この神殿に常駐している神官は三人。しかし、治癒魔法が使えるのは、一人だけ。残りの二人も多少は医学の心得があるが、魔法に比べれば手当はどうしても遅くなる。
「はいはい!じゃんじゃん治させていただきますよ!」
唯一治療魔法を使える神官は仮眠中なので、今はツグミが頼りの綱だ。
技術面では中の上クラスの治癒魔法しか使えないツグミだが、あまたの激戦区を駆け抜けたおかげで、魔力量だけは自信がある。
気が付けば日は沈み、窓の向こうは暗闇だ。一体どれだけ治癒魔法を使い続けたかわからない。でも、確実に負傷者の数は減っている。
「カナ様、このお方が最後の怪我人です」
神官の一人に声をかけられ、ツグミはベッドの隙間をすり抜け小走りで向かう。
「やっと来たかよ、天使さん。待ちくたびれて、自力で天国に行っちまうところだった。はは……」
笑えない冗談を飛ばす青年と呼ぶには微妙な年頃の義勇兵は、片目を負傷して顔半分が包帯で隠れている。出血の量からして、失明は免れないだろう。
「おじさん、あのね」
「言葉に気をつけろ。俺は、まだ29だ!お兄さんと呼べ」
「失礼。お兄さん、あのですね」
「待て。やっぱロイドと呼んでくれ」
「……ロイドさん、あのですね。提案があるんですけど、聞いてもらえます?」
「この状況でか?」
「死にかけている状態で呼び方にケチ付けるような人に、状況云々言われたくないんですけど……」
ツグミがつい思ったままを口にすれば、へへっとロイドは誤魔化し笑いをする。
眼球破損は失神レベルの痛みのはずなのに、すごい余裕だ。
一向に話が進まないことに苛立つよりも、ロイドの強靭な精神力に感心してしまう。彼ならきっと、この提案を受け入れてくれるだろう。
「時間が惜しいんで、端的に言います。やってみたい治療があるんだ。失敗すれば失明確定で、成功すれば視力を取り戻せるんだけど──」
「やらない理由なんてないだろ?天使さん」
「ですよね」
食い気味にうなずいたツグミは、ローブのポケットから透明な球体を取り出す。
どっかの村で治療のお礼にもらったガラス玉だ。透明な球の真ん中に青い石があるこれは、眼球代わりにするのに色も大きさもちょうどいい。
おいおい、なにするんだ?というロイドの不安な視線を無視して、ツグミはガラス玉を両手に包んで魔力を注ぎ入れる。
ツグミが持つ魔力のないものに魔力を付与できる能力の対象は、人に限らない。手に触れられる全てのものだ。
「よし、いい感じ」
手のひらにあるガラス玉は、持ち主に視力を与える魔法石になった。
「……な、なぁ……天使さん。まさか、それを……」
カタカタ震えだしたロイドに、ツグミはニンマリと笑う。
「うん、潰れた目のところに突っ込むね」
「おい、待て!嘘だろ!?」
ギョッとしたロイドだが、時すでに遅し。
戦場で培った剥ぎ取りスキルで、あっという間にロイドの包帯を解いたツグミは、迷いなくロイドの潰れた側の目の窪みに魔法石を押し込んだ。
「ぅ……!ぅあっ……!!」
ロイドが苦痛に顔を歪める。傷口に異物を押し込められているのだ。失神しても、失禁しても、最悪ショック死してもおかしくはない。
しかしロイドは、意識を保ってくれている。かなりギリギリの状態だが。
「……お、おい……天使さん、不意打ちは……良くないな。小悪魔かよ」
「ごめん。でも、もう終わったから」
最後の力を振り絞ってロイドがギロリと睨んだ瞬間、ツグミは両手をパッと離した。
「ん……え?……ぅえ??」
急な状況変化についていけないロイドは、唖然としたままツグミを見つめている。彼の負傷した側の瞳は少々色が異なるが、それでも魔法石は違和感なく身体に定着してくれた。
とはいえ、完全に成功したかどうかは、本人に自主申告してもらわないとわからない。
「どう?ちゃんと見える?」
「あ、ああ……」
「痛みはどう?おまけで、痛覚遮断魔法もかけたんだけどが効いてる?」
「あ、ああ……」
同じ返事しかしてくれないロイドだが、片目をつぶったり、遠くを見て「すげぇ」とか言ってるから、おそらく成功したのだろう。
「良かったぁー。久しぶりにやったから、めっちゃ緊張したぁー」
ホッと胸をなでおろすツグミに、ロイドは微妙な顔をする。
「あんた、すげぇな。こんな魔法、どこで覚えたんだ?」
「戦場」
「……へぇ」
半信半疑のロイドの視線から逃げるように、ツグミは「お大事に」と言い残して逃げるように神官の元に向かう。
危ない、危ない。これ以上詳しく訊かれたら、うっかりボロを出すところだった。忘れられやすい体質になったとはいえ、慎重に越したことはない。
それに土色の顔色をした神官には、治癒魔法が必要なのは嘘じゃない。
それから朝日が昇るまで、ツグミは怪我人の看病をし続けた。
「──じゃあ、私はこれで」
すっかり朝になって、神官三名の顔色が元に戻ったのを確認したツグミは、荷物をまとめて神殿の外に出る。
「あの……少し休まれてからの方がよろしいのでは?女性が休むのには快適とは言い難い部屋しかありませんが」
見送りに来てくれた神官の一人からの申し出に、ツグミは笑顔で首を横に振る。
「ありがとうございます。でも、お気持ちだけで。実は私、帝都にちょっと用があって、急ぎたいんです」
「……さようでございますか」
名残惜しそうな顔をする神官だが、引き留める理由が見つからなかったのだろう。
神官三人は胸に手を当て、浅く頭を下げた。対等のものに対して感謝の意を表す礼だ。ツグミも同じように返す。
「あなたの旅路に幸あらんことを」
「皆さんと怪我人に癒しと祝福があらんことを」
互いに互いの幸福を祈り、ツグミは森を抜けて辻馬車を拾った。
目指すは帝都ネルシア。皇帝アレクセルの婚約を祝福するために──
「ほんと、違うから!ダンデさんから、エルベルトさんが戻ってきたって教えてもらって、すぐにここに来ただけなの!エルベルトさんがお風呂入ってるって知らなかったし!知ってたら部屋に入らなかったし、廊下で待ってたし!」 言い訳をすればするほど、部屋は微妙な空気になっていく。(ああ、もうっ!!) 何も言ってくれないエルベルトに、苛立ちが募る。 地団太を踏みたくなるツグミだが、心の隅で「あれ?」と自分自身に対して疑問を持つ。(私、なんで恥ずかしがってんの??) 異性の上半身裸の姿なんて、これまで嫌というほど目にしてきた。治療のために、時には自分でシャツや肌着をむしり取ったし、ズボンまで脱がせた経験は数知れない。 でも一度たりとも、恥ずかしいとは思わなかった。こんな赤面して、無意味な言い訳を並べまくることなんて自分じゃないみたいだ。「おい、ずっとそこにいる気か?」「っ……!」 不機嫌なエルベルトの声で、ハッと我に返ったツグミは再び彼の裸体をガン見してしまった。 美しく盛り上がった胸筋、綺麗に割れた腹筋。まだちゃんと髪を乾かしていないせいで、首筋からお湯が滑り流れて、彫刻のような彼の身体に艶めかしさを加えている。「っ……!!」 やっぱり恥ずかしいと、ツグミは声にならない悲鳴を上げる。 なら部屋を出ていけばいいのだが、ツグミはそうしたくない理由があった。「うん、ここにいる。だから早く服着て」「図々しいな」「わかってる。でも、出ていかない」 だってちょっと目を離したすきに、またエルベルトが逃げるかもしれないから。 そんな気持ちを声に出せない代わりに、ツグミは目についた椅子にドスンと座る。「安心して、薄目でいてあげるから」「なんだそれ、却下だ。俺は他人がいる部屋では着替えをしない主義だ」 折衷案を提示したのに、すげなく断られてしまった。「……でも、出ていきたいない」 シュンと肩を落として最後の主張をすれば、エルベルトは小さく息を吐く。 呆れられたかな?それとも嫌われたかな?と不安に思うツグミに、エルベルトは近づくと手を伸ばし頭をポンポンと叩いた。「執務室で待ってろ。すぐに行く」「ほんと?」「ああ」 強く頷いたエルベルトから、嘘の匂いは感じられなかった。 なら、信じるしかない。「わかった、すぐ来てね。でも、ちゃんと身体拭いて、
『今は身体を癒すのが仕事だ』 エルベルトの言葉に従って、ツグミは一ヶ月ほど療養に専念した。 おかげで、身体がびっくりするほど軽くなった。夜中に、何度も起きることはなくなった。ちょっとの物音で、過敏に反応しなくなった。気合を入れなくても、眩暈を起こさなくなった。 医者も認める健康な身体を手に入れることができたツグミは、その頃になって自分はかなり疲れていて、疲れすぎて体の不調すらわからなくなっていたことを知った。「もぉーおぉーーー!ツグミ様は、医者の不養生だったのですねぇー」 顔色が良くなったツグミに薬膳茶を淹れながら、侍女のルインは頬を膨らませる。 しかし鏡台に座るツグミは、反省するどころか「いやぁー照れるな」とモジモジする。「あの……なぜ、喜ぶのですか?」 ツグミの髪を結いながら、リビナは奇怪な虫を見るような目つきになる。鏡越しでも、その視線はちょっと胸に刺さる。 「……だって一人前の治療師って認められたような気がしたから」 ツグミが素直な気持ちを吐き出した途端、ルインとリビナは同時に変な顔をした。さすが双子。そういうところは、息ピッタリだ。(それにしてもさぁ……) 二人の微妙なリアクションをスルーして、ツグミは小さく息を吐く。 助手というのは上司の雑用をこなすのが一般的なのに、医者が「もう大丈夫」と太鼓判を押した今でも、ツグミは上げ膳据え膳の生活が続いてる。 ルインとリビナに起こされ、二人がかりで身支度をされ、食堂に行けばいつでも美味しい料理が用意され、自ら掃除をしなくても屋敷は常に清潔に保たれている。 両親と過ごしていた頃は小さな家に住んでいたとはいえ、母親の手伝いを率先してやっていたし、父の厳しい白魔法の指導も頑張って受けていた。 聖女時代は、二年という月日があっという間だと思えるほど、毎日がバタバタのピリピリだったし、その後は治療師としてそれなりに忙しかった。 とどのつまり、のんびりした時間を過ごすことがなかったツグミは、助手という肩書をもらった途端、こんなに暇な生活になってとても戸惑っている。 豪奢なエルベルトの屋敷は、庭だって無駄に広い。 それらを執事のダンデと数人の使用人で切り盛りしている。貴族の生活がどのようなものかはわからないが、さすがに過酷だ。母が生まれ育った世界で言うならブラック企業というものだ。 今
ピチチ、ピチッ……チュンチュン……。 鳥のさえずりと、窓から差し込む朝日の眩しさで、ツグミは目を覚ました。 懐かしい夢の余韻から抜け出せないまま、枕から頭を上げずに数回瞬きをする。見慣れない天井と、微かに薬品の香りが漂う。(……ここ、どこ?) 意識が完全に覚醒していないツグミは、ぼんやりと辺りを見渡し、視線が一か所に留まった。「起きたようだな」 窓枠にもたれて外を見ていたエルベルトは、ツグミの視線に気づいてベッドに近づいてくる。「3日も意識が戻らなかった。どうしたらこんなボロボロの身体になるんだと、医者が呆れてたぞ」 口調こそ不機嫌だが、エルベルトの目の下にはひどい隈がある。こちらを見つめる表情は、心から安堵しているようだ。 心配かけたことに、くすぐったさと申し訳なさを抱えるツグミだが、口から出た言葉は全く違うものだった。「私が、誰だかわかるの?」「いうに事欠いて、それかよ」 なんだコイツ、という視線が痛い。でもエルベルトのその表情と、言葉が泣きたくなるほど嬉しい。「ありがとう。私のこと、覚えててくれて」 忘却魔法の副作用は自業自得だから、悲しんでも悔やんでも仕方がない。そう自分に言い聞かせて、諦めていた。 でも、ちゃんと覚えてくれる人がいたという現実は、身体の力が全て抜けるほど安堵する。「……当たり前じゃないか」 ツグミの呟きで、一度動きを止めたエルベルトだが、大股でベッドの前に立つ。「俺が、お前を忘れることはない」「……名前はお忘れのようですけど?」「お前の名前は、カナ。しゃびしゃびのスープがご不満だった流れの治療師。これでいいか?」 完璧な返答に、ありがとうと言うべきだ。でもツグミは、エルベルトがスープのことをまだ根に持っていたことに、ちょっと引いてしまう。「言っておくが、しばらくはスープ生活が続くぞ」「嘘!なんで!?まだ助手の仕事をしてないから??」 なら、今すぐにでも働かせてほしい。 食堂のテーブルにあった血の滴るステーキを思い出したツグミは、ガバリと起き上がる。しかし、すぐに強い眩暈に襲われて蹲った。「おいこら!無理をするな」「……肉」 エルベルトは、ツグミの肉への執着に降参した。「わかった、わかった。軟らかく煮た肉を用意するから、頼むから動かないでくれ」 はぁーと溜息を吐きながら、エルベル
新月の草原は、空と地平線の境目が曖昧で、ぽっかり自分が宙に浮いている感覚になる。 でも時折、草原独特の草と土の香りを孕んだ風と、さわさわと揺れる草々の音が、ここが地上なんだと教えてくれる。 空を見上げれば星があって、風は同じように吹いている。敵国ヴォルテスの民にも、同じ夜空が広がっているはずだ。 それなのに、どうして争っているのだろう。皆、平和を望んでいるというのに。 こんな風に漠然とした疑問を持てるようになったのは、自分に余裕が生まれたからなのだろう。そして、こんな闇夜でも外に出れるようになったのは、戦況が好転した何よりの証拠だ。「ツグミ様。風が冷たくなってきましたので、天幕にお戻りください」 振り向けば、リュリーアナが布を手にして立っていた。連日の戦いで疲れているはずなのに、リュリーアナは鎧を脱ぐことはない。帯剣もずっとしたままだ。 重いそれを絶えず身に着けているというのに、ちっとも疲労の色をみせない。向けられる視線は、凪いだ海のように穏やかだ。「ありがとう。でも、もう少しここにいていい?」 戻りたくない理由はないが、なんとなく、まだここにいたい。 そんな曖昧なツグミの気持ちを汲み取ったリュリーアナは、穏やかに微笑んだ。「もちろんです。でもその代わり、これを」 リュリーアナはそう言って、手に持っていた布をふわりと肩に掛けてくれた。なるほど、これはストール代わりに持ってきてくれたものか。 今のツグミは聖女の衣装ではなく、膝下までのシンプルなワンピースを着ている。 なぜ、聖女の衣装ではないのかというと、それは単純にツグミがすぐに汚すからだ。 聖女になった当初はそうあろうと努力して、ずっと聖女の衣装を身につけていた。けれど、裾を踏んでコケて泥を付けるし、食事中に食べこぼしをしてシミを作ってしまう。 大切な衣装だから気を付けてはいるが、なにぶん白というのは汚れが目立つ。もちろん汚したのは自分だから己の手で洗おうとするが、リュリーアナがそれを許さなかった。 貴族出身の彼女がジャブジャブ洗濯するのを何度も目にして、必要最低限の時しか着ないことに決めた。ツグミのその主張は、満場一致で可決された。 今、ツグミが着ているのはワンピースといったけど、実はサギルの上衣だ。サギルなら太股までのこの服も、ツグミが着れば膝下丈のワンピースにな
「エルベルトさんから助手をやれって誘ったくせに、なんか嫌っぽく見えるのは私の気のせい?」 拗ねたツグミは、わざと可愛げのない質問をしてやった。「まさか。カナほど適任者はもう二度と現れないと断言できる」 真顔で答えるエルベルトに、ツグミは面倒くさい質問を重ねる。まだちょっとだけ、腹の虫がおさまらないのだ。 「ふぅーん……私、暗殺なんてしたことないのに?」「だろうな。見るからにどんくさそうだし」「その通りですけど、もう少し言葉選びません?」「すぐカッとなるところも暗殺に向いてないな」「自分だってすぐ怒るくせに」「俺はカナに合せてやってるんだ」「……へぇ」 その割には目が本気でしたけど?と言い返そうと思ったが、やめた。ツグミだって、もう子供じゃないのだ。「助手っていっても、カナは人殺しには関与しなくていい。俺の雑務をやってくれればいいだけだ」「例えば?」「……うーん……そうだなぁ……まぁ、その時になったらで」 言葉を濁すエルベルトに、ツグミは少々不安を覚えてしまう。 しかしポジティブに考えるなら、すぐに助手の使用方法がわからないというのは、しばらく暗殺をする予定がないということだ。 正直、そっちのほうがありがたい。「わかった。じゃあその時は頑張る」 任せて!と言いたげにツグミは自分の胸を軽く叩いたが、エルベルトは思いつめた表情を浮かべた。 てっきり「ああ。期待してる」と、ニヒルな笑みを返されると思っていたのに。「ねぇ……どうし……っ……!」 エルベルトの顔を覗き込もうとした瞬間、素早い動きで手首を掴まれてしまった。「一度だけ、訊く」「う、うん」「本当にいいのか?」 エルベルトの藤色の瞳が、心の奥底まで見透かしているようで、ツグミはソワソワしてしまう。「この提案は俺にとったらとてつもなく僥倖だが、カナにとったら違うことはわかっている。危険な目に合わせることはないと誓うし、カナが嫌だと思うことはしなくていい。だが断るなら、今だ。機会は一度しか与えない。慎重に考えてくれ」 胸の内を吐き出すエルベルトの声音は、少し震えていた。 この人は優しい。本当に、馬鹿みたいに優しい。 力でねじ伏せることも、権力で囲い込むことだってできるのに、こんな小娘に選択を委ねてくれる。(……あ、なんかこの表情、どっかで見たことある) 記
「ごちそうさまでした」 手を合わせて、頭を下げる。フォンハール帝国には無い習慣だが、ツグミの母が毎度そうしていたので、自然に身についてしまった。 初めて目にする人は不思議な顔をするけれど、エルベルトは動じない。 そこに疑問を抱くべきなのだが、ツグミは別のことで頭がいっぱいで気がつかなかった。(……で、これからどうしよう) 知り合いならともかく、エルベルトは暗殺現場に居合わせた自分を見逃してくれ、食事までごちそうしてくれた。 ごちそうを前にしてスープだけしか食べれなかったことに思うところはあるけれど、それでも赤の他人に対してここまで親切にするとは──(なにか、あるよね) ただ憐れに思ったから?それとも殺す価値すらないと判断された? その可能性は十分ある。なによりエルベルトは、なんだかんだいって優しい。でも見返りのない優しさは、警戒すべきだ。 ツグミはさりげなく周囲を探る。壁際に数人の使用人がいるとはいえ、食堂の出入口には誰もいないし、扉はほんの少しだけ開いている。 まるでエルベルトが、逃げたいなら逃げてもいいよと訴えているようだが──そういうことをされたら、逃げるような真似はしたくない。 ツグミはおもむろに立ち上がると、エルベルトの元に近づいた。「そろそろ、落ち着いた?」「ああ。こんなに笑ったのは、久しぶりだ。おかげで腹筋が痛くてたまらない」「笑うと血行が促進され、免疫力が向上して、ストレスが減って、脳の活性化にも繋がるんです。腹筋痛は残念ですが、トータル的には心と身体にいい効果をもたらしたんで、まぁ良かったですね。で、真面目な話……できますか?」 最後は口調を変えてツグミが尋ねれば、エルベルトも真顔になった。「できる。まずはお前の話を聞こう」 促され、ツグミは気持ちを落ち着かせるために小さく咳ばらいをしてから口を開く。「えっとね、まず……さっきも言ったけど路地裏でのこと……私は何も見てない。何も知らない。誰かに訊かれてもそう答える。あなたにもさっきのことは一生問い詰めない。ここで全部忘れることにする」「ああ」「それとね、これもさっき言ったことだけど、私ちょっと事情があって人から忘れられやすい体質なの。だからこうしてあなたとお話してても、明日の朝にはぼんやりとしか思い出せないと思う。だから、諸々不安かもしれないけど、安心