All Chapters of 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない: Chapter 11 - Chapter 20

25 Chapters

11

「いやぁ! やだよぉ! 気持ち良すぎて、おかしくなっちゃう!」「おかしくなってくれ。どんな君であっても愛している」「やだぁ! あっ、あぁんっ、ああぁっ!」 結菜の体重がかかる分、智輝のペニスが深く突き刺さる。まるで串刺し。 快楽に溺れて喘ぐ結菜の姿はひどく扇情的で、智輝の熱も高まっていく。 ナマでこすれ合う粘膜は、強い刺激をもたらした。(駄目だ。出る) 我慢は限界だった。ゴム無しで中に出してしまえば妊娠の危険が高いのは分かっていたが、もう止められそうにない。 結菜が身を沈めたタイミングに合わせて、腰を強く突き入れる。こつん、と、深い部分に当たったのが分かった。「ひあっ――!」 結菜が強すぎる快楽にのけぞった。腟内がうねる。肉ひだが絡みついて、智輝を貪ろうとしている。「――っ」 高まる射精感に智輝は逆らわなかった。 愛する女の体内に子種を出すのは、これまで味わったことのない快感と幸福感。(これでいいんだ。俺は必ず結菜を手に入れる。子供ができるのなら、その子ごと愛し抜く) 深い絶頂にぐったりと倒れ込んだ結菜を抱き留める。 その細い体の体温を感じながら、智輝は心を決めていた。◇ 窓から差し込む柔らかな朝日の中で、結菜は目を覚ました。隣には、智輝の穏やかな寝顔がある。 体は気だるかったが、今まで感じたことのない満ち足りた幸福感が全身を包んでいた。 やがて智輝が目を覚ました。すぐそばにいる結菜に気づくと、驚いたように少しだけ目を見開いた後、心の底から慈しむような優しい笑みを浮かべた。「おはよう」「……おはようございます」 彼の少しかすれた朝の声が、甘く鼓膜を震わせる。言葉はそれきりだったが、何も話さなくてもよかった。 穏やかに見つめ合うだけで、彼の銀灰色の瞳から深い愛情が伝わってくる。今まで一人で迎えていた朝とは全く違う、満ち足りた時間がそこにはあった。 その幸福な空気を切り裂くように、智輝のスマートフォンが鳴り響いた。 電話に出た瞬間、彼の空気が一変した。今まで結菜に向けていた柔和な表情は消え去り、まるで別人のように冷たく厳しい顔つきになる。 温度のない声で、簡潔な指示をいくつか飛ばしていた。結菜が決して立ち入ることのできない、彼の世界の顔だった。「……分かった。すぐに戻る」 智輝は結菜に向き直った。「すまない、
last updateLast Updated : 2025-10-02
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12:残された手帳

 満ち足りた幸福感の中、一人残された結菜は、シーツの中にまだ残る智輝の温もりを感じていた。 昨夜の出来事すべてが、まるで美しい夢のように思える。 彼が見せた無防備な笑顔、情熱を宿した瞳、彼女の名を呼んだ優しい声。その一つひとつが、色褪せることのない宝物のように感じられた。(また夜に会える……) その約束に結菜は期待に胸を膨らませながら、ベッドを抜け出した。 体はひどく気だるく、特に下腹が重いが、心は生まれて初めて満たされている。一歩を踏み出すと、どろり――と彼女の中から昨日の情事の証が流れ出した。「あ……。これ、智輝さんの」 結菜は赤面した。シャワールームを探して、身を清める。 シャワールームの大きな鏡に映る彼女の肌には、赤いキスマークがいくつも散っていた。結菜はまた赤くなりながら、シャワーを済ませた。 それから彼のシャツを借りて羽織って、部屋の中を見て回る。どこもかしこも、彼の気配に満ちている。 リビングに行ってみると、ローテーブルの上に、智輝が忘れていったのであろう黒革の手帳が置かれている。(忘れ物? どうしよう、連絡はした方がいいのかな) 結菜は手帳に手を伸ばしかけて、ためらった。 ふと、その時。手帳の表紙に型押しされたロゴマークに、彼女は気づいた。 洗練された書体で組まれた「KIRYU」の文字。その周りを、歯車と電子回路をモチーフにした意匠が囲んでいる。ニュースや経済誌で何度も目にしたことのある、巨大ITコンツェルン「KIRYUホールディングス」のロゴだった。(桐生……? 智輝さんの名前も、桐生。まさか、偶然よね) 血の気が引いていくのを感じた。これから知るであろう真実から、もう逃げられない。結菜はこわばった指で手帳を開いた。 手帳の見開きに挟まれていた一枚の名刺が、彼女の淡い希望を打ち砕いた。 そこには、彼の美しい筆跡で書かれたものと同じ名前――『桐生智輝』――その下には『代表取締役CEO』という、結菜の日常とはあまりにかけ離れた肩書が記されていた。 愕然とした。彼は、冷徹な若き経営者として有名な桐生智輝本人だった。 学生時代に祖父が創業した会社を継いで、一代で世界的なIT企業へと成長させた、経済界の寵児。そんな雲の上の存在だったなんて。(嘘……。どうして、何も言ってくれなかったの?) 数時間前までの幸福感はあ
last updateLast Updated : 2025-10-03
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13:婚約者

 日曜日の桐生家の邸宅は、静寂に包まれていた。 イギリス人である智輝の母方の祖父は、名門出身の身ながらも、戦後の日本に単身で渡って起業に成功した人物だ。 彼は日本の伝統美を愛し、日本人の妻を迎えた。 桐生の名は妻の苗字。祖父は自分の家名は捨てて、日本に骨を埋めるつもりでいる。 そんな祖父が設計した庭は、日本と英国の様式美が見事に融合していた。白砂と苔で見事な枯山水を描く日本庭園と、緻密に計算された幾何学模様の花壇に薔薇が咲き誇る英国式庭園。 霧雨が多い英国の風景を思わせるしっとりとした芝生の向こうには、茶室を思わせる小さな離れも見える。伝統と革新、和と洋が共存するこの壮麗な屋敷こそが、桐生家の力の象徴だった。 綾小路玲香(あやのこうじ・れいか)は、週末恒例となっている桐生家の食事会が、早く終わることだけを願っていた。 大きなマホガニーのテーブルには、季節の花が気品高く活けられている。カトラリーの銀と年代物の食器が立てるかすかな音だけが、ダイニングに響いていた。 会話は智輝の母・鏡子が一方的に話す、時候の挨拶と当たり障りのない社交界の話題だけ。智輝は心ここにあらずといった様子で相槌を打ち、彼の父は存在感を消すようにただ黙々と食事を進めている。(智輝様。いったい何を考えていらっしゃるの?) 玲香は苛立ちを隠し、完璧な淑女の笑みを浮かべたまま、視線を窓の外へと逃がした。 見事な庭園が目に入るが、彼女の興味はそこにない。 婚約者である智輝の隣に座ってはいるが、彼の心はここにはない。玲香は、その事実を苛立ちと共に感じていた。(智輝様がどんな人間かなんて、どうでもいい。あたしが欲しいのは、桐生家の後継者夫人という完璧な地位と、誰もが羨む富と名声) それを手に入れるために、この退屈な食事会にも彼の不機嫌にも耐えているのだ。それなのに彼の心が自分以外のどこかにあるという事実が、玲香のプライドを不快に刺激した。 今日は最初から智輝の様子はおかしかった。上の空で、玲香の言葉にも生返事しかしない。銀灰色の瞳には、時折、玲香の知らない柔らかな光が宿ってはすぐに消える。まるで、心だけが別の場所にあるようだ。 先ほど甘えて腕に触れようとしたら、はっきりと身を引かれた。 その拒絶が、玲香のプライドを深く傷つけた。 女がいる、と玲香は直感で思った。(誰なの?
last updateLast Updated : 2025-10-03
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14

 調査は迅速だった。数時間後、玲香の元に一通のメールが届く。  添付されていた調査報告書を開いて、彼女は侮蔑に唇を歪めた。 報告書には、智輝の行動を裏付けるホテルの予約記録や、従業員への聞き込みをまとめたテキスト。そして、一枚だけ画像データがあった。  ホテルのエントランスに設置された防犯カメラの映像から切り取られたものだろう。画質は少し粗いが、智輝にエスコートされ、慣れない様子で俯きがちに歩く結菜の姿ははっきりと見て取れた。 さらに結菜個人の情報が続く。『早乙女結菜。22歳。両親は既に他界し、天涯孤独。派遣社員』 高校も大学も名門とは程遠い、平凡なものだ。  写真に写る女は、派手さのないどこにでもいるような娘だった。(つまらない女。どうしてこんな女に、智輝様が夢中になっているわけ!?) 玲香は安堵し、同時に屈辱と激しい怒りを覚えた。(絶対に別れさせてやる。智輝様の婚約者は、このあたしよ) ◇  報告書を手に、玲香は智輝の母・鏡子との面会を求めた。「あら、玲香さん。今日のお食事会が済んだばかりだというのに、何かご用かしら?」 桐生家の邸宅、その奥にある鏡子の私室。優雅に紅茶を飲む彼女を前に、玲香は悲劇のヒロインを完璧に演じきった。「鏡子様、お伝えしなければならないことがあります。智輝様が、素性の知れない女に誑かされておりますの」 結菜の調査報告書を渡すが、鏡子はそれに目を通しても表情一つ変えない。しかしその銀灰色の瞳の奥に、氷のような冷たい光が宿ったのを玲香は見逃さなかった。  鏡子にとって重要なのは、智輝の恋愛感情ではない。桐生家の血筋と比類なき名誉を、「正しい」妻を娶って受け継がせること。家柄のない結菜は、その両方を汚す「害虫」でしかなかった。 鏡子は静かにティーカップを置くと、冷静な声で告げた。「そのような女、桐生の名を汚すだけの存在です。智輝のためにも、家の名誉のためにも、早急に『処分』しなければなりません」 玲香の嫉妬と、鏡子の家のための冷酷な計算。目的が一致した2人の間に、共犯者としての濃い空気が生まれた。「まずはその女がどのような人間か、わたくしたちの目で直接確かめる必要があります。そして、智輝にはっきりと分からせるのです。身分不相応な女がいかに浅ましく、汚らわしい存在であるかを」 鏡子は報告書に記された結
last updateLast Updated : 2025-10-04
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15:冷酷な女帝

 週末恒例の食事会が終わり、智輝は結菜の元へ戻ろうと席を立った。しかし、その背中に母・鏡子の冷たい声がかけられる。「智輝、少しよろしいですか。次の役員会に向けて、確認したいことがあります」 彼女の口調は息子への問いかけではなく、拒否を許さない命令だった。智輝は眉をしかめる。 玲香は「少し気分が優れないので、お先に失礼しますわ」と淑女の笑みを浮かべて桐生邸を後にしていた。「今ですか? 次の役員会はまだ間があります。明日でよろしいですか?」 智輝の頭には結菜の姿がある。夜までに帰ると約束したのだ。 今はまだ昼間だとはいえ、一刻も早くセカンドハウスに戻って彼女の隣にいたかった。 鏡子は息子の様子に気づいているが、全く表情を変えずに続けた。「今です。後回しにするなど、許されません。ヨーロッパ市場の拡大についての件です」「その件でしたら、資料は既に提出したはずですが」「ええ。ですが、あの予算計画では甘すぎます。それに、システム部門の責任者の件も、早急に手を打たなければならない問題でしょう。これは長話になりますよ」「……分かりました」 父はその場にいるが、仕事の話に口出しをしてこない。彼には口出しする力がない。曖昧な笑みを浮かべて居づらそうにしているだけだ。 今から話し合えば、それでも夜までには間に合うだろう。智輝は諦めて母に向き直った。◇ それから数時間後。興信所からの調査報告書を手に、玲香は再び桐生邸の書斎の扉を開けた。案の定、智輝は鏡子との無味乾燥な話に捕らえられ、ソファに深く身を沈めている。「鏡子様。少し、お話をお願いします」 玲香は鏡子の私室に2人だけで移動して、報告書を見せた。そこに記された『早乙女結菜』という名と平凡な経歴、そして智輝が彼女の元で一夜を明したという事実に、鏡子の銀灰色の瞳が氷の光を宿す。 そこからは、2人は完璧な連携をしてみせた。 玲香が口を開く。「智輝様、結婚式の打ち合わせ、今夜でしたわよね?」「……いや? 結婚式の話はまだ保留のはずだ。何か勘違いをしてらっしゃるようだが」 智輝が不審そうな顔をすれば、すぐに鏡子が続けた。「智輝、わたくし少し気分が優れません。玲香さん、申し訳ないけれど、今夜は泊まっていってくださらない?」「ええ、喜んで。智輝様、この機会に結婚式の打ち合わせを済ませてしまいましょう
last updateLast Updated : 2025-10-04
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16

 高層マンションのペントハウスにて。  智輝の「夜には必ず戻る」という言葉だけを信じて、結菜は一人で待ち続けた。だが実際は彼が戻ることも、連絡が来ることもなかった。 彼を待つ間、手持ち無沙汰だった結菜は部屋の片付けを始めた。特に昨夜の情事のあとが色濃く残るシーツを見ていられなくて、軽く予洗いしてから洗濯機にかける。  最新式のドラム式洗濯機は、2人の体液と結菜の初めての血をすっかり洗い落としてくれた。 それでも智輝は戻ってこない。 朝日が昇って部屋が白々とした光に満たされる頃。(やっぱり、私との時間は一夜の夢だったんだ) 結菜の期待は、痛みを伴う諦めへと変わっていた。  涙はもう出なかった。結菜は人形のように無表情のまま、ソファから立ち上がった。 乾燥が終わったシーツを元のように張り直し、枕の位置を戻す。使ったコーヒーカップを洗って、水滴一つ残らないように拭き上げて食器棚にしまう。部屋に落ちていた自分の髪の毛を一本残らず拾い集めて、小さなゴミ箱の奥深くに押し込んだ。 最初から誰もここにはいなかったように。甘く美しい夢の痕跡をすべて消し去り、結菜は彼のマンションのドアを静かに閉めた。 ◇  週半ばのオフィス。智輝からの連絡を待つことをやめた結菜は、目の前の仕事に没頭することで心を保とうとしていた。  けれどふとした瞬間に彼の銀灰色の瞳が脳裏をよぎっては、胸が痛んでしまう。(忘れなきゃ。あれは夢だったの) オフィスの空気はいつも通りだ。だがその平穏は、突如として破られた。「早乙女さん、応接室まで来てください」 上司に呼ばれて、結菜は顔を上げる。目に飛び込んできたのは、気品高くも氷のようなオーラを放つ貴婦人――桐生鏡子と、勝ち誇った笑みを浮かべる綾小路玲香の姿だった。周囲の社員たちが、何事かと遠巻きに見ている。  鏡子と玲香のことは、結菜は何も知らない。けれど鏡子の目は、智輝と同じ銀灰色の色。結菜は、血の気が引いていくのを感じた。 応接室には、重苦しい沈黙が落ちている。  それを破ったのは鏡子だった。彼女は手元の書類に目を通しながら、一切の感情を排した声で尋問を始める。「早乙女結菜さん。22歳、派遣社員。ご両親は既に他界されているとか。……なるほど。息子を誘惑するには、同情を誘いやすい境遇ですね」 鏡子の言葉は丁寧だったが、そ
last updateLast Updated : 2025-10-05
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17:手切れ金

 土曜日になった。結菜は、約束の場所へと重い足取りで向かっていた。 週末の街は賑やかだが、その喧騒は彼女の耳には届かない。逃げ出したい気持ちと、智輝との思い出を汚されたままにはできないという気持ちが、心の中でせめぎ合っていた。(逃げちゃだめだ。智輝さんのことを、何も知らないこの人たちに決めつけられてたまるものか) 彼女を突き動かしているのは、智輝への微かな信頼と、自分自身の尊厳を守りたいという最後のプライドである。智輝と出会ったあの思い出の場所に、彼女は一人で戦いに向かった。『月読』のドアを開けると、店内はいつもと全く違う、冷たい空気に満ちていた。客は一人もおらず、貸し切りにされている。カウンターの奥で、マスターが痛ましげな表情で結菜に小さく頭を下げた。 鏡子と玲香は、結菜が智輝と初めて出会った、あの窓際のソファ席に女王のように座っている。 結菜にとって一番大切な思い出の場所を、意図的に奪うという支配者の態度の現れだった。いつもは温かいコーヒーの香りに満ちた空間が、今は息が詰まるような緊張感に支配されている。 結菜は2人の前に促されるまま座った。鏡子は値踏みするような視線を結菜に向けた後、本題に入った。「単刀直入に申し上げます。息子、智輝から手を引いていただきたい」 鏡子はテーブルの上に、分厚い純白の封筒を置いた。「これは、わたくしからの誠意です。今後の生活にお役立てください。これ以上、息子と関わることは許しません」 その言葉と行いは、「誠意」という皮を被って、結菜の存在そのものを否定した。 鏡子の言葉を皮切りに、次は玲香が嘲笑の言葉を浴びせ始めた。「まあ、聞いてた通り地味な方。そんな安っぽいワンピースで智輝様に近づけるなんて、逆にすごい度胸ですわね。親御さんの顔が見てみたいわ……ああ、ごめんなさい。もういらっしゃらないんでしたっけ? しつけもろくにされずに育つと、こうも恥知らずになれるのね」 玲香は意地悪くクスクスと笑う。「智輝様との一夜が、このお値段ですって。あたしだったら、恥ずかしくて生きていけないわ。まさかとは思うけど、これで満足できなくてもっと要求しようなんて考えてないでしょうね? だって、あなたみたいな人には、一生かかっても稼げないような金額ですもの」「そんなことは!」 言いかけた結菜を制して、玲香は続ける。「それに
last updateLast Updated : 2025-10-05
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18:罠

 土曜の昼、KIRYUホールディングスのCEO執務室。 桐生智輝は山積みの書類に目を通しながらも、全く集中できずにいた。あの日曜の朝、結菜の元を後にしてからもうすぐ1週間が経つ。 あの日、智輝はとうとうペントハウスに戻ることができなかった。翌日の朝になってようやく抜け出して駆けつけたが、部屋は既にもぬけの殻。 一夜を共にしたはずのベッドは整えられて、情事の痕跡は消えている。食器やその他のものも使われた形跡がなく、髪の毛一本に至るまで結菜の気配は残っていなかった。 それ以来何度電話をかけても1週間後の今日まで、彼女が出ることはなかった。メッセージにも返信はない。既読にすらならない。(結菜の身に何かあったのでは?) 心配する智輝の目に、リビングのローテーブルに置いたままになっていた黒革の手帳が目に入る。 いつも愛用している手帳だが、あの日はただの実家の食事会ということもあり、忘れてしまっていた。開けば当然、CEOとしての名刺が入っている。(まさか……俺が桐生家の人間だと知って、意図的に避けている?) 結菜は彼の肩書などではなく、本来の孤独な姿を見てくれたはずなのに。 ただの男と女として、互いを満たしあったはずなのに。 醜い疑念が智輝の心に芽生えて、むしばんだ。(彼女に限ってそんなことはない。俺が信じなくてどうする) 智輝は、腕の中で無防備に眠っていた結菜の姿を思い出す。疑念を必死に打ち消そうとした。 結局、募る焦燥感に耐えきれず、彼は仕事を中断して席を立った。(もう一度、あのカフェに行ってみよう。何か分かるかもしれない) 智輝は秘書に「今日の午後は外出する」とだけ告げて、結菜との思い出の場所へと向かおうとした。 その時、執務室の内線電話が鳴った。ディスプレイに表示された『玲香』の名前に、智輝は小さく舌打ちをしながらも受話器を取る。「俺だ。今、取り込んでいるんだが」『智輝様……!』 聞こえてきたのは、今にも泣き崩れそうな玲香の声だった。ひどく狼狽し、嗚咽を漏らすその様子は、完璧に計算された演技である。『大変なことになりましたの! あの……早乙女結菜さんが!』 結菜の名前が出た瞬間、智輝の思考は停止した。心臓を鷲掴みにされたような衝撃に、彼の声から余裕が消える。
last updateLast Updated : 2025-10-06
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19

「結菜がどうした。なぜ君が彼女を知っている。何かあったのか!」『あたし、智輝様のためを思って、母様とあの方に、穏便に身を引いていただくようお願いに来たんです』 玲香はそこで一度言葉を切った。智輝が息を呑む気配を電話越しに確かめてから、さらに憐れみを誘うようなか細い声で続けた。『そうしたら彼女、とんでもない金額を、手切れ金として要求してきて……!』「馬鹿な。彼女がそんなことをするはずがない。それ以前に、母と君が出てくるとはどういうことだ」 智輝は即座に否定した。しかしこの1週間、結菜と一切連絡が取れなかった事実が、彼の確信を鈍らせる。 玲香は、鏡子と自分が手出しした経緯は巧みに避けながら、泣きじゃくる演技で彼の心に決定的な不信感を植え付けた。「信じられないのも分かります。でも、今も彼女、お金の話をしているのです! 場所は……『書斎喫茶 月読』ですわ」(なぜ、あの場所で。俺たちの、特別な場所のはずだろう……?) 愛した女性への信頼と、婚約者の悲痛な訴えの間で、彼の心は激しく揺れ動いた。『あたし、もう見ていられなくて。一度外に出ますわ!』 玲香は叫ぶように言って、一方的に通話が切れた。 智輝は、無言で受話器を叩きつけるように置いた。「CEO!? どうなさいましたか」 彼の剣幕に、秘書が心配して駆け寄ってくる。「何でもない」 智輝は一言で退けて、コートをひったくるように手に取ると、衝動のままに執務室を飛び出した。 エレベーターを待つ時間すら惜しい。智輝は階段に飛び込んだ。非常階段を駆け下りる革靴の音が、じりじりと焦りを高めていく。 地下の駐車場で愛車のエンジンをかけると、智輝はアクセルを強く踏み込んだ。結菜の純粋な瞳と、玲香の涙ながらの訴えが、頭の中で交互にフラッシュバックする。(結菜を信じたい。だが、もし玲香の言うことが真実なら……) ハンドルを握る指が
last updateLast Updated : 2025-10-07
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20

 智輝は息を切らしながら『月読』のドアを乱暴に開けた。 カラン、カラン――といつもよりけたたましい音を立てて、ベルが鳴る。 店内は異様なほど静まり返っていた。カウンターの奥で、マスターが苦渋に満ちた表情で立ち尽くしているのが目に入る。 智輝の心臓は激しく鳴っている。玲香の話が嘘であってくれと心の底から願いながら、彼は店の一番奥にある結菜との思い出の席へと視線を向けた。 目に飛び込んできたのは、信じたくない光景だった。 彼の母・鏡子と、婚約者・玲香。そして、その向かいに座る結菜の姿。 テーブルの中央には、分厚い純白の封筒。そしてその封筒に、結菜の手が伸ばされている――。 結菜が金を返そうと封筒を押し返した動きが、彼の角度からは、まるで金を掴もうとしたように見えたのだ。 結菜の顔は、智輝の突然の登場に驚いて青ざめている。しかしその表情すら、彼の目には「悪事が露見した者の罪悪感」として映ってしまった。 智輝の存在に最初に反応したのは、玲香だった。 彼女は「あっ……」と短く息を呑んでみせた。それから信じられないものを見たように、ゆっくりと智輝の方へ歩み寄る。その瞳は、涙で潤んでいる。 玲香は智輝のそばまで来ると、わざとらしくふらついて彼の腕の中に倒れ込んだ。か弱い被害者を演じるためだ。結菜には聞こえないよう、智輝の耳元だけで囁く。「智輝様、鏡子様のお顔をご覧になって。あんな女のせいで、お母様が追い詰められていますわ! お金なんて渡す必要ないと、あたし、申し上げたのに……!」 彼女は智輝の背中に隠れるようにして、結菜の方を怯えた目で見つめた。 芝居がかったわざとらしい動作だったが、結菜を見ていた智輝は気づかない。 一方で鏡子は一言も発しない。ただ、失望を隠さない冷ややかな視線を息子に向けただけだった。しかし智輝にとって、その沈黙こそが何より重い、結菜の有罪を告げる答えのように感じられた。 智輝の頭の中で、すべてのピースが最悪の形で組み合わさっていく。 結菜との1週間の音信不通。彼
last updateLast Updated : 2025-10-08
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