All Chapters of 離婚後、捨てられた私は人生の頂点に立つ: Chapter 281 - Chapter 290

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第281話

あの夜のことは、ひどい泥酔状態だったせいでほとんど覚えていない。しかし、先ほど送られてきた動画のスクリーンショットを見た瞬間、脳裏にフラッシュバックした断片的な記憶が、東の言葉が嘘ではないことを証明していた。確かに、泥酔した雅が自ら彼にすがりついていた。だが、それはアルコールのせいで理性を失っていたからであって、正気でこんな男を選ぶはずがないのに。「いい加減にして!お金はもう渡したじゃない!」床に倒れ込んだ雅を見下ろす東の目には、明らかな劣情が浮かんでいた。その巨大な威圧感に、雅は絶望的な無力感を覚える。じりじりと後ずさりしながらカーペットを掻き毟る指先が痛んだ。「離して……帰してよ!」「帰す?甘いこと言ってんじゃねえぞ!」東は雅の足首を掴み、乱暴に部屋の奥へと引きずり込んだ。雅の頭を激しい後悔が駆け巡った。普段はバーになんて滅多に行かないのに、あの数日間は自暴自棄になって、酒に溺れようとしたばかりにこんな目に遭うなんて!「もし私を傷つけたら、残りの5億は一円たりとも渡さないからね!」雅は半狂乱で叫んだ。「あんたの名前は分かってるのよ!これ以上やったら、ただじゃおかないから!」その脅しに、東の顔に怒りが走った。彼は雅の髪の毛をわしづかみにし、顔を近づけて凄んだ。「ただじゃおかないだと?ほう、どうやって俺に復讐するって?」「お願い……お願いだから見逃して!三日後には絶対に残りのお金を持ってくるから!」雅はボロボロと涙を流して命乞いをした。だが、完全に火がついた男は容赦しなかった。「黙れ、このクソアマが!」その瞬間、雅は大きく息を吸い込み、ポケットに忍ばせていた冷たい金属の塊を取り出すと、東に向かって力任せに突き立てた。——ドクン。鉄の錆びたような匂いと共に、生温かい赤黒い血が雅の顔に飛び散った。雅はハッとして手を離した。目の前の男は、信じられないというように目を見開いている。彼の脇腹には深々とナイフが突き刺さっており、そこからどくどくと鮮血が流れ出していた。「あ、あんたが……あんたが私を追い詰めたんでしょ!」雅はガタガタと震えながら叫んだ。東は怒りに顔を歪め、雅に向かって手を伸ばしてきた。「てめぇ、よくもナイフなんか……!」「黙って!あんたが悪いんじゃない!自業自得
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第282話

とはいえ、高遠家の絶大な権力と情報網を思えば、重人のマンションを特定することなど造作もないことだろう。「景正様……紗音ちゃんの様子を見にいらしたのですか?」水琴が自分に会いに来たわけではないことなど百も承知で尋ねると、景正は返事もせずにずかずかと上がり込んできた。彼の鋭い視線は、真っ直ぐにリビングに置かれた監視モニターへと向かった。カメラは紗音のベッドを的確に捉えている。視点を切り替えるまでもなく、画面の中の紗音は、空虚な瞳でじっと天井を見つめ続けていた。その姿を見た景正の顔に、隠しきれない痛ましさが浮かぶ。「……あの子は、どれくらいあんな風に天井を見つめているんだ?」「三時間になります」水琴は落ち着いた声で答えた。今の紗音は、眠りから覚めると再び眠りにつくか、あるいはただ静かに思考を巡らせるかのどちらかだ。しかし、景正の太い眉が険しく吊り上がった。「部屋の鍵を開けろ。あの子を連れて帰る」有無を言わさぬ、冷え切った命令だった。水琴は静かに唇を噛んだ。景正にここを教え、あることないことを吹き込んだのは、間違いなく琉里だ。彼女は水琴と高遠家の決定的な亀裂を生むために、意図的に景正を煽ったに違いない。「お言葉ですが、私は今、紗音ちゃんに対して『森田療法』を行っています。この絶対臥褥期は治療において極めて重要なプロセスです。残りの期間はあとたったの一日。ここで中途半端に投げ出させるおつもりですか?」水琴は一切怯むことなく、毅然とした態度で言い放った。景正は不快げに水琴を睨みつけた。「静沢さん。あなたの治療法がどういうものかは知らんが、高遠の人間をこんな過激な目に遭わせる必要はどこにもない」「過激、ですか」水琴は小さくため息をつき、静かながらも力強い声で続けた。「景正様は、今の彼女がただぼんやりしている姿を見て、胸を痛めておられるのでしょう。ですが、あなたは最初の二日間、彼女がどれほど苦しみ、精神が崩壊しかけながらも必死に耐え抜いた姿を見てはいません。一番苦しい時期を、紗音ちゃんは自分の力で乗り越えたんです。もし今、あなたが彼女をここから連れ出せば……それは、彼女が血の滲むような思いで重ねた努力を、すべて無駄にすることと同じなんですよ」景正が苛立たしげに手を振ると、背後に控えていた数人の黒服の男たちが
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第283話

雅は一瞬気まずそうに目を泳がせたが、すぐに唇を尖らせて不満を露わにした。「お兄様ったら、妹をそんな風に疑うなんてひどい!私だってやればできるんだから。水琴がデッカー賞で勝ち進んだって聞いて、悔しくなったの。だから海外に行って、本格的に心理学を勉強し直したいなって思っただけ。せっかく私が勉強する気になってるのに、応援してくれないの?」しかし、臣の目は誤魔化されなかった。「勉強したい」などという言葉が妹の口から出ること自体が異常だ。それに、彼女の瞳の奥に隠しきれない恐れが潜んでいるのを、臣は見逃さなかった。「言え。一体何をやらかした?」「何もやってないわよ!もう、どうしてそんな風に決めつけるの?」「俺はお前のことを誰よりも分かっている。本当の理由を言わないなら、留学の手配なんて絶対にしないからな」臣は冷たく言い放った。これほど早く見破られるとは思っていなかった雅は、悔しそうに唇を噛んだ。「お兄様が手伝ってくれないならいいわ。お母様に頼むから。お母様なら絶対に許してくれるはずよ」「お前が理由を話さないなら、俺が母さんを止める。母さんが頷くことはない」「どうして!?ただ勉強したいって言ってるだけじゃない!水琴はデッカー賞に出られるのに、どうして私はダメなの!?」雅は声を荒げた。どうしても、一刻も早く出国しなければならないのだ。東が死んでいるのがいつ見つかるか分からない。もし警察が動いて、少しでも痕跡が残っていたら……臣は妹の無意味な言い訳に付き合う暇はなかった。軽く手を振ると、視線をパソコンの画面に戻した。「話さないならそれでいい。家に帰って大人しくしていろ」「お兄様!」以前、水琴を拉致する事件を主導した上、海外へ逃亡しようとした一件以来、祖父の宗一郎によって雅のパスポートは凍結されている。今、彼女を南鳥市から逃がす力を持っているのは臣だけなのだ。「お願い、助けて!今回は本当に、取り返しのつかないことになっちゃったの……!」雅は目を赤くして、すがるような視線を兄に向けた。「言え」臣の顔がさらに険しくなった。これほどまでに妹がパニックに陥っているということは、過去のトラブルとは比較にならないほどの大事に違いない。雅はギュッと拳を握りしめ、震える声でついに口を開いた。「私……!私、人を殺
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第284話

まさか兄にここまでキッパリと拒絶されるとは思っていなかった雅は、絶望的な気分で社長室を後にした。どうしよう……どうすればいいの?鷹司邸の自室に戻った雅は、まず裏の業者を使って、現場から持ち去った東のスマホのロックを強制解除させた。震える指で画像フォルダを開き、自分を脅迫していたあの忌まわしい動画を探し回る。しかし――無い。いくら隅から隅まで探しても、それらしいデータはどこにも見当たらなかった。焦燥感とともに、一分一秒がジリジリと過ぎていく。夕食を済ませて再び部屋に戻り、もう一度スマホ内のメッセージ履歴を洗おうとした、その時だった。――ジリリリリリッ!突然、静まり返った部屋に無機質な着信音が鳴り響いた。雅はビクッと肩を震わせ、画面に表示された見知らぬ発信元番号を凝視した。出ることなどできるはずがない。やがて着信が切れ、ホッとした直後。ピロン、と一件のメッセージが届いた。恐る恐る画面をタップして開くと、そこには短い脅迫の言葉が記されていた。【お前が何をしたか、全部知ってるぞ。俺は東健太だ】――東健太?そんな馬鹿な。あいつは死んだはずだ。腹を深く刺され、真っ赤な血の海の中で、ゆっくりと目を閉じて動かなくなったあの姿を、この目でハッキリと見たのだから。また一件、メッセージが届いた。【電話に出ろ】数秒後、まるでタイミングを見計らったかのように再び着信音が鳴り響いた。雅は震える指で通話ボタンを押し、恐る恐るスピーカーホンに切り替えた。「……まさか、本気で俺を殺そうとするとはな」電話の向こうから聞こえてきたのは、かすれて弱々しい男の声だった。間違いない、東だ。「だが、言っておくぞ。あの動画のデータが入ったSDカードは、俺が一番信用してるダチに預けてある。もし俺の身に何かあれば、そいつがすぐにネットにばら撒く手はずになってるからな」「卑怯者……!全部あんたの自業自得じゃない!」雅は恐怖をかき消すようにヒステリックに叫んだ。「要求されたお金は渡したし、足りない分は三日後に払うって言ったのに、あんたが無理やり襲いかかってきたから……!自業自得よ!」それだけをまくし立てると、雅は通話を乱暴に切り、そのままスマホの電源を落とした。東の声を聞いて、雅の心の中では安堵と絶望が入り混じっていた。
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第285話

灼也は手に持ったナイフでステーキを小さく切り分けながら、静かに妹の言葉を待った。「兄様は一体どういうつもりなの?水琴お姉ちゃんのこと、大好きだったんじゃないの?それなのに、どうして毎日琉里お姉ちゃんと一緒にいるの?」この数日間、隔離室で完全に心を閉ざしていたとはいえ、断片的な記憶はしっかりと彼女の中に残っていたのだ。「紗音、七緒のことが誰か分かるのか?……後で屋敷に戻って、お祖父様に顔を見せてやりなさい。とても心配しておられたぞ」話を逸らそうとする兄の態度に、紗音はたまらず声を荒げた。「兄様、わたしの話聞いてるの!?」「紗音。大人の事情だ、お前が理解する必要はない」灼也は低い声で言った。だが、今の紗音はそれくらいで引き下がるつもりはなかった。向かいの席にドカッと座り込むと、七緒の方を振り返った。「七緒さん、あなたは奥に下がってて」「あ、はいッス……」ただならぬ空気を察した七緒は、逃げるように厨房へと引っ込んでいった。その場が二人きりになると、紗音は再び口を開いた。「兄様、水琴お姉ちゃんが何か悪いことでもしたの?」「彼女は何もしていない」「じゃあ、どうして別れようとするのよ!」紗音は涙声で問い詰めた。しかし、灼也は静かに首を横に振り、きっぱりと否定した。「別れるとは言っていない。俺は彼女を手放すつもりはない」予想外の答えに紗音は一瞬言葉に詰まったが、すぐに食い下がった。「だったら、どうして他の女の人にカラーダイヤなんて贈るの!?どうして琉里お姉ちゃんとあんなに親しくしてるの?水琴お姉ちゃんが傷つくって思わないの?」灼也の瞳に、深い影が落ちた。「紗音、お前は今、そんなことまで考えなくていい。まだ『そのタイミング』ではないんだ。だが、俺は絶対に水琴と別れたりはしない。それだけは信じろ」紗音は兄の顔をじっと見つめた。いつも自信に満ち溢れていたはずの兄の目には、隠しきれないほどの深い疲労の色が滲んでいた。それを見て、紗音はふと、兄には本当に何か抜き差しならない事情があるのではないかと思えた。だが、一体どんな事情があるというのだろう。紗音は、今の水琴の姿を見るのが辛かった。優しく微笑んでくれてはいても、その瞳にはかつての光がなく、心から笑っていないことなど痛いほど分かっていたから
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第286話

そこは、灼也の『指定席』だった。彼がこのレストランを訪れる可能性がある日は、ホテル側が常にあの席を空けて待機しているのだ。今、あの席は空っぽだ。彼はまだ来ていないらしい。食事が半分ほど進んだ頃、不意に灼也が姿を現した。ウェイターは彼にオーダーを尋ねるような野暮な真似はしない。厨房には七緒が控えており、灼也の好む味付けやその日の体調に合わせたメニューを完璧に把握しているからだ。水琴の視線が、自然とその長身を追う。だが――どうしても、その隣にピタリと寄り添うもう一つの影から目を逸らすことができなかった。音羽琉里だ。彼女はごく自然な仕草で灼也と共に席につき、親しげに笑いかけている。楽しげに言葉を交わす二人の姿は、水琴の目にひどく痛く、眩しく映った。そっとフォークで魚のソテーを口に運ぶ。しかし、噛み締めたはずのそれは、まるで砂でも噛んでいるかのように、まったく何の味もしなかった。出来立ての料理を運んできた七緒は、灼也が琉里を連れているのを見て眉をひそめ、何気なくフロアを見渡した。そして、水琴の姿を捉えた瞬間――大きく目を見開いた。「ゴホンッ。……灼也様、ごゆっくりどうぞぉ」七緒はわざとらしく咳払いをして、妙にトゲのある言い方をした。「ふふっ。七緒さん、今日はなんだか様子が変ね?」琉里が口元を隠して上品に笑う。「いえ、ちょっと喉の調子が悪いだけッス」七緒は慌てて取り繕い、皿を琉里の前にコトリと置いた。「音羽さん、早く熱いうちに食べてくださいね」琉里が料理に目を落としたその一瞬の隙を突いて、七緒は灼也をキッと睨みつけた。このドクズが!水琴さんがすぐそこに来てるんスよ!七緒は必死に顔をしかめ、目で水琴のいる方向へ合図を送った。そのただならぬ気配に気づき、ついに灼也が後ろを振り返る。それを見届けた七緒は、あとは知らねーッス!気まずすぎ!と心の中で叫びながら、脱兎のごとく厨房へ逃げ帰っていった。水琴は、彼が突然こちらを振り返るとは思っていなかった。レストランのフロアは満席で、客たちの楽しげなざわめきが響いていたはずなのに、彼女の耳には何も聞こえなくなった。視線の先にある、いつもは優しさを湛えているはずの彼の瞳が、今は戸惑いと驚きの色に染まっている。ただ目が合っただけ。それだけなのに
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第287話

こんな地獄のようなテーブルを囲む日が来るなんて、夢にも思わなかった。ましてや、灼也とこんな風に向き合うことになるとは。琉里は「これ美味しいわよ」と灼也の皿に自分の料理を取り分けたり、水琴には分からない二人の間の身内話で親しげに笑い合ったりしている。次々と押し寄せるいたたまれなさに、水琴は逃げるようにティーカップに口をつけた。トレジャーホテルの上質な紅茶の香りが、今はひどく鼻につく。一方、水琴が同席した途端、七緒が料理を運んでくるスピードが異常に早くなった。彼は無言で皿を置くや否や、嵐から逃げるように厨房へ引っ込んでしまう。「ねえ、水琴さん。紗音ちゃんの状態って、まだこれからも治療を続ける必要があるの?」琉里がふと尋ねてきた。「今は一時的に病状が安定しているに過ぎません。まだ完治したとは言えない状態です。もし再び強い刺激を受ければ、発作が再発する可能性も十分にあります。心の病は身体の病と違って、完全に根絶するのは難しいんです」水琴は心理士として淡々と答えた。「そう」琉里はティーカップを優雅に持ち上げた。「それじゃあ、引き続きよろしくお願いするわね」一口飲んでカップをソーサーに戻すと、今度は灼也の方を向いて甘えるように言った。「もう、灼也ったら。ずっとそんな難しい顔してないでよ。水琴さんが怖がっちゃうじゃない」どうしてだろう。水琴の胸が、チクリと痛んだ。次の瞬間、水琴は思わず口を開いていた。「琉里さんは、ご存じないんですか?」「私と高遠さんの関係です。以前、ニュースでもあんなに大騒ぎになっていたので当然耳に入っているかと思っていましたが……どうやら、彼からは何も聞かされていないようですね」琉里の口元の笑みがほんの少しだけ硬直した。彼女は横目で灼也を一瞥してから、再び水琴を見た。「ええ、本当に知らなかったわ。灼也からは、ただの『普通のお友達』だって聞いてるけど?」水琴は信じられないというように灼也を見つめた。「……へえ?彼は、あなたにそう言ったんですか」「そうよ。それじゃあ、水琴さんから答え合わせをしてもらおうかしら?まさか、お友達以外の関係だったとでも言うの?」琉里は探るような目を水琴に向けた。微笑んではいるものの、その瞳の奥には氷のような冷たさが張り付いている。水琴は静かにフォーク
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第288話

「水琴……」灼也は全身から血の気が引き、足が一歩も動かなくなった。水琴は、自分がどうやってその場を離れたのか、よく覚えていなかった。ただ、絶対に振り返ることだけはすまいと、必死に前だけを見て歩き続けた。鷹司邸、自室。雅は恐怖のあまり顔面を土気色にして、ガタガタと震えていた。手元のスマートフォンが、絶え間なく着信を知らせている。東健太からの着信を拒否しても、すぐにまた鳴り出す。耐えきれずに電源を落とした途端、今度は部屋の固定電話がけたたましく鳴り響いた。このままでは家の者に聞かれてしまう――雅は弾かれたように受話器を掴み取った。「いったい私にどうしろって言うのよ!?もう放っておいて!」「いいぜ。だったら、今夜のニュースを楽しみにしてるんだな」電話の向こうから聞こえる声は、完全に主導権を握った余裕を含んでいた。「やめて!絶対に出さないで!」雅は極限まで神経をすり減らし、受話器を握る手にギリッと力を込める。「あの動画をネットに流されたくなかったら、霧島ホテルへ来い。時間は三十分だ。もし三十分待って姿を見せなかったら、動画はそのまま各メディアへ一斉送信するからな」東はそれだけ言い捨てて、一方的に電話を切った。雅はパニックに陥り、身震いが止まらなかった。どうすればいいのか分からない。だが、東がハッタリを言っているのではないことだけは確信していた。真っ暗になったスマホの画面を見つめた後、彼女はハッと我に返り、ベッドから飛び起きると狂ったように部屋を飛び出した。霧島ホテルに到着した雅は、指定された部屋へ向かい、息を呑んだ。東が泊まっていたのは、なんと『あの時』と同じ部屋だったのだ。無意識のうちに室内を見回してしまう。だが、床に広がっていたはずの生々しい血だまりは綺麗に消え失せており、あの惨劇が自分の頭の中だけで起きた幻だったのではないかと錯覚しそうになる。「あ、東……」雅が震える声で名前を呼ぶと、東がじりじりと距離を詰めてきた。そして、彼女の手から強引にスマホを奪い取る。「このクソアマが!」次の瞬間、彼が振り上げた腕が勢いよく振り下ろされた。パァンッ、と乾いた音が響き、強烈な平手打ちを食らった雅の顔が弾かれたように横を向く。「この前はよくもナイフで刺してくれたな!俺はもう少しであの世行
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第289話

声の出所は、すぐ脇の植え込みのようだ。水琴はわずかに眉をひそめ、用心深くそちらへ近づいていく。まさか、誰かがこんなところに赤ん坊を捨てていったのだろうか?植え込みに近づくにつれ、泣き声はますます大きくなる。そして、茂みの奥を覗き込んだ瞬間――水琴の瞳孔が限界まで見開かれた。そこに赤ん坊などいない。置かれていたのは、泣き声をエンドレスで流し続けるボイスレコーダーだった。罠だ、と気づいた時には遅かった。背後にぞくりとした気配を感じた直後、後頭部に凄まじい衝撃が走り――水琴の意識は、暗闇の底へと真っ逆さまに落ちていった。再び意識を取り戻したとき、水琴は自分が縛り上げられていることに気がついた。周囲は暗闇に包まれており、ひどくカビ臭い空気が漂っている。後頭部には未だに割れるような痛みが走っていた。もしかすると殴られた拍子に出血しているかもしれない。――また拉致されたの?いったい誰に?その時、突如として眩い照明が点灯し、水琴は思わず目を閉じた。背後から、傲慢で狂気じみた笑い声が聞こえてくる。「水琴、このビッチ!」間違いない……雅の声だ。「雅、あなたが私を攫ったの?」と水琴は鋭く問い詰めた。ふふっ、と鼻で笑う音が響く。「今回は本当に運が悪かったわね。でも安心して、あなたの従兄と灼也様が身代金を持ってくれば、解放してあげるから」雅の言葉を右から左へ受け流しながら、水琴は冷静に周囲の状況を観察していた。ここには何もない。使われなくなった廃屋のようだ。半ば腐りかけたテーブルがあり、自分が縛り付けられている椅子からでさえ、湿気を含んだカビの臭いが立ち上っている。「こんな状況で、まだ私を無視する気!?本当に図々しくて人を舐め腐った女ね。あいつらも、どうしてあんたの本性に気づかないのかしら!本当に残念だわ!」と雅がヒステリックに喚き散らす。ギィィ……と、古い木製の扉が軋む音がした。下卑た笑みを浮かべた男が一人、部屋に入ってくる。「へえ、ずいぶんと上玉じゃねえか。お前が俺にこの女を攫わせたのは、金のためだけじゃないんだろ?」と、東がニヤニヤしながら言った。雅は水琴の顎を乱暴に持ち上げ、底意地の悪い笑みを浮かべた。「この顔を見てよ。男をたぶらかすことしか頭にない泥棒猫よ。金さえ手に入れば、あとは好きにしていいわ」
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第290話

水琴は低く冷ややかな声で告げた。「ただし、一つ条件があるわ。私はこの女の顔を見るだけで吐き気がするの。だから、彼女の惨めな姿を動画に撮ってちょうだい。そうすれば10億を支払う。嫌なら、私を殺せばいいわ」「東、この女を見つけてやったのは誰か、忘れないでよ!」雅はヒステリックに叫んだ。だが、水琴は雅の存在など完全に無視し、言葉を続ける。「どう?10億で一つの動画を買うわ。私を解放してくれたら、今回の拉致の件は不問に付す」「信じちゃダメ!こいつはあんたを弄んでるだけよ!灼也様や静沢重人に知られたら、あんたがタダで済むわけないじゃない!」雅は顔面を蒼白にさせた。東が丸め込まれてしまうのではないかという恐怖。そして、ようやく底なし沼から抜け出しかけていたのに、再び泥の底へ引きずり込まれてしまうのではないかという恐怖に駆られていた。「悪くねえな……」東は振り返り、雅に目を向けた。彼にとって必要なのは金だけであり、誰が出すかなど知ったことではなかった。「東!よく考えて!もしそいつの言うことを聞いて、最後にお金を一銭も払わなかったらどうするの!?今すぐ静沢重人に連絡して身代金の10億をぶん取り、さっさと海外へ逃げたほうが絶対安全よ!」雅は必死の形相で東を説得しようとする。だが、彼女が必死に叫んでいる間に――東はすでに、水琴を縛っていたロープを解き始めていた。水琴は強張った体をほぐしながらゆっくりと立ち上がり、雅を射抜くような鋭い視線で睨みつけた。「私のバッグは?」東が傍らからバッグを放り投げると、水琴はその中から小切手帳を取り出し、さらさらと金額を書き込んだ。「動画を渡しなさい」雅は恐怖に見開かれた目で二人を交互に見つめていた。数秒後、ようやく事態を呑み込んだ彼女は、弾かれたように扉へ向かって駆け出した。だが、所詮はか弱い女性だ。部屋から逃げ出す前に、あっさりと捕まってしまう。「離して!私を逃がしてくれたら、お金なら払うから!いくらでも払うから!」と、雅はボロボロと涙をこぼして懇願した。しかし、彼女を背後から羽交い締めにしている男の腕は、まるで鋼鉄のようにびくともしない。「黙れ」東がドスを効かせた声で吐き捨てた。彼は、つい先ほどまで水琴を縛り上げていたのと同じように、容赦なく雅を椅子に縛り付
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