也は、一人車内でハンドルを握りながら、自嘲気味に小さく息を吐き出していた。——少し、軽すぎたな。触れるだけの甘いキスでは、独占欲を満たすには到底足りなかったのだ。車を発進させ、エアコンの温度を最低まで下げても、体の奥で燻る熱はどうしても冷めそうになかった。昨夜の出来事のせいで、水琴はすっかり寝不足だった。出勤してからもずっと心ここにあらずで、落ち着かない。そんな状態のところへ、専門誌からの査読結果を待つ間もなく、最悪の知らせが飛び込んできた。蓮見教授からの電話だった。普段の穏やかな声とは打って変わって、酷く険しい響きを帯びている。「水琴くん、君の論文だが……誰か他の人間に見せたかい?」予想外の質問に、水琴は首を傾げた。「いいえ、誰にも見せていません。専門誌へ提出した以外は、教授宛てにメールでお送りしただけですが」電話越しの教授は長く重い沈黙を保った後、深い溜息をついた。「私は君の言葉を信じるよ。だが……まずは学内ポータルサイトの掲示板を確認しなさい」訳が分からないまま通話を切り、パソコンで大学のポータルサイトを開いた水琴の目に、ある告知が飛び込んできた。【祝・鳴海志緒(なるみ しお)専任講師の論文が「学術総合ジャーナル」の掲載リストに選出されました】お知らせの下に貼られた論文のリンクをクリックした瞬間、水琴は一気に血の気を失った。タイトルから本文に至るまで、自分が苦労して書き上げた論文と一言一句違わず、完全に一致していたのだ。『学術総合ジャーナル』への選出は、専門誌に次ぐほどの権威ある評価だ。何より最も厄介なのは、あちらの方が査読スピードが圧倒的に早いということである。画面の前で凍りついているところへ、今度は専門
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第167話

苛立ったように吐き捨てる鳴海に対し、水琴は一歩距離を詰めた。相手の微細な動揺も逃すまいと、その目を射抜くように見据える。「本当に分からないと?では、もう一度分かりやすく質問します。あの論文は、本当にあなたが書いたものですか?」鳴海は水琴の視線から逃げるようにくるりと背を向け、ウォーターサーバーから水を汲むふりをした。「当然でしょ。一ヶ月以上かけて仕上げた力作よ」「おかしいですね」水琴は淡々と事実を突きつける。「私が半月かけて書き上げた論文が、なぜ今、あなたの名前で発表されているのでしょうか。私は数日前に専門誌へ提出し、査読結果を待っているところでした。それが今日、あなたの名前で学内の掲示板に載っていた」「内容も一言一句違わず、タイトルすら同じ。更に明白なことに、参考文献も引用の注釈も全く同じままでした。論文の考察の方向性は、私が小林菫先生と直接議論して導き出したものです。ここまで揃っていて、追及されないとでも思ったんですか?」鳴海はコップを片手に向き直り、強がって傲然と顎を上げた。「静沢先生。あなたがいくら大学側からチヤホヤされていようと、心理学コンクールで手柄を立てようと、あの小林菫先生を招致した功労者だろうと関係ないわ。思い上がらないでちょうだい。あれは私が提出した、私の論文よ。……言いがかりならもうたくさん。さっさと私の部屋から出て行って」水琴は思わず鼻で笑った。どうしてもシラを切るつもりらしい。しかし、どうやって自分の論文を手に入れたのかという不可解な疑問は残る。「話し合いで解決する気がないなら、法廷で白黒つけるしかありませんね」冷たく言い残し、水琴は踵を返した。「……待ちなさいよ。あんたの方から私を訴えるですって?」背中越しに、鳴海の嘲るような声が飛んできた。「訴えるのはこっちの方よ!あんたが私の論文を専門誌に勝手に投稿した件、もう学長には報告済みだから。これからすぐに役員会議が開かれるわ。規定に則って、あんたは即刻クビになるでしょうね!」「そうですか。偽物はどこまでいっても偽物です。楽しみにしていますよ」自室に戻った水琴は、冷静に反撃の準備を始めた。鳴海がいくら作成日時を改ざんしようと、絶対に誤魔化せない「証拠」があるのだ。論文の中核となるデータは、小林菫から直接提供されたものであり、各心理学研究所から集められた膨大な非公
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第168話

学長の厳しい視線が水琴に向けられた。「静沢くん、君の方から何か反論はあるかね?」水琴は静かに立ち上がり、鳴海の横を通り抜けて幹部たちの正面に立った。「ええ、もちろん。その前に、鳴海先生にいくつか質問させてください」「何よ、言ってみなさいよ」鳴海が鼻で笑う。「あなたの論文の『研究テーマ』は、どのような過程で選定されたのですか?」「そんなの、海外の文献を読み漁って、いくつものシンポジウムのレポートを精査して絞り込んだに決まってるじゃない」鳴海は澱みなく答えた。「違いますね」水琴は余裕の笑みを浮かべた。「違うですって?何を根拠にそんな適当なことを言うのよ!なんなら、そのレポートの束を今ここに持ってきてもいいのよ?」水琴は鳴海を相手にせず、手元のパソコンを操作して前方の巨大スクリーンに映像を映し出した。そこに表示されたのは、水琴と小林菫の間で交わされた、一ヶ月以上前のメールのやり取りだった。「あなたの言う『シンポジウムのレポート』とやらから導き出せるテーマは、すべて過去の研究の焼き直しにすぎません。方向性が似ていても、この論文の核心とは根本的に違います。私のこの研究テーマは、小林菫先生が海外の国際シンポジウムから帰国された直後、未公開の最新情報を共有してくださり、その上で先生のご承諾を得て決定したものだからです」スクリーンに大きく映し出された日付と内容に、鳴海は明らかに動揺を見せた。「そっ、それだけであなたの論文だと証明できるわけないでしょ……!私の独自の考察が、たまたまその情報と一致しただけよ!」その苦しい言い訳を聞き、それまで沈痛な顔をしていた蓮見教授の表情が少し和らぎ、背筋がスッと伸びた。「では、二つ目の質問です」水琴は静かに言葉を継いだ。「あなたが論文で用いた『データ』は、どこから入手したのですか?」論文に記載したデータは、あくまで分析の一部を抜粋しただけであり、すべてを掲載したわけではない。当然、添付資料にも完全なデータセットは載せていなかった。鳴海は怯まずに答える。「知り合いに頼んで、各所の心理学研究機関から集めてもらったのよ」彼女は対抗するように自分のパソコンをスクリーンに繋ぎ、友人とのメッセージアプリのやり取りを映し出した。それを見た水琴は、論文の添付資料のページを開き、ある一箇所を指し示した。「あなた
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第169話

「先に発表した方が本物だなんて、そんな理屈が通るわけないでしょう。鳴海先生」水琴の凛とした声が会議室に響き渡った。「私には、これまでの過程を証明する完全なデータも、下書きの原稿も、採点に協力してくださったすべての専門家とのやり取りも残っています。これでもまだシラを切るつもりなら、私にも考えがあります。単なる学内会議の盗作騒動では済ませません。正式に法的措置を取り、裁判を通じて社会に全てを公表します」このやり取りを聞いて、小林学長をはじめとする幹部たちはすでに事の真相を完全に理解していた。彼らも皆、過去に数々の論文を執筆してきた研究者なのだ。どちらが真の執筆者かなど、火を見るより明らかだった。学長は氷のように冷たい視線を鳴海へ向けた。「鳴海先生による他人の論文の盗用と判断する。大学側からジャーナルの編集部へ速やかに連絡し、事の経緯を説明して訂正の手続きを取ることにしよう」「が、学長!もう掲載は決定しているんですよ?そんなことをすれば、A大学のブランドに泥を塗ることになります!」鳴海が真っ青になって叫んだ。その時、蓮見教授が素早く立ち上がった。「鳴海くん!学長が大学の体裁を守るために、己の倫理を曲げて不正に目を瞑るとでも思っているのかね!」先手を打つように大声で一喝しながら、蓮見教授は小林学長をチラリと流し見した。教授には一抹の危惧があった。学長という立場の人間にとって、「誰が作ろうと、大学から名誉ある論文が出たという結果」と「大学の面子」の方が、真実より重い意味を持つことがあるからだ。かつて学長は鷹司雅の事件の際、容赦なく彼女を警察に突き出したが、あれは水琴の背後に高遠家という強大な後ろ盾があったからこそ下せた決断だ。だが、この盗作問題に関して水琴の後ろ盾となるものは何もない。もし学長が体裁を重んじて隠蔽に走ったら……蓮見教授のその思惑を察した水琴は、堂々と顔を上げて学長を見据えた。「A大学がこれほどまでに名門として名を馳せているのは、表面的な学術的権威があるからではありません。権威に屈せず、どんな間違いからも決して目を逸らさず、真摯に向き合う姿勢があるからです!」その言葉に、小林学長の眼光が鋭く光った。「その通りだ。鳴海先生、論文は発表後であっても撤回できる。前例がないわけではない。君には、最終処分が決定するまで無期限の停職を命じ
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第170話

灼也が画面を手繰り、最新の投稿を開く。添付された音声ファイルをタップすると、そこから見知らぬ女と水琴の冷ややかなやり取りが流れてきた。それを聞いて紗音も目を丸くした。二人の声だけでなく、小林学長の声まで混じっている。「あーっ!これでアンチも文句言えないね!お姉ちゃんの論文をパクったのは、この女の先生の方じゃない!」さらに蓮見教授の声も聞こえてきた。どうやら今まさに、学内で行われている緊急会議の様子が録音されているらしい。紗音は上機嫌で、音声のコメント欄に立て続けにメッセージを書き込んだ。「兄様、水琴お姉ちゃんはもう大丈夫だね」だが、灼也の表情は暗く沈んだままだった。「ひとまず、お前を家に送る」「え、お姉ちゃんを待たないの?」「家まで送り届けたら、俺はまたここへ戻ってくる」その言葉に、紗音は目をキラキラと輝かせた。「兄様ったら……!じゃあ、早くわたしを家に帰して!ていうか、いつになったら水琴お姉ちゃんをわたしのお義姉さんにしてくれるわけ?」運転席の灼也は片手を伸ばし、助手席の紗音の頭を軽く撫でた。すっかり水琴になついている妹の様子に、自然と口元が緩む。「……もうすぐだ」水琴は心理相談室に戻り、記憶をたどりながら監視カメラの映像まで確認してみたが、やはり何の手がかりも見つからなかった。一体、誰が私の論文データを盗み出したのだろう?本当に鳴海が一人でやったというのだろうか?考えを巡らせながら荷物をまとめ、大学の正門を出た。すると、ふいに見慣れた長身のシルエットが目に飛び込んできた。思いがけず、灼也がそこで待っていたのだ。「終わったか」彼が低く落ち着いた声で話しかけてくる。この間の出来事があってからというもの、水琴はどうしても彼に近づくのが気恥ずかしかった。ぐっと迫ってくる端整な顔立ち、少し冷たかった唇の感触、そして唇に触れる温かい指先——ちょっと、私ったら何を思い出してるの!?余計なことは考えまいと抑え込もうとすればするほど、視線は無意識に彼の唇へと吸い寄せられてしまう。あの甘く切なげな瞳に一度見つめられたら、そのまま深く溺れてしまいそうになるのだ。水琴は慌てて視線を逸らした。「……紗音ちゃんは?」灼也は代わりに助手席のドアを開けた。「もう家に送り届けた」水琴は呆気に取られた。「じゃあ、わざわざ私
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