All Chapters of いつか風になる想い: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

父が亡くなって三日経っても、大野裕也(おおの ゆうや)は姿を見せなかった。「部長、決心がつきました。父の遺志を継ぎ、国の外交にこの身を捧げます」その言葉に男は一瞬虚を突かれ、諭すように言った。「本気かね?今の国内外の情勢は依然として厳しく、外交官は危険な仕事だぞ。それに、一度赴任すればいつ帰れるか分からない。ご主人は納得しているのか?」その言葉に私は一瞬固まり、父の形見である腕時計に視線を落とした。これは、父が遺してくれた思い入れの品だった。「困難は覚悟の上です。七日間だけお時間をください。身辺を全て片付けてまいりますので」外務省を出た私は、その足で裕也のオフィスへと向かった。ドアを開ける前に、中から裕也が彼の秘書と話す声が聞こえてきた。「課長、奥様が出かけられてからもう何日も経ちますが、少しも心配じゃないんですか?」裕也は顔も上げず、冷ややかに言った。「彼女はただの外出だけだ。帰ってこないわけでもあるまいし、別に大して気にすることでもないだろう。それに最近は公務が山積みで、そちらを片付けるだけで手一杯だ。そんなことを考えている暇はない」裕也の秘書はため息をついた。「では三浦さんのことは?彼女はただ足を捻っただけなのに、七日間も入院に付き添われる必要があったのですか?」男は眉をひそめ、持っていた万年筆を乱暴に置いた。「直美は特別なんだ」そう、三浦直美(みうら なおみ)は特別だ。裕也の幼馴染であり、妹のような存在なのだから。では、私は?私はただの、妻という肩書があるだけの他人なのだろう。結局、彼にとって私は妥協の選択肢に過ぎないのだ。そう思いながら、目頭が熱くなるのを堪え、私は息を深く吸い込んでドアを開け、やつれた顔で彼の前に出た。私の姿を見るなり、秘書は慌てて口実を見つけてオフィスを出て行った。裕也は私をチラッと見ると、何気ない口調で尋ねた。「何か用か?」七日間も家を空けていたというのに、彼は私がどこに行っていたのかも、なぜやつれた顔をしているかも、気に留めることがなかった。他の書類と混じれて私は離婚届を机の上にさりげなく置き、静かに口を開いた。「これにサインして」彼は一瞬戸惑い、私の冷たい態度に面食らったようだった。「なんのサインだ?それだけのた
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第2話

知らせを受け、私は気が動転し、裕也のオフィスに駆け込んで彼に懇願した。「裕也、一緒に海外へ行ってもらえない?お父さんが……」しかし、私が最後まで言い終えるを待たずに、ドアの外から直美の声が割り込んできた。「裕也さん、早く。買い物に付き合ってくれるって約束したじゃない」直美の声を聞いた途端、裕也は苛立ちを隠そうともせず、私の手を振り払って部屋を出て行き、一言だけ言い捨てた。「急用だ。先に行っててくれ。時間ができたら、連絡する」しかし、それから七日間、彼が来ることはなかった。そして、父が埋葬されるその日まで、「時間ができたら連絡する」という裕也からの連絡は一切なかった。私を迎えたのはただ息を引き取る直前に私の手を握りながら話す父の最後の言葉だけだった。「裕也くんはいい子だ。国のため、国民のために尽くしているのだから、忙しいのは当たり前だ。彼を責めないでやってくれ。帰っても彼と喧嘩するんじゃないぞ」でも、裕也が忙しいのは、仕事のせいじゃない。他の女に付き添っているからなのだ。涙を拭い、私は無表情のまま机に向かうと、書類の中から離婚届を引き出し、丁寧にしまった。いよいよここから離れる日までのカウントダウンが始まったのだ。あと六日。翌日、私は離婚届を役所に提出するとその足で部長である石田隆史(いしだ たかし)のオフィスへ向かった。「部長、私と裕也の離婚届出しました。もう受理されたから、ご報告させていただきました」それを聞くと隆史はお茶を飲む手を止め、まじまじと見つめてきた。そして、私が冗談を言っているわけじゃないと確信すると彼は深いため息をついた。「君と裕也くんは順調だと思っていたが……どうして、離婚なんてことになったんだ?」そう、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。私の父と裕也の両親は、古くからの付き合いで、長い間親しんだ仲だった。十八歳の時、父は仕事の都合で海外へ赴任することになった。その際、父は私を、若くして成功をおさめていた裕也に託したのだ。彼は将来を嘱望されたエリート一で、そして私も外務省に勤める有能な翻訳者なのだ。そんな私たちを誰もがお似合いの二人だと言い、私たちの結婚を羨んだ。しかし、直美が戻ってきてからというもの、私が最もよく耳にする言葉は全く別の
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第3話

「この間、前田さんがうっかり本を倒してしまっただけで、大野課長はすぐに彼を怒鳴りつけたんだ。危うく辞めさせられるところだったらしい」同僚が言う新しく来た人とは、直美のことだ。一ヶ月前、直美は彼女の元夫と離婚して京市に戻り、仕事に復帰した。現在はここで翻訳をしているが、まだ臨時職員である。それを聞いて、私はフンと鼻を鳴らし、机の上にあったものを床に移して、自分の荷物だけ片付け始めた。片付けがもう少しで終わるという時、背後から突然、甲高い声が上がった。振り返ると入口には直美が立っており、その後ろには私に付き添うと言っていたはずの裕也の姿もあった。「裕也さん、見て。どうして私の荷物が床に放り出されてるの?」裕也は不機嫌そうな顔で部屋に入ってきた。「千佳、どういうつもりだ?ちょっと荷物を置いただけだろう、そこまでしなくてもいいじゃないか?」直美が彼の袖を引き、しおらしく言った。「ごめんなさい、千佳さん。ここ数日いらっしゃらないから、一時的に使わせてもらおうと思っただけなんです。まさかこんなに怒らせてしまうなんて……私の荷物を床にまで投げ捨てて……」そう言うと、彼女は今にも泣き出しそうな顔で、私にお辞儀をしようとした。裕也はすぐに彼女がお辞儀しようとするのを止め、冷たい視線を私に向けた。「千佳、あまり出すぎた真似をするな。直美だってわざとやったわけじゃないんだ。いい加減にしろ」彼が直美のために私に腹を立てるのは、これで何回目だろうか。もはや、数えきれない。こんな茶番に付き合う気はなかったので、私は箱を抱えてまっすぐその場を立ち去ろうとした。しかし、直美のそばを通り過ぎようとした瞬間、突然彼女に足を引っかけられてしまった。裕也ははっとした表情で私を掴もうとしたが、一足遅かった。私は床に倒れ込み、箱の中身が散らばり、手首を擦りむいてしまう。裕也が二、三歩近づき、私に手を差し伸べた。私は手首の大切な腕時計の状態が気になり、彼を動きを無視して腕時計を確認した。だが、彼は何かを見つけたように、床から二枚の便箋を拾い上げた。「異動届?それに、もう一枚は……」私は慌てて立ち上がり、彼の手から便箋を引っ張り取った。「自分で片付けるから、触らないで」私のあまりの剣幕に、裕
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第4話

私はそれを目の当たりにしても引き止めもしなければ、泣き喚きもしなかった。ただ静かにしゃがみ込んで荷物の入った箱を抱え上げると、その辺のゴミ箱に投げ捨てた。裕也が触れた物など、もういらない。ここを去る最後の日、私は友人たちに別れを告げようと腕によりをかけてご馳走を作って皆を招いた。集まった友人たちは、ほとんどが裕也の官舎仲間だった。最後の料理を運んでいくと、彼らが囃し立てる声が聞こえてきた。「裕也さん、千佳がいないうちに、直美とチュウでもしちゃえば?」「この機会を逃したら、次はもうないぞ」「そうだよ、チュウしちゃえ!」それを言われ、直美は裕也の隣で、顔を赤らめていた。「やめてよ、裕也さんには千佳さんがいるんだから」すると、誰かが鼻で笑った。「他の人たちは知らなくても、俺たちは知ってるぞ。そもそも直美が結婚してなかったら、裕也さんもやけになって千佳さんと結婚することもなかったのにな。それに、今千佳さんもこの場にいないじゃないか」それを聞いて、手にしていたのは出来立ての温かい料理のはずなのに、私はそれを氷よりも冷たく感じられた。かつて彼らが私のことを「姉さん」と慕うように呼んでいたことを思い出すと、今はただただ吐き気がするのだ。囃し立てられた裕也は箸をやや乱暴に置くと、不機嫌な顔で口を開こうとした。そのタイミングで、私は咳払いをしてから出ていき、料理をテーブルに置いた。「さあ、食事にしましょう」他の者たちは顔を見合わせ、私が早く出てきすぎたのを残念がっているようだった。裕也は何も言わずに箸を取ったが、ふと眉をひそめ、私を問い詰めるように言った。「なんで直美の嫌いな料理ばっかりなんだ?」気遣ってもらった直美は気にしないように手を振りながら、優しい声で言った。「大丈夫、大丈夫よ。私は野菜をいただくから。千佳さんもきっと……わざとじゃないと思うし」しかし彼女は口ではそう言いながらも、その目は赤く潤んでいた。それを見た裕也はすぐに立ち上がり、眉間にあからさまな不快感を滲ませた。「外で食べよう。レストランに連れて行ってやる」「待って」私は不意に声を上げ、テーブルの酒を手に取ると、自分のグラスに注いだ。裕也は愕然として私を見つめた。なにせ結婚して五年、彼がお酒の
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第5話

直美を支えながら後ろを歩いていた裕也は、それをはっきりと聞き取れなかった。「今、何って?」友人は口を開きかけたが、もう一度それを口にする勇気はなかった。しばらくためらった後、ようやくどもりながら口を開いた。「ゆ……裕也さん、テーブルの上に、離婚届受理証明書が置かれて……」今度、裕也ははっきりと聞こえた。その言葉を聞いた瞬間、裕也が直美を支えていた手から力が抜けた。そのため、直美は体勢を崩し、足を捻ってしまった。「っ……裕也さん」甘えるような声だったが、裕也が振り返ることはなかった。裕也は部屋にひしめく人々を押し分け、声を上げた男の胸ぐらを掴んだ。「何だと?もう一度言ってみろ!」その顔は険しく、テロ対策特殊部隊を経験した者だけが持つ独特の気迫が、一瞬にして立ち込めた。周りにいた官舎仲間は皆、息を呑み、誰も口を開けなかった。それを聞かれた男もごくりと唾を飲み込み、重い口を開いた。「離婚……離婚届受理証明書が……テーブルの上に」それを聞くと裕也は彼を突き放し、震える手でテーブルの上に置かれた離婚届受理証明書を手に取った。その一行目には、大きな文字が書かれていた。【離婚届受理証明書届出人:大野裕也、野口千佳】足を捻った直美が部屋に入ってきて、再び裕也の腕にまとわりつこうとした。「裕也さん、足が痛い……」しかし、裕也は彼女に掴まれた腕を乱暴に振り払った。「きゃっ!」その勢いで、直美はバランスを崩し、床に倒れ込んだ。これで、本当に捻挫してしまった。彼女は息を呑み、一瞬、顔が苦痛に歪んだ。しかし、裕也は離婚届受理証明書を手にしたまま、直美には目もくれなかった。「部長に話を聞いてくる!」裕也は青ざめた顔で、床に倒れている直美を跨ぐと、振り返りもせずに部屋を飛び出していった。「裕也さん、待って、裕也さん!」その背中を見つめ、直美は慌てた。何かが自分の計算から外れていくように感じたから。だから、彼女は這ってでも裕也を追いかけたかったが、足首に激痛が走り、立ち上がることさえままならなかった。直美は、男を振り向かせようと、ただ大声を張り上げるしかなかった。だが、彼女が叫べば叫ぶほど、男の去っていく速度は増すばかりだった。まるで、何か恐ろしいものから逃げるか
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第6話

「じゃあ、直美のせいじゃないっていうのか?直美が戻ってくる前は、裕也さんと千佳さん、うまくいってたじゃないか?なあ、お前ら。もしかして、千佳さん、俺たちの話を聞いてたんじゃないか?」すると一同は思わず当時一番囃し立てていたが、今は黙り込んでいる前田豪(まえだ ごう)に視線を向けた。仲間たちの視線を受け、豪は顔を真っ赤にして言った。「それが原因とも言い切れないだろ!だいたい、離婚届受理証明書があるってことは、千佳さんが離婚届をもう何日も前に出しているってことじゃないか。俺のせいにするなよ!」すると、翔平はうつむき、か細い声で呟いた。「でも、どう考えたって、千佳さんこそが裕也さんの人生を共に歩むべき相手だろ。それに、俺たちにもすごく良くしてくれたのに……あんなことは……やっぱり言うべきじゃなかったんだよ」……その頃、裕也も離婚届受理証明書を手に、隆史の家のドアを叩いていた。ドン、ドン、ドン。ドン、ドン、ドン。ほどなくして、庭の明かりがつき、隆史の妻である高木椿(たかぎ つばき)がドアを開けに出てきた。「あら、大野課長?さあ、入って。うちの主人に何か用?」焦った表情の裕也を見て、椿は急いで門を開けて彼を中に招き入れた。裕也は挨拶もそこそこに、椿と一緒に部屋の中へと入って行った。隆史はちょうどソファで新聞を読んでいたが、裕也が慌てて入ってくるのを見て眉をひそめた。「どうしたんだ、何があった?」裕也は強張った表情で離婚届受理証明書を隆史の前に突きつけて、尋ねた。「これはいつのことですか?私は全く何も知らされてません!」それを聞いて、隆史は一瞬呆気に取られたが、すぐに事の経緯を察した。「椿、裕也くんにお茶を淹れてやってくれ」椿は頷き、お茶を淹れに行った。一方で、裕也は奥歯を噛み締め、答えを執拗に求めている様子だった。それを見て、隆史はため息をつき、説明を始めた。「五日前、千佳くんが自ら俺のところへ報告しに来てな、君とはもう離婚したとのことだ。それに君も離婚届にサインしたから、それで合意したってことだろ?」それを聞いて、裕也は動揺し、ふとあることを思い出したのだ。千佳が海外から戻ったあの夜、確かに彼女からサインをするようにと言われた書類に自分はサインをしたのだ。
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第7話

それを聞いて、椿は冷たく鼻を鳴らした。「彼女には家族がいないのかしら?わざわざあなたみたいな既婚者が面倒を見る必要なんてないでしょ!」それを聞いて、裕也も顔をしかめた。「それに、この間千佳さんが海外に行った時、どうしてあなたは一緒に行かなかったの!」そこまで言うと、椿は怒りで胸を激しく上下させ、嫌悪感を露わにしながら言い放った。裕也は思わず眉をひそめた。彼女がそこまで怒る理由が、彼には分からなかったのだ。「あの時千佳が急に海外へ行くと言い出したんです。それで私はちょうど仕事が立て込んでいたから、一緒には行けなかったんです。それに仕事が片付いたら一緒に行くって、約束もしました」それを聞いて、椿の険しい表情がわずかに和らいだ。「じゃ、その何日間、一体何をしていたかを千佳さんには説明したの?」裕也は頷いた。「直美が病気で入院していたから、数日間看病していたんです。そのことは千佳にも話してあります」「あなたって本当どうしようもないわね!」椿は立ち上がり、こらえきれずに裕也の顔に指を突きつけ、怒りを露わにした。「千佳さんがどうしてあんたと別れたのか、やっと分かったよ。大野課長、あんたがそんな人間だと分かっていたら、千佳さんと引き合わせたりなんて、絶対にしなかった!本当に、なんて人なのよ!」隆史もまた裕也の話を聞いては、怒りを必死に抑え込んでいるかのように、顔をこわばらせていた。二人の表情を見て、裕也も一瞬心に底冷えを感じた。自分の知らない何か大変なことが起こったに違いない。得体の知れない不安が、瞬く間に彼の頭の中を支配した。「部長、奥さん、一体何があったんですか?」離婚届受理証明書を握りしめる手に力がこもり、裕也は焦りを滲ませて尋ねた。すると、椿はため息をつき、その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。「千佳さんがどうしてあんなに急いで海外へ行ったか、知ってる?」それを聞いて裕也は何かを思い出したかのようだった。「まさか……彼女のお父さんに何かあったんですか?」椿は頷き、目尻の涙を拭った。「千佳のお父さんが……亡くなったんだよ。彼女が海外へ行ったのは、お父さんの遺骨を引き取りに行くためだったの」そこまで話すと、椿の感情が一気に高ぶった。「大野課長、あの方
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第8話

七歳の石田純(いしだ じゅん)はベッドから引きずり下ろされ、泣き出そうとしたが、母親のあまりの剣幕に驚いて涙を引っ込めた。そして、自分の頭を擦りながら言った。「ちゃんと伝えたよ。先に裕也おじさんの仕事場に行ったんだ。そしたら、みんなが裕也おじさんは直美おばさんのお見舞いに病院へ行ったって言うから、僕も病院に行ったんだよ」それを聞いて隆史は眉をひそめた。「純、それで裕也おじさんには会えたのか?」すると、純は首を横に振った。「直美おばさんにしか会えなかったんだ。直美おばさんが、裕也おじさんはご飯を買いに行ったって言ってて。僕に用件を聞いてきたから、そのまま伝えたんだ」それを聞いて裕也はドキッとして、表情がみるみるうちに険しくなっていった。「それで?」裕也に詰め寄られた、純はびくっとして、椿の後ろに隠れ、もごもごと口を開いた。「そしたら、直美おばさんが僕に、ご飯の時間だから先に帰りなさいって。用件は伝えておくからって言ったんだ」そこまで聞いて、隆史は顔色を変え、歯を食いしばって尋ねた。「それでお前は帰って来たのか?」純は怒られると思って泣きそうになった。「本当は帰るつもりじゃなかったんだけど、直美おばさんが、遅くなったらご飯がなくなっちゃうよって言ってたから……それに、直美おばさんは飴もくれたんだ。このことは誰にも言っちゃだめだよって言われたんだ。うわーん、お母さん、ごめんなさい!怒らないで!」純は怯えて、わんわんと泣き出した。それには隆史と椿も怒り心頭になり、純をこっぴどく叱りつけようとした。「部長」裕也は手を伸ばして純を叱りつけようとする隆史を止めた。その目線は深く、鋭い光を宿していた。「部長、奥さん、この件は直美本人に直接聞きます」隆史は彼の意図を汲み取り、椿と顔を見合わせて頷いた。「よし、俺たちも行こう」夜九時。官舎の灯りはほとんど消えていた。あたりが寝静まった時間で、道には人影もなかった。裕也一行は、重い足取りで病院へと向かった。廊下には数人の官舎仲間がまだ残っており、そこには奇妙に張り詰めた空気が漂っていた。裕也たちの姿を見ると、官舎仲間は瞬時に姿勢を正した。「部長、奥さん、どうされたんですか?」隆史は軽く頷いて応えた。「直美はど
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第9話

すると、恐怖と混乱が彼女の頭に一瞬よぎった。「部……部長、それはどういう意味ですか?」ちょうどこの時、後から入ってきた官舎仲間も部屋の隅に立った。静かだった病室は、一瞬にして人でごった返した。全員の視線が隆史に集まり、治療にあたっていた医師や看護師さえも固唾を飲んだ。すると椿が鼻で笑い、沈黙を破った。「三浦さん、先週うちの純に頼んで、千佳さんのお父さんが亡くなったから、大野課長に伝えるようにって。この子の話では、あなたが自分で大野課長に伝えるから純には先に家に帰るようにって言われたみたいだけど、確かなことだったかしら?」その瞬間、辺りは水を打ったように静まり返った。直美は顔面蒼白になり、唇を噛みしめ、あくまでしらを切ることに決めた。「椿さん、私は本当に何も知りません。裕也さん、私を信じてください」誰も言葉を発さないのを見て、直美は指をしゃぶっている純に視線を移し、甲高い声で言った。「純くんはまだ七歳よ。遊びに夢中で忘れてしまって、言い訳してるのかもしれないじゃないですか?」それを聞いて裕也は眉をひそめ、信じられないといった様子で直美を見つめた。まさか直美が自分の身を守るために、七歳の子供に罪をなすりつけようとするとは、思いもよらなかった。椿は怒りで顔を真っ赤にし、直美を指さして罵った。「三浦さん、普段はおしとやかそうに見えるけど、まさかこんな人だったの?自分の悪事を子供に押し付けるなんて、恥を知りなさい。あなたみたいな若い娘が毎日既婚者に付きまとっているのはなんでかと思ったけど。これがあなたの本性なのね」椿の言葉に、その場にいた者たちの表情が変わった。そう言われた直美の顔には羞恥と憎悪が浮かび、他の者たちの顔には彼女を軽蔑する色が浮かんでいた。特に、彼女の傷の手当てをしていた看護師は、持っていた綿棒をゴミ箱に投げ捨てた。まるで汚らわしいものにでも触れたかのように。直美は周囲の視線を感じ取り、腹を括って開き直った。「椿さん、証拠でもありますか?私が罪をなすりつけたと?だったら証拠を見せなさいよ!旦那さんが部長だからって、権力振りかざして私をいじめようとしてるんでしょう」「あんた!」椿は直美のその厚かましさに逆上し、彼女に殴りかかろうとしたが、隆史に止めら
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第10話

他の者たちも、堪らずひそひそと噂を始めた。「なんて女だ、大人しそうに見えてこんなことするなんて」「こんなだから離婚もされるわけだ」「これからは彼女には関わらないようにしよう。こんな女、恐ろしすぎる」……それには隆史も険しい顔つきで、口を開いた。「直美、この件は君の上席にも報告させてもらう。君のような人間を、官舎に置いておくわけにはいかないからな」椿も憎々しげに直美を見つめ、その目には一瞬、スカッとしたような光がチラついた。皆からの嫌悪の視線を浴び、直美は現実を受け止めきれずに気を失った。しかし、今回は誰も彼女を助けようとはしなかった。彼女が目を覚ました頃には、その悪行は官舎中に知れ渡っていた。外務省の上層部は彼女を解雇しただけでなく、彼女の経歴にもその行いを記した。この先、彼女が官庁関連の仕事に就くことは二度とできなくなった。他の仕事など、転職をしようにも難しいだろう。さらに、彼女が知らせを隠したせいで裕也が義理の父の葬儀に駆けつけられなかったことは、皆の怒りを買った。官舎の住人たちは連名で彼女の追放を要求し、あのような悪意に満ちた女を置いておくことはできないと訴えた。結局、直美は惨めな姿で荷物をまとめ、こそこそと官舎を去るしかなかった。一方、裕也は調査の結果、直美とは何の関係もなかったことが証明された。しかし、それでも周囲からの非難を免れることはできなかった。彼は職場での評判がガタ落ちになっていた。今後、さらに出世できるかどうかも定かではなくなった。……一方、私は渡航後、順調に父の仕事を引き継いだ。そして海外で、外交事業のために自らの力を尽くした。海外での生活は、もちろん自国でいるほど恵まれてはおらず、危険と隣り合わせになることだってあった。だが、私は怖気つくことなく、父の教えを胸に勇気を持って困難を乗り越えていった。ここで、私は生きる意味を見出した。その間、裕也が私に会いに来たこともあった。彼は父の墓前で、長い時間深々と頭を下げた。そして直美とのことについて弁解し、許してくれないかと私に乞うた。だけど私は首を横に振った。過ぎたことは時に任せ、後戻りをするつもりはなかったからだ。それを数回繰り返した後、裕也はもう私を煩わせることはなくなった。
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