暗殺騎士は、忘却聖女を恋願う のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

15 チャプター

prologue 終わりの始まり①

 帝国歴589年。 雪が解け、若葉が芽吹き、100年続いた戦争が終結した。 フォンハール帝国の帝都ネルシアでは、勝利に導いた聖女を一目見ようと、帝国民が神殿広場にひしめき合っている。* 式典の主役である聖女ツグミは、神殿の一室で控えている。部屋にはもう一人──皇帝アレクセルが正装姿で腕を組み、窓に目を向けていた。 時計の針がカチリと鳴ったのを機に、ツグミは皇帝の前に立つ。 艶やかな黒髪を背に流し、真っ白な聖女の衣装を纏ったツグミは、先月18歳になった。 アレクセルと出会ったのは、16歳の時。当時の彼は21歳の若き皇帝だったが、2年たった今では頼りなさは消え、威厳に満ちあふれている。「そろそろ時間なので行ってきます。陛下とはこれでお別れですね。どうかお元気で」「……なんか、素っ気ないな」 拗ね顔になったアレクセルは頭をガシガシかく。せっかく整えた陽だまりのような金髪が台無しだ。「抱き合って泣くような間柄じゃないでしょう?私たち。そんなことより、ちゃんと寝てくださいね。書類を寝室に持ち込んじゃ駄目ですよ。あと櫛、使います?」「つれないねぇ、君は。まったく、つれない。それと櫛はいらない」 はぁーっと溜息を吐いたアレクセルに、ツグミはへへっと笑う。「だって、しんみりしたくないんですもん。最後は笑って終わりにしましょうよ」 平和の道を歩み始めたフォンハール帝国にとって、聖女は厄介事を産む種でしかない。 敵国だったヴォルテス国と終結条約を結んで、まだ3ヶ月しか経ってないけれど、ツグミは嫌というほど政治の闇を見てしまった。 異世界人と白魔導士の間に生まれたツグミは、治癒と浄化の魔法に加え、誰にでも魔力を付与できる能力を持っている。 戦時中には重宝したその特技は、今では貴族と政治家たちの欲望の対象になり下がった。 だからツグミは、今日をもって聖女職を引退する。 大魔法使いでもあるアレクセルの魔術で、大陸全土にいる人々の記憶から聖女ツグミの存在を消し、ただのツグミに戻るのだ。「それで、これからどうするんだ?」「そうですねぇ、ちゃんとは考えてないですけど……しばらくは復興していく国中を見て回ります。お手伝いできそうなことがあれば手伝いたいですし。治癒と浄化は、なにかと重宝しますから」「……それなら聖女のままでいいんじゃない?ツグミは私と同
last update最終更新日 : 2025-09-27
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prologue 終わりの始まり②

 神殿広場にいる大勢の帝国民は、舞台に向かってくる聖女を目にした途端、一斉に両膝をついた。官僚も、名門貴族も、神官長さえも。 フォンハール帝国の民が両膝をつくのは、三人だけ。 神と、皇帝と、聖女。それ以外は、片膝をついて恭順を表す。 この二年、嫌というほどこの光景を目にしてきたけれど、ツグミはいつまで経っても居心地悪さを感じてしまう。やっぱり自分は、ただのツグミが性に合っている。  でも官僚たちは、ツグミを皇后にさせたかった。世界で唯一人、魔力のない者に魔力を付与できる奇跡の存在を他国に奪われないために。(だーれが、なるもんですか!) 舞台へと歩き続けるツグミは、毎日のように皇帝との結婚証明書にサインを迫った官僚の前を通り過ぎた瞬間、心の中でベェーっと舌を出す。 近い将来、アレクセルは敵国のヴォルテス第一王女を妻にする。 敗北した国の王族は処刑されるのが習わしだが、勝利した王族と婚姻関係を結べば、話が変わる。 それでもヴォルテス国は100年も続いた戦争に負けた悔しさも、敵国を憎む気持ちも、すぐには消えないだろう。無論、勝利したフォンハール帝国側だって同じ気持ちのはず。 けれどアレクセルは、多くの反発を受けるのを覚悟して、ヴォルテス国の思想と文化は極力残すと約束してくれた。 これから先、フォンハール帝国とヴォルテス国の民は、途方もない時間をかけて沢山のことに折り合いをつけ、現実を受け入れていかなければならない。 きっと国内から数々の問題が浮上し、頭を抱えることが何度もあるだろう。それでもアレクセルは、これ以上、無駄な血を流さないために決断してくれた。ツグミはそんな彼を心から尊敬する。「ここからは、我らが先導しよう」 舞台まであと少しというところで、ツグミを先導していた神官の前に正装姿の3人の騎士が立ちふさがった。 彼らは──彼らだけは、ツグミの前で両膝をつかない。なぜなら、彼らはツグミの護衛騎士だからだ。「ったく、俺らより神官をエスコート役にするなんて泣くぞ、俺。いや、泣かんけど」 そう言ってガッハッハと笑う赤茶髪の厳つい騎士の名は、サギル・ロードン。口より先に身体が動く彼は、ツグミにとって頼れる兄のような存在だった。 トレードマークになっていた無精ひげは、今日は綺麗に剃っているから、ちゃんと25歳の青年騎士に見える。 「そ
last update最終更新日 : 2025-09-28
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prologue 終わりの始まり③

 衣装の裾を持ち上げて階段を上がるツグミに、護衛騎士達が心配そうに声をかける。「お嬢、こけんなよ」「笑顔ですよ、笑顔」「とちったら、僕が何とかするから気楽にね」 彼らの目には、自分は出会ったころのひ弱な16歳の女の子のままなのだろうか。サギルとリュリーアナはともかく、カダンとは一つしか年が違わないのに。 いい加減、子ども扱いしないでと言いたくなる気持ちがないと言えば嘘になるが、彼らが与えてくれたものの方が遥かに多いのも事実。 それに、彼らはこの舞台の床に、忘却の魔法陣があることを知らない。 言えば、絶対に反対されることはわかっていた。そして家族同然の彼らに引き留められたら、自分の決意は、間違いなく揺らいでしまうだろう。 説得を放棄して消えようとする自分は、駄々をこねる子供と一緒だ。 狡い自分を微笑むことで隠したツグミは、護衛騎士に一つ頷いてから舞台に立つ。正面を向いたと同時に、神殿の塔の鐘がゴーンゴーンと鳴り響く。「まずは、この戦争で神の御許に導かれた者たちに、祈りを」 鐘の音を背に、ツグミは祈りの形に指を組む。それに倣って帝国民も祈りを捧げる。 16年間愛を注いでくれた両親に。共に戦った者たちに。戦火で命を奪われた全ての人に。そして前皇帝と、第一皇子に。 表向きは、前皇帝は病死。第一皇子は事故死したとされているが、真実は違う。寝返った家臣に、二人は暗殺されたのだ。 当時、第二皇子だったアレクセルは、戦争の最前線で指揮を執っており、急ぎ皇城に戻る途中に、焼け野原になった村でさまよっていたツグミを拾って帰還した。 あの時、アレクセルが自分を拾ってくれなかったら、自分は間違いなく、祈る側ではなく祈られる側になっていただろう。 保護してくれたのに、泣かれて、暴れられて、脛を蹴られ、頬をひっかかれ──散々な目にあったアレクセルは、とんだ災難だった。でも一度も、怒らなかった。ただ、ちょっと涙目になっていた。 あの時のアレクセルの顔を思い出し、ツグミはふっと笑う。 祈りを終えたツグミは、まっすぐ視線を固定して口を開いた。「新しい時代の幕が明けました」 ツグミの声で、帝国民は祈りの形に組んだ指を解き、顔を上げる。「それでも、痛みや苦しみを伴う試練は、あなたたちの前に現れるでしょう。眠れない夜を過ごす日もあるかもしれません」 そう。戦争
last update最終更新日 : 2025-09-29
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予想外の再会からの、あれやこれ①

 王都を飛び出したツグミは、”流れの治療師カナ”と名を変え、帝国のあちらこちらを旅しながら、治療師として怪我や病に苦しむ人々を救い続けた。 ちなみにカナという名は、ツグミの母親──波多野香苗から拝借した。 現在、ツグミは帝都にほど近い神殿で、臨時の治療師として働いている。 「大丈夫、すぐ良くなるから。ちょっとだけ大人しくし──」「痛い!痛い!助けてくれ!!」 簡素なベッドに寝かされているのは、足を弓矢で射抜かれた義勇兵の若い男。一刻も早く彼を治癒魔法で助けたいが、こんなに暴れられては患部に手が当てられない。 賢者レベルの白魔導士ならともかく、中の上クラスの治癒魔法しか使えないツグミは、直接傷に触れなきゃ発動できないのだ。「だから、助けるって言ってるじゃん!大人しく、ズボンを脱がさせて!」「痛い!死ぬ!もう、いっそ殺してくれぇーーー」「馬鹿!この程度で死なないからっ。もぉー、無理!おじさん、ごめん。悪いけど、この人の身体がっつり押さえてください!」 堪忍袋の緒が切れたツグミは、たまたま近くにいた壮年の男性に助けを求める。しかし男性は、「え?俺??」という顔をして動かない。 無理もない。彼も義勇兵で、若い男と同じく怪我人なのだ。 しかしツグミは容赦なく、壮年の義勇兵を睨みつける。「腕は動くでしょ?ちょっと押さえてもらうだけだから、早く来て!」「ええー」 不満の声を上げる壮年の義勇兵に、ツグミはもう一度「早く!!」と怒鳴る。 観念した壮年の義勇兵は、松葉杖を付きながらひょっこひょっことツグミの隣に移動した。「ねぇーちゃん、俺、足の骨が折れてんだけど……」「知ってる。私が治したんだもん」「ありがとな。あの時は天使かと思ったよ」「……えへへ。そんなこと言われたら、照れちゃうよ」「でもさ、骨がくっついたばかりでね、おじさん結構足痛いんだよなぁー」「大丈夫!この程度動いても、くっついた骨はまた折れたりしないから」「そうか……そりゃー安心だ……」 トホホと肩を落としても、壮年の義勇兵の手は、若い男の義勇兵の身体を押さえ続けてる。 ツグミといえば、大人しくなった年頃の男性のズボンを手際よく脱がせて、患部に治癒魔法を施している。 息のピッタリ合った二人のコンビネーションにより、若い義勇兵の足は無事に治療を終えるこ
last update最終更新日 : 2025-09-30
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予想外の再会からの、あれやこれ②

 この神殿に常駐している神官は三人。しかし、治癒魔法が使えるのは、一人だけ。残りの二人も多少は医学の心得があるが、魔法に比べれば手当はどうしても遅くなる。「はいはい!じゃんじゃん治させていただきますよ!」 唯一治療魔法を使える神官は仮眠中なので、今はツグミが頼りの綱だ。 技術面では中の上クラスの治癒魔法しか使えないツグミだが、あまたの激戦区を駆け抜けたおかげで、魔力量だけは自信がある。  気が付けば日は沈み、窓の向こうは暗闇だ。一体どれだけ治癒魔法を使い続けたかわからない。でも、確実に負傷者の数は減っている。「カナ様、このお方が最後の怪我人です」 神官の一人に声をかけられ、ツグミはベッドの隙間をすり抜け小走りで向かう。「やっと来たかよ、天使さん。待ちくたびれて、自力で天国に行っちまうところだった。はは……」 笑えない冗談を飛ばす青年と呼ぶには微妙な年頃の義勇兵は、片目を負傷して顔半分が包帯で隠れている。出血の量からして、失明は免れないだろう。「おじさん、あのね」「言葉に気をつけろ。俺は、まだ29だ!お兄さんと呼べ」「失礼。お兄さん、あのですね」「待て。やっぱロイドと呼んでくれ」「……ロイドさん、あのですね。提案があるんですけど、聞いてもらえます?」「この状況でか?」「死にかけている状態で呼び方にケチ付けるような人に、状況云々言われたくないんですけど……」  ツグミがつい思ったままを口にすれば、へへっとロイドは誤魔化し笑いをする。 眼球破損は失神レベルの痛みのはずなのに、すごい余裕だ。 一向に話が進まないことに苛立つよりも、ロイドの強靭な精神力に感心してしまう。彼ならきっと、この提案を受け入れてくれるだろう。「時間が惜しいんで、端的に言います。やってみたい治療があるんだ。失敗すれば失明確定で、成功すれば視力を取り戻せるんだけど──」「やらない理由なんてないだろ?天使さん」「ですよね」 食い気味にうなずいたツグミは、ローブのポケットから透明な球体を取り出す。 どっかの村で治療のお礼にもらったガラス玉だ。透明な球の真ん中に青い石があるこれは、眼球代わりにするのに色も大きさもちょうどいい。 おいおい、なにするんだ?というロイドの不安な視線を無視して、ツグミはガラス玉を両手に包んで魔力を注ぎ入れる。 ツグミが持つ魔力のないも
last update最終更新日 : 2025-10-01
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予想外の再会からの、あれやこれ③

『君と交わした約束は、たとえ君を忘れても絶対に守るよ。その代わり私が約束を守ったら絶対に会いに来てくれ』 敵国ヴォルテスの最低限の尊厳を守るために、アレクセルとツグミはそんな約束を交わした。 そしてアレクセルは約束通り、ヴォルテス国第一王女──ラルレーロと婚約した。 忘却魔法を受けてもアレクセルが約束を守ってくれたのは、交わした約束そのものが、彼自身の願いだったからだろう。 これでヴォルテスは国名は失ってしまう、文化と思想は守られる。敵国とはいえ、同じ人間だ。奪うばかりでは、憎しみの連鎖はいつまで経っても消えることはない。これは、ツグミの母の教えだ。 そしてツグミの母──香苗は、約束は”人と人との絆を繋ぎ続けるもの”だと教えてくれた。 だからツグミは、アレクセルとの約束を守るために帝都に向かうことにした。彼の記憶の中に自分がいなくても、絆を断ち切りたくないという思いがある限り、約束は有効なのだ。 とはいえ、まさかこんなことになるとは思ってもみなかった──「……はぁーーー、やっぱり神殿で休ませてもらえばよかった……」 心の底から悔いる声を出したツグミは、帝都の道端でしゃがんだまま夜空を見上げる。もう立ち上がる気力も体力も残っていない。 森を抜けて辻馬車を拾ったツグミは、その日のうちに帝都の宿に泊まるはずだった。  しかし5日前の豪雨で、王都への主要道路は土砂崩れによって馬車は通行不可。移動手段は徒歩に限られてしまった。 仕方なく荷物を抱えて歩き始めたツグミだが、今度は誘拐されかけた。我が身は無事だったが、荷物は奪われ一文無し。 それでも帝都に行けば何とかなる精神で、ここまで歩いてきたけれど、なんとかなるわけがなかった。 唯一の救いは、季節が秋の初めだったこと。これが冬なら、死んでいる。  きゅるぅぅぅぅ。 森の中の神殿で配った炊き出しスープを思い出したら、豪快にお腹が鳴ってしまった。しんとした夜の街に、ツグミのお腹の音が無駄にこだまする。 なだめるようにお腹をさすってみるが、再び「ぎゅーるぅぅぅーー」とエグイ音がした。 惨めな気持ちをため息で誤魔化したツグミは、膝を抱えて蹲る。 この一年もの間、無事でいられたのは、ただ運が良かっただけだった。こんな痛い目を見てから、己の思い上がりに気づくなんて、なんて愚かな人間なのだろう。
last update最終更新日 : 2025-10-02
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予想外の再会からの、あれやこれ④

 アレクセルに会うために帝都に向かったツグミだが、カダンとの約束も忘れてはいない。  あんな別れ方をしてしまった手前、どの面下げてという思いはあるが、ツグミはカダンとの縁も切りたくはない。 きっと、話しかけても冷たくされるだろう。それでも帝都に近づくにつれ、もう一度護衛騎士に会いたい気持ちは膨らんでいった。  皇室騎士団に所属している護衛騎士たちは、定められた休日がある。そして彼らの行動パターンは、わかりやすい。 酒豪で脳筋のサギルは、武器屋か酒場に行けば必ず会えるし、甘党のリュリーアナのお気に入りの店も把握している。 古書に目がないカダンは、頻繁に帝立図書館に出入りしているはずだ。唯一エルベルトだけは、どう休日を過ごしているのかわからない。多分、サギルに連れまわされているのだろう。 戦場でも、サギルは孤立しているエルベルトにちょっかいかけていた。 そんな風にツグミは、護衛騎士との再会に想像を膨らませていた。 けれど、まさかこんなところで、護衛騎士の一人と再会するなんて誰が想像できただろう。 聖女退職日にエルベルトの顔が見れなかったから、会えたことは嬉しい。でも、今の自分と彼は、赤の他人。それどころか、暗殺者と犯行現場を目撃した通行人。これは笑えない状況だ。 微かに風が吹いて、血の匂いがツグミの鼻を刺す。この匂いだけで、生きているのか死んでいるのかわかってしまうのは、自分が長く戦場にいすぎたせいなのだろうか。 そんなふうに意識を余所に向けるツグミを、エルベルトはじっと見つめている。その手には、小ぶりの剣が握られたままだ。 ポタリ、ポタリ……と、切っ先から血を垂らしながら、エルベルトがツグミに近づく。 一歩、また一歩、エルベルトが近づくたびに、ツグミは後退する。しかし三歩目で背が壁に当たった。退路は完全に絶たれてしまった。「……あ、あの……」 震えながらツグミは口を開いたが、すぐに閉じる。 エルベルトに、殺さないでと懇願したくなかった。 ツグミのことをきれいさっぱり忘れていても、エルベルトはエルベルトだ。ツグミの知ってる彼が消えたわけじゃない。「……私、見なかった。何も……見てない……ことにする。だってあなたがそうしたのは、きっとちゃんとした意味があるはずだから。それがなんなのか、私にはわからないけど。えっと、ごめん。ごめんな
last update最終更新日 : 2025-10-03
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予想外の再会からの、あれやこれ⑤

 エルベルトに抱えられたまま到着したのは、帝都でもひときわ豪奢な屋敷だった。「……ご自宅?」「ああ、そうだ」 即答したエルベルトは、ツグミを抱いたまま正面玄関の扉を開ける。 ギィ……と、重厚な音を立てて開いた扉の先は、外観と同じく豪華な造りのホールだった。 すぐに、パリッとした燕尾服に身を包んだ男性が姿を現した。おそらく、この屋敷の執事だろう。髪に白いものがチラホラあるが、年を感じさせないキビキビとした動きだ。「おかえりなさいませ、坊ちゃま」「坊ちゃま!?」 思わず突っ込みを入れたツグミを、エルベルトはそっと床に降ろす。次いで脱いだマントを、執事に渡した。 一連の流れの間、執事はツグミに一度も視線を向けなかった。 ただ無視をしているというより、エルベルトの傍にいることが当たり前といった感じだ。 諸々あってボロ雑巾のような格好をしているツグミは、汚いものとして扱われても仕方がない。 それなのに、何も触れずにいてくれるのは執事が優しい人だからなのか。それとも屋敷の主人に、厚い忠誠を誓っているからなのか。(まぁ、どっちでもいいんだけど) それよりも、どうしてエルベルトは、もう一度自分を抱き上げたのだろう。そっちの方が気になる。「ダンデ、こんな時間に悪いが軽めの食事を頼む」「かしこまりました。お二人分でよろしいでしょうか?」「ああ。俺は湯を浴びてくる」「ご用意はすでに整っております」「わかった」 執事ことダンデと短いやり取りを終えたエルベルトは、大股で歩き出す。 慇懃に礼を執るダンデに小さく手を振ったツグミは、首をひねってエルベルトを見上げた。「抱っこしなくても私、逃げませんよ?」「わかってる」「なら降ろして──」「断る。怪我人なんだから、大人しく抱かれてろ」 不毛な会話を終わらせたかったのかツグミを抱く腕に力を込めたエルベルトは、歩く速度を上げる。「……なんでわかったんだろう」「わからないほうがおかしい」「ふぅーん……」 気づかれても困ることではないが、暗殺者に気遣われることも、元護衛騎士に労われるのも、なんというか奇妙な感じだ。 ついさっき人の命を奪ったというのに、自分に触れる手がとても温かいことも。「名前、訊いてなかったな」「……私の?」「お前以外に誰がいる?」「紳士たるもの、女性に名を伺う時は先
last update最終更新日 : 2025-10-04
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予想外の再会からの、あれやこれ⑥

 お風呂から出たらすぐに食事にありつけると思ったツグミだが、今度は傷の手当てが待っていた。 ぬかるんだ道を丸一日歩いたツグミの足は、靴擦れで両足とも皮がめくれて、酷い有様だった。他にも、誘拐されかけた時に転んだり、あちこちぶつけたせいで、打ち身や擦り傷も 体中にある。 エルベルトはそれを丁寧に手当したかったようだが、絶えず鳴り続けるツグミの腹の音に負け、二人は食堂に移動した。 長テーブルに並べられた食事は、軽食というには豪華すぎるものだった。 しかしツグミの席には、薄いスープだけが置かれてる。「……肉が遠い」「ああ。今日のお前は肉ナシだ……おい、そんな目で睨むな。空腹なのに重いもの食べたら後で吐く羽目になるぞ。とりあえず、消化にいいものから手をつけろ」 濃厚なソースにまみれた肉に釘付けになっているツグミにエルベルトはそう言うと、ナイフとフォークを手に取り食事を始める。 ちなみにエルベルトの前には、血の滴る分厚いステーキがある。「ひもじい思いをしている前で、良く肉をがっつけますね。良心が痛まないんですか?」「痛むわけないだろ。俺は怪我人でもなければ、飢え死にしそうなほど空腹でもないからな」 しれっと答えたエルベルトは、ひと口大に切った肉を自分の口の中に放り込む。一つ一つの仕草が洗練されていて、彼の育ちの良さを感じさせる。 しばらくエルベルトの洗練された食事風景を鑑賞していたが、どうあっても肉を与えてもらえる気配はない。「……いただきます。薄いスープをいただきます……」「ああ。ゆっくり飲め」「ゆっくり……できるかなぁ……」 不安を抱えながらツグミは、スプーンを握ってスープを口に含む。「っ……!?……っ……!!」 薄味だが、信じられないくらい美味だった。 感動したツグミは、そこから無心にスープを口に運ぶ。気づいた時には皿は空になっていた。「あの、お代わりをお願いできる権利って、私にありますか?」「ある。だがなぁ」 変なところで言葉を止めたエルベルトは、フォークをテーブルに置くと頬杖をついた。「……良く平気で俺が出したものを口にできるよな。お前」「え?……平気って何が?」 首をコテンと横に倒したツグミは、本当に意味が分からない。 しかしエルベルトには、とぼけているように見えたようだ。「暗殺者が用意したメシだぞ。この中に
last update最終更新日 : 2025-10-05
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予想外の再会からの、あれやこれ⑦

「ごちそうさまでした」 手を合わせて、頭を下げる。フォンハール帝国には無い習慣だが、ツグミの母が毎度そうしていたので、自然に身についてしまった。 初めて目にする人は不思議な顔をするけれど、エルベルトは動じない。 そこに疑問を抱くべきなのだが、ツグミは別のことで頭がいっぱいで気がつかなかった。(……で、これからどうしよう) 知り合いならともかく、エルベルトは暗殺現場に居合わせた自分を見逃してくれ、食事までごちそうしてくれた。 ごちそうを前にしてスープだけしか食べれなかったことに思うところはあるけれど、それでも赤の他人に対してここまで親切にするとは──(なにか、あるよね) ただ憐れに思ったから?それとも殺す価値すらないと判断された?  その可能性は十分ある。なによりエルベルトは、なんだかんだいって優しい。でも見返りのない優しさは、警戒すべきだ。 ツグミはさりげなく周囲を探る。壁際に数人の使用人がいるとはいえ、食堂の出入口には誰もいないし、扉はほんの少しだけ開いている。 まるでエルベルトが、逃げたいなら逃げてもいいよと訴えているようだが──そういうことをされたら、逃げるような真似はしたくない。 ツグミはおもむろに立ち上がると、エルベルトの元に近づいた。「そろそろ、落ち着いた?」「ああ。こんなに笑ったのは、久しぶりだ。おかげで腹筋が痛くてたまらない」「笑うと血行が促進され、免疫力が向上して、ストレスが減って、脳の活性化にも繋がるんです。腹筋痛は残念ですが、トータル的には心と身体にいい効果をもたらしたんで、まぁ良かったですね。で、真面目な話……できますか?」 最後は口調を変えてツグミが尋ねれば、エルベルトも真顔になった。「できる。まずはお前の話を聞こう」 促され、ツグミは気持ちを落ち着かせるために小さく咳ばらいをしてから口を開く。「えっとね、まず……さっきも言ったけど路地裏でのこと……私は何も見てない。何も知らない。誰かに訊かれてもそう答える。あなたにもさっきのことは一生問い詰めない。ここで全部忘れることにする」「ああ」「それとね、これもさっき言ったことだけど、私ちょっと事情があって人から忘れられやすい体質なの。だからこうしてあなたとお話してても、明日の朝にはぼんやりとしか思い出せないと思う。だから、諸々不安かもしれないけど、安心
last update最終更新日 : 2025-10-06
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