All Chapters of 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない: Chapter 41 - Chapter 50

113 Chapters

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 結菜は内心で思ったが、表情を変えずに答える。「申し訳ございません。開館前には毎日清掃しておりますが、至らぬ点があったようです」「そう」 玲香は一冊の本を抜き取り、わざとらしく表紙を指で弾いた。「それにこの本、古くてよれよれだわ。こんなものを智輝様のプロジェクトで扱う価値があるのかしら」 結菜の返事を待たずに本を乱暴に棚へ戻すと、玲香は閲覧室に視線を移し、小さく息を吐いた。「それに、この内装……安物の家具ばかりで、統一感もない。まだ紙のカードで管理しているなんて、さすがは地方の施設ね。毎日こんな単純作業ばかりで、退屈しない?」(ここ、図書館よ? 高級ホテルじゃあるまいし) 結菜はムッとしながらも呆れてしまった。 結菜の職場と仕事を、あらゆる角度から徹底的にこき下ろす。その一つひとつが、結菜自身への侮辱であることは明らかだった。 聞き流していた結菜だったが、玲香はその合間に最も核心に触れる言葉を投げ込んできた。「あなた、まだ独りなの? 智輝様とは、お仕事以外でもお会いするのかしら?」(この人は、5年前と少しも変わっていない。私を怒らせて、貶めようとしている。でも、ここで感情的になったら、あの時と同じになってしまう。今度こそ、負けるわけにはいかない) 結菜は玲香の全ての挑発を「業務上のことですので」と、冷静かつ事務的にかわし続けた。 感情を一切見せない結菜の態度に、玲香の苛立ちは募っていく。◇ 案内が絵本コーナーに差し掛かった時だった。「ママ、まだお仕事おわらないの?」 不意に、棚の陰から小さな男の子が駆け寄ってきた。樹だった。 毎日保育園が終わると、結菜の仕事が終わるまでここで絵本を読んで待っているのだ。 結菜の血の気が引く。(樹! 来ちゃだめ、この人だけは……樹に会わせるわけにはいかない!) 結菜は咄嗟に屈み込み、樹を抱きしめるようにして玲香から隠した。そ
last updateLast Updated : 2025-10-18
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41:自爆投稿

 絵本コーナーの硬い空気の中、樹が答えるよりも早く、結菜が一歩前に出た。玲香の視線をさえぎる。彼女は樹を背後にかばいながら、毅然として名乗った。「……早乙女結菜と申します。この子は樹です」 正直なところ、玲香は結菜の名前を覚えていなかった。5年も前の話だし、とうに決着がついたと思っていたからだ。「早乙女結菜」――その名前が、玲香の中で忌まわしい記憶のふたを開ける。5年前に叩き潰したはずの女が、智輝の子供と見られる少年と共に目の前にいる。 玲香は5年経っても婚約者のままで、結婚にこぎつけていないというのに。(早乙女、結菜! 5年前に追い出したはずの女に、智輝様の子供がいる……!? 許せない……!) 玲香は怒りにギラギラと目を輝かせた。樹がびくりと怯えて母の陰に隠れる。 その様子を見て、玲香は我に返った。(いけない。こんな薄汚い女相手に我を忘れるなんて。あたしらしい優雅なやり方で、もう一度叩きのめして差し上げますわ) 玲香はわざとらしく、ふうとため息をついてみせた。 疲れたようにこめかみを押さえる仕草で、左手を結菜の目の前にかざす。左手の薬指に嵌められた巨大なダイヤモンドの婚約指輪が、図書館の照明を反射してきらきらと光った。「早乙女さん、でしたわね。智輝様とは、来春に式を挙げるの。この指輪は、彼が私のために特別なルートで手に入れてくださったものですよ。あなたのような方には、縁のない世界ですわね。ここまでの高価な品物、見るのも初めてでしょう?」 声は甘ったるかったが、悪意とマウントがたっぷりと込められていた。(どう!? 悔しいでしょう。あなたも子供も、みすぼらしい格好ですものね) けれど結菜の反応は玲香の期待とは全く違った。 結菜の表情は一切揺るがない。指輪を一瞥して、玲香の目の前で深く頭を下げる。「さようでございますか。ご結婚、心よりお祝い申し上げます」 完全に「他人事」としての対応だった。結菜は樹に向き直る。「樹、そ
last updateLast Updated : 2025-10-19
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 高級車の後部座席で、玲香は怒りに爪を噛んでいた。(あの女……! 少しも動揺しないなんて。私はおろか、智輝様まで眼中にないというの!?) 智輝の名を出した時も、指輪を見せつけた時も、結菜はちっとも取り乱したりしなかった。(智輝様も智輝様よ。結婚を5年も引き伸ばして、今も婚約者であるあたしをないがしろにしている!) 玲香はプライドがひどく傷つくのを感じた。「こうなったら……」 彼女はスマートフォンを取り出した。図書館で密かに撮っておいた、指輪が最も目立つ角度の自撮り写真を選ぶ。背景には意図的に絵本棚を写り込ませ、計算された「悲劇のヒロイン」の文章を打ち込んだ。『田舎の図書館まで婚約者の視察に来てしまいました♡ 退屈だけど、これも未来の妻の務めかしら? 智輝様はお仕事に真面目すぎますわ! #婚約中 #多忙な彼氏 #桐生財閥』(これであたしの評判が上がるはずだわ。智輝様はこの投稿を見て、後悔するでしょう) 玲香はほくそ笑んだ。◇ その夜、玲香の投稿は、都心のラグジュアリーホテルのラウンジから火がついた。「ねえ、これご覧になって? これ、綾小路玲香様よ」 令嬢の一人がスマートフォンを差し出すと、もう一人がくすくすと笑いをこらえる。「『未来の妻の務め』ですって。健気だこと。もう何年も結婚を延期されていて、目処が立っていないのにね」「でも、智輝様に放置されているって、自分で暴露しているようなものじゃない?」「しっ。あまり言うとお可哀想でしょう」「本当、お可哀想なこと。ふふふっ」 彼女たちの会話は甘いカクテルのように上辺は華やかだが、底には毒が沈んでいた。 投稿のスクリーンショットは、瞬く間に経済界を駆け巡る。ライバル企業の役員たちが集うプライベートなチャットグループでは、匿名をいいことに、もっと辛辣な言葉が飛び交った。『桐生HDのCEO、婚約者の管理もできないのか。仕事はやり手で
last updateLast Updated : 2025-10-19
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「なんだ、これは……」「綾小路玲香様のSNSアカウントの投稿でございます。本日、こちらの図書館を訪問された際のもののようですが……」 秘書は慎重に言葉を選びながら続けた。「こちらの投稿が、現在、複数のビジネス系インフルエンサーやゴシップサイトに取り上げられておりまして。株主様からも数件、お問い合わせが来ております」 タブレットに表示されていたのは、玲香の自撮り写真と、世間の嘲笑に満ちたコメントの数々だった。 仕事に没頭していた智輝の思考が、一瞬で怒りに塗り替えられる。彼の表情から一切の感情が消えると、室内の温度が数度下がったような錯覚を秘書は覚えた。 怒りは投稿そのものよりも、玲香の軽率さと、自分が心血を注ぐプロジェクトへの敬意の欠片もない態度に向けられていた。「……すぐに綾小路玲香に電話をする」 その声は、氷のように冷たかった。 スマートフォンを取り出して、ワンコール。相手が出たのを確かめると、彼はスピーカーモードに切り替えた。「智輝様? やっとお電話くださったのね! 私、ずっとお待ちしておりましたのよ」 その甘えきった声に、智輝の眉間のしわが深くなる。彼は玲香の言葉をさえぎって、低く温度のない声で言った。「投稿は見た」 一瞬、電話の向こうで玲香が息を呑む気配がした。すぐに媚びるような声色に戻る。「あら、ご覧になったの? あたし、頑張りましたの。例の図書館へ行って、智輝様の婚約者として視察をしてきました。智輝様があまりにもお仕事ばかりで、私がどれだけ寂しいか、分かっていただきたくて……」「君の感傷は問題じゃない」 智輝は、彼女の言い訳をばっさりと切り捨てた。「問題なのは、君が桐生の名を使って、公の場で愚かな発信をしたという事実だ。株主や取引先から、問い合わせが来ている」「そんな! で、でも、悪気は……!」 玲香はうろたえる。智輝はそれ
last updateLast Updated : 2025-10-20
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44:2人だけの書架

 市立図書館は建て替えとIT化プロジェクトの真っ只中にあって、普段の静けさとは程遠い熱気に包まれていた。 職員たちはカウンターとバックヤードを慌ただしく行き来して、業者からの電話が鳴り響く。図書館を訪れた利用者たちは、いつもと違う様子に少し落ち着かない様子でいた。 そんな喧騒の中でも、結菜の意識はある場所に強く引き寄せられていた。カウンター業務の合間に、その視線は吸い寄せられるように絵本コーナーへと向かってしまう。 そこには、2つの世界が存在していた。 1つは小さな椅子にちょこんと座り、色鮮やかな恐竜の絵本に夢中になっている樹の世界。 そしてもう1つは、そこから少し離れた閲覧席で、近寄りがたい空気を放っている智輝の世界。彼はプロジェクトの現地調査だと言って、今日は絵本コーナーの一角にノートPCを持ち込んでいた。カタカタと響くキーボードの音だけが、彼の存在を主張している。 智輝は樹を無視して、いないものとしている。 樹はそんな彼に気づいているのかどうか、マイペースに絵本を読んでいる。(智輝さん、あんな場所で……。樹に、気づいているのかしら) その時、館長がカウンターにやって来て、結菜に声をかけた。「早乙女さん、すまないが、寄贈された郷土資料の整理を手伝ってくれないか。急ぎで目録を作りたいんだ」 断れるような頼みではなかった。結菜は樹の方を見る。彼はまだ、絵本の世界に夢中で帰ってきていない。 結菜は近くにいた同僚の田中に駆け寄った。「田中さん、すみません。30分ほどで戻りますので、少しだけ樹のこと、気にかけてもらえますか?」「ええ、もちろんよ」 人の良い田中は快く頷いてくれた。「ありがとう、なるべく急いで戻ります」 結菜は安心して、館長の待つ事務室へと急いだ。 しかし結菜が廊下の角を曲がった直後のこと。「あの、すみません。この本の続きを借りたいのですが、どこにあるでしょうか」 細い声が、カウンターに残った田中を呼んだ。古い本を持った老婆が、助けを
last updateLast Updated : 2025-10-20
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45:ティラノサウルスの声

 絵本コーナーの一角。智輝は、子供の存在を意識から追い出すように、ノートPCの画面に集中していた。カタカタと響くキーボードの音が、彼の苛立ちを代弁している。(なぜ俺が、この子の面倒を見なければならない……いや、面倒など見ていない。ただ、そこにいるだけだ。仕事に集中しろ) 一方、樹は智輝の冷たい空気を気にする様子もなく、お絵描きに飽きて立ち上がった。書架からお気に入りの、大きな恐竜の絵本を取り出すと、まっすぐに智輝の方へ歩いてくる。 樹は智輝のデスクの横に立ち、絵本を掲げた。「これ、よんで」 智輝は画面から目を離さない。その声は冷たく、はなから子供を相手にしていない突き放したものだった。「自分で読め。字が読めるだろう」 にべもなく拒絶された樹だが、全くめげなかった。彼は無言で、智輝が入力作業をしていたキーボードの上に、絵本を「どん」と置く。物理的に仕事を中断させる、子供ならではの強硬手段である。 智輝の指が止まった。露骨な苛立ちを浮かべ、初めて樹の顔をまともに見る。 自分と同じ色の瞳が、純粋な期待を込めてこちらを見上げていた。彼は深く長いため息をつき、渋々絵本を手に取る。(仕方ない。少しだけ読んで追い払おう) 智輝は、感情を一切排した棒読みで物語を読み始めた。「てぃらのさうるすは、おおむかしの、きょうりゅうです……」 しかし樹は智輝の態度などお構いなしに、絵に描かれた巨大なティラノサウルスの牙を指さし、「わー! キバ、いっぱい!」と目を輝かせる。無邪気な歓声が、智輝の心の奥底に眠っていた記憶を呼び覚ました。(この本……そういえば、読んだ覚えがある。俺も、好きだったな。親父がいつも読んでくれた……) その絵本は父が何度も読んでくれた、大切な記憶に繋がる一冊だった。何度も何度もページをめくり、擦り切れるまで読み込んだ、自分の読書好きの原点とも言える絵本。本を介して誰かと心を繋ぐ喜びを、結菜と出会うずっと前に、この一冊が教えて
last updateLast Updated : 2025-10-21
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46:亀裂

 用事を終えた結菜は、焦る気持ちを抑えながら早足で絵本コーナーに戻っていた。(樹、大丈夫かしら。田中さんに迷惑をかけていないといいけれど……。泣いていたりしない? それともまさか、智輝さんに……) 最悪の状況ばかりが頭をよぎり、心臓が不安に脈打つ。絵本コーナーに近づくにつれ、結菜は足音を忍ばせた。まずは物陰から、中の様子を窺おうと考えたのだ。 書架の隙間からそっと中を覗いた結菜は、絶句した。 彼女が想像していた気まずい沈黙や、樹が泣いている光景とは全く違う、信じられないほど温かな場面がそこにはあった。 智輝は高価なスーツの上着を無造作に脱ぎ捨てて、床に座り込んでいる。彼の周りには、何冊もの絵本が楽しげに散らばっている。 結菜の耳に届いたのは、温かい声。「ぼうやは、わたしがまもる!」 智輝はそう言うと、両手の人差し指を立てて、トリケラトプスの角の真似をしてみせる。結菜の前では決して見せることのなかった、無邪気で優しい父親の顔だった。 樹は目を輝かせて、小さなこぶしを握りしめている。 智輝はページをめくり、今度は声を低く唸らせた。「ガオォォォッ!」 ティラノサウルスの咆哮。それはただの鳴き真似ではない。本を愛し、物語の世界に没頭した男の心からの声だった。 智輝は実に楽しそうだった。あの夜、『書斎喫茶 月読(ツクヨミ)』で好きな本の話をした時のように。彼だけの秘密の書斎を結菜に見せて、得意げにしていた時のように。 樹もまた、智輝と一緒に楽しんでいた。コミカルなシーンでは笑い転げて、少し怖いシーンでは智輝にしがみつく。「がおーっ! とりけらとぷす、がんばれー!」 母親が子を守るシーンでは、真剣に母親恐竜を応援していた。 2人の息はぴったりで、とてもつい先日出会ったばかりとは思えない。 その光景は、結菜の心の壁を打ち砕いた。視界が涙でにじむ。声が漏れそうになるのを、必死で片手で口を覆ってこらえた。(智輝さん。あんなふうに、笑うんだ&hellip
last updateLast Updated : 2025-10-21
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47:書状

 恐竜の絵本の一件以来、図書館の空気は奇妙に張り詰めていた。 智輝と結菜の間の冷戦は続いている。だが、何かが決定的に変わってしまった。 結菜がカウンターから絵本コーナーに目をやると、PC作業に没頭しているはずの智輝が、時折、遠巻きに樹の姿を目で追っていることに気づく。その視線を見るたび、彼女の心は複雑に揺さぶられた。(今さら、何を……) 5年間、息子の存在すら知ろうとしなかった男。 先日の彼が樹に見せた穏やかな笑顔。それは確かに、結菜の心の壁を一度は打ち砕いた。けれど今は、改めて不信感が湧き上がっている。(あんなに優しい顔ができる人だったのに……結局、私のことも樹のことも、見捨てた) 智輝と別れたあの日から、結菜は一人で樹を育て、生きていく覚悟を決めてきた。その穏やかな生活を、今さらかき乱されたくない。 智輝が遠くから樹に向ける視線は、父親としての後悔なのか、それとも単なる好奇心か。結菜には真意が読めない。その不透明さが、何よりも結菜を不安にさせた。込み上げてくるのは、怒りよりも戸惑いである。◇ 一方その頃。 東京、桐生本邸。重厚なアンティーク家具が並ぶ応接室で、智輝の母・鏡子は、綾小路玲香からの報告を聞いていた。 玲香の口調は大げさだったが、鏡子は表情一つ変えない。 玲香はハンカチで目元を押さえて、悲劇のヒロインのように声を震わせる。「……信じられませんわ、お義母様。智輝様のプロジェクト先の図書館で、あの女……早乙女結菜に遭遇いたしましたの。ええ、そうです。5年前に智輝様を陥れた、あの女ですわ。偶然を装っておりましたが、まるで、智輝様を待ち伏せでもしているようでした……」 彼女はそこで一度言葉を切り、鏡子の反応を窺う。「そして……あろうことか、子供を連れておりました。私が智輝様の婚約者だと知ると、当てつけるようにその子を抱きしめて&hel
last updateLast Updated : 2025-10-22
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「分かりました。あとは、こちらで対処します」 その声には何の感情も乗っていなかった。「さすがお義母様! 頼りにしています」 玲香が満足げに帰ると、鏡子は書斎へ向かい、一分の隙もない所作で顧問弁護士に電話を入れた。「ええ、私です。以下の内容で至急、書類を作りなさい。内容は――」◇ 数日後の午後。普段と変わらぬ慌ただしさの中で、結菜の元に一通の書留が届いた。 都内の一流法律事務所のロゴが印刷された、分厚い封筒である。 事務室で一人、ペーパーナイフで封を切った結菜は、その内容に血の気が引くのを感じた。 そこには玲香の感情的な嫌がらせとは全く質の違う、感情を排した事務的な言葉が並んでいた。『貴殿の長男・早乙女樹と、当方依頼人である桐生智輝との間に血縁関係が存在する可能性を鑑み、速やかなDNA鑑定の実施を要求する』『血縁関係が確認された場合、桐生家として親権について協議する用意がある』(智輝さん本人が、こんな方法を取る? いいえ、違う。これは、あの人のやり方じゃない) 結菜の脳裏に、樹と一緒に笑っていた智輝の5年ぶりに見た穏やかな顔が蘇る。あの眼差しは、嘘ではなかったはずだ。 これは彼個人の意志ではない。彼の背後にいる冷たい『桐生家』という組織が、玲香の言葉を鵜呑みにして動き出したのだ。名目上の差出人は智輝でも、そこに彼の心はない。結菜はそう考えた。 彼女が思い浮かべたのは、智輝の母である鏡子。 あの日、『書斎喫茶 月読』で、臆面もなく「手切れ金」を差し出してきた女性だ。鏡子の冷静すぎる顔を思い出して、結菜は身震いした。(智輝さんは、また……家族の言いなりになって、私と樹を切り捨てるのね) この書面の差出人が智輝でなかったとしても、それが何だというのだろう。 彼は結局、5年前と同じように家に従って行動するのではないか。結菜の疑念はほとんど確信となって、彼女の心に根付いた。 法律という名の凶器。書面を握る指先から、力が抜けてい
last updateLast Updated : 2025-10-22
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49:父の心

 鏡子からの書状が届いて数日。結菜は内心の動揺を隠して、平静を装って業務をこなしていた。 智輝はプロジェクト調査という名目で、絵本コーナーの一角で作業をする時間が明らかに増えていた。 仕事に集中しているふりをしながら、意識は樹の存在に引き寄せられている。樹が絵本を選んだり小さな声で独り言を言ったりする様子を、無意識のうちに目で追ってしまう。 カウンター業務の合間に、結菜は息を詰める。PC作業に没頭しているはずの智輝が、ふとした瞬間に顔を上げて遠巻きに樹の姿を目で追っているのに気づいてしまったからだ。(また、あの子を見ている) その視線に気づくたび、結菜はカウンターの下で強く拳を握りしめる。 鏡子からの書状が届いて以来、智輝の存在そのものが、結菜にとっては桐生家からの圧力と同じになっていた。◇ その日、樹はいつも通り恐竜の絵本に夢中だった。彼の目当ては、子供用の低い書架の一番下の段に収められた、特大サイズの恐竜図鑑。小さな体で、重い図鑑を「うんとこしょ」と床に引きずり出した。そして、それを持ち上げようとした瞬間だった。 図鑑は樹の小さな腕には重すぎた。バランスを崩して後ろに尻もちをつき、重い図鑑がその角から、彼めがけて倒れていく。「あっ! 危ない!」 結菜が息を呑む。 だが彼女がカウンターを飛び出すよりも早く、一つの影が動いた。 今までPCの画面に釘付けだったはずの智輝が、椅子を蹴るように立ち上がり、素早く駆け寄っていた。床に叩きつけられる寸前の樹の体を、彼の腕が力強く抱きとめる。 バタン! と重い音を立てて、図鑑がすぐ横の床に落ちた。間一髪。智輝は考えるより先に体が動いていたのだ。 樹は驚いて倒れた図鑑を見、次に自分を支えた智輝の顔を不思議そうに見上げた。それから屈託なくにこりと笑う。「ありがとう、おじさん!」「いや……」 銀灰色の瞳と無垢な笑顔を間近で見た智輝は、言葉を失った。 彼はまるで何かに怯えるように、咄嗟に樹の体から手を離し
last updateLast Updated : 2025-10-23
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