All Chapters of 離婚後、捨てられた私は人生の頂点に立つ: Chapter 261 - Chapter 270

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第261話

「……紗夜がやるはずがない。確かにあの動画を撮ったのは雅だと認めるが、今朝問い詰めた時、あいつは絶対に自分じゃないと言っていたんだ」臣が苦しい弁解を口にする。重人は心底呆れたように吐き捨てた。「この件にケリをつけない限り、俺はお前を絶対に許さない。せいぜい家に帰って、お前のその『素晴らしい奥様』を問い詰めてみるんだな」それだけ言い残し、重人は荒々しく社長室を後にした。手にした資料の束をどうすることもできず、臣は大きく印字されたIPアドレスをただ忌々しげに睨みつけていた。結局、彼はそのまま資料を持って家へと引き返した。リビングでは、ちょうど雅たちがショッピングに出かけようとしているところだった。「お兄様?どうして戻ってきたの?」雅が不思議そうに目を丸くする。だが臣は妹を完全に無視し、真っ直ぐに紗夜を見据えた。紗夜は露骨に視線を逸らし、引きつった笑いを浮かべる。「臣さん、会社に行かなかったの……?」臣は口元に冷たい笑みを刻み、じりじりと紗夜へと歩み寄った。彼女も怯えたように、一歩、また一歩と後ずさりする。「臣さん、何を……?」紗夜は緊張で顔をこわばらせ、背中に回した手をきつく握りしめていた。臣が紗夜の鼻先まで迫ったその時、佳乃が二人の間に割って入った。「臣、何をしているの!紗夜さんはあなたの妻なのよ!」「母さん!紗夜が何をやらかしたか分かっているのか?今ネットで騒ぎになっているあの記事、アップしたのはこいつだ!」臣は鷹のように鋭い眼光で紗夜を射抜いた。紗夜は浅く息を呑み、必死に目を泳がせる。「何の話か全然分からないわ!臣さん、私、本当に何も知らない。私じゃないわ!」「お前じゃないだと?」臣は目を細め、手にしていた資料の束を彼女の目の前に突きつけた。「この発信元のIPアドレスはうちの家だ。おまけに、この資料には使われたスマホの機種までハッキリと明記されている。この家でその機種を使っているのは、お前だけだろうが」紗夜は胸元のバッグをすがるように強く抱きしめた。「わ、私……そんなこと……」見かねた雅が勢いよく前に進み出る。「ちょっと、お兄様!いくらなんでも、水琴はもう部外者じゃない。どうしてまた他人のために、紗夜さんをそんな風に問い詰めるのよ?それに、あの記事に書いてあることは嘘じゃないわ!紗音の頭がおかしくなったのも、
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第262話

一方、ネット上の騒ぎなど、水琴にとっては関心を向ける気にもなれないことだった。悪意ある流言飛語が飛び交った翌朝。目を覚ました水琴は、下腹部に走る鋭い痛みに顔を歪め、のろのろとベッドから這い出した。激しい痛みに耐えながら服を着替え、靴を履き終える頃には、紗音もすでに目を覚ましていた。この独特の重い痛みには覚えがある。考えるまでもなく、生理が始まったのだ。こんな時ほど、かつて灼也が自分にしてくれたあれこれを思い出してしまう。わざわざ病院へ連れて行ってくれたり、付きっきりで温かい薬を用意してくれたり……確か前回の時も、彼がずっとそばで優しく看病してくれた。人の心とは本当に厄介なものだ。もう彼のことは綺麗さっぱり忘れられたと思った矢先、こうした身体の感覚や些細なきっかけで、封じ込めたはずの甘い記憶がいとも簡単に引きずり出されてしまうのだから。水琴は紗音に付き添われながら、実家からほど近い場所にある病院へと向かった。院内はツンとした消毒液の匂いが充満している。今の水琴の鼻先を優しく撫でるような、あの清涼なシダーウッドの香りは、もうどこにもない。どうして灼也は突然あんな風に変わってしまったのだろう。いや、突然ではないのかもしれない。ただ、ずっと海外にいた琉里が帰国したから、本来の相手の隣に戻っただけのこと……だとしたら、これまで二人で積み上げてきたあの甘い時間は、すべてただの幻だったのだろうか。シャボン玉のように、指で触れた瞬間にパチンと弾けて消えてしまうような……もう一度だけ彼に問いただしたかった。けれど、その機会すら与えられなかった。「別れよう」という言葉すらかわしていない。今の私たちは、一体何なのだろう。恋人なのか、それともただの「顔見知りの他人」なのか。考えを巡らせているうちに、いつの間にか診察室に呼ばれていた。担当したのは前回と同じ医師だった。彼はカルテに目を落とし、不思議そうに首を傾げる。「前回、ホルモンバランスを整える薬を多めに出したのに、全部飲みきりましたか?きちんと服用を続けていれば、今回はここまで酷い痛みは出ないはずなんですがね」水琴は力なく苦笑し、首を横に振った。途中で飲むのをやめてしまったのだ。あの薬の束は、今も自分が借りているマンションに置いたままになっている。「いいですか、こういう薬は体質改
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第263話

水琴は虚ろな目で、近づいてくるその姿を見つめた。どうして、彼女までここにいるのだろう。「……琉里さん。あなたも、いらしてたんですね」顔に貼り付けたような乾いた笑いしか出てこない。琉里は微笑みながら灼也の隣に並び、これ見よがしに彼の腕にそっと手を添えた。「灼也に付き添ってもらったの。水琴さんは、どこかお加減でも悪いの?」水琴は自分の薬袋を少し持ち上げてみせた。「ええ、少し……」すると琉里は、自身の手にある薬袋を掲げて嬉しそうに笑った。「あら?私たち、同じ薬を処方されたみたい。水琴さんとは本当にご縁があるわね。タイミングまで一緒だなんて」水琴は頭の中が真っ白になった。そうか。灼也が持っていたあの薬袋は、琉里のものだったのだ。彼は、琉里の付き添いでこの病院に来ていたのだ。「……それは、奇遇ですね」水琴の口から、掠れた声が漏れる。もはや灼也の表情を窺う気力さえ残っていなかった。琉里の視線を浴びながら、水琴はただ押し黙るしかなかった。本来なら、私こそが灼也の恋人のはずなのに。今の状況はまるで、愛人が本妻に現場を取り押さえられたかのような、ひどく惨めで気まずいものだった。「紗音ちゃんの具合はどう?水琴さん、ネットの噂は私も見たわ。あんなの全部デタラメだって、私には分かってるから」琉里が優しげな声で気遣いを見せる。水琴はわずかに頷いた。「……少しずつ快方に向かっていますが、まだ目立った変化はありません」当の紗音は水琴の背中にぴったりと張り付いたまま、まるで全くの知らない他人を見るかのように、怯えた目つきで灼也と琉里を覗き込んでいた。「そうだわ、水琴さん。この前、一緒にお食事でもって話したでしょう?思い立ったが吉日だし、今日なんてどうかしら?ねえ、灼也?」琉里は恋人のように親しげな様子で、灼也の腕を軽く揺すった。灼也は水琴へ視線を向けた。「……行きたいか?」水琴は一瞬呆然とし、返答に詰まった。彼の言葉の真意が読めない。その瞳には微塵の笑みも浮かんでおらず、冷え切っていた。――暗に「断れ」とでも言っているのだろうか?もちろん、最初から行く気などなかった。「……琉里さん、私はこの後用事がありますので、ご遠慮させていただきます。それに、体調も優れませんので」水琴は手元の薬袋を軽く掲げ、そもそも自分が病院に来ていた患者であ
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第264話

琉里は小走りで彼の後を追った。「待ってよ、灼也。お祖父様も、景正様も、私のことをちゃんと頼むってあなたに言ったはずよ。もし私を冷たくあしらったりしたら、お祖父様たちに言いつけちゃうんだから!」灼也は瞳の奥で燃え盛る怒りを必死に押し殺しながら、それでも歩調をわずかに緩めた。一方、鷹司家。動画流出の一件が臣に露見して以来、彼は紗夜を完全に「いないもの」として扱うようになっていた。書斎で仕事をする臣にコーヒーを運んでも、彼は一瞥すらくれない。そんな極限の冷遇がたった二日続いただけで、紗夜は息が詰まるような重圧に耐えきれなくなっていた。いっそこの家を出ていこうかとさえ思い詰めた末、ついに感情が爆発した。「臣さん、私にどうしろって言うの!?まだ水琴さんのことが忘れられないの!?あの記事なら、もう私が自分で削除したわ!」泣き叫ぶ紗夜に、臣は冷ややかな視線を向け、すぐにまた目を逸らした。「削除すればそれで済むとでも思っているのか?あいつが受けたダメージはどうなる」その言葉に、紗夜はよろめきそうになるのを必死に堪え、信じられないという目で夫を睨みつけた。「だから何!?私にあの女のところへ行って、土下座でもしろって言うの!?臣さん、本気で私に謝らせるつもり!?」「それが筋だろうが」臣が淡々と問い返す。紗夜は涙を流しながら、ふつふつと湧き上がる怒りで引きつった笑いをこぼした。「私はあなたの妻なのよ!?妻に向かってそんな態度をとるなんて……昔は絶対にこんなことしなかったのに!私はただ、正当な疑問を投げかけただけじゃない。どうしてそこまで……」ダンッ!臣は立ち上がり、ノートパソコンを勢いよく閉じた。「正当な疑問だと?じゃあ、今までお前がネットで散々流してきたデマや誹謗中傷も『正当な疑問』だと言うのか?俺がどうしてお前を冷遇しているか、一番よく分かっているのはお前自身のはずだ。お前が何度も何度もあいつを陥れようとしなければ、俺だって昔と同じように接していたさ!」紗夜は顔を真っ赤にして口を噤んだ。激昂する夫の姿に、本能的な恐怖を覚えたのだ。この二日間、彼女がどんなにすり寄っても、どんなに機嫌をとろうとしても、彼はまるで壁に向かって話しているかのように完全に無視を貫いた。すべては、あの忌々しい女のためだ。……臣さんがどうしても謝れって言うなら、
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第265話

「消えて。二度と私の前に姿を見せないで。次にまとわりついてきたら、その時はまた引っ叩くから」水琴は氷のような声で言い放ち、紗夜を一瞥してそのまま去っていった。紗夜は腫れ上がった頬を押さえながらゆっくりと立ち上がり、すぐさま車を飛ばして鷹司の会社へと向かった。社長室に駆け込むなり、彼女は泣き出しそうな顔で臣を見つめた。「臣さん……私、水琴さんに謝りに行ってきたの」そう言って、おずおずと頬から手を離す。そこには、赤く腫れ上がったくっきりとした手形の痕が残っていた。臣はその頬を一瞥し、眉をひそめた。「顔、どうしたんだ」「み、水琴さんに叩かれたの……彼女、よっぽど怒っていたみたいで……」紗夜は可哀想な被害者を演じ、夫からの同情と慰めを期待して潤んだ瞳を向けた。しかし、臣の反応は予想とはまったく違うものだった。彼は冷ややかな目でその顔を一度見ただけで、すぐに視線を逸らし、デスクのパソコンに向き直ってしまったのだ。今、彼の頭の中は別のことで占められていた。重人がすでに実力行使に出たからだ。先ほど入った報告によれば、鷹司がようやく漕ぎ着けたはずの取引先に、静沢グループが露骨な接触を図り始めているという。「……もう帰れ。俺は忙しいんだ」冷徹な声で追い払われ、紗夜の心は絶望で凍りついた。刃物で抉られたような痛みが、胸の奥底へと突き刺さる。水琴は御堂院一慧と何度か意見を交換し、彼のアドバイスを取り入れて紗音の治療方針を見直した。その効果は上々で、今では睡眠薬や催眠療法に頼らずとも、紗音は自然に眠りにつけるようになっていた。ただ、依然として見知らぬ他人に接触することはできず、水琴のそばを離れられない状態は続いている。そんな折、南鳥市を揺るがす大きなニュースが飛び込んできた。高遠グループの総帥である高遠景正――灼也の祖父が倒れ、入院したというのだ。ニュースを見た水琴の脳裏に、かつて高遠家のパーティーで見かけた、あの白髪の厳格な老人の姿がよぎった。景正の入院後、灼也は三日三晩、病院に泊まり込みで付き添っていた。そしてそこには、当然のように琉里の姿もあった。「……例の件、調査はどうなっている?」病室を離れた廊下の片隅で、灼也は眉をひそめてアシスタントに尋ねた。遠峰財閥がなぜ、高遠グループと音羽家の両方と同時にビジネス協定を結んだの
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第266話

高遠家の本邸は、主の帰還を祝うように華やかな活気に満ちていた。高遠家の面々だけでなく、音羽家の総帥である音羽源蔵までが祝いに駆けつけていたのだ。重厚なアンティークの長テーブルを囲んでの夕食会。上座には景正が座り、そのすぐ隣に源蔵、さらにその隣に琉里が座った。灼也は景正の右側に配置されていた。「琉里、こっちへ来なさい。ワシの隣に座るんだ」景正が突然、灼也が座っている席を指差して強い口調で言った。琉里は少し申し訳なさそうに、それでも嬉しげな笑みを浮かべて灼也と席を替わった。「景正様、無事の退院おめでとうございます。私から一杯、お祝いさせてください。景正様はお茶を、私はお酒でいただきますね」琉里はグラスになみなみと注がれたワインを、一気に飲み干してみせた。「はっはっは!さすがは源蔵の孫娘だ、見事な飲みっぷりじゃないか」景正も上機嫌で茶の入った杯を煽った。和やかに食事が進む中、手元のスマホを見た琉里が不意に立ち上がった。誰かを迎えに行くようだ。やがて彼女がリビングへ連れてきた人物を見て、灼也は目を見張った。怯えたように縮こまっている紗音――そして、その背後にぴったりと付き添う水琴の姿があったのだ。琉里は灼也に向かって、愛らしく微笑んだ。「ねえ灼也、景正様の退院祝いなのに、紗音ちゃんがいないなんて寂しいでしょう?だから私が迎えに行ってきたの。彼女、水琴さんがいないとパニックになっちゃうから、一緒に連れてきちゃった。……勝手なことして、怒った?」確かに、彼自身もここ数日、紗音の顔を見ていなかった。「……いや、怒ってなどいない。細やかな気配りに感謝するよ」灼也は平静を装いながら答えた。だが、その視線は水琴に釘付けになっていた。――なぜ、彼女はここに来ることを承諾したんだ?灼也の瞳に、深い疑念と焦燥の色がよぎった。水琴は紗音を伴い、長テーブルの一番下座にあたる隅の席に腰を下ろした。景正の関心は当然ながら可愛い孫娘の紗音に向いており、水琴に対しては形式的に軽く頷いてみせただけだった。まさか、本当にここに来ることになるなんて……水琴は内心で静かにため息をついた。昨日、琉里から突然この食事会への招待電話を受けた時、水琴は考える間もなく断りを入れた。だが、「景正様が紗音ちゃんにどうしても会いたがっているの」と言われ、心が揺らいでしまったのだ。
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第267話

音羽家にはこの才色兼備の孫娘しかいない。いずれ音羽の莫大な家督を継ぐのは、間違いなく彼女なのだから。水琴は隣で無邪気にスイーツを頬張る紗音の様子を見守りながら、彼女のグラスにジュースを注ぎ足した。景正は久しぶりに顔を見た孫娘を溺愛するあまり、次々と紗音の好物をテーブルに運ばせていた。そしてふと思い出したように、水琴に向かって形式的な感謝の言葉を口にした。「……静沢さん、いつも紗音の世話をしてくれているそうでご苦労様。特にこの前の事件の後、あの子の症状が悪化してからも、根気よく面倒を見てくれていると聞いている。高遠家として心から礼を言おう。手間賃代わりと言っては何だが、後で何か欲しいものがあれば遠慮なく灼也に申し出なさい」その言葉の響きに悪意はない。しかし、明確な線引きがあった。暗に「君は高遠家にとって、ただの雇われの世話係にすぎない」と突きつけられたも同然だった。「……恐縮です」水琴は感情を押し殺し、短く頭を下げた。そんな水琴の様子を、琉里は上座からじっと観察していた。その瞳の奥には、優越感とも取れる得体の知れない光が揺らめいている。彼女は言葉の端々に「高遠家の次期女主人」としての余裕を滲ませながら、わざとらしく水琴に話しかけた。「水琴さん、この前病院でお会いした時はお食事ができなくて残念だったけれど、今日は遠慮せずにたくさん召し上がってね。景正様の退院祝いということで、灼也がわざわざトレジャーホテルのシェフを呼んでくれたの。ほら、前にも水琴さんをトレジャーでの食事に招待したいって言ってたでしょう?今日でその約束も果たせたことになって、ちょうどよかったわ」琉里が花のように笑う。水琴は無言で小さく頷いた。どうりで、さっき食べたブルーシュリンプの味に覚えがあると思った……あれは間違いなく、七緒が作ったものだ。ちょうどその時、七緒本人が自慢げな足取りで、銀色のドーム型カバーが被せられた皿を運んできた。「景正様!これ、オレが最近考案した新作のスペシャリテっス!景正様のために特別に作ったんで、ぜひご賞味ください!」七緒は景正の目の前に皿を置き、ドラマチックにカバーを大げさに開け放った。「さあ、どーぞ!」途端に、食欲をそそる芳醇な香りがダイニング全体にフワリと広がった。あちこちから、客たちが思わず鼻を鳴らして香りを堪能する音が聞こえて
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第268話

見かねた琉里が歩み寄り、優しくなだめる。「紗音ちゃん、お祖父様があちらでお待ちよ。あなたのことをとても心配していらっしゃるから、先にご挨拶に行きましょう?」周囲の大人たちも口々に促したが、紗音は全く応じようとしない。それどころか、水琴の手首に爪が食い込むほどしがみつき、怯えたように首を横に振った。琉里から助けを求めるような視線を向けられ、水琴はゆっくりと紗音の指を解いた。「紗音ちゃん、私はどこにも行かないよ。お祖父様にご挨拶しておいで。重人お兄ちゃんのお家にいた時みたいに、私、お庭をお散歩したらちゃんと戻ってくるから」驚いたことに、その言葉を聞くと紗音はすんなりと手を離した。そして、大人しく琉里の後ろについて二階へと上がっていった。一人で裏庭に出た水琴は、夜風に当たりながら小さく息を吐いた。景正が紗音の件で神経質になるのも無理はない。ネット上であれほど捏造記事が騒ぎになっているのだ。水琴のせいで紗音の病状が悪化したのだと、誰だって疑いたくなるだろう。ましてや高遠家の中でも、景正はもともと水琴に良い印象を抱いていないのだから。月明かりが濃くなる中、水琴は静かに紗音を待っていた。やがて、背後から足音が近づいてきた。振り返った水琴は、ハッと息を呑んだ。灼也だった。二人きりで顔を合わせるなんて、一体いつぶりだろうか。水琴の胸がざわめき、無意識のうちに彼の背後へ視線を泳がせた。これまで何度もあったように、突然あの琉里が現れるのではないかと怯えてしまったのだ。「彼女は来ていないよ」水琴の心中を見透かしたように、灼也が静かに言った。水琴は微かに眉をひそめた。琉里がいないから、私に話しかけられるの?それとも、彼女が来たらあなたは逃げるように去っていくの?「……説明してくれないの?」声が震えているのが自分でも分かった。灼也は暗い瞳を伏せ、水琴の頬に触れようと手を伸ばした。だが、水琴はサッと身を引いてその手を避けた。「答えて」「みーちゃん……今はまだ話せないんだ。どうか、俺を信じてほしい」灼也は水琴を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、かつてのような深く優しい愛情が満ちていた。人前ではまるで冷酷な別人のように振る舞う彼が、久々に見せた本音の色だった。「彼女とは、どういう関係なの?」「……友人だ」「じゃあ、私とは?」
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第269話

「三王教授。よろしくお願いいたしますわ」琉里が声をかける。紗音のカルテと過去の治療データは、あらかじめ彼に渡してあった。三王教授は静かに頷くと、自分の前に座るよう紗音を促した。だが、紗音は部屋に入った瞬間から怯えきっていた。血の気を失った真っ白な顔で自分の足先だけを見つめ、両手をきつく握りしめている。「リラックスして。緊張しなくていいんですよ」三王教授は努めて穏やかな声で語りかけた。紗音は椅子に腰を下ろし、彼の言葉に従ってゆっくりと目を閉じた。だが、その両手は自分の服の裾を強く握りしめたままだ。三王教授が試みたのは催眠療法だった。普段から水琴の治療で慣れていたせいか、紗音はすぐに深い催眠状態に入った。しかし——三王教授が何を問いかけても、紗音は頑なに口を開こうとしなかった。「……ありえないな。こんなケースは今まで見たことがない」三王教授は信じられないといった様子で、手元のカルテをめくった。琉里は冷ややかな目で紗音を見下ろし、目を細めた。「先日、拉致事件に巻き込まれましてね。それからこの状態なのです」まったく、どこまで精神が脆いのかしらと、内心で舌打ちをしながら。自分の専門家としてのプライドを傷つけられた三王教授は、焦りから強引に紗音の潜在意識へ干渉しようと試みた。しかし、彼が「空は赤い」という暗号のキーワードを口にした瞬間、事態は急変した。紗音の発作が起きたのだ。「あああああッ!!」突如として目を見開いた紗音は、両手で頭を抱え、三王教授を指差しながら絶叫した。「いやあああっ!ぁあああ——ッ!!」まるで地獄の責め苦に遭っているかのような、悲痛な叫び声だった。そのただならぬ騒ぎを聞きつけ、景正が慌てて部屋に駆け込んできた。「紗音!どうしたんだ!」景正は孫娘を庇うように抱き寄せ、血相を変えて三王教授を怒鳴りつけた。「お前、一体どんな治療をしたんだ!?」景正は、紗音の発作の恐ろしさを誰よりも知っている。だからこそ、廃人のように泣き叫ぶ孫娘の姿に胸を締め付けられていた。取り巻きの者たちが景正に点数を取り込もうと、こぞって紗音をなだめようと群がる。だが、大勢の大人に囲まれたことで、紗音のパニックはさらに悪化した。紗音はその場にうずくまり、幼い子供のように頭を抱えて泣き叫び続けた。その異様な光景に、景正の顔色に焦
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第270話

三王はムッとして眉をひそめた。「当然だ。私はれっきとした専門家だが?」「紗音ちゃんのような状態の患者に、トラウマの追体験が絶対の禁忌だと知らないのですか?」三王の額に青筋が浮かんだ。「静沢さん、トラウマを抱えた患者に直面療法を用いるのは臨床における一般的な手法です。私には長年の経験と実績がある。大学の相談室で学生を相手にしているだけのあなたには、理解できないかもしれませんがね」彼は鼻で笑うように言い放った。「一般的なトラウマの話などしていません」水琴の唇に、氷のような冷たい笑みが浮かんだ。「紗音ちゃんは今回、二度目の深刻なトラウマ刺激を受けているんです。今の彼女の精神状態を無理やり過去の記憶に引きずり戻す行為は、治療でも何でもない。ただの致命的な『二次加害』です」「私はただ、紗音さんを救いたい一心で治療を試みただけだ。静沢さんにそこまで糾弾される筋合いはない」三王教授は不満げに言い返した。「治療のアプローチは人それぞれだろう。新しい手法を試すことの何が悪い?」「……今は紗音ちゃんが最優先です。あなたのような方と議論している暇はありません」水琴は冷たく言い放ち、彼から視線を切った。水琴を遠ざけ、素性の知れない医者に任せた己の判断がこの惨劇を招いたのだ。景正は怯えきった孫娘の姿に胸を締め付けられ、苦渋に満ちた表情を浮かべていた。水琴の懸命な呼びかけでようやく紗音のパニックは収まったものの、彼女は水琴の腕にすがりついたまま、少しでも離れようとはしない。水琴は紗音の抱擁を受け入れながら、景正へ向き直った。「景正様、紗音ちゃんは落ち着きました。ですが、もう私から離れようとはしないでしょう」「……ああっ、すまない。静沢さん、本当にありがとう」景正は痛ましそうに顔を歪め、心からの礼を口にした。一方、琉里は居心地の悪さに冷や汗をかいていた。景正と灼也の視線が痛い。なにせ、この三王教授を意気揚々と招き入れたのは自分なのだ。まさかこんな大失態を演じるとは思ってもみなかった。この役立たずが……!彼女は心中で三王を激しく睨みつけた。「景正様……灼也、本当に申し訳ありません」琉里はすぐさま殊勝な態度を作り、潤んだ瞳で景正を見つめた。「私が水琴さんを信頼せず、余計な専門家を呼んでしまったばかりに……」この一件で、高遠家からの評価を下げるわけにはい
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