All Chapters of 離婚後、捨てられた私は人生の頂点に立つ: Chapter 361 - Chapter 370

432 Chapters

第361話

「いらねぇッス。それより、オレの視界からさっさと消えろ」「は、はいっ!失礼いたしました!!」支配人は逃げるようにして個室から退散していった。男たちが消え、個室に静寂が戻ると、鹿耶はふらふらと立ち上がり、テーブルに置かれていたボトルの酒を直接ラッパ飲みし始めた。「……おい、何してんだッスか!」七緒が慌ててボトルを奪い取る。「あたしに構わないで!酒くらい飲ませなさいよ!……全部、あたしのせいなんだから……っ」鹿耶はさっきの恐怖でまだ身体を震わせながらも、深い罪悪感から逃れるように再び酒を求めようとした。すっかり出来上がっている鹿耶の頬は赤く染まり、その瞳はトロンと熱っぽく潤んでいる。「……返してよぉ……」鹿耶は七緒からボトルを奪い返そうと、彼の胸にペチペチと手を伸ばした。七緒はヒョイッとボトルを頭上に持ち上げ、呆れたようにテーブルの上の空き瓶の山を見た。「アンタ、どんだけ飲んだんスか。これ以上は絶対に駄目ッスよ!」「あんたには関係ないでしょ!」鹿耶は七緒をドンと突き飛ばすと、通りかかったボーイに向かって叫んだ。「ちょっと!ボトル、あと二本追加して!」「こいつ酔っ払ってるんで、持ってこなくていいッス!」七緒が慌ててボーイを制止する。ガンガンと鳴り響く重低音のクラブミュージックのせいか、鹿耶の頭はさらにグラグラと揺れ始めた。「……鹿耶さん。大丈夫ッスよ。水琴さんは、アンタのこと絶対に恨んだりしてねぇッス」七緒は少し口調を和らげ、ぽんぽんと鹿耶の頭を撫でた。「全部あたしのせいなの……っ!あたしが、ミコトをあんな変態のところに連れて行ったせいで……っ!」鹿耶は七緒の胸に額を押し付け、わあわあと子供のように泣きじゃくった。そして、手元に残っていた別のボトルを掴み、ヤケクソのようにラッパ飲みしようとする。七緒は再びそれを奪い取ると、大きなため息をついた。「……わかったッスよ。どうしても飲むって言うんなら、オレも付き合ってやるッス!」七緒は奪い取ったボトルを傾け、一気に半分ほど飲み干した。「ぷはっ!……ヒック」ドンとボトルをテーブルに置き、盛大に酒気を帯びたゲップを吐き出す。「あっ、あたしの酒!」鹿耶は七緒が飲み残した半分のボトルを引ったくると、そのまま一気に飲み干
Read more

第362話

ぼんやりした頭で隣を見ると、すでに誰もいなかったが、シーツからは微かに女性特有の甘い香りが漂っていた。無造作に掛け布団を放り投げた瞬間、ベッドの隙間からポロリと何かが床に落ちた。「……ん?」七緒は目を擦りながら、それを拾い上げた。――女性用の、レースの下着だった「…………は?」七緒は完全に固まった。そして数秒後、昨夜の記憶がフラッシュバックする。バーで泥酔した鹿耶を助け出し、一緒にこの部屋に帰ってきて……七緒はハッとして自分の身体を見下ろした。すっぽんぽんだった。糸くず一本纏っていない。「……マジかよ」七緒は深くため息をつき、ズキズキ痛むこめかみを強く押さえた。記憶はまだひどく混濁しているが、熱を帯びた鹿耶の艶やかな顔、絡みつくような吐息だけは、脳裏にハッキリと焼き付いていた。「やっちまった……」頭を抱えながら立ち上がり、とりあえずベッドを整えようとシーツを引っ張った、その時だった。七緒の手が、ピタリと止まった。真っ白なシーツの中央に、ポツリと、赤黒い血の痕が残っていたのだ。「……これって」七緒の指先がカタカタと震え出した。これって、まさか……あいつの初めての痕跡か?オレはあいつの、大切なものを……奪っちまったのか!?血の気が引いていくのと同時に、取り返しのつかないことをしてしまったという衝撃が、七緒の全身を貫いた。……水琴が目を覚ましてから二日後。鹿耶はようやく意を決して、保温ジャーを片手に水琴の病室を訪れた。だが、病室の前に着くまでの間、彼女はずっと上の空だった。頭の中は、昨夜のあの『大事件』のことでいっぱいだったのだ。なんであたし、七緒くんなんかとヤっちゃったのよ……!たしかに顔は悪くないけど、いつも口を開けば憎まれ口ばっかりで、ムカつく奴なのに!思い出すだけで顔がカァァッと火照り、恥ずかしさで爆発しそうになる。口ではいつも「ミコト、イケメン紹介してよ!」なんて豪語していたけれど、実は今まで男の人とまともに付き合ったことすらなかったのだ。それが、人生で初めての相手が、あんな奴だなんて!だが、病室のドアを開け、ベッドに横たわる水琴の青白い顔を見た瞬間――鹿耶の頭から七緒のことは完全に吹き飛んだ。「ミコト……っ」途端に鼻の奥が
Read more

第363話

「雅の件は、誰も手出しをしてはならん!」突如、リビングに低く威厳に満ちた声が響き渡った。杖を突きながら玄関から姿を現したのは、宗一郎だった。控えていた家政婦の中村が慌てて駆け寄り、彼をソファへと案内する。「お祖父様、いらしていたのですね」臣は急いで立ち上がり、自ら茶器を用意して手際よく茶を淹れ始めた。もともと佳乃と宗一郎は水と油のような関係だ。今も、佳乃は気まずそうに軽く頭を下げるだけで、口を閉ざしてしまった。一方の紗夜は、ソファの隅で息を潜めていた。宗一郎が自分を快く思っていないことは、百も承知だ。無意識に自分のお腹を撫でながら、「この子のおかげで、少しは風向きが変わるかしら……」と、淡い期待を寄せる。そんな彼女の思惑を見透かしたかのように、宗一郎が重い口を開いた。「臣の子を身ごもったそうだな。これ以上、わしもあれこれと口出しするつもりはない。無事に産んでみせろ。そうすれば、それ相応の褒美をとらせよう」勝った……!紗夜の胸の内に、黒い歓喜が沸き上がった。「ありがとうございます、お祖父様」ほら、やっぱり。このお腹に鷹司家の血を引く子どもさえいれば、あの頑固な宗一郎でさえ妥協せざるを得ないのだ。宗一郎は冷ややかな視線を佳乃へと移し、淡々と告げた。「雅の件は、一切構うな。あれだけ好き勝手に暴れ回ったのだ。今回ばかりは、身をもって痛みを学ばせねばならん」紗夜は、わざとらしく指先を震わせ、同情を引くようなか細い声を出した。「でもお祖父様……雅さんは、鷹司家の大切な家族ではありませんか」「ふん」宗一郎の濁った瞳の奥に、鋭い光が宿った。「あれだけの過ちを犯し、鷹司家を幾度となく窮地に陥れてきたことを忘れたとは言わせんぞ。なぁ、臣。お前もまさか、忘れてはおるまいな?」臣は静かに湯呑みに茶を注ぎ、それを宗一郎の前に恭しく置いた。「ええ。わかっています、お祖父様」彼の腹は、すでに決まっていた。もう二度と、雅の尻拭いはしない。冷たい檻の中で、自分の罪の重さをじっくりと噛み締めればいい。しかし、佳乃だけは納得がいかないようだった。不満を隠しきれない様子で、食い下がる。「お義父様!雅はあなたの孫娘ですよ!?確かにあの子は昔から少し手が掛かりましたけれど、根は悪い子じゃ
Read more

第364話

その言葉に、雅の中で何かが弾けた。「わかったわよ!全部、紗夜さんのせいなんでしょう!?あの女が妊娠したから、お母様はあの女を庇って私を切り捨てるのね!?いいわよ、あんたたちなんて!みんなして私を見捨てるんだわ!!」雅は泣き喚きながら、乱暴に電話を叩き切った。臣が前回から自分を見限っていたことは薄々気づいていた。彼に頼るくらいなら、自分でなんとかするしかない。しかし、どうすればいいというのか。絶望に打ちひしがれたまま、長い一日が過ぎた。夕暮れ時。警察官に呼ばれ、重い足取りで面会室へと向かった雅は、アクリル板の向こう側に座る人物を見て息を呑んだ。そこにいたのは、紗夜だった。「お義姉……様?」思わず口をついて出た驚きの声は、次の瞬間には氷のような憎悪へと変わった。雅は顔を歪め、アクリル板を睨みつける。「何の用よ。私の惨めな姿を笑いに来たの?」「雅さん、そんなひどい言い方しないで。心配でわざわざ様子を見に来てあげたのに」紗夜の口元には、薄っぺらい笑みが張り付いている。もし横に看守の監視の目がなければ。今すぐアクリル板をぶち破り、その気色悪い猫かぶりの化けの皮を剥ぎ取ってやりたい衝動に駆られた。「ふん。紗夜さん……今ここには私しかいないんだから、その芝居はやめたらどう!?車を貸してほしいと言い出したのはそっちのくせに、お兄様に問いただされた途端にしらばっくれるなんて!あんたを信じきって、少しも疑わなかった私がバカだったわ!」その途端、紗夜の瞳から表面的な優しさがスッと消え失せた。代わりに、底知れぬドロドロとした暗い執念が顔を覗かせる。アクリル板ギリギリまで顔を近づけ、ネットリと囁いた。「あら、雅さん。私は事実を言ったまでよ?だって……元々あの水琴を陥れようとしていたのは、あなた自身じゃない」「あんたの戯言なんて聞いてないわよ!お母様は!?」どうして面会に来たのが母親の佳乃ではなく、この小賢しい女なのか。紗夜はふふっと上品に笑い声を漏らす。「お義母さんなら、今日は有名な胎教の先生と会っているわ。明日は海外から招いた産妇人科の先生の診察だし、もう毎日、私のことで忙しく飛び回っていてね」そこでわざとらしく溜息をついてみせる。「でも、もちろんあなたのことも忘れて
Read more

第365話

「……得意になるのも今のうちよ。私がバカだったわ。あんたみたいな腹黒い女を、か弱くて優しい人だなんて勘違いしていたなんてね」雅は自嘲気味に笑うしかなかった。紗夜は口元を覆ってクスクスと笑い続けながら、ゆっくりと立ち上がる。「それじゃあ雅さん、私はこれで」「待ちなさいよ!待ちなさいってば!!」雅が血を吐くような声で叫んだが、紗夜は一度も振り返ることなく面会室を後にした。時は無情に過ぎ去り――目を覚ましてから三日後、水琴は退院の日を迎えた。静沢の家に戻ると、家政婦の吉野さんが水琴の体を労わるためにと、腕によりをかけて栄養満点の豪勢な手料理を並べてくれていた。食卓の向かい側では、重人がずっとタブレット端末を睨みつけている。眉間に深い皺が刻まれており、何か重大な案件を抱えているようだった。「どうかしたの?」「最近、目を付けている土地があってね。『翡翠島(ひすいとう)』の開発用地なんだけど。落札できれば莫大な利益が見込めるんだが……地主が誰に売る腹積もりなのか、読めなくてね」重人の声には、珍しく焦りが滲んでいた。商業の難しい話はよく分からない。水琴は適当に相槌を打ち、食事を終えると早々に自室へ戻って眠りについた。翌日。A大学での仕事を終え、正門を出たところで、見慣れた長身のシルエットが視界に飛び込んできた。灼也だ。関わり合いになるのを避けようと踵を返したが、すかさず行く手を阻まれる。「水琴」「……高遠さん。何かご用ですか?特に何もないのでしたら、これで失礼します」水琴は冷たく言い放ち、再び歩き出そうとする。「みーちゃん。少しだけ、話せないかな」緊張で強張っていた水琴の背中から、ふっと力が抜けた。静かに振り返り、澄み切った瞳で灼也の顔をじっと探るように見つめる。「……いくつか、質問してもいいですか」薄い唇から、かすかな声が漏れた。そのあまりにもまっすぐな視線を向けられ、灼也は到底「嫌だ」などと口にすることはできなかった。長い沈黙の後、ゆっくりと頷く。「ああ。いいよ」「嘘はつかないで。誤魔化すのもダメです。すべて、ありのままに答えて」逃げ道を塞ぐように言葉を重ねる。灼也は、これから何を問われるのか完全に察しているようだった。それでも、静かに頷きを
Read more

第366話

灼也は、そんなメインストリートから一本外れた、狭い路地裏へと水琴を導いた。高く古いレンガの塀がそびえ、見上げる軒先には精緻な彫刻が施されている。ひんやりとした石畳の隅には、名も知らぬ野花がひっそりと紅い顔を覗かせていた。路地の突き当たり。灼也は古びた木戸を押し開け、水琴を中へと促した。この感じ……どこかで見覚えがあるわ。手入れの行き届いた坪庭を抜け、西側に立つ大きな金木犀の横を通り過ぎる。裏口から重厚な洋館の中へ足を踏み入れた瞬間、水琴はここがどこであるかを悟った。――『九十九堂(つくもどう)』。南鳥市でも随一の知名度を誇るアンティークショップだ。千年前の古代の品から、近代のアンティークまで幅広く取り扱っている。ただし、その特殊性ゆえに、ここに展示されている品はすべて「精巧なレプリカ」である。本物は各国のコレクターたちの厳重な金庫に眠っており、ここはあくまで「売りたいコレクター」と「買いたい客」を繋ぐための、巨大なカタログのような場所なのだ。買い手がついた時のみ、仲介人を経由して本物が動くシステムになっている。だが、なぜ灼也がわざわざ自分をこんな場所へ連れてきたのか。「どうしてここに?」水琴が小さく尋ねると、灼也は声を潜めて答えた。「最近、音羽家が宝生(ほうしょう)会長の土地に目を付けていてね」「……『翡翠島』のこと?」水琴の瞳に、鋭い光が走る。「ああ」翡翠島は、南鳥市の近海に浮かぶ風光明媚な離島だ。四方を青い海に囲まれているものの、長年、『東雲(しののめ)グループ』の会長である宝生が個人の所有地として手放さずにいた。元々は手付かずの辺境の島にすぎなかったが、最近になって政府が新たなシールートの整備計画を発表。その航路が、ドンピシャで翡翠島をかすめることになったのだ。さらに、南鳥市の観光局がリゾート開発への巨額の助成金政策を打ち出したことで、状況は一変。今、あの島をリゾート地として開発すれば、莫大な利益を生み出す金の卵になる。南鳥市の財界の人間なら誰もがヨダレを垂らすその土地を、琉里が狙わないはずがなかった。水琴は警戒心もあらわに、灼也を睨みつける。「九十九堂と翡翠島に、何の関係があるの?」「連日、宝生会長のもとには面会を求める連絡が殺到しているが、実
Read more

第367話

特別室の設えは、下の階とは比べ物にならないほど豪奢だった。徹底した温度・湿度管理のもとに展示されているのは、すべて『正真正銘の本物』である。わずかな衝撃でも破損しかねない至宝の数々。防犯ガラスのショーケースには、それぞれの来歴や品名が記されたプレートが恭しく添えられていた。二人はじっくりと品定めをし、最終的に、ある一つの品を買い上げた。店を出た後。水琴は、隣を歩く端正な横顔を訝しげに見つめた。「……どうして、協力してくれたの?」「静沢家のためだけじゃない。俺自身のためでもある」灼也の瞳の奥に、深く暗い光がよぎる。それ以上、水琴は追及しなかった。……結局は、利益の問題なんでしょうね。音羽家と高遠家は代々の付き合いだ。しかし、もし今回のリゾート開発で音羽家が高遠家を凌ぐほどの利権を手に入れれば――当然、彼は面白くないはずだ。水琴を屋敷まで送り届けた後、灼也も帰路についた。一方、その頃。トレジャーホテルの厨房に立つ七緒は、朝からずっと上の空だった。頭の芯にこびりついて離れないのは、鹿耶の顔。あの日、自分のマンションで何があったのか、細かい記憶は抜け落ちている。だが、アルコールで微熱を帯びた彼女の頬や、ひどく色っぽく潤んだ瞳だけは、狂おしいほど鮮明に焼き付いていた。「……七緒。手が止まってるぞ」背後からかけられた灼也の声に、ビクッと肩を跳ねさせる。「えっ!?あ、いや……なんスか!?オレ、別に変なことなんて何も考えてないッスよ!」七緒は慌てふためきながら、用意していた特製のスープを灼也に差し出した。灼也は訝しげに眉をひそめた。……こいつ、何か聞かれたとでも思ったのか?だが、今の灼也に他人の色恋沙汰を気にかけてやる余裕などない。脳裏を占めているのは、水琴のあの冷たい横顔だ。骨董屋での一件で多少の歩み寄りは見せたものの、彼が求めているのはあんな表面上のやり取りではなかった。灼也がスープを受け取って厨房を去ると、七緒は糸が切れたようにへたり込んだ。ああ、もう……どうかしてるッスよ……一日中心ここにあらず。鹿耶の肌に触れて以来、どうにも歯止めが利かなくなってしまった。今までの人生、誰か一人の女で頭がいっぱいになることなんてなかったのに。これは絶対におかしい。その夜。
Read more

第368話

次の瞬間。鍵をかけて心の奥底に封じ込めていたはずの、あの夜の生々しい記憶が。汗ばむ肌の感触と、シーツの上の赤黒い染みが――猛烈な勢いで脳内を駆け巡り始めた。「……鹿耶、行かないでくれッス……」七緒は割れそうな頭を抱えながら、すがるような声を上げた。ここまで彼を運んできた友人たちは、そそくさと後ずさりする。「それじゃ小林さん、あとは頼んだぜ!」言うが早いか、友人たちは脱兎のごとく逃げ出してしまった。「はぁ!?ちょっと、あんたたち……!」鹿耶がポカンと見送っている隙に、七緒はズルズルと鹿耶の腕にしがみついてきた。「ちょっ……何すんのよ!」慌てて引き剥がそうとするが、七緒の力は思いのほか強かった。「……ヤルことヤッて、ポイ捨てッスか?人のこと美味しくいただいといて、責任取る気ないんスか……?」とろんとした目で、恨みがましく見上げてくる。「誰が美味しくいただいたって!?被害者はこっちよ!!」鹿耶は本気で彼を地面に叩きつけてやりたかった。初めてを奪われたのは私の方なんですけど!?だが、七緒はコアラのように腕にガッチリと張り付いて離れない。鹿耶は顔面を蒼白にしながら周囲を見回した。ここは実家のマンションの前だ。こんな泥酔した男と揉み合っているところを、もし両親に見られでもしたら……想像しただけでも血の気が引く。「もうっ!わかったから離して!」鹿耶は半ばパニックになりながら、強引に彼の手を振りほどき、逃げるように家の中へと飛び込んだ。同じ頃。灼也は冷め切ったスープの容器を提げたまま、虚ろな足取りで静沢家から立ち去っていた。水琴に特製のスープを届けようとしたのだが、彼女はドアすら開けてくれなかった。インターホン越しに、冷たく「お引き取りください」と告げられただけだった。骨董屋の一件で、少しは心が近づいたと思ったが……俺の思い上がりだったか。重たい徒労感を引きずりながら、高遠家の屋敷へと戻る。車を降り、エントランスに向かおうとして――灼也は眉をひそめた。玄関前の石畳に、見慣れた男が死体のように転がっている。「……七緒。起きろ」灼也はため息をつきながら、彼を引き起こした。すさまじい酒の匂いが鼻をつく。しかし、飲み屋の連中に放り出された後、わざわざこの屋敷ま
Read more

第369話

ソファの背もたれに深く寄りかかり、灼也は一人、赤ワインを口に含んだ。青白い月光が、彼の端正な横顔を照らし出す。その姿はまるで、生命力を持たない冷たい彫刻のようだった。――午前二時。果てしなく続いたやけ酒の宴が、ようやく終わりを迎えた。灼也は七緒を引きずり起こし、ゲストルームのベッドへ放り投げた。その時、七緒の口からボソボソと何かの呟きが漏れる。「……ん?なんだって?」耳を近づけてみると、その寝言ははっきりと形を成していた。「……鹿耶ぁ……美味しくいただいといて……責任、取らないなんて……ひどいッス……」灼也の口角が、ニヤリと吊り上がった。……なるほど。お前の『女の傷』は、小林のところの令嬢か。手持ちのスマートフォンを取り出し、録音アプリを起動する。そして、未練がましく鹿耶の名前を呼ぶ七緒のうわ言を、ちゃっかりとデータとして保存した。……東雲グループを束ねる宝生会長の米寿を祝うパーティーまで、残すところあと二日と迫っていた。宝生会長は「社会への還元」と称し、自身の誕生パーティーを大規模なチャリティーオークションの形式で開催すると発表した。招待客は自慢のコレクションを一点出品し、参加者全員で競り落とす。その落札額の全額が、慈善財団へ寄付されるという仕組みだ。言うまでもなく、この規格外のオークションは南鳥市の財界を巻き込む空前の大熱狂を引き起こした。何しろ、現在誰もが血眼になって狙っている『翡翠島』の利権は宝生会長の手の中にあり、彼自身もそろそろ島を手放す腹積もりだという噂が流れていたからだ。その盛大なオークションに着ていくドレスを見立てるため、水琴と鹿耶は高級ブティックで待ち合わせをしていた。だが、顔を合わせた瞬間から、鹿耶の様子がどうもおかしい。水琴はクスッと笑いながらからかった。「どうしたの?いつもなら、ショッピングの時は目をキラキラさせて飛び跳ねてるのに。今日はずいぶん大人しいじゃない」鹿耶は唇を尖らせた。「別に……なんでもないわよ」「あっそ。まあ、あなたが本当に何も悩んでないならいいけど。後になって『やっぱり聞いてよぉ!』って泣きついてきても、知らないからね」水琴がわざと冷たく突き放すフリをすると、鹿耶は目を真ん丸に見開き、慌てて水琴の腕にしがみついてきた。
Read more

第370話

その瞳の奥に揺れる微かな寂しさを見逃すほど、水琴の目は節穴ではない。スッと彼女の手に自分の手を重ね、真剣な眼差しで告げた。「試してみましょうか」「試すって?何を?」「彼が本当に、あなたのことをどう思っているか」優しく、けれど不思議な説得力を持つ声色。「えっ?」水琴はスマートフォンを取り出すと、保存していた音声ファイルを再生した。『……鹿耶ぁ……美味しくいただいといて……責任、取らないなんて……』スピーカーから漏れ出したのは、酔い潰れた七緒の情けないうわ言だった。「昨日、灼也から送られてきたの。もし、あなたにほんの少しでもその気があるなら……確かめてみない?」鹿耶の頬が、ぽっと淡い朱色に染まる。「……じゃあ、ちょっとだけ」夕暮れ時。水琴は七緒の携帯へ電話をかけた。「七緒さん?今夜、トレジャーホテルで友人二人と食事をしたいのだけれど……お時間、いただけるかしら?」これほどの見せ場に、肝心の主役が不在では話にならない。夜七時半。水琴と鹿耶が時間通りにホテルのレストランへ足を踏み入れると、出迎えた七緒はピタリと動きを止めた。水琴の言う『友人』がまさか鹿耶だとは、夢にも思っていなかったのだろう。案内したテーブルにメニューを置こうとしたその時。鹿耶が弾かれたようにエントランスの方へ振り返り、パァッと嬉しそうな顔で手を振った。「こっちよ!」水琴はクスリと微笑み、固まっている七緒へ向けて優雅に説明した。「彼女の彼氏さんなの」メニューを握る七緒の手が、ピクリと震えた。営業用のスマイルがスッと顔から消え失せる。呆然と視線を向けた先では、見知らぬ男が歩み寄り、鹿耶がごく自然な動作でその腕にそっと手を絡ませていた。どこからどう見ても、親密でラブラブな恋人同士だ。彼氏……?鹿耶に、恋人が……?胸の奥が、ギリッと音を立てて軋んだ。胃の腑から酸っぱいものが込み上げてくるような、これまでの人生で味わったことのないドロドロとした感情が全身を支配していく。もはや、料理を作る気分など完全に吹っ飛んでいた。水琴はゆっくりと、わざとらしく言葉を紡ぐ。「ええ。とっても素敵な方でしょう?七緒さん、オーダーをお願いね。今日はこのレストランが誇るトップシェフの料理をご馳走するって、
Read more
PREV
1
...
3536373839
...
44
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status