Semua Bab 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない: Bab 21 - Bab 30

113 Bab

20

 智輝は息を切らしながら『月読』のドアを乱暴に開けた。  カラン、カラン――といつもよりけたたましい音を立てて、ベルが鳴る。 店内は異様なほど静まり返っていた。カウンターの奥で、マスターが苦渋に満ちた表情で立ち尽くしているのが目に入る。  智輝の心臓は激しく鳴っている。玲香の話が嘘であってくれと心の底から願いながら、彼は店の一番奥にある結菜との思い出の席へと視線を向けた。 目に飛び込んできたのは、信じたくない光景だった。  彼の母・鏡子と、婚約者・玲香。そして、その向かいに座る結菜の姿。  テーブルの中央には、分厚い純白の封筒。そしてその封筒に、結菜の手が伸ばされている――。 結菜が金を返そうと封筒を押し返した動きが、彼の角度からは、まるで金を掴もうとしたように見えたのだ。  結菜の顔は、智輝の突然の登場に驚いて青ざめている。しかしその表情すら、彼の目には「悪事が露見した者の罪悪感」として映ってしまった。 智輝の存在に最初に反応したのは、玲香だった。  彼女は「あっ……」と短く息を呑んでみせた。それから信じられないものを見たように、ゆっくりと智輝の方へ歩み寄る。その瞳は、涙で潤んでいる。 玲香は智輝のそばまで来ると、わざとらしくふらついて彼の腕の中に倒れ込んだ。か弱い被害者を演じるためだ。結菜には聞こえないよう、智輝の耳元だけで囁く。「智輝様、鏡子様のお顔をご覧になって。あんな女のせいで、お母様が追い詰められていますわ! お金なんて渡す必要ないと、あたし、申し上げたのに……!」 彼女は智輝の背中に隠れるようにして、結菜の方を怯えた目で見つめた。  芝居がかったわざとらしい動作だったが、結菜を見ていた智輝は気づかない。 一方で鏡子は一言も発しない。ただ、失望を隠さない冷ややかな視線を息子に向けただけだった。しかし智輝にとって、その沈黙こそが何より重い、結菜の有罪を告げる答えのように感じられた。 智輝の頭の中で、すべてのピースが最悪の形で組み合わさっていく。  結菜との1週間の音信不通。彼女の恵まれない境遇。一致するように見えた趣味。玲香の涙の訴え。そして、目の前の「証拠」。(……そうか。全部、こういうことだったのか)『月読』で初めて会った時の、あの純粋に見えた瞳も、すべてはこのための計算だったというのか?  あの夜、腕の中で見せ
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-10-08
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21:決別の言葉

 智輝は店の入り口に立ったまま、動かなかった。彼の顔からは一切の感情が抜け落ちている。銀灰色の瞳は、結菜ただ一人を冷たく見据えていた。  結菜は智輝の突然の登場と、彼の瞳に宿る見知らぬ冷たさに、全身が凍りついた。(何か言わなければ。手切れ金は断ったと、伝えなければ) そう思うのに、カラカラに乾いた喉が張り付いたように声が出ない。 智輝がゆっくりとした足取りでテーブルへと近づいてくる。  カツ、カツと彼の革靴が床を打つ音が、張り詰めた静寂の中で不吉に響いた。  智輝はテーブルの数歩手前で足を止めると、温度のない声で低く呟いた。「……そうか。これが、君の答えか」 問いかけではない。全てを諦めた者の、絶望の独り言だった。  結菜はようやく言葉を絞り出す。「違う。智輝さん、これは……」 だがその細い声は、絶望の中にいる智輝には届かない。  彼は、テーブルの上の封筒と結菜の青ざめた顔を交互に見ると、唇の端に笑みを浮かべた。痛々しい自嘲の笑みだった。  そして彼は言う。静かだが皆に聞こえる、はっきりした口調で。「君も結局、金目当てだったのか」「……!」 その言葉は、怒鳴り声よりもずっと深く結菜の心を抉った。単なる詰問ではない。「他の連中と同じように」という響きで、結菜の人間性を否定している。2人が分かち合った特別な時間をなかったものとして、拒絶していた。(そんな……) 智輝の言葉は、物理的な暴力よりも強く結菜を打ちのめした。美しい思い出が、彼自身の言葉によって打ち砕かれていく。  彼に信じてもらえなかったという事実が、結菜の胸にひどく重くのしかかった。 何か言おうとして唇を開くが、はくはくと息が漏れるだけで声にならない。ただ目の前の男の瞳の中に、あの夜のような優しい面影を探して、必死に見つめることしかできなかった。(違う。信じて……) しかし智輝の銀灰色の瞳は、もはや何の感情も映さない氷の湖のようだった。 智輝はそれ以上結菜の反応を待つことなく、侮蔑の色を隠さずに背を向けた。  玲香は勝ち誇った笑みを結菜に向けて、智輝の後に続く。 最後に立ち上がったのは鏡子だった。彼女はテーブルの上に押し返された封筒に冷たい視線を落とすと、何でもないことのようにそれを拾い上げ、ハンドバッグにしまった。背中を向けていた智輝が、それに気づくことはな
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-10-09
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22:ひとりきりの夜明け

『書斎喫茶 月読』でのあの日以来、結菜の時間は止まっていた。  智輝からの連絡はもちろんない。彼との思い出が詰まった東京の風景すべてが、彼女を苛むだけのものに変わってしまった。(これ以上、この街にはいられない) その想いが、結菜の心を支配していた。  彼女は、空っぽの心のまま電話を手に取った。相手は、いつも事務的に仕事の連絡をしてくる派遣会社の担当者だった。「お世話になっております。早乙女です。急で申し訳ありませんが、本日付けで、退職させていただきたく思いまして」『えっ、早乙女さん? どうしたの、急に。何かあったの? あなた、真面目で評判も良かったのに。次の契約先も決まりそうだったのよ?』 電話の向こうで、担当者が珍しくうろたえているのが分かった。けれど結菜の心はもう何も感じない。「いえ、何も。ただ一身上の都合です」『何か不満があったなら言ってくれないと、急に辞められてしまうと困るわ。言ってくれれば、改善できるかもしれないし……。まさか、派遣先の会社に乗り込んできた人たちのことで?』 桐生夫人、鏡子の話は担当者の耳にも届いていたようだ。だが結菜は声の調子を変えずに続ける。「申し訳ありません。もう、決めましたので」 それきり結菜はどんな引き止めの言葉にも、ただ「申し訳ありません」と繰り返すだけだった。  電話を切った後、結菜は続けてアパートの管理会社に電話をかけた。解約を告げる声は、自分でも驚くほど平坦だった。『お部屋の家具はどうされますか?』 事務的な問いに、結菜は迷わず答える。「そちらで処分をお願いします。費用は、敷金から差し引いてください」 結菜はがらんとした部屋を見渡した。ベッドフレームのないマットレスと、小さなローテーブル、衣類を収めただけのプラスチックケース。東京での生活を支えてくれたのは、だったこれだけのささやかな家財道具だ。だが今の彼女には、それら一つひとつを梱包して引っ越しの手続きをする気力は残っていなかった。  できるだけ早く、できるだけ簡単に、この街から自分という存在の痕跡を消し去りたかった。 結菜は最低限の荷造りを始めた。クローゼットを開けて目に飛び込んできたのは、智輝とのデートのために懸命に選んだ、アイボリーのワンピース。  楽しかった思い出と今の現実が一度に蘇り、結菜は小さく首を振る。そのワンピースを
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-10-10
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23

 深夜のバスターミナルで、結菜は両親が眠る故郷行きの、最終バスのチケットを握りしめていた。 重いエンジン音と共にバスがゆっくりと動き出す。結菜は窓の外を流れていく景色を、ただ無言で見つめていた。  つい先日、智輝と歩いたきらびやかな大通り。彼と出会った街の眩いほどの光。それらが次々と流れては、闇の中へと溶けていく。 窓ガラスに映る自分の顔はひどく頼りなくぼんやりとした様子で、見知らぬ誰かのように見える。(……さようなら) 心の中で、この街で夢見た淡く儚い恋に別れを告げる。頬を伝った一筋の涙は、恋の終わりと過去の自分自身との決別の証である。 ◇  故郷の駅に降り立った結菜を、懐かしい潮の香りが迎えた。しかし彼女の心は安らぐどころか、寄る辺を失った不安でいっぱいだった。 結菜はまず銀行へ向かう。取り出した通帳は、父が亡くなった時に渡されたものだ。  彼女はその表紙をそっと撫でる。父が遺してくれた、わずかな生命保険金。いざという時のお守りとして、今まで一度も手をつけずにいた大切なお金だった。(お父さん、ごめんなさい。……使わせてもらうね) 心の中で父に詫び、感謝する。窓口で手続きをする彼女の手は、もう震えていない。東京での自分と決別し、この街でもう一度自分の足で立って生きていくための、最初の覚悟だったからだ。 当座の生活資金を下ろした後、結菜は駅前の不動産屋の扉を叩いた。高価なものは望めない。保証人もいない彼女が借りられたのは、日当たりだけが取り柄の、古くて小さな木造アパートの一室だった。 スーツケースから数枚の着替えと洗面用具を取り出しても、六畳一間の部屋はがらんとしたままだ。心の傷を抱えたまま、すぐに仕事を探しに出る気力は湧いてこない。(これから、どうしようかな。今は何も考えられない) 結菜はただ、眠っては起きるだけの毎日を過ごした。食欲もなく、近くのスーパーで買ってきたパンとスープだけで済ませる食事が続く。テレビも無い部屋で聞こえるのは、自分の小さな生活音だけだった。 そんな中で唯一、彼女が意識的に行ったのは、窓際の床に座って父の形見であるエリアス・バークの本を開くこと。窓から差し込む陽の光を浴びながら、何度も何度も同じページを読み返す。  すっかり暗記しているほどの内容なのに、物語の筋はぼんやりとした頭に入ってこない。けれど懐かし
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-10-10
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24

 徐々に本を読む以外のこともできるようになって、自炊のための料理器具を買い揃えた。  近所のスーパーへ買い物に出かければ、東京の喧騒とまた違う、地方都市ならではの人々の暮らしが垣間見える。 小さな子供を連れた親子や、仲の良さそうな老夫婦の姿を見て、結菜はそっと微笑んだ。(そろそろ、仕事が決まるといいんだけど) 少し前からハローワークに通って、就職活動をしている。この小さな地方都市ではあまり求人がなく、すぐには働き口を見つけられないでいた。  そんな矢先、結菜は自身の体調不良が続いていると気づいた。  微熱がずっと下がらない。時折、吐き気が込み上げてくる。 最初は風邪だと思った。色々あったから、疲れから風邪を引いてしまったのだろうと。  けれどカレンダーを見た結菜は、もう一つの異変に気づく。(あれ……? 生理が今月も来ていない?) 月のものが2ヶ月も来ていない。  最初の1ヶ月は、疲労と心労のせいで周期が乱れているのだと思っていた。でも2ヶ月目とは。まさかという予感に、凍りついていたはずの心が軋んだ。「確かめなきゃ!」 結菜はコートを羽織ると、アパートを飛び出した。時間は既に夜遅くだったが、気にしなかった。近所の薬局の棚に並んだ何種類もの検査薬を前に、どれを選べばいいのかも分からない。薬剤師に怪訝な顔をされながらも、一番最初に目についた箱を掴んで代金を払った。 自宅アパートの冷たいタイルのトイレで、結菜は説明書を何度も読み返した。指先がうまく動かず、パッケージを開けるのに酷く時間がかかる。説明書の指示通りにそれを使う。結果が出るまでの数分間、彼女は固く目を閉じて祈っていた。(お願い、何かの間違いでありますように) おそるおそる目を開ける。判定窓に現れたのは……陽性。  検査薬を握りしめたまま、結菜はアパートの窓辺に座り込んだ。最初に訪れたのは、途方もない恐怖と絶望だった。(どうすればいいの。たった一人で産んで育てる? そんなことができるの? そうでなければ……中絶) 智輝に伝えるという選択肢は、もはや存在しない。「金目当ての女」が、最後の切り札として子供をダシにしてきたと、彼は思うだろう。それほどの侮辱に、彼女のプライドはとても耐えられない。 どれほど座り込んだままでいたことだろう。窓辺から秋の夜の冷気が漂ってきて、結菜は我に返
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-10-11
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25:小さな天使と穏やかな日々

 じりりり、と目覚ましの電子音が鳴り響く。  結菜は手を伸ばして、枕元のスマートフォンを止めた。窓のカーテンの隙間から差し込む光は、もうすっかり白んでいる。開け放った窓から流れ込むのは、まだ少しだけ肌寒いけど生命の匂いに満ちた春の朝の空気だった。 隣の小さなベッドからは、「すぅ……すぅ……」という穏やかな寝息が聞こえる。宝物である息子、樹が幸せそうな顔で眠っていた。  柔らかな茶色の髪の下で、閉じられた瞼が時折ぴくりと動く。満開の桜の木を駆け上る夢でも見ているのだろうか。(あれからもう、5年も経ったのね……。この子ももう4歳。この寝顔を見られるなら、なんだって頑張れる) 結菜はそっとベッドを抜け出して、音を立てないようにキッチンへ向かう。今日の朝食は、樹のリクエストで卵焼きとウィンナー。小さなフライパンに油をひいて溶き卵を流し込むと、じゅ、という軽快な音がした。  結菜が朝食の準備を終える頃、ぱたぱたと小さな足音がリビングにやってくる。「ママ、おはよー」「おはよう、樹。ちゃんと起きられたのね、えらいわ」 眠い目をこすりながらも、樹は食卓の上の朝食を見つけてぱっと顔を輝かせた。「わーい、たまごやき!」 子供用の椅子によじ登り、小さな両手を合わせる。「いただきます」 親子の声が、春の日差しが満ちる部屋に重なった。「あのね、きのうね、ほいくえんのお庭で、さくらのはなびら、つかまえたんだよ」「そうなの。よかったわね」「うん! でも、ぼくがとしょかんからかりてきた、スピノサウルスのほうがカッコよかったもんね!」 得意げに胸を張る息子に、結菜は思わず笑みをこぼした。  何気ない会話に彩られた、当たり前の日常。これこそが結菜が5年間、たった一人で守り抜いてきたものだ。  食べ終えた樹が、自分で食器を運ぼうとする。まだおぼつかない足取り。「ありがとう。でも、ママがやるからいいのよ」「ううん、ぼく、おてつだいする」 その小さな背中を見ていると、結菜の胸の奥がきゅっと温かくなる。  だが、ふとした瞬間にこちらを振り返るその瞳の色に、結菜は時々息を呑むことがあった。自分とは違う、あの人から受け継いだ美しい銀灰色。  美しい思い出と、胸を引き裂くような痛み。その両方が瞳の色を見るたびに蘇ってくる。(……忘れちゃだめ。私は、この子の母親なんだ
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-10-11
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26

 結菜の職場は、海辺の町に立つ市立図書館だ。 古いけれど手入れの行き届いた建物である。一歩足を踏み入れれば、少し埃っぽい古書のインクと紙の匂いが迎えてくれる。父が教えてくれた、魔法の世界への入り口そのものだった。「早乙女さん、おはよう」「おはようございます、佐藤さん」 カウンターで同僚の司書に挨拶を交わす。 司書として働くことは、結菜の長年の夢だった。司書の資格は学生時代に取っていたものの、就職口は少ない。故郷の町でたまたま空きが出て職に就けたのは、大きな幸運だった。 数字を追いかけるだけだった東京の派遣社員時代とは違う。ここでは、本と人と、物語を繋ぐことができる。 結菜は柔らかな日差しの差し込む図書館の一角、絵本コーナーへと向かう。そこは彼女が一日の中で最も心安らげる場所だった。靴を脱いで上がるカラフルなマットの上には、すでにお母さんに連れられた小さな子供たちが数人、期待に満ちた顔で座っている。「こんにちは。今日はどんなお話かなって、待っててくれたのかしら」 結菜が微笑みかけると、子供たちはきゃっきゃと笑い声をあげた。一番前に座っていた男の子が、こくりと頷く。一生懸命な眼差しに、結菜の心はふわりと温かくなった。(樹も、こんな顔をする。私が家で絵本を読む時は、いつも) 今日の絵本は『くまくんのちいさなぼうけん』。何度も読み聞かせをしている、結菜のお気に入りの一冊だ。「はじまるよ、はじまるよー」 小さな手遊びで子供たちの心を惹きつけて、最初のページを開く。「森の奥、お日様の光がキラキラ踊る朝のこと。くまの男の子、くまくんは、目を覚ましました」 結菜の声は、静かな春の陽だまりに溶けるように優しく響いた。 主人公のくまくんが登場する場面では声を弾ませ、いじわるなカラスが出てくると、少しだけ眉をひそめて低い声色を作る。ページをめくるたびに、子供たちの小さな世界が、くまくんの冒険で彩られていくのが分かった。くまくんがどんぐりを見つけて喜ぶと、子供たちも「わあ」と声を上げ、谷川に落ちそうになると、息を呑む気配が伝わってきた。
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-10-11
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 5年前、あの絶望の淵で、たった一つの希望となってくれた小さな命。あの日、一人で産み育てると決めた覚悟が、子供たちの真剣な眼差しによって、より強く確かなものになっていく。 胸の奥にしまい込んだはずの、あの人の銀灰色の瞳が脳裏をよぎる。ちくりとした痛みが走るが、それすらも今の結菜にとっては、樹をこの世に授けてくれた感謝へと昇華されていくようだった。「くまくんは、勇気を出して言いました。『きみも、いっしょにあそぼうよ!』」 物語がクライマックスに差しかかる。結菜の声に、自然と力がこもった。 ぱたん、と優しい音を立てて、結菜は絵本を閉じる。「おしまい」 その一言で、魔法が解けたように子供たちは我に返る。小さな手を精一杯叩いて拍手をしてくれた。「ありがとう。また来週も、楽しい絵本を持ってくるからね」 満足そうな顔で散っていく子供たちと、会釈をしてくれるお母さんたちを見送りながら、結菜は深い充足感に包まれていた。◇ 読み聞かせが終わり、カウンター業務に戻る。その合間に、同僚たちがひそひそと話しているのが聞こえてきた。「ねえ、聞いた? この図書館、とうとう建て替えの計画が本格的に動き出したらしいわよ」「え、本当ですか? この春の人事異動と一緒に、いよいよ具体化するって」「なんでも、東京の大きな会社が主体でやるみたい。蔵書管理システムのIT化も進めるって話よ」(建て替え……。この雰囲気が、なくなってしまうのかしら) 少し寂しい気もする。この古い図書館の、春の陽だまりのような温かい空気が好きだったから。 返却された本を棚に戻す作業の途中、ふと一冊の翻訳小説が目に留まった。エリアス・バーク。父の形見と同じ、今はもう絶版になった作家の作だ。 指先が、その背表紙に触れる。 途端に、あの夜の記憶が鮮明に蘇った。 ――この作家の文章は、世界中から取り残された魂に、そっと寄り添ってくれるようだ。 穏やかで芯のある声。自分と同じ孤独の色を宿した
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-10-12
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 保育園に樹を迎えに行くと、園庭の桜は満開で、風が吹くたびに花びらが舞っていた。子供たちはそれを追いかけてはしゃいでいる。 「ママ、おむかえ?」「ええ。帰りましょうか」 結菜に気づいた樹が駆け寄ってくる。その小さな手を握り、帰り道を歩き始めた。 夕日が長く影を伸ばす公園を通りかかる。桜吹雪の中、友達が父親と楽しそうにキャッチボールをしていた。高い高いをされて、子供の笑い声が響き渡る。どこにでもある、幸せな春の家族の風景。「……ママ」「なあに?」 樹は、遊具のそばで立ち止まった。その視線は、楽しそうな親子に向けられている。「ぼくのパパは? どうしてお迎えにきてくれないの?」 いつか必ず聞かれると、覚悟していた質問。 それでもその無邪気な一言は、春の暖かな空気の中で、鋭い刃物のように結菜の胸を貫いた。喉の奥に熱い塊がこみ上げてくる。 結菜はしゃがみ込んで、樹と視線を合わせた。無理やり作った笑顔が、引きつっていないか心配になる。「パパはね、すごく遠い場所で、大切なお仕事をしてるのよ。樹のこと、いつもお空の上から見守ってくれてるわ」 この日のために何度も練習した、優しい嘘だった。 樹は、父親譲りの銀灰色の瞳をわずかに曇らせる。「……そっか。おしごと、たいへんなんだね」「ええ。だから、樹がいい子にしてたら、パパも喜ぶわ」「うん!」 再び元気を取り戻した樹の手を引きながら、結菜は心の中で自分を叱咤した。(私がしっかりしなきゃ。この子を不安にさせちゃだめ) 分かっている。けれど父親のいない寂しさを、自分一人の愛情だけで本当に埋めてあげられるのだろうか。その問いが彼女の心に重くのしかかっていた。◇ その夜、結菜は樹の寝顔を見つめていた。 すやすやと眠る無垢な顔。この子がいる。それだけで、自分は世界一の幸せ者だと思える。 それでも、時折ど
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-10-12
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29:過去からの訪問者

 季節は春。図書館の大きな窓から差し込む陽光は柔らかく、貸し出しカウンターを穏やかに照らしている。結菜が司書としてこの町に戻り、5年目の春だった。「ねえ、早乙女さん、聞いた?」 昼休憩に入ったスタッフルームで、同僚の佐藤が興奮したように声をかけてきた。「例の建て替えプロジェクト、いよいよ本格的に動き出すんですって。なんでも、ただの改築じゃないらしいのよ」「そうなんですか?」「ええ。うちの図書館がモデルケースになって、県全体の蔵書管理システムを最新のIT技術で統合する、一大プロジェクトなんだって。バックアップするのが、あの東京の『KIRYUホールディングス』っていう巨大企業でね」 その名前に、結菜は持っていたペンをカタンとテーブルに取り落とした。(彼の、会社……? どうして、こんな地方の町に……) 心臓が嫌な音を立てて脈打つ。だが結菜はすぐに首を振った。(でも来るはずがない。彼が、自ら。きっと担当の部署があって、別の人が来るに決まっている。巨大な企業のCEOが、市立図書館の建て替えごときで、わざわざ来ないわ) 自分とはもう関わりのない、遠い世界の出来事。そうに違いない。結菜は必死に自分に言い聞かせ、平静を装った。「来週の水曜日の午後、KIRYUホールディングスのCEO自らがいらして、説明会を開くそうよ。県知事も来るっていうし、すごいことになりそうだわ」 同僚の弾んだ声が、結菜にはひどく遠く聞こえた。全身から急速に血の気が引いていく。指先が氷のように冷たくなり、目の前に置かれた自分の弁当が、まるで知らない誰かの持ち物のように現実感を失った。(CEOが、自ら……? どうして。何のために) さっきまで「別の担当者が来るはずだ」と必死に打ち消していた希望が、粉々に砕け散る。(会ってしまう。顔を合わせることになる。逃げたい。今すぐ、ここから消えてしまいたい) 吐き気がこみ上げて、結菜は弁当の蓋に伸ばしかけた手を膝の上に戻した。今朝、樹が「
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-10-13
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