LOGIN隣の佐藤がタブレットを操作し、大型モニターにスライドを映し出した。「まず目玉となるのが、全国の児童養護施設や小児病棟への『年間十万冊の絵本一斉寄贈プロジェクト』です。KIRYUの強力な物流網を使えば、あっという間に全国へ本を行き渡らせることができます。マスコミへのPR効果も絶大です」 スライドが切り替わり、今度は近代的な建物の完成予想図が映し出された。「さらに、KIRYUの最先端技術を集結させた『スマート児童図書館』の建設。顔認証での貸し出しや、AIによるおすすめ本案内など、話題性抜群のハコモノです。総予算は……」 佐々木が誇らしげに数字を並べ立てる。 しかし、結菜の気分は少しずつ重くなっていった。膝の上のスカートの生地を、半ば無意識に握りしめる。 確かにすごい計画だ。大企業でなければできない規模の支援だろう。 けれど、結菜の心には少しも響かなかった。(本を10万冊ばらまいて、立派な建物を建てるだけ。……それは私がやりたいことじゃない) 結菜は隣に座る智輝をちらりと見た。彼は無表情のまま、結菜の反応を待っているようだった。 結菜は1つ咳払いをして緊張を追い払うと、勇気を出して口を開いた。「佐々木部長。素晴らしいご提案ですが……少し、私の考えていることとは違います」 佐々木は言葉を遮られて、目をぱちくりと瞬かせた。「違います、と申しますと? 予算規模にご不満が?」「いいえ、お金の問題ではありません。本を10万冊寄付しても、それを子供たちに読んであげる人がいなければ、本はただの紙の束になってしまいます」 結菜の声のトーンがわずかに高くなる。 司書としての現場の記憶が、彼女の言葉に熱を帯びさせていた。「AIが本をおすすめしてくれても、それだけでは足りないんです。読み聞かせというのは、大人が一方的に本を読み上げる作業ではありません」 モニターの綺麗な完成予想図から視線を外して、結菜は佐々木の目を見据えた。
「あのね、智輝さん。私……」 言うべきか悩んだ。 今の生活に不満があるわけではない。 智輝の妻としての立場を全うしたいし、樹と柚葉の母としてしっかり向き合いたい気持ちもある。 でも。「うん?」 智輝は結菜を見る。 その愛情深い表情に背中を押されて、結菜は思い切って続けた。「もう一度、本に関わる仕事がしたいの。司書として、図書館で……」 口に出してしまうと、それはひどく自分勝手な願いに思えた。 今の結菜は、KIRYUホールディングスのCEO夫人だ。 海辺の町にいた頃のような、ただのシングルマザーではない。 近所の図書館にパートタイムの司書として応募したところで、警備や体面の問題で桐生家にも迷惑がかかる。 智輝の妻としての立場がある。それは十分に理解しているつもりだった。(でも、この気持ちに嘘はつけない) 智輝はコーヒーを一口飲むと、カップをテーブルに置いた。結菜の顔をまっすぐに見つめる。「いいじゃないか。結菜がやりたいことなら、俺は全力で応援するよ」「でも……私がこの辺りの図書館で働くのは、現実的じゃないでしょう? お義母様たちにも心配をかけてしまうし」「なら、自分で作ればいい」 智輝は事もなげに言った。「自分で?」「ああ。結菜の豊富な知識と経験を活かせる、『児童書読み聞かせ財団』を立ち上げよう。KIRYUホールディングスのCSR活動、つまり社会貢献事業の一環としてバックアップする。それなら、セキュリティも資金も何の問題もない」「えっ」 突拍子もない話に、結菜は目を見開いた。 手に持っていたカップの湯気が頬に当たり、我に返る。 財団の立ち上げなど、想像もしていなかった規模の話だ。「そんな……。私なんかが、会社の力を使って財団のトップに立つなんて。身の丈に合っていないわ」
桐生邸のサンルームには、明るい陽光がたっぷりと降り注いでいる。 結菜は柔らかな毛足の絨毯の上に座り込み、厚紙でできた仕掛け絵本を開いていた。 膝の上には、1歳になった娘・柚葉がちょこんと座っている。 結菜は絵本のページをめくり、紙のつまみを引き出した。「ほら、柚葉。うさぎさんが、ばぁ!」「きゃあ!」 茂みの絵柄から飛び出したウサギに、柚葉は弾けるような笑い声を上げた。 小さな両手を叩き、ふっくらとした頬をピンク色に染めている。 結菜は娘の柔らかな茶色の髪を撫でた。ベビーローションの甘い匂いが鼻をくすぐる。 穏やかで、満ち足りた午後だ。窓の外では、美しく手入れされた庭園の木々が風に揺れている。 結菜はふと、絵本から顔を上げて壁際を見つめた。 そこには天井まで届く大きな本棚がある。エドワードの蔵書である洋書や雅臣の植物図鑑の隣に、結菜が少しずつ買い集めた児童書がずらりと並んでいた。 絵本のページをめくるたびに、インクと新しい紙の匂いが立ち上る。 その匂いを嗅ぐと、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような、懐かしい感覚を覚えた。(……本に囲まれた場所で、また働きたいな) 海辺の町の市立図書館で司書として働いていた日々が、鮮やかに脳裏に蘇る。 カウンター越しに、利用者と会話を交わした。 彼らにぴったりの本を探して、書庫に入り浸ることもあった。 書庫のひんやりとした空気とカビ臭さも、今は懐かしい。 子供たちに絵本を読み聞かせた時、たくさんの瞳がきらきらと輝いていたのを思い出す。 柚葉の出産を機に東京へ越してきてから、結菜は育児と家庭のことに専念してきた。 樹の小学校の行事の他に、桐生家の一員としての付き合いもおろそかにはできない。忙しくも充実した毎日だった。 けれど柚葉がよちよちと歩き始め、少しだけ手がかからなくなった今。 結菜の心の底に眠っていた「司書としての自分」が、熱を帯びて目を覚まそうとしていた。
「あの子だけ、この家で瞳の色が違う。いつかそのことで、結菜さんと柚葉ちゃんが疎外感を感じて、気に病んでしまうのではないかと」 鏡子の告白に、結菜は目を見張った。 完璧を求める彼女が、そんな些細な感情の機微を気に留め、孫や嫁の心を案じていたなんて。「でも、杞憂でしたね」 鏡子は、柚葉が走り去った扉の方へ視線を向けた。「あの子は、少しも卑屈になっていませんでした。ただ、お姫様になりたいという純粋な気持ちから、違いを悔しがっていただけ。結菜さんが愛情たっぷりに、まっすぐに育ててくれたおかげです」 その眼差しに、かつて結菜を震え上がらせた「氷の女帝」としての冷たさは少しもない。 そこにあるのは、家族を深く慈しむ、一人の祖母としての温かい愛情だけだった。(この人は、きっと……) 結菜の胸の奥に、温かいものが込み上げてくる。(元々、こういう優しい人だったんだ。桐生家という大きな家と、会社を守るという重い責任を果たさなければいけないという思いが強すぎて……心を武装していただけで) 冷たい仮面の下に隠されていた、不器用だけれど深い愛情。 今はもう、大人になった智輝が立派に会社を切り盛りしている。 結菜という妻を得て、孫が2人もいる。どちらもとてもいい子だ。 エドワードが療養先から戻り、相談に乗ってくれる。 それらのお陰で、鏡子は重責を下ろせた。 だからこそ彼女は素顔を見せている。 それに気づけたことが、結菜は何よりも嬉しかった。 結菜が温かな眼差しで微笑み返すと、鏡子もまた、ふっと口元を緩めた。「結菜さん。先ほどのネックレスだけでなく、私のコレクションで気に入ったものがあれば、遠慮なく言ってください。差し上げますよ」「えっ! そんな、とんでもないです!」 結菜は慌てて両手を振った。 鏡子は少しだけ苦笑する。寂しそうでもあり、納得したような笑みだった。「私はもう、引退が近い
黒い布地の上に鎮座していたのは、大粒の宝石があしらわれたネックレスだった。 透き通るような深い琥珀色。光の加減で黄金色にも、濃いチョコレート色にも見える、神秘的な輝きを放っている。「これが、トパーズという宝石です」 鏡子がネックレスをつまみ上げると、金のチェーンがしゃらりと軽やかな音を立てた。 窓からの光を反射して、トパーズが柚葉の顔を優しく照らす。 光は柚葉の瞳に差し込んで、彼女は少し眩しそうに目を細めた。「わぁ……」 柚葉の瞳から涙が引いた。代わりに、好奇心と感嘆の光が灯る。 小さな口をぽかんと開けて、目の前で揺れる美しい宝石にすっかり夢中になっていた。「きれいでしょ? 柚葉ちゃんの瞳は、この宝石と同じ色をしているのですよ。とても高貴で、美しい色だわ」「ゆずのおめめ、これとおんなじ?」「ええ、そうよ。だから、泣く必要なんてどこにもないの」 鏡子の優しい言葉に、柚葉は自分の目元を小さな手でこすった。 トパーズのネックレスに向かって、おずおずと手を伸ばす。「これ、ゆずの?」 純粋な欲求に、結菜は慌てて口を挟んだ。 子供には明らかに高価過ぎる品物だ。「こら、柚葉。そんな高価なもの、おねだりしちゃ駄目よ」 しかし鏡子は結菜を制するように軽く手を上げると、柚葉に向かって微笑んだ。「今はまだ、柚葉ちゃんには少し大きすぎるわね。でも……」 鏡子はネックレスを小箱に戻し、パチンと蓋を閉めた。「あなたがもう少し大きくなって、素敵な大人の女性になった時、お祝いにプレゼントしましょう。それまで、ばぁばが大事に預かっておくわ」 その提案に、柚葉の顔がぱあっと明るく輝いた。 涙の跡が残る頬を上気させ、満面の笑みを浮かべる。「ほんと!? やくそくだよ、ばぁば!」「ええ、約束です」 柚葉は鏡子の首に小さな腕を回し、ぎゅっと抱きついた。
「柚葉、泣かないで。どんな色だって、柚葉は柚葉よ。パパもにぃにも、柚葉のこと大好きでしょ?」「やだやだ! ちがう色がよかったのぉぉ!」 言葉を尽くしても、興奮した娘の耳には届かない。さすがは魔の2歳児。両手で目をこすり、しゃくりあげて泣き続ける。(困った。泣き止んでくれない。どうしたらいいの) 結菜は途方に暮れた。 と、その時。「……随分と、賑やかなこと」 背後から、落ち着いた声が降ってきた。 結菜はびくりと肩をはねさせて、振り返る。 そこには、一分の隙もなく身なりを整えた鏡子が立っていた。 仕事の帰りだろうか、上質なクリーム色のスーツに身を包んでいる。 首元に光るペンダントは、彼女の瞳と同じ色。プラチナのチェーンと上品なダイヤモンドだ。 手には小さなベルベットの小箱を持っていた。(お義母さま……) 結菜の心臓が、嫌な音を立てて早鐘を打つ。手のひらにじわりと嫌な汗がにじむのを感じた。 和解したとはいえ、かつて「氷の女帝」として君臨していた彼女の厳しさは、結菜の記憶の奥底に刻み込まれている。 桐生家の規律を重んじる鏡子が、理由のないわがままで大声を出して泣く孫を許すだろうか。 厳しく叱りつけるのではないか。(柚葉を、守らなきゃ) 結菜は無意識に、泣きじゃくる娘を自分の腕の中に引き寄せ、庇うような姿勢をとった。 しかし、鏡子は結菜の警戒など気にも留めない様子で、ゆっくりと歩み寄る。2人の前で優雅にしゃがみ込んだ。「柚葉ちゃん。どうしてそんなに泣いているの?」 その声は、結菜が予想していた冷たい叱責ではなく、ひどく穏やかで温かみのあるものだった。 柚葉はしゃくりあげながら、涙で濡れた顔を上げた。「だって……ばぁばたちのおめめ、キラキラでかっこいい。ゆずだけ、茶色いどんぐりだもん。かわいくないの……ひ
「こんにちは! さおとめ、いつきです。4さいです!」 元気よく自己紹介した樹は、エドワードの姿を見て不思議そうに首を傾げた。「しらないおじいちゃんがいる」「こら、樹! 失礼でしょ! この方は、智輝さんのおじいさまよ!」 横で結菜が必死で息子をつついている。「おじさんの、おじいちゃん? おじさんのお父さんのお父さん?」 樹はますます首を傾げた。「樹くんは、いい子だね。結菜さんが心優しく育ててくれたのだろう」 エドワードが言うと、樹は嬉しそうに笑った。
株価の話をすれば伝統の話にすり替え、伝統の話をすれば社員の士気の話にすり替える。次から次へと浴びせられる、論点を巧みにずらした糾弾。 智輝は、彼らの言葉が、全て母・鏡子の受け売りであることに気づいていた。彼らは経営の合理性ではなく、ただ鏡子の意向に沿って彼を非難しているだけだ。 非難そのものが目的であって、理屈も何もない。議論は、もはや無意味だった。◇(筋書き通りですね) 無意味な議論を繰り返す智輝と重役たちを見て、鏡子は内心で頷いた。 この茶番は、鏡子にとっていくつかの重要
エドワードの登場に、その場の空気が、一瞬にして凍りついた。 先ほどまで智輝を糾弾していた役員たちが、まるで幽霊でも見たかのように目を見開き、一斉に椅子を引いて立ち上がる。その動きは、まるで軍隊の号令にでも従うかのように、一糸乱れぬものだった。 彼らは皆、若き日のエドワードのカリスマ性と厳しさを知る世代。その創業者を前に、彼らは会社の重役ではなくただの平社員へと戻っていた。 鏡子もまた、完璧なポーカーフェイスを崩していた。信じられないものを見たように唇をわずかに開く。(お父様がなぜ、ここに……?)
雅臣は自室の書斎で迷い続ける。 壁一面の本棚には、経営に関する本は1冊もなく、植物図鑑や美術全集が静かに並んでいる。婿養子である彼にとって、この書斎だけが桐生家の中で唯一、心安らげる場所だった。(私が、口を出すべきことではないのかもしれない。だが……) デスクの上に置かれた、幼い智輝と笑うい合う自分の写真が目に入る。あの頃の、息子の屈託のない笑顔。 それを奪ったのは、桐生家の跡継ぎとして施された厳しい教育であり、決定的になったのは、5年前の鏡子の冷たい決断だった。そして今、彼女は再び同じ過ちを犯そうとし







