『君と交わした約束は、たとえ君を忘れても絶対に守るよ。その代わり私が約束を守ったら絶対に会いに来てくれ』
敵国ヴォルテスの最低限の尊厳を守るために、アレクセルとツグミはそんな約束を交わした。
そしてアレクセルは約束通り、ヴォルテス国第一王女──ラルレーロと婚約した。
忘却魔法を受けてもアレクセルが約束を守ってくれたのは、交わした約束そのものが、彼自身の願いだったからだろう。
これでヴォルテスは国名は失ってしまう、文化と思想は守られる。敵国とはいえ、同じ人間だ。奪うばかりでは、憎しみの連鎖はいつまで経っても消えることはない。これは、ツグミの母の教えだ。
そしてツグミの母──香苗は、約束は”人と人との絆を繋ぎ続けるもの”だと教えてくれた。
だからツグミは、アレクセルとの約束を守るために帝都に向かうことにした。彼の記憶の中に自分がいなくても、絆を断ち切りたくないという思いがある限り、約束は有効なのだ。
とはいえ、まさかこんなことになるとは思ってもみなかった──
「……はぁーーー、やっぱり神殿で休ませてもらえばよかった……」
心の底から悔いる声を出したツグミは、帝都の道端でしゃがんだまま夜空を見上げる。もう立ち上がる気力も体力も残っていない。
森を抜けて辻馬車を拾ったツグミは、その日のうちに帝都の宿に泊まるはずだった。
しかし5日前の豪雨で、王都への主要道路は土砂崩れによって馬車は通行不可。移動手段は徒歩に限られてしまった。
仕方なく荷物を抱えて歩き始めたツグミだが、今度は誘拐されかけた。我が身は無事だったが、荷物は奪われ一文無し。
それでも帝都に行けば何とかなる精神で、ここまで歩いてきたけれど、なんとかなるわけがなかった。
唯一の救いは、季節が秋の初めだったこと。これが冬なら、死んでいる。
きゅるぅぅぅぅ。
森の中の神殿で配った炊き出しスープを思い出したら、豪快にお腹が鳴ってしまった。しんとした夜の街に、ツグミのお腹の音が無駄にこだまする。
なだめるようにお腹をさすってみるが、再び「ぎゅーるぅぅぅーー」とエグイ音がした。
惨めな気持ちをため息で誤魔化したツグミは、膝を抱えて蹲る。
この一年もの間、無事でいられたのは、ただ運が良かっただけだった。こんな痛い目を見てから、己の思い上がりに気づくなんて、なんて愚かな人間なのだろう。
(……恥ずかし)
アレクセルが、頑として忘却魔法を拒んだのも頷ける。ごめんなさい。
しかし、過去を悔いても仕方がない。とりあえず餓死しかけてはいるが、死んではいない。しっかり反省したから、次はちゃんと気を付けよう。
朝になれば、きっとどこかで炊き出しがある。治療師だって不足しているはずだから、こんなボロボロの身なりでも雇ってもらえるだろう。だから、もうこれ以上落ち込む必要はないのだ。
そんなふうにツグミが涙目で自分を励ましていると、足首に暖かい何かが巻きついてきた。
緩慢に顔を上げると、そこには黒い塊……じゃなくて、黒猫がいた。
「お前、どこから来たの?」
しゃがんで黒猫の頭を撫でながら尋ねてみる。
──にゃーにゃーん……。
当然、何を言ってるのかわからない。
ただ黒猫は随分と人馴れしていて、ツグミが撫で回しても嫌がるどころか、喉をゴロゴロ鳴らして、離れる気配がない。
どこの世界でも、モフモフした生き物は癒される。
「朝まで一緒にいよっか?」
──にゃーん……。
猫語がわからないツグミは、同意してくれたのだと都合よく受け止める。
お礼に、朝になったら黒猫の飼い主を探してあげよう。万が一、飼い主が見つからなかったら、引き取ろう。そうなると、住まいを探さないと。
ダラダラ続いた旅も、そろそろ終わりする時期がきたか。黒猫を相棒にして故郷の村に似た街でも探すかと思ったが、黒猫はスンと路地裏に入り込んでしまった。
ツグミは慌てて、黒猫の後を追う。
「ちょっと、待って!待ってよ、猫ちゃん」
追いかけるツグミを弄ぶように、黒猫は走ったかと思えば、急に止まる。
猫は気まぐれな生き物だとわかっているが、この挑発行為に何かのスイッチが入ったツグミは、靴擦れで痛む足を引きずりながら追いかけ続ける。
気づけば、裏路地の奥まで入り込んでしまった。帝都にだって、治安の悪い場所はある。一度痛い目にあっているツグミは、諦めて戻ろうとする。
しかし角を曲がった瞬間、見てしまったのだ。殺人現場というものを……。
最初はそれが殺人だと気づかなかった。黒づくめの男が、軍服を着た壮年の男性と、すれ違おうとしているだけだった。とても自然で、夜の帳が下りた街にすんなりと収まっていた。
でも二人がすれ違った瞬間、二人がいる空間だけ別の世界に切り取られてしまった。微かにうめき声をあげた軍服の男は、どさりと音を立てて倒れたのだ。
「……っ……!?」
ツグミは、声にならない悲鳴をあげた。
倒れた軍服の男から、じわじわと血が滲み、あっという間に血だまりになったのだ。開いたままのその目は、もう何も映していない。
瞬時に即死と理解したが、ツグミは一縷の望みをかけて倒れた男に近づいた。そして、小さく息を吞む。
「……カザード小隊長」
こちらに顔を向けたまま息を引き取った軍服の男を、ツグミは知っていた。
恐ろしく無口で、最前線で戦う精鋭部隊の側近で、部隊長が視界に入れば、おのずとカザードも視界に入ってくる──ただそれだけの間柄だった。
そんな彼は、驚いた表情のまま動かない。もしかしたら、自分が死んだことすら気付いていないのかもしれない。
それぐらい手際よく、黒づくめの男はカザードを殺した。こういう殺し方を、一般的に暗殺というのだろう。
でも、どうして?なんで?彼は殺されないといけなかったのだろう。なにか悪いことをした?恨まれるような真似をした?
記憶をどれだけ探っても、思い当たる節はないと結論を下そうとしたツグミだが、一つだけ見つけてしまった。カザードは、多くのヴォルテス国民を殺した。
(なら……黒づくめの男は、ヴォルテス国民ってこと!?)
ツグミが最悪な答えに辿り着きそうになったその時、ざわりと突き刺さるような視線を感じた。
ガクガク震えながら、視線をそこに向ける。予期してはいたが、思いっきり暗殺者と目が合ってしまった。
暗殺者は、目撃者がいることに驚いたのだろう。これ以上ないほど目を見開き一瞬、何かを呟いたが、ツグミはその言葉を拾うことができなかった。
なぜならツグミは、暗殺者以上に驚いていたから。
声にこそ出さなかったけど「ええええええええええっっっーーーーー!!」っと、心の中で絶叫しまくっていた。
「……なんで?」
ツグミの掠れ声が、闇夜にかき消される。
さっきまで驚愕していた顔が、違うものに変わった。漆黒の瞳が揺らぎ、荒れた小さな手が小刻みに震える。
フードからのぞく暗殺者の瞳は、ツグミがこの世界で、一番綺麗だと思った藤色。
この瞳の持ち主を、ツグミが忘れることも、見間違うこともない。
誰もが諦め、絶望した、血にまみれた瓦礫の中で、光を届けてくれた人。聖女ツグミの恩人であり、最強の護衛騎士──エルベルト・ラウロ。
彼がどうして暗殺者となったのかツグミには知る由もないが、これだけは神様に訴えたい。
こんな再会、ナシよりのナシだ!!
「ほんと、違うから!ダンデさんから、エルベルトさんが戻ってきたって教えてもらって、すぐにここに来ただけなの!エルベルトさんがお風呂入ってるって知らなかったし!知ってたら部屋に入らなかったし、廊下で待ってたし!」 言い訳をすればするほど、部屋は微妙な空気になっていく。(ああ、もうっ!!) 何も言ってくれないエルベルトに、苛立ちが募る。 地団太を踏みたくなるツグミだが、心の隅で「あれ?」と自分自身に対して疑問を持つ。(私、なんで恥ずかしがってんの??) 異性の上半身裸の姿なんて、これまで嫌というほど目にしてきた。治療のために、時には自分でシャツや肌着をむしり取ったし、ズボンまで脱がせた経験は数知れない。 でも一度たりとも、恥ずかしいとは思わなかった。こんな赤面して、無意味な言い訳を並べまくることなんて自分じゃないみたいだ。「おい、ずっとそこにいる気か?」「っ……!」 不機嫌なエルベルトの声で、ハッと我に返ったツグミは再び彼の裸体をガン見してしまった。 美しく盛り上がった胸筋、綺麗に割れた腹筋。まだちゃんと髪を乾かしていないせいで、首筋からお湯が滑り流れて、彫刻のような彼の身体に艶めかしさを加えている。「っ……!!」 やっぱり恥ずかしいと、ツグミは声にならない悲鳴を上げる。 なら部屋を出ていけばいいのだが、ツグミはそうしたくない理由があった。「うん、ここにいる。だから早く服着て」「図々しいな」「わかってる。でも、出ていかない」 だってちょっと目を離したすきに、またエルベルトが逃げるかもしれないから。 そんな気持ちを声に出せない代わりに、ツグミは目についた椅子にドスンと座る。「安心して、薄目でいてあげるから」「なんだそれ、却下だ。俺は他人がいる部屋では着替えをしない主義だ」 折衷案を提示したのに、すげなく断られてしまった。「……でも、出ていきたいない」 シュンと肩を落として最後の主張をすれば、エルベルトは小さく息を吐く。 呆れられたかな?それとも嫌われたかな?と不安に思うツグミに、エルベルトは近づくと手を伸ばし頭をポンポンと叩いた。「執務室で待ってろ。すぐに行く」「ほんと?」「ああ」 強く頷いたエルベルトから、嘘の匂いは感じられなかった。 なら、信じるしかない。「わかった、すぐ来てね。でも、ちゃんと身体拭いて、
『今は身体を癒すのが仕事だ』 エルベルトの言葉に従って、ツグミは一ヶ月ほど療養に専念した。 おかげで、身体がびっくりするほど軽くなった。夜中に、何度も起きることはなくなった。ちょっとの物音で、過敏に反応しなくなった。気合を入れなくても、眩暈を起こさなくなった。 医者も認める健康な身体を手に入れることができたツグミは、その頃になって自分はかなり疲れていて、疲れすぎて体の不調すらわからなくなっていたことを知った。「もぉーおぉーーー!ツグミ様は、医者の不養生だったのですねぇー」 顔色が良くなったツグミに薬膳茶を淹れながら、侍女のルインは頬を膨らませる。 しかし鏡台に座るツグミは、反省するどころか「いやぁー照れるな」とモジモジする。「あの……なぜ、喜ぶのですか?」 ツグミの髪を結いながら、リビナは奇怪な虫を見るような目つきになる。鏡越しでも、その視線はちょっと胸に刺さる。 「……だって一人前の治療師って認められたような気がしたから」 ツグミが素直な気持ちを吐き出した途端、ルインとリビナは同時に変な顔をした。さすが双子。そういうところは、息ピッタリだ。(それにしてもさぁ……) 二人の微妙なリアクションをスルーして、ツグミは小さく息を吐く。 助手というのは上司の雑用をこなすのが一般的なのに、医者が「もう大丈夫」と太鼓判を押した今でも、ツグミは上げ膳据え膳の生活が続いてる。 ルインとリビナに起こされ、二人がかりで身支度をされ、食堂に行けばいつでも美味しい料理が用意され、自ら掃除をしなくても屋敷は常に清潔に保たれている。 両親と過ごしていた頃は小さな家に住んでいたとはいえ、母親の手伝いを率先してやっていたし、父の厳しい白魔法の指導も頑張って受けていた。 聖女時代は、二年という月日があっという間だと思えるほど、毎日がバタバタのピリピリだったし、その後は治療師としてそれなりに忙しかった。 とどのつまり、のんびりした時間を過ごすことがなかったツグミは、助手という肩書をもらった途端、こんなに暇な生活になってとても戸惑っている。 豪奢なエルベルトの屋敷は、庭だって無駄に広い。 それらを執事のダンデと数人の使用人で切り盛りしている。貴族の生活がどのようなものかはわからないが、さすがに過酷だ。母が生まれ育った世界で言うならブラック企業というものだ。 今
ピチチ、ピチッ……チュンチュン……。 鳥のさえずりと、窓から差し込む朝日の眩しさで、ツグミは目を覚ました。 懐かしい夢の余韻から抜け出せないまま、枕から頭を上げずに数回瞬きをする。見慣れない天井と、微かに薬品の香りが漂う。(……ここ、どこ?) 意識が完全に覚醒していないツグミは、ぼんやりと辺りを見渡し、視線が一か所に留まった。「起きたようだな」 窓枠にもたれて外を見ていたエルベルトは、ツグミの視線に気づいてベッドに近づいてくる。「3日も意識が戻らなかった。どうしたらこんなボロボロの身体になるんだと、医者が呆れてたぞ」 口調こそ不機嫌だが、エルベルトの目の下にはひどい隈がある。こちらを見つめる表情は、心から安堵しているようだ。 心配かけたことに、くすぐったさと申し訳なさを抱えるツグミだが、口から出た言葉は全く違うものだった。「私が、誰だかわかるの?」「いうに事欠いて、それかよ」 なんだコイツ、という視線が痛い。でもエルベルトのその表情と、言葉が泣きたくなるほど嬉しい。「ありがとう。私のこと、覚えててくれて」 忘却魔法の副作用は自業自得だから、悲しんでも悔やんでも仕方がない。そう自分に言い聞かせて、諦めていた。 でも、ちゃんと覚えてくれる人がいたという現実は、身体の力が全て抜けるほど安堵する。「……当たり前じゃないか」 ツグミの呟きで、一度動きを止めたエルベルトだが、大股でベッドの前に立つ。「俺が、お前を忘れることはない」「……名前はお忘れのようですけど?」「お前の名前は、カナ。しゃびしゃびのスープがご不満だった流れの治療師。これでいいか?」 完璧な返答に、ありがとうと言うべきだ。でもツグミは、エルベルトがスープのことをまだ根に持っていたことに、ちょっと引いてしまう。「言っておくが、しばらくはスープ生活が続くぞ」「嘘!なんで!?まだ助手の仕事をしてないから??」 なら、今すぐにでも働かせてほしい。 食堂のテーブルにあった血の滴るステーキを思い出したツグミは、ガバリと起き上がる。しかし、すぐに強い眩暈に襲われて蹲った。「おいこら!無理をするな」「……肉」 エルベルトは、ツグミの肉への執着に降参した。「わかった、わかった。軟らかく煮た肉を用意するから、頼むから動かないでくれ」 はぁーと溜息を吐きながら、エルベル
新月の草原は、空と地平線の境目が曖昧で、ぽっかり自分が宙に浮いている感覚になる。 でも時折、草原独特の草と土の香りを孕んだ風と、さわさわと揺れる草々の音が、ここが地上なんだと教えてくれる。 空を見上げれば星があって、風は同じように吹いている。敵国ヴォルテスの民にも、同じ夜空が広がっているはずだ。 それなのに、どうして争っているのだろう。皆、平和を望んでいるというのに。 こんな風に漠然とした疑問を持てるようになったのは、自分に余裕が生まれたからなのだろう。そして、こんな闇夜でも外に出れるようになったのは、戦況が好転した何よりの証拠だ。「ツグミ様。風が冷たくなってきましたので、天幕にお戻りください」 振り向けば、リュリーアナが布を手にして立っていた。連日の戦いで疲れているはずなのに、リュリーアナは鎧を脱ぐことはない。帯剣もずっとしたままだ。 重いそれを絶えず身に着けているというのに、ちっとも疲労の色をみせない。向けられる視線は、凪いだ海のように穏やかだ。「ありがとう。でも、もう少しここにいていい?」 戻りたくない理由はないが、なんとなく、まだここにいたい。 そんな曖昧なツグミの気持ちを汲み取ったリュリーアナは、穏やかに微笑んだ。「もちろんです。でもその代わり、これを」 リュリーアナはそう言って、手に持っていた布をふわりと肩に掛けてくれた。なるほど、これはストール代わりに持ってきてくれたものか。 今のツグミは聖女の衣装ではなく、膝下までのシンプルなワンピースを着ている。 なぜ、聖女の衣装ではないのかというと、それは単純にツグミがすぐに汚すからだ。 聖女になった当初はそうあろうと努力して、ずっと聖女の衣装を身につけていた。けれど、裾を踏んでコケて泥を付けるし、食事中に食べこぼしをしてシミを作ってしまう。 大切な衣装だから気を付けてはいるが、なにぶん白というのは汚れが目立つ。もちろん汚したのは自分だから己の手で洗おうとするが、リュリーアナがそれを許さなかった。 貴族出身の彼女がジャブジャブ洗濯するのを何度も目にして、必要最低限の時しか着ないことに決めた。ツグミのその主張は、満場一致で可決された。 今、ツグミが着ているのはワンピースといったけど、実はサギルの上衣だ。サギルなら太股までのこの服も、ツグミが着れば膝下丈のワンピースにな
「エルベルトさんから助手をやれって誘ったくせに、なんか嫌っぽく見えるのは私の気のせい?」 拗ねたツグミは、わざと可愛げのない質問をしてやった。「まさか。カナほど適任者はもう二度と現れないと断言できる」 真顔で答えるエルベルトに、ツグミは面倒くさい質問を重ねる。まだちょっとだけ、腹の虫がおさまらないのだ。 「ふぅーん……私、暗殺なんてしたことないのに?」「だろうな。見るからにどんくさそうだし」「その通りですけど、もう少し言葉選びません?」「すぐカッとなるところも暗殺に向いてないな」「自分だってすぐ怒るくせに」「俺はカナに合せてやってるんだ」「……へぇ」 その割には目が本気でしたけど?と言い返そうと思ったが、やめた。ツグミだって、もう子供じゃないのだ。「助手っていっても、カナは人殺しには関与しなくていい。俺の雑務をやってくれればいいだけだ」「例えば?」「……うーん……そうだなぁ……まぁ、その時になったらで」 言葉を濁すエルベルトに、ツグミは少々不安を覚えてしまう。 しかしポジティブに考えるなら、すぐに助手の使用方法がわからないというのは、しばらく暗殺をする予定がないということだ。 正直、そっちのほうがありがたい。「わかった。じゃあその時は頑張る」 任せて!と言いたげにツグミは自分の胸を軽く叩いたが、エルベルトは思いつめた表情を浮かべた。 てっきり「ああ。期待してる」と、ニヒルな笑みを返されると思っていたのに。「ねぇ……どうし……っ……!」 エルベルトの顔を覗き込もうとした瞬間、素早い動きで手首を掴まれてしまった。「一度だけ、訊く」「う、うん」「本当にいいのか?」 エルベルトの藤色の瞳が、心の奥底まで見透かしているようで、ツグミはソワソワしてしまう。「この提案は俺にとったらとてつもなく僥倖だが、カナにとったら違うことはわかっている。危険な目に合わせることはないと誓うし、カナが嫌だと思うことはしなくていい。だが断るなら、今だ。機会は一度しか与えない。慎重に考えてくれ」 胸の内を吐き出すエルベルトの声音は、少し震えていた。 この人は優しい。本当に、馬鹿みたいに優しい。 力でねじ伏せることも、権力で囲い込むことだってできるのに、こんな小娘に選択を委ねてくれる。(……あ、なんかこの表情、どっかで見たことある) 記
「ごちそうさまでした」 手を合わせて、頭を下げる。フォンハール帝国には無い習慣だが、ツグミの母が毎度そうしていたので、自然に身についてしまった。 初めて目にする人は不思議な顔をするけれど、エルベルトは動じない。 そこに疑問を抱くべきなのだが、ツグミは別のことで頭がいっぱいで気がつかなかった。(……で、これからどうしよう) 知り合いならともかく、エルベルトは暗殺現場に居合わせた自分を見逃してくれ、食事までごちそうしてくれた。 ごちそうを前にしてスープだけしか食べれなかったことに思うところはあるけれど、それでも赤の他人に対してここまで親切にするとは──(なにか、あるよね) ただ憐れに思ったから?それとも殺す価値すらないと判断された? その可能性は十分ある。なによりエルベルトは、なんだかんだいって優しい。でも見返りのない優しさは、警戒すべきだ。 ツグミはさりげなく周囲を探る。壁際に数人の使用人がいるとはいえ、食堂の出入口には誰もいないし、扉はほんの少しだけ開いている。 まるでエルベルトが、逃げたいなら逃げてもいいよと訴えているようだが──そういうことをされたら、逃げるような真似はしたくない。 ツグミはおもむろに立ち上がると、エルベルトの元に近づいた。「そろそろ、落ち着いた?」「ああ。こんなに笑ったのは、久しぶりだ。おかげで腹筋が痛くてたまらない」「笑うと血行が促進され、免疫力が向上して、ストレスが減って、脳の活性化にも繋がるんです。腹筋痛は残念ですが、トータル的には心と身体にいい効果をもたらしたんで、まぁ良かったですね。で、真面目な話……できますか?」 最後は口調を変えてツグミが尋ねれば、エルベルトも真顔になった。「できる。まずはお前の話を聞こう」 促され、ツグミは気持ちを落ち着かせるために小さく咳ばらいをしてから口を開く。「えっとね、まず……さっきも言ったけど路地裏でのこと……私は何も見てない。何も知らない。誰かに訊かれてもそう答える。あなたにもさっきのことは一生問い詰めない。ここで全部忘れることにする」「ああ」「それとね、これもさっき言ったことだけど、私ちょっと事情があって人から忘れられやすい体質なの。だからこうしてあなたとお話してても、明日の朝にはぼんやりとしか思い出せないと思う。だから、諸々不安かもしれないけど、安心