All Chapters of 離婚後、捨てられた私は人生の頂点に立つ: Chapter 181 - Chapter 190

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第181話

エレベーターに乗り込み、大きく深呼吸をした。冷静になるのよ、水琴。落ち着いて。ドアが閉まりかけたその時――すっと差し込まれた手が扉を遮った。灼也が乗り込んでくる。長身の彼が近づくにつれ、ふわりとシダーウッドの香りが漂ってきた。狭いエレベーターの空間が、あっという間に彼の匂いに満たされていく。水琴は息苦しさを覚え、頬が火照るのを感じてそっと手を当てた。とても熱かった。「熱がぶり返したか?」灼也が心配そうに覗き込み、躊躇うことなく水琴の額に手のひらを当てた。「……いや、熱くはないな」水琴は息をするのも忘れ、硬直した。男の温かく力強い手の感触。その手が離れてズボンのポケットに収まるまで、彼女の視線はずっと彼の手を追っていた。「……熱なんて、ありません」ようやく絞り出した声は、ひどく硬かった。「分かってる」灼也は不意に身を屈め、水琴の顔のすぐ近くで低い声を出した。「……照れてるのか?」「誰が照れてるんですか!」水琴はやり場のない視線を彷徨わせながら、必死に強がった。チーン。到着を知らせる音が鳴り、ドアが開いた瞬間、水琴は灼也の脇をすり抜けるようにして逃げ出し、大慌てで玄関の鍵を開けた。家の中に入ると、ふわりと料理のいい匂いがした。隣の人が夕飯の支度でもしているのだろうか。そう思った瞬間――パッと明かりが点いた。水琴は目を丸くした。鹿耶と紗音が、それぞれ花束を抱えて立っていたのだ。「退院おめでとう!」鹿耶は花束を水琴の手に押し付けるなり、ぎゅっと抱きついてきた。「もうっ!こんな大変なこと、どうしてすぐに教えてくれなかったのよ!」紗音も反対側から抱きついてくる。「水琴お姉ちゃん、ごめんなさい!わたしのせいで……わたしがちゃんと電話に出ていれば、こんなことにはならなかったのに」後から入ってきた灼也が、静かに玄関のドアを閉めた。「水琴は退院したばかりだ。まずは座らせて休ませてやれ」その言葉に、二人は「あっ」と声を上げて水琴から離れ、邪魔にならないよう花束をテーブルの端に置いた。水琴がリビングに進むと、ダイニングテーブルには所狭しと料理が並べられていた。鹿耶も紗音も、料理なんてできるはずがないのに?その時、キッチンの方から泣きそうな声が聞こえてきた。「助けてくださーい!水琴さん、なんとか言ってやってくださいッスよ!こ
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第182話

そこまで聞いた水琴は、ハッとして灼也を見上げた。気まずそうに目を丸くしている彼の表情を見て、瞬時に状況を悟る。「あ、あの!私、もうお腹いっぱいです。ちょっと熱っぽくて疲れたので、部屋で休んできますね!」逃げるように席を立ち、寝室に駆け込んだ。ドレッサーの前に立ち、真っ赤になった自分の顔を鏡越しに見つめる。七緒さん、今なんて言った?私を落とそうとしてる?まさか!灼也からの好意は、もちろん気づいてはいた。でも、七緒の言い草だと、随分前から私のことが好きだったみたいに聞こえた。それに、ずっとアプローチしてたって……そんな、もったいない。しばらくして部屋を出ると、リビングは静まり返っていた。紗音はテーブルに伏せてうとうとしており、鹿耶と七緒は完全に酔い潰れていびきをかいている。……あれ?高遠さんは?ふと、キッチンに人影が動くのが見えた。近づいてみると、灼也がガスコンロの前に立ち、土鍋で何かを煮立たせている。独特の苦い匂いが漂ってきた。またあの『煎じ薬』だ。火を止めた灼也が、褐色の液体の入ったお椀を持って振り返った。「出てきたな。これを飲んでおけ。冷蔵庫の薬液パック、全然減ってなかったぞ。サボってただろ。ちょうどいい、温かいものを胃に入れた方がいい」突き出されたお椀を前に、水琴は泣きたい気分になった。仕方なく一口ずつ流し込む。風邪で味覚がおかしくなっているせいか、いつもより余計に苦く感じる。ようやく最後の一滴まで飲み干すと、灼也は満足そうに監視の目を解いた。水琴はすっかり酔い潰れた鹿耶をを引きずり、ゲストルームのベッドに寝かせた。リビングに戻ると、灼也と紗音が食器の片付けをしていた。水琴も手伝おうと皿に手を伸ばしたが、灼也に制止される。「君は休んでいろ」水琴の手から皿が奪われた。「大丈夫です。一緒に片付けますから」水琴は別の皿を手に取り、頑なにキッチンへ向かった。彼女の意地の張り方をわかっているのか、灼也はそれ以上止めようとはしなかった。ダイニングテーブルが綺麗に片付いた後、灼也は泥酔した七緒を抱えて車に乗せ、紗音もその後から助手席に乗り込んだ。水琴はマンションの下まで見送りに来ると、窓越しに声をかけた。「気をつけて帰ってくださいね」すると、運転席のドアが不意に開き、灼也が歩み寄ってきた。「ちゃんと薬を飲むんだぞ」「……はい
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第183話

「確かにあの子は言うことを聞かなかったわ。でも、だからって見殺しにするなんて許さないわよ!雅だって、あなたのために怒ってくれたんじゃない!あの水琴は浮気した上に、慰謝料までたんまり持って出て行ったのよ。雅があなたに代わって仕返しをしてくれたっていうのに、あんたは何を言ってるの!」佳乃は臣に指を突きつけて捲し立てた。紗夜もそっと歩み寄り、臣の腕に軽く触れて宥めた。「臣さん……佳乃様の言う通りよ。それに、仮にも雅さんはあなたの妹じゃない。今回のことが表沙汰になれば鷹司家の名前に傷がつくわ。前回の騒動でも、世間から随分と心無い言葉を浴びたでしょ。これが二度目となれば、株価にも影響するかもしれないし……」紗夜にしてみれば、雅がどうなろうと知ったことではない。彼女が守りたいのは、自分がいずれ手に入れる『鷹司家』の輝かしいブランドだけだ。佳乃は涙ぐみながら紗夜の手を握った。「紗夜さん……あなたって本当にできた人ね。家のためを思ってくれるなんて」臣は深く息を吐き出した。そんなことは百も承知だ。相手が水琴一人なら容易い。だが厄介なことに、水琴の背後には常に高遠灼也の影がちらついている。彼がこれ以上、鷹司家を徹底的に潰しにかかってこないという保証はないのだ。「……でも、この事件がどう扱われるかは、結局のところ『証人』の証言次第よね」紗夜が、あえて何気ない風を装って口を挟んだ。佳乃がハッとして振り返る。「紗夜さん、それってどういうこと?」臣も怪訝な表情で紗夜を見た。「証言次第だって?」「要するに、静沢さんの言い分一つでどうにでもなるってことよ。もし……『雅さんは事件の首謀者ではなく、静沢さんが個人的な恨みを晴らすために、あらかじめ証人を金で買収してでっちあげた罠だった』ということにできれば?証人は大学の一教員に過ぎないわ。なら、彼女に『どう証言させるか』が鍵になると思うの」紗夜はそこで言葉を区切り、臣を見つめて無垢な笑みを浮かべた。「……ごめんなさい、私ったら。でしゃばった真似をして……でも、雅さんを助けたい一心で、つい」「……分かってる。君のせいじゃない」臣は紗夜の手にそっと自分の手を重ねた。彼女の言う通りかもしれない。買収でも脅迫でもいい。証人の口さえ塞げれば、この絶望的な状況を覆せるかもしれない。夜が深まるにつれ、ベッドに横たわる水
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第184話

部屋に飛び込み、倒れている水琴を見た瞬間――心臓が止まるかと思った。触れた身体は、焼けるように熱かった。一刻の猶予もないと判断し、すぐさま水琴を抱き上げて病院に駆け込んだ。深夜の二時から五時過ぎになって、ようやく熱が下がり始めたが、灼也自身は一睡もしていない。点滴が落ちるのを凝視しながら、片時も水琴の様子から目を離せずにいた。「もう退院なんてさせないからな」口調には、有無を言わさぬ迫力があった。その険しい表情を見れば、どれほど怒っているかは一目瞭然だ。「……ご迷惑をおかけしました」水琴は弱々しい苦笑を浮かべて言った。そのよそよそしい言葉に、灼也はかえって呆れて笑いそうになった。なぜ水琴は、いつもこうやって壁を作ろうとするのか。「迷惑?……二度とそんな言葉を口にするな」突然身を乗り出し、灼也は水琴に顔を近づけた。ビクッとして、水琴は思わず身をすくめた。「あまり近づかないでください……風邪、うつってしまいますよ……」口元を覆って、コンコンと数回咳き込む。それでも灼也は離れようとせず、まっすぐに水琴を見つめ続けた。熱を帯びた視線から逃れようと彷徨う水琴の瞳が、ひどく愛おしく映る。ふいに、奇妙な衝動が突き上げてきた。水琴の唇を見つめていると、あの日の不意のキスが脳裏をよぎる――いや、あれは決して単なる事故などではなかったが。気づけば、再びその唇を強引に塞いでいた。水琴が身じろぎし、弱々しく腕を伸ばしてその胸を押し返そうとする。だが、高熱に体力を奪われきった今の水琴に、目の前の男を拒む力など残されているはずもなかった。唇が重なった瞬間、水琴は胸を押し返そうとしていた手の力をすっと抜き、ただただ大きく目を見開いた。至近距離にある灼也の顔。剣のように凜々しい眉の下で、その瞳は深く水琴を捉えている。底に潜む甘い優しさと、隠しきれない熱情。呆気にとられた水琴は、自分からどう反応していいかもわからず、ただ目の前の男を見つめ返すことしかできなかった。時が止まったかのようだった。時刻は午前五時を回った頃。外はまだ薄暗く、月が沈みきらない空には、夜明けの気配だけが白く漂っている。全身を包み込むような灼也の体温と香りに、水琴の胸は早鐘のように打ち、顔が熱くなるのを止められなかった。しかしその時、カチャリと病室のドアが開
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第185話

言い間違えただろうかと、おずおずと灼也の顔を窺う。「――ああ。わかったなら、先に出ていてくれ」灼也は短く応え、満足そうに頷いた。看護師が出ていくと、水琴をはハッと我に返ったように灼也を睨みつけた。「さっきの……っ!」「さっきのがどうかしたか?あの看護師の言葉、聞こえなかったのか?」意味深な笑みを浮かべ、あまつさえ唇をペロリと舐める始末だ。恥ずかしさと怒りでどうにかなりそうだった。水琴は弱った身体を無理やりひねり、背を向けて彼を無視することにした。あんなところを見られた上に、恋人同士なんて勘違いされて……っ。穴があったら入りたい。高熱で火照っていた時よりも、今のほうが顔が真っ赤な自信がある。よりにもよって、灼也は面白がるようにベッドの反対側へ回り込み、顔を覗き込んできた。寝返りを打つだけで苦労しているのを知っているくせに、と腹が立ち、水琴は咄嗟に手を伸ばして彼の肩を叩いた。ぺちん、と案外大きな音が響き、叩いた本人が一番驚いてしまう。「どうして避けないんですか!」「痛くないからな」くすりと笑って、灼也はようやくからかうのをやめた。その時、彼のスマートフォンが着信を知らせる。電話に出た灼也の表情が、通話を終える頃には険しいものに変わっていた。そのただならぬ雰囲気に、水琴の様子もこわばる。「どうかしたんですか?」「……鳴海志緒の娘が連れ去られたそうだ」その報告に、水琴も言葉を失った。雅が逮捕されてからまだ間もないというのに。臣の動きがいくらなんでも早すぎる。鷹司家のえげつない手口を思えば、まもなく自分のもとへも乗り込んでくるかもしれない。その予感は、すぐに的中することとなった。夜が完全に明けきり、灼也が水琴の朝食を買いに病室を離れた直後のことだった。臣が、母親の佳乃と紗夜を引き連れて病室に押しかけてきたのだ。コンクール当日に医務室へ乗り込んできた時の横柄な態度とは違い、今の佳乃は青ざめ、憎悪に満ちた顔をしていた。「……出て行ってください。警備員を呼びますよ」水琴は、体力を振り絞って冷たく言い放った。頼みの綱の灼也は今ここにいない。「水琴、頼む、追い出す前に少しだけ話を聞いてくれ!」臣が切羽詰まったように食い下がる。だが、理性を失っている佳乃が、いきり立ってベッドに詰め寄ってきた。水琴の鼻先に
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第186話

水琴の言葉に怯んだ臣の態度を見て、紗夜の胸の内に苛立ちが渦巻いたが、表情には一切出さなかった。「恥知らずなのはあんたでしょ!いいからふざけたこと言ってないで、いくら欲しいのか言いなさいよ!散々家やお金を巻き上げておいて、まだ足りないって言うの!?いくら払えば雅を自由にしてくれるの!?」佳乃は目を剥いて水琴を睨みつける。「慰謝料は、臣が私に負った借りを返しただけ。それに、和解なんか絶対に応じない」「あんたが応じるかどうかなんて関係ないのよ」佳乃は一歩前に出ると、嫌悪感を露わに嘲笑った。「高遠家がいつまでもあんたを守ってくれるとでも思ってるわけ?高遠灼也みたいな男が、あんたみたいなバツイチ女を本気で愛するはずないじゃない。今は面白がって庇ってくれてるみたいだけど、ただの遊び相手に決まってるわ。思い上がらないことね。彼、公の場であんたとの関係を認めたことなんて一度もないじゃない!」「俺の恋人に、何か用か?」その時、病室の空気を凍りつかせるような冷ややかな声が響いた。灼也だった。手にした朝食をサイドテーブルに置くと、まっすぐに水琴のそばへ寄り添い、佳乃を見下ろすように冷たい視線を向ける。「最近の鷹司家は、ずいぶんと威勢がいいらしいな。『遠峰(とおみね)』との提携話は、どうなった?」その言葉に、臣の顔つきがサッと変わった。「遠峰」は国際的な大企業で、近年国内市場に参入し始めたばかりだ。最初は高遠グループとだけ提携していたが、最近になってパートナー企業をもう一社増やすという噂があった。臣もその枠を狙って動いていたが、向こうの担当者に面会すらさせてもらえずにいるのが現状だった。「……まだ、まとまってはいない」臣が絞り出すように答える。だが、佳乃にはそんなビジネスの話など耳に入っていなかった。彼女は、灼也が病室に入ってきた時の最初の一言だけに食いついた。「恋人って……あんたたち、付き合ってるの!?」「ええ。それが何か?」灼也は目を細め、余裕の笑みを浮かべた。臣は胸の奥を重いもので殴られたような気がして、思わず水琴を見た。水琴は否定しない。――まさか、本当なのか?「高遠さん、騙されちゃダメよ。この女はね、うちの息子と結婚していた時も妻としての義務なんてこれっぽっちも果たさなかったし、素行も最悪だったの!あなたが本気になるような価値なんて
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第187話

臣も、灼也の氷のような眼差しを前にして、ハッと我に返った。一時の感情に流されて、今自分の目の前に立っている男がどれほどの権力者であるかを忘れかけていた。鷹司グループの命運すら、彼の一存でどうにでもなるのだ。「水琴……雅には必ずお前に謝罪させるし、慰謝料も払う。いくらでもいい、金額を言ってくれ。包み隠さずお前の要求に応じるから」臣は最後にそう条件を提示したが、水琴の態度は氷のように冷たかった。「お金なんて一円もいらないわ。二度と私の前に顔を出さないで」ピシャリと撥ね付けられ、臣は屈辱で顔を歪めた。紗夜と佳乃も、水琴がここまで頑なだとは思わず、顔色を失う。「ふん!あんたがその気なら、もう結構よ。後になって泣きついてきても知らないからね!」佳乃は最後に捨てるように暴言を吐き、水琴を思いきり睨みつけてから病室を出て行った。病院の玄関を出ると、臣は先ほどの失態を思い返し、深い後悔と苛立ちに苛まれていた。「水琴が和解に応じるわけがないとわかっていたのに……なぜわざわざ恥をかきにきたんだ」今回病院へ行こうと言い出したのは佳乃だった。息子に責められた佳乃は、面白くなさそうに言い返す。「なによ、私のせいだって言うの!?雅のことで気が気じゃないのは私も一緒でしょ。水琴のやつ、昔はあんたにベタ惚れだったじゃない。だから、あんたが少し機嫌を取ってやればうまく丸め込めると思ったのよ。まさか、あんな大物をパトロンにしてるなんて思わなかったわ。昔から私のことなんて見下してたけど、今はもっと調子に乗って……!」車へ向かって歩きながら、佳乃の憎々しげな悪態は止まらなかった。「バツイチの分際で高遠家に取り入るなんて、どんな汚い手を使ったのかしらね。どうせ高遠の景正様が、あんな性悪女をまともに相手にするわけないんだから!」「母さん、何を企んでいるんだ?」母の目に浮かぶ狡猾な光を見て、臣は嫌な胸騒ぎを覚えた。「あんたは口出ししなくていいの。それより、あの鳴海志緒の娘をしっかり見張らせておきなさい。水琴と高遠灼也は、あの子供がいなくなったことに気づいているはずよ。あいつらがこのまま黙って何もしないわけがないわ」二人の後ろを歩きながら、紗夜の脳裏には先ほどの灼也の姿が焼き付いて離れなかった。水琴を見つめる、甘く優しく、そして強烈な独占欲を孕んだあの瞳。あんな極上
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第188話

臣はハッと我に返り、ようやく紗夜を見た。そうだな……俺は一体、どうしてしまったんだ?まるで何かに取り憑かれたかのようだった。自分がずっと愛していたのは紗夜だったはずだ。夢にまで見た愛する人が今、この腕の中にいるというのに、自分は他に何をうわごとみたいに考えているというのか。彼は誤魔化すように、紗夜をきつく抱き寄せた。彼女の髪からは、微かにクチナシの香りがした。――その瞬間、不意に記憶の扉が開いた。「どうぞ」薄暗い部屋の中、水琴が歩み寄り、おとなしく一杯の茶を差し出す。彼女の髪はまだ濡れていて、落ちた水滴が寝間着を濡らし、妙に色っぽかった。記憶の中の自分は、その茶を冷ややかに受け取り、彼女の存在をまるで空気のように無視していた。「ねえ、嗅いでみて?新しく買ったシャンプーなんだけど、いい匂いしない?」水琴がはにかみながら、彼の肩に頭をすり寄せてきた。わざと自分から香りをかがせるような、無邪気で可愛らしい仕草だった。だが、彼は無表情のまま彼女を突き放し、氷のように冷たい言葉を投げつけた。「邪魔をするな。もっと空気を読め」そう言って、一人書斎へと籠もってしまったのだ――「……ごめん」不意に、臣の口からそんな言葉が漏れていた。紗夜は驚きに目を見開いた。彼女は、今の冷たい態度を謝ってくれたのだと勘違いし、泣きそうな声で彼の首にすがりついた。「いいの、臣さん……私、責めたりしない。本当にあなたを愛してるの……私を捨てないでね」その声に、臣は深い喪失感から引き戻された。腕の中の身体を、さらに強く抱きしめる。「……そんなこと、するはずないだろう」深く息を吸い込む。鼻腔をくすぐるのは、あの時のシャンプーの匂いではなく、クチナシの香り。――ああ、そうか。今抱いているのは、紗夜なんだ。一方、病院の病室では、灼也と水琴の二人きりになっていた。「さっきあなたが言ってたこと……」水琴はそこで言葉を区切った。どう切り出せばいいのか、どういう立場で聞けばいいのかわからなかったのだ。「私のこと、本当に彼女だと思ってるんですか?私たち、いつの間に付き合ってたんですか?」などと、ストレートに聞けるわけがない。水琴は視線を伏せ、あの深く優しい水面のような瞳を直視することができなかった。「……照れてるのか?」灼也が低く、くすりと笑う。「照れて
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第189話

今はA大学で心理カウンセラーをしている、ただの地味な女でしかないのに。ふと、水琴の唇から自嘲するような笑いが漏れた。私、いつからこんなに卑屈になっちゃたんだろう……かつては、紗音のように明るく快活で、どんな時も自信に満ち溢れていたというのに。今の自分は、どうしてこんなにも臆病になってしまったのか。灼也は再びベッドの傍らに腰を下ろすと、水琴の手にリンゴを握らせた。そして彼女の目を真っ直ぐに見据え、一言一言、噛んで含めるように口を開いた。「ゲームなんかじゃない。俺は本気だ。君にも伝わっていると思っていたんだがな」その瞳には、火傷しそうなほどの熱がこもっていた。逃げ場を塞ぐような強い眼差しで、水琴を射抜く。「みーちゃん、答えてくれ。君の言う『私なんか』って、どういう意味だ?」「それは……」水琴は言葉に詰まった。「『私なんか』とは、どんな人間なんだ?」灼也の視線は少しも緩まない。今にも彼女の顔に穴を開けてしまうほどの凄みで、答えを促してくる。「……鷹司臣の母親が言った通りですよ。一度離婚した、素行の悪いバツイチ女」水琴は自嘲気味に笑った。だが、灼也は首を振った。彼の瞳の奥に、スッと冷ややかな光が宿る。「君自身も、そう認めるのか?」認める?どうして私が認めなきゃいけないの?素行が最悪なのも、裏切りを繰り返したのも、鷹司臣の方じゃないか。世間はいつだって女に厳しい。離婚となれば、男よりも女のほうがはるかに強い偏見と制裁に曝される。佳乃からあの暴言を浴びせられた時、彼女に怒鳴り返してやりたかったのだ。『あなただって同じ女でしょう』と。「……っ、認めるわけありません」水琴はきゅっと唇を噛み締めた。その瞬間、灼也の目つきがふわりと丸く、柔らかいものに変わった。そうだ、これこそが彼の知る『静沢水琴』だ。「みーちゃん。俺は一度だって、遊び半分で君に近づいたことなんかない。ずっと本気だったんだ」胸の奥が千々に乱れた。どう返していいかわからず、水琴は再び目を伏せて視線から逃げようとする。「こっちを見て」灼也の手が水琴の顎に優しく触れ、強制的に顔を上へと向かせた。水琴は微かにまつ毛を震わせ、その深く熱を帯びた瞳を真正面から受け止めた。「……言い過ぎました」感情に任せて、ひどいことを言ってしまった。たとえ灼也の目的が本当にた
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第190話

「……ごほん。紗音ちゃん……」水琴はいたたまれなくなり、耐えきれずに咳払いをしながら声を出した。電話の向こうで騒いでいた声が、ピタッと止まる。そしてブチッ!と通話が切られた数秒後、今度は水琴のスマートフォンが鳴り出した。「み、水琴お姉ちゃん!もう具合はいいの?あのね、さっきのはただの冗談だから!本気にしちゃダメだからね!?」紗音の恐縮しきった上ずった声に、水琴は思わず吹き出した。「ふふっ……もうだいぶいいわよ。熱も完全に下がったしね」「そっか、よかったぁ……じゃ、じゃあわたし、切るね!」点滴が終わり、粥もすっかり平らげた後、水琴は再び深い眠りに落ちた。次に目を覚ました時、傍らでは灼也が頬杖をついたまま、浅い寝息を立てていた。昨夜の深夜に自分をここまで運び、そこからずっと起きて見守ってくれていたのだ。限界まで疲労が溜まっているに違いない。眠りに落ちたその顔からはいつもの鋭い威圧感が消え、代わりに柔らかな優しさが漂っている。長く濃いまつ毛にそっと指先で触れてみると、羽根のように柔らかかった。そのまま、高い鼻筋をなぞり、頬に触れ、そして――何度も自分の唇を塞いだ、その端正な唇に触れてみる。あの夜、彼が自分の唇に指を沿わせた時から、本当はずっとこうしてやり返してみたかったのだ。突然、その切れ長な目がゆっくりと開かれた。「っ!」慌てて手を引っこ抜こうとしたが、その直前で大きな手にガシリと手首を掴まれてしまう。水琴の心臓が早鐘のように鳴った。「ね、寝ていたんじゃ……?」「眠りが浅くてな」実は、彼女が目を覚ました瞬間から灼也は気づいていた。ただ、彼女が自分に対して何をするのか見てみたくて、寝たふりをしていただけだ。水琴は頬を真っ赤に染めて彼の手から自分の腕を引き抜くと、乱暴に寝返りを打って布団を頭まで被り、再び眠りの世界へと逃げ込んだ。一方、警察署では事態が急変していた。これまで『鷹司雅に教唆された』と頑なに主張していた鳴海志緒が、突然証言を翻したのだ。「すべては静沢水琴に金で買収されてやったことです。彼女に指示されて、鷹司雅を陥れました」雅が事件の黒幕であるという確たる物証はない。灼也が廃工場で録音した証言データを警察に提出しても、鳴海は「高遠灼也に脅されて無理やり言わされただけだ」とシラを切り通した。この急転直下の事
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