All Chapters of 離婚後、捨てられた私は人生の頂点に立つ: Chapter 191 - Chapter 200

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第191章

書斎には息が詰まりそうなほどの重圧感が満ちていた。景正は机に向かい、一心に筆を走らせている。部屋に入ってきた灼也の方を見ようともしない。重い沈黙が続いた後、ようやく一枚の書を仕上げたらしい。景正はゆっくりと筆を置き、口を開いた。「最近は、何に随分とうつつを抜かしておるんだ」「ただの雑務ですよ」「雑務、だと?わしの目には、色恋沙汰にすっかり溺れておるように見えるがな。お前が誰を愛そうと反対はせん。だが、あの女の事情はよくわかっておるのだろうな」景正の顔には、はっきりと憂いの色が浮かんでいた。灼也はふっと自嘲気味に笑い、静かに答えた。「お祖父様。水琴のことは俺が一番よくわかっています。わざわざ他人の又聞きで探りを入れる必要なんてありませんよ」景正は眉を上げ、低く笑い声を上げた。「ほう。なぜ、よそから話を聞かされたとわかった?」「誰かがわざわざ告げ口でもしなければ、いきなり俺を本邸に呼びつけるはずがないでしょう」灼也が軽く肩をすくめると、景正も静かに頷く。「うむ。たしかに、くだらん戯言を吹き込んでくる輩がおってな」灼也はそれ以上深くは追及しなかった。鋭い景正が、その程度の告げ口を真に受けているはずがない。わざわざ重苦しい空気を作って呼び出したのも、単に孫の反応をからかってみたかっただけだろう。「まあいい。恋愛のことにまで口を挟む気はない。自分で決めろ。もう下がってよいぞ」景正はそう言って、軽く手を振った。先日の論文が高く評価され、水琴は『心理学報』と正式に契約を結び、記事が掲載されることになった。この一件は大学内で大きな反響を呼び、学内ネットの掲示板でも大々的に取り上げられ、ちょっとした騒ぎになっていた。一方、南鳥警察署。雅は面会室で苛立ちを募らせていた。兄はいつになったら助け出してくれるのか。首を長くして待っていると、ようやく弁護士が姿を現した。「お待ちしておりました。証人が供述を翻したため、法的に二十四時間以上の拘束はできません。すでに十八時間が経過していますので、すぐに保釈の手続きに入ります。少々時間はかかりますが、それまでは黙秘を貫いてください」雅は大きく頷いた。弁護士の言う意味はよくわかっている。もうすぐここから出られる。そう思うと、自然と顔がにやけた。水琴……あんた、私がこんなにあっさり釈放さ
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第192章

電話の向こうで、臣は深々とため息をついた。「……あの女の娘が、何者かに奪い返された」「これからどうされますか?」「弁護士先生は、一度戻ってくれ……」臣はそう言い捨てて通話を切った。焦燥感で頭が割れそうだった。家に帰れば、母の佳乃が喚き散らしてくるのは目に見えている。かといって帰らなければ、携帯の着信が狂ったように鳴り止まないのだ。だが、それ以上に絶望的な事態が起きていた。高遠家の手がすでに回っている。鷹司グループの株が露骨な空売りの標的にされ始めていた。もはや、盤面は完全に詰んでいる。臣は力なく携帯を放り投げた。A大学、心理相談室。蓮見教授から大きな花束が贈られ、小林学長からも直々に祝辞が述べられた。権威ある学術誌への論文掲載は、A大学の歴史に新たな輝かしい一筆を加える快挙だった。抱えきれないほどの花束を胸に、水琴が大学の正門を出る。そこには親友の鹿耶と七緒も集まっていた。「ミコト!パーッとリゾートホテルに遊びに行こうよ!」鹿耶が数枚のチケットをヒラヒラとさせながら、興奮気味に駆け寄ってきた。水琴はそのリゾート施設に聞き覚えがあった。開業してまだ一年足らずだが、政財界の要人たちの接待などに使われる超高級リゾートだ。鹿耶がずっと前から「どうしても行きたい」と何度も耳元で騒いでいた場所である。水琴が隣に立つ灼也を見上げると、その涼しげな目元で合点がいく。このVIPチケットは間違いなく彼が手配したものだ。水琴が少し躊躇していると、すかさず紗音が腕に抱きついてきた。「水琴お姉ちゃん、遠慮なんてしちゃダメ!これは論文掲載のお祝いなんだからね!」苦笑いする水琴は、そのまま紗音に押し切られるようにして車に乗り込んだ。鹿耶も七緒の車に乗り込み、一行は意気揚々とリゾートへ向けて出発した。案内されたのは、五つの寝室を備えた一棟貸しのプライベートヴィラだった。広い裏庭はプライベートプールに面しており、すでに本格的なバーベキューのセットが組まれている。ホテルのスタッフが次々と豪華な食材を運び込み、たくさんの酒瓶がテーブルに並べられた。鹿耶が手際よくポンポンと栓を抜き、紗音以外の全員の前にボトルをドンッと置いていく。「兄様〜、お願い!今日くらいはわたしも飲みたい!」上目遣いで必死にすがりついてくる紗音に根負けし、灼也はやれやれと溜息
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第193章

すると水琴は、ふにゃりとそのまま灼也の胸に寄りかかり、指先を宙に彷徨わせながら灼也の顔をツンツンと小突いた。「あれぇ?高遠のお偉いひとだー!ねぇ、なんでお鼻がふたつあるのぉ?」不思議そうに灼也の顔を覗き込もうとするが、視点の定まらない瞳はくるくると回っている。ついには完全に脱力して、灼也の腕の中にすっぽりと収まってしまった。そのまま、独り言のように呟く。「……灼也はね、私のことがしゅきなんだよねぇ」「……今、なんて言った?」灼也の声は驚くほど甘く、優しかった。倒れ込む水琴の体をしっかりと腕に抱きとめ、見下ろすその瞳には、隠しきれないほどの深い愛情と熱が溢れている。しかし、いくら問い返しても、水琴はただ「えへへ」と無邪気に笑い声を漏らすだけだった。灼也もそれなりに酒をあおっていたが、水琴のように前後不覚になるほどではなく、思考はまだはっきりとしていた。ホテルスタッフを呼び、すっかり潰れてしまった他にあとの三人をそれぞれの寝室へ運ばせた。時計の針はすでに午前一時を回っている。夜風が肌寒くなってきたため、灼也は水琴をの体を抱きかかえ、そのまま彼女の部屋へと向かった。そっとベッドに横たわらせ、布団をかけてやる。踵を返そうとしたその時、水琴の両手が灼也の指をぎゅっと掴んだ。「行かないで……行かないで……」すがるような声に、灼也はひどく胸を締め付けられた。彼はそのままベッドの縁に腰を下ろした。「ああ。どこにも行かないよ」「灼也……っ、灼也……」水琴は苦しそうに身を捩りながら、切なげに彼の名前を呼ぶ。灼也は乱れた布団を直してやりながら、優しく囁いた。「俺はここにいる。どうした、みーちゃん」「好き……」微かな寝言のような声。灼也はぴたりと動きを止め、彼女の唇のすぐそばまで顔を寄せた。「……今、なんて言った?」耳を澄ますと、水琴の口からこぼれ落ちてくるのは、彼を探す声ばかりだった。「灼也、灼也……っ。灼也、あなたが好き」その瞬間、灼也の頭の中でカッと熱いものが弾けた。瞳に暗い熱情を宿し、水琴の顔を食い入るように見つめる。たまらなくなり、衝動のままに彼女の熱い頬を撫でた。「……それは、本気で言っているのか?」水琴は答えない。枕には柔らかな髪が散らばり、酔いにとろんと潤んだ瞳が妖艶に揺れていた。灼也はギリギリのところで激しい欲求
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第194章

その瞳はどこまでも甘く、部屋にはまだ夜の微かな名残の香りが漂っていた。彼は再びベッドに身を預けた。シーツからは、水琴の甘い匂いが色濃く立ち上ってくる。一方、バスルームに逃げ込んだ水琴の心臓は狂ったように早鐘を打っていた。鏡に映る自分は、みるからに狼狽し、顔中が真っ赤に茹で上がっている。昨夜の記憶を必死にたぐり寄せようとするが、肝心な部分はすっぽりと抜け落ちていた。「どうしよう……」蛇口をひねり、冷たい水で顔をバシャバシャと洗って、どうにか正気を保とうとする。慌てて服を着替えていると、ふと鏡越しに自分の首筋が目に入った。——こちらにも、くっきりと赤い痕がついている!こんな状態で鹿耶や紗音に会ったら絶対突っ込まれる。あの七緒なんて、絶対にからかってくるに決まっている!濡れた前髪が顔に張り付く。今の自分の惨めな姿を見つめながら、いますぐこの場から蒸発したい気分になった。だが、外で待ち構えている灼也の視線から逃れられるはずもない。まったく冷静になれない。顔は卵が焼けそうなほど熱い。自分は、高遠灼也の腕の中で一晩を明かしてしまったのだ。バスルームのドアを開けると、灼也はまだベッドに身を横たえたまま、その熱を帯びた瞳でこちらを見つめていた。目元には楽しげな笑みが浮かんでいる。いたたまれず回れ右をして逃げ出そうとしたが、次の瞬間には細い手首をがっちりと捕まれていた。「……どこへ逃げるつもりだ?」吐息のように甘く、微かにからかうような声。水琴は眉をひそめて振り返った。一体どうするつもりなのか。しかし、彼の深く澄んだブラウンの瞳にまっすぐ見つめられ、動悸がさらに激しくなる。「きのうのことは、ただ酔ってただけ!なにも覚えてないの!だから……あの、全部なかったことにして!」水琴はやけくそになって叫び、彼の指を無理やり振り払って背を向けた。ピンと背筋を伸ばして逃げようとする彼女の背中に、ふと、低く笑う声が届く。水琴はビクッと震え上がったが、意地でも振り返らなかった。「水琴。自分がどれだけ残酷なことを言っているか、わかっているのか」灼也の声は低く沈み、微かに押し殺したような怒りが混じっていた。「わ、私は……っ」「こっちを見なさい。何があったかわかっているくせに、そんなふうに誤魔化すのは許さない」水琴は背中を強張らせた。本気で
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第195章

雅の判決が下される直前、弁護士からある診断書が提出された。そこには「重度の被害妄想および双極性障害」と記されていた。これにより、本来下されるはずだった実刑判決は回避され、彼女は精神隔離病棟への強制入院と監視下の治療を命じられることになった。判決後、水琴は留置所にいる志緒と面会した。「……こんなにあっさり終わるなんて、最初からわかってたよ」志緒は自嘲気味に笑った。水琴は静かに首を振る。「私たちは、できる限りのことはすべてやりました。それに、精神病院に入れられたということは、今後ずっと『精神異常者』として生き、強制的な治療を受け続けなければならないということです。自由を奪われる彼女にとっては、刑務所よりもよほど残酷な地獄かもしれませんよ」「……静沢さん。私の娘は、無事にばあちゃんのところに送り届けてくれた?」志緒は切羽詰まったような表情で身を乗り出した。「ええ、無事に送り届けました。刑期中の態度次第では執行猶予がつくかもしれません。娘さんのことは私が気にかけておきますから、何かあったら遠慮なく言ってくださいね」「静沢さん……本当に、ありがとうっ……!」志緒はボロボロと涙をこぼし、深く頭を下げた。市立精神病院。パトカーが雅を病院の玄関先に送り届けた時、すでにそこには黒のマイバッハが一台停車していた。臣が院長室へと足を踏み入れる。30分後。院長は満面の笑みで臣を部屋の外まで見送った。一方、警官に連行された雅は、待機していた医師に引き継がれ、そのまま院長室へと案内された。「当院の専属スタッフが24時間体制で彼女を厳重に管理いたします。ご安心ください」院長のその念押しと誓約を聞き届けると、警察官たちは任務を終えて引き上げていった。彼らの姿が見えなくなった途端、雅はホッと息をつき、ふんぞり返るようにしてソファに腰を下ろした。「ねえ院長先生。私のお兄様は?もう全部お金で話はつけてあるんでしょ?迎えに来てないの?」警察署で、お抱えの弁護士から「すべて手筈は整っている。大人しく従え。後は手引きする者が裏口から逃がす」と聞いていたのだ。だがその時、部屋の奥の暗がりから、ひどく冷え切った顔をした臣が姿を現した。「お兄様!やっぱり私を見捨てたりしないって信じてた!」雅が歓喜の声を上げ、臣の胸に飛び込もうと駆け寄った瞬間――乾いた破裂
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第196章

「本日は、こちらの病院に最新の医療設備を寄付する件で参りましてね」灼也は涼しげな笑みを浮かべ、その視線を臣へと移した。「おや、鷹司社長もいらしていたとは。妹君を『連れ帰り』に来られたのですか?それとも、ただの『面会』ですか?」痛いところを突かれ、臣は屈辱に目を伏せて答えた。「……妹の様子を見に、面会に来ただけだ」公には強制入院となっている以上、ここで連れ帰ると言えば脱走の幇助になってしまう。「では、面会は済んだのかな?」灼也は淡々と言い放つ。臣はギリッと奥歯を噛み締めた。「……ああ、済んだ。高遠さんは、実に素晴らしいタイミングで来られる」「用が済んだのなら、早く帰ることだ」灼也は冷ややかな目で院長を一瞥した。院長は即座にその意図を察し、大声で告げた。「鷹司社長。妹さんのことは、当院が『責任を持って』お預かりいたしますので、どうぞご安心してお引き取りください!」灼也の背後に控える男たちの身なりや空気感から、臣は彼らが法務や監査のプロであることを悟った。もしここで強引な真似をして彼らに目をつけられれば、今後雅を国外に逃がす計画すら完全に絶たれてしまう。一旦引くしかない。臣は雅に向かって目で合図を送ったが、肝心の妹の視線は別のところで釘付けになっていた。雅は、灼也の姿を見た瞬間から顔を赤らめ、うっとりとしていた。圧倒的な美貌と、最高峰の権力。彼女はこれまで何度も、もし自分が彼と結ばれたら……と妄想を膨らませていたのだ。その想いが抑えきれなかったのか、雅はフラフラと灼也のそばへと歩み寄った。「あ、あの……灼也様。私……」「院長。少し込み入った話がある。彼女を早く『病室』へ連れて行きたまえ」灼也の声は一切の感情を排した、氷のように冷たいものだった。その場に凍りついた雅を、院長の合図を受けた職員二人が両脇から素早く抱え上げる。だが、雅は意地になって職員の手を振り解いた。「灼也様!まさか、水琴のやつが私の悪口でも吹き込んだんですか!?あの女は根っからの嘘つきなんです。あんな女の言うこと、どうか信じないでください!」灼也はゆっくりと視線を上げ、雅を射抜いた。院長室の空気が一瞬にして凍てつくような殺気に包まれる。彼は膝の上で、苛立たしげにトントンと指先を叩いた。それでも空気を読めない雅は、命知らずにも言葉を重ねる。「わ、私ずっと灼也
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第197章

すっかり怯え切っていた雅に向かって、ある患者は目をぎょろつかせて「お前は新入りの馬か?俺は白馬だけど、お前の品種はなんだ?」と話しかけてきた。かと思えば、別の患者からは「あんたの後ろ、誰かがおんぶしてるよ」と囁かれ、全身から冷や汗が噴き出した。隔離病室に入ってからも安息はなかった。壁の向こうからは昼夜を問わず唸り声や叫び声が響き渡り、耳を塞いでも神経がすり減っていく。「私は精神病なんかじゃない!まともなのよ!」何度も医師や看護師に訴えかけたが、まるで効果はなかった。カルテにはハッキリと「双極性障害」および「重度の被害妄想」と記載されている。医療スタッフにとっては、日常的に対応している『狂った患者の典型的なセリフ』に過ぎないのだ。入院初日の夜、激昂した雅が看護師に掴みかかって怪我をさせたため、彼女は容赦なく拘束衣を着せられた。両手は不自然な形で固定され、自由に動かすことすらできない。生まれてこの方、何不自由なく温室で育ってきた令嬢にとって、それは経験したことのない地獄の苦痛だった。どうして……?お兄様が、もう裏で手を回してくれてるはずなのに、なんでこんな目に合わなきゃいけないの!?投与される薬だけではない。出される食事も、彼女の口には到底合わない粗末で味気ないものだった。昼時、食堂に連れてこられた雅は、怒りのままに自分のプラスチック製トレーを勢いよくひっくり返した。白米とどろどろのおかずがドシャッと床に散乱する。見かねて片付けにきた清掃員を、彼女は肩で乱暴に突き飛ばした。そこへ、薬のカップを手にした主治医が苛立たしげな表情で歩み寄ってきた。「鷹司さん。また癇癪ですか」「そんなんじゃないわよ!見なさいよ、こんなの人間が食べるエサじゃないわ!」医師は床に散らばった食事を一瞥した。病院の食事は、新鮮な食材を使った栄養士の計算したメニューだ。肉もしっかり入っている。だが、高級レストランの豪勢な料理ばかり口にしてきた雅からすれば、これは耐え難い「普通すぎる食事」だった。「鷹司さん。私たち医師やスタッフも、あなたと同じこの食事を摂っているんですよ」「とにかく退院させて!私は頭なんておかしくない!」雅はヒステリックに金切り声を上げた。その甲高い叫び声が引き金となった。食事中だった他の患者たちが次々とパニックを起こし、耳を塞
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第198章

雅が病院でどれほど悲惨な目に遭っているか、水琴はすでに大まかな報告を受けて知っていた。臣が密かに高額な賄賂を渡して妹を特別扱いさせようと動いているのに対し、灼也もまた裏から強力な圧力をかけ、「彼女を他の患者と同じ『一般の精神異常者』として厳格に扱うように」と病院側に徹底させていたのである。オフィスで水琴が仕事をしていると、配達員が段ボールの小包を届けにきた。宛名は間違いなく自分になっているが、心当たりがなく、首を傾げながら受け取った。封を開けると、中から一枚の写真が出てきた。それは、昨夜彼女がベッドで無防備に寝落ちしてしまった時の写真。すやすやと眠る彼女の頭に、そっと優しい手が添えられている。明らかに灼也が隠し撮りしたものだ。水琴は顔を真っ赤にして、慌てて写真を机の引き出しに突っ込んだ。そのタイミングを見計らったように、携帯が震え、一件のメッセージが届いた。【届いたかな?】送り主は灼也だ。水琴は少し恥じらいながら返信を打つ。【うん。でも、なんでわざわざ宅配便で送るの?】仕事が終わったら、どうせ会うのに……すぐに返信が来た。【待ちきれなくて】水琴の胸の奥が、じんわりと温かくなった。まるで学生の恋愛みたいだ。少し子供っぽくて、くすぐったくて、でも、たまらなく幸せ。これが……熱愛期ってやつなの?臣との結婚生活は、最初から最後まで彼女一人だけの空虚な一人芝居だった。本当の恋というものがこんなに甘いものだなんて、今まで知らなかった。仕事終わり、約束通り灼也が車で迎えに来た。後部座席に飛び乗った紗音は、二人を包むピンク色のオーラを敏感に察知し、ニヤニヤと笑っている。灼也が助手席の水琴と、後部座席の紗音にそれぞれアイスクリームを手渡した。「わあ!わたしの分もあるんだ!兄様、わたしなんて完全に忘れられてると思ってた!」紗音は口元を覆ってクスクスと笑ったが、その拍子に鼻の頭にアイスのクリームがちょこんと乗ってしまった。マンションに到着すると、気を利かせた紗音は「わたし、先に部屋に戻るねー!」と足早に上の階へ駆け上がっていった。水琴を家まで送り届けた灼也は、そのまま彼女の部屋へと足を踏み入れた。「……鷹司雅の件だが、もう完全に盤石だ。提出された診断書も、念のため専門家にクロスチェックさせたが、カルテ上の細工は見当たらなかった」灼也が低
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第199章

「……君が、傷ついたから」彼の声は、ひどく沈み込んでいた。その時。分厚い真っ黒な雲を引き裂くように、窓の外で強烈な閃光が走った。直後、腹の底を揺らすような轟音が轟く。「っ!」水琴は小さく悲鳴を上げ、反射的に灼也の胸に飛び込んだ。彼女は昔から、雷雨の夜がどうしても苦手だった。灼也は彼女をしっかりと抱きしめ返し、片腕で細い腰を抱き、もう一方の手で震える背中をゆっくりと撫でた。恐怖で顔を伏せていた水琴には、その時、灼也の瞳に「深い罪悪感」と「かすかな焦燥」が過ったことなど、気付く由もなかった。彼の胸元からは、心を落ち着かせるシダーウッドの香りがする。絶対的な安心感に包まれながら、水琴は密かに思っていた。灼也さんはきっと、もっと早く私のそばに来て、私を守ってあげられなかったから、『ごめん』って言ってくれたんだな……翌朝。一晩中降り続いた雨はすっかり蒸発し、眩しい太陽が容赦なく日差しを照りつけている。昨夜の雷雨がまるで幻だったかのようだ。水琴は琥珀色の瞳を開けたが、隣にいるはずの人の気配はない。シーツに触れてみても冷たく、ずいぶん前に起きたことがうかがえた。身支度を整えてベッドルームを出ると、ダイニングテーブルには朝食が綺麗に用意されており、一枚のメモが添えられていた。【おはよう。仕事に行ってくる】文字の下には、小さなハートマークが描かれている。水琴は思わず吹き出した。あの高遠灼也が、こんな可愛らしいものを描くなんて。水琴はその小さなハートをスマホで撮り、SNSのタイムラインに投稿した。真っ先に「いいね」を押してきたのは紗音で、すぐにコメントもついた。【水琴お姉ちゃん、これ誰が描いたか知ってるよ!】そこに鹿耶が即座に食いつく。【紗音ちゃん!誰なの!私の予想してるあの人?】【鹿耶お姉ちゃんの予想してる人って誰?】【紗音ちゃんの思ってる人と同じだよ!】そこへ七緒も乱入し、鹿耶に突っ込みを入れた。【あんたたち、早口言葉でもやってるんスか?】鹿耶と紗音が同時に反撃する。【引っ込んでて、バカ料理人!】朝食を食べながら賑やかなやり取りを眺め、水琴は声を立てて笑った。だが、そこに突然、灼也本人が鹿耶のコメントに返信をしたのだ。【俺だ】それを見た紗音のテンションが爆発する。【兄様!全力で応援する!その調子で頑張っ
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第200章

学生は口を開かなかったが、少しだけ安心したように深く一つ頷いた。退勤の時間になり、また臣から着信があった。水琴は画面を一瞥しただけで、容赦なく通話切断ボタンを押す。大学を出て帰路についた。今日は紗音と灼也が揃って例のオークションに出向いているため、迎えは来ない。もっとも、大学からマンションまでは歩いても大した距離ではないので、良い気分転換になる。ところが、マンションのエントランスが見えてきたその時、一台の車が水琴の目の前に急停車した。ウィンドーが下り、運転席から焦燥しきった顔が覗く。思いがけない人物――紗夜だった。「静沢さん!宗一郎様が倒れられたの!」水琴はハッと息を呑んだ。「えっ……!?」「いいから早く乗って!」躊躇する暇などなかった。水琴は急いでドアを開け、紗夜の車に飛び乗る。先ほど臣からしつこくかかってきていた着信は、きっとこの知らせだったのだ。単なる嫌がらせだと思って取り合わなかったことを、水琴は心の中で悔やんだ。病院に到着すると、病室の前に臣がもたれかかっていた。看護師たちが慌ただしく出入りし、鷹司宗一郎(たかつかさ そういちろう)の処置に当たっているようだ。「宗一郎様、どうしたの?」水琴は小さく眉をひそめ、足早に臣へと歩み寄った。臣の顔には濃い疲労の色が滲んでいた。水琴と視線が合うと、気まずそうにふっと目を逸らす。「俺にも……よく分からないんだ。執事から連絡があって、ただ倒れたとだけ」そのやり取りを横目で見ながら、紗夜はギュッと拳を握りしめた。嫉妬で胸が焼け焦げそうだったが、今ここで取り乱すわけにはいかない。紗夜には、果たすべきもっと重要な計画があったからだ。やがて病室から担当の看護師が出てきて、容態が落ち着き、意識も戻ったことを告げた。それを聞くや否や、臣と水琴は病室へと足を踏み入れた。ベッドに横たわる宗一郎は、シーツのように顔面が蒼白だった。紗夜も無言のまま、二人の後ろについて中へ入る。水琴と臣がベッドの脇に身をかがめる一方で、紗夜はどこか居心地の悪さを抱えたまま、少し離れた位置に立つしかなかった。宗一郎は水琴の姿を認めると、小刻みに震える皺だらけの手を伸ばしてきた。水琴はそれを避けることなく、その手をそっと握り返す。「宗一郎様、どこか苦しいところはありませんか? またちゃんとご飯を食べてな
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