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氷のCEOは、愛の在処をもう知らない のすべてのチャプター: チャプター 31 - チャプター 40

113 チャプター

30

「その件は保留だと言ったはずだ。今は地方の図書館プロジェクトが最優先事項になる」「またそれですの? たかが地方の図書館でしょう?」「たかが、ではない」 智輝の声が、絶対零度の冷たさを帯びた。「これは県全体の文化インフラを担う、重要な社会的貢献事業だ。企業としての責任が問われる。失敗は許されない」 玲香は不満そうに唇を尖らせたが、仕事の話をする智輝にはそれ以上何も言えない。この5年間、彼は常にそうだ。あらゆる理由をつけて、結婚という核心から巧みに逃げ続けている。「いい加減、決めてくださいな。さすがに5年は長過ぎますもの」(結婚……) 智輝の脳裏に、遠い日の記憶が蘇る。柔らかな茶色の髪、穏やかな瞳、そして腕の中で無防備に眠っていた、温かいぬくもりの面影が。(あの夜以来。愛だの結婚だの、そんな言葉は意味を失った) たった一夜で彼の心の全てを奪っていった女。その幻影が、今も智輝の心の最も深い場所を凍りつかせていた。 ◇  図書館リニューアル計画の説明会、当日。  その日の午後、図書館の視聴覚ホールは職員や市の関係者で埋め尽くされて、異様な熱気に包まれていた。結菜も末席で、できるだけ目立たないように体を小さくしながら、開始を待っていた。  よほど欠席しようと思ったが、今日も説明会以外の仕事がある。それに今日だけ避けたところで、また同じような機会はあるかもしれない。責任感の強い結菜は、休めなかったのである。 館長が緊張した面持ちでマイクの前に立つ。「皆様、本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます。ご紹介します。本プロジェクトの総責任者、株式会社KIRYUホールディングス、代表取締役CEO、桐生智輝様です」 桐生、智輝。  その名前が鼓膜を打った瞬間、結菜の世界から一切の音が消えた。全身の血が、さあっと足元へ引いていく。隣に座る佐藤が「どうかしたの?」と心配そうに顔を覗き込むが、その声はひどく遠くて結菜にはよく聞こえなかった。(本当に、あの人なの?) 頭では分かっていた。先週の昼休みに佐藤から聞かされて、覚悟を決めたはずだった。それなのに心のどこかでまだ、何かの間違いであってほしいと愚かにも願っていたのだ。(逃げられない。もう、逃げられないんだ) 祈るような思いで、壇上の入り口を見つめる。  ゆっくりと、ホールの扉が開かれた。
last update最終更新日 : 2025-10-13
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31:同じ色

 桐生智輝がホールに足を踏み入れた瞬間、場の空気が張り詰めた。職員の中にいるはずのない女の姿を認めて、彼の思考が一瞬、停止する。 磨き上げられた革靴の下の床が、ぐらりと揺らぐような錯覚。心臓が一度だけ大きく、嫌な音を立てて鳴った。(早乙女……結菜……? なぜ、彼女がここにいる?) 激しい怒りと混乱が、古傷の痛みと共に胸の奥から蘇る。5年間、一度の連絡もなく姿を消した女が、今更何の用だ。智輝の全身を、冷たい炎のような感情が駆け巡った。 しかし次の瞬間には、彼は全ての感情を精神の奥底に沈めた。完璧な「氷のCEO」の仮面を被る。感情を心から切り離すのは、この5年間で身につけた唯一の自己防衛術だった。 一度、智輝は裏切られた。長い間抱えていた孤独を埋める、半身に出会えたと信じていたのに。 今まで知り合った誰とも違う、特別な女性と巡り合ったと感じていたのに。 全てはまやかしで、智輝は深く傷ついた。 だから彼は心を閉ざした。自分自身を守るために。 仕事に能力の全てを注いでおけば、余計なことは考えずに済む。(もう誰も信じるものか。心も感情も、俺には必要ない) 誰にも内心の動揺を悟らせぬまま、彼は何事もなかったかのように館長に会釈し、壇上へと向かった。◇ 智輝は演台に立つと、ホール全体を見渡した。銀灰色の瞳には何の感情も浮かんでいない。彼は用意された原稿に目を落とすことなく、ホール全体に響き渡る明瞭な声で語り始めた。その声は春の温かい空気とは対照的な、絶対零度の冷たさを帯びていた。「本プロジェクトの目的は、単なる施設の刷新ではありません。県全体の知的資産を統合管理する、次世代型ライブラリーネットワークの構築です」 彼の口から紡がれるのは、この地方都市の職員たちが聞き慣れない、最先端のビジネス用語の羅列だった。「まず、基幹システムは完全にクラウドへ移行。全蔵書データはリアルタイムで同期され、県内のどの図書館からでも横断的な検索・貸出予約が可能となります。各
last update最終更新日 : 2025-10-14
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32

「予算配分はROI、すなわち投資収益率を最大化する形で策定済みです。初期投資は高額になりますが、5年後のランニングコスト削減効果と、デジタルアーカイブ化による新たな文化的価値創出を考慮すれば、費用対効果は極めて高い。導入は三段階のフェーズに分け、各フェーズ完了ごとに厳格なKPI評価を実施します」 彼の声には抑揚がなく、まるで未来の天気予報でも読み上げるように平坦だった。冷たい合理性がプロジェクトの巨大さと、彼の強い自信を物語っていた。 説明しながらも、彼の意識の片隅には常に結菜がいた。値踏みするように、時折彼女の方へ冷たい視線を送る。  5年の歳月は、彼女から学生のような瑞々しさを奪い、代わりに母親のような穏やかさを与えていた。だがあの柔らかな物腰も、今は智輝の目には計算された演技のようにしか映らない。(あの瞳に騙された。金のために、平気で男を惑わす女だったとは) このプロジェクトの責任者が俺だと知って、現れたのか。彼の心に、苦い疑念が渦巻く。  結菜は彼の視線を浴びるたびに小さく身をこわばらせる。完全な拒絶に打ちのめされていた。 プレゼンテーションが終わり、ホールは一瞬の静寂に包まれた。館長が緊張した面持ちで「何か、ご質問はございますでしょうか」と促すが、誰もが智輝の放つ近寄りがたいオーラに気圧されて、すぐに手を挙げる者はいなかった。  やがて一番前の席に座っていたベテラン司書の佐藤が、おそるおそる手を挙げた。「あの……大変素晴らしい計画だと理解しております。ですが、全てがIT化されてしまうと、私たち司書が長年の経験で培ってきた、利用者の方への個別のおすすめといった……その、人の手によるサービスは不要になってしまうのでしょうか?」 それは、ここにいる誰もが抱いていた不安だった。ホールにいる全員の視線が智輝に集まる。智輝は表情一つ変えず、マイクも通さずに、全員に聞こえる明瞭な声で答えた。「逆です。むしろ、その価値が最大化される」 智輝は佐藤を見据えた。「新しいシステムは、利用者が『何を』読んだかという履歴をデータとして完璧に管理します。あなたたち司書は、そのデータを見て『なぜ』その本を気に入ったのか、次は『どんな』物語を求めているのか、利用者と対話することに集中できる。単純で退屈な検索作業は機械に任せ、人にしかできない心の交流に時間を使う。
last update最終更新日 : 2025-10-14
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33

 彼の言葉には一切の淀みがなく、感情の温度も感じられない。その明快な答えに、佐藤は気圧されながら「よく、分かりました。ありがとうございます」と着席した。 次に、若い男性職員が不安そうな顔で立ち上がった。「我々はコンピューターの専門家ではありません。そのような最新のシステムを、本当に使いこなせるようになるのでしょうか……」 智輝の銀灰色の瞳が、かすかに細められた。まるで、あまりに初歩的な問いに呆れたかのようだった。「あなたは、電話のかけ方を知っていますね?」「は、はい」「それと同じです。電話がなぜ繋がるか知らなくても、目的の相手の番号を押し、話す。それで十分に使いこなせます。図書館のシステムも目的の本の名前を入力し、検索ボタンを押す。プロセスは同じで、道具が違うだけです。もちろん、必要な研修はこちらで用意します。ボタンの押し方を覚えるのに、専門知識は不要です」 完璧なまでに無駄のない論理に、質問した職員は返す言葉もなく、「失礼しました」と小さくなって座った。 ホールは感嘆と畏怖が入り混じった空気で満たされる。彼の圧倒的な手腕と、人の心の機微など一切意に介さない冷徹さに、職員たちは圧倒されるばかりだった。◇ 説明会が終わり、智輝は館長や県知事と形式的な挨拶を交わしながらロビーを退出しようとした。 彼は一刻も早くこの場を立ち去りたかった。結菜と同じ空気を吸うことすら、忘れかけていた痛みを抉るようだったからだ。 その時、ロビーの隅から小さな影が駆け出してきた。保育園の送迎で図書館まで来ていた樹が、母親の元へ行こうと走り出したのだ。 だが、ロビーにはいつもよりもたくさんの大人があふれている。樹は大勢の大人に紛れて母親を見失った。キョロキョロと辺りを見回す。 そして、ちょうど目の前を通りかかった智輝の足に、こつんと頭をぶつけてしまった。「あいたっ」◇ 突然の出来事に、智輝は反射的に眉をひそめる。子供は非合理的で、予測不能な存在。好きではなかった。
last update最終更新日 : 2025-10-15
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34:問いかけ

 説明会が終わり、ホールから人々が立ち去っていく。 結菜は大きく息を吐いて、まだ速い鼓動を必死に鎮めようとした。「すごかったわね、KIRYUホールディングスのCEO。さすがは世界的企業のトップだわ。ああいうのを切れ者っていうのね」 隣で同僚の佐藤が感嘆の声を漏らすが、結菜にはほとんど聞こえていなかった。彼女はロビーの隅で、保育園の送迎で来ているはずの樹の姿を探した。 いつもなら絵本コーナーでおとなしく待っているはずの息子の姿がない。結菜の心に、小さな焦りが生まれる。「樹?」 声を上げた瞬間、結菜は見てしまった。 ロビーの中央、人の流れが不自然に避けているその場所で、小さな息子があの男の足元に立っているのを。樹が何かを話しかけるように、こてんと首を傾げ、男を見上げている。そして男は――桐生智輝は、凍りついたように動かず、息子の顔を、その瞳を見つめていた。(だめ。見られた。あの人に――) 全身の血が逆流するような感覚が走る。 結菜は恐怖に駆られて、即座に行動した。彼女の唯一の目的は樹をこの場から、智輝の射抜くような視線から引き離すことだった。「ごめんなさい! 失礼します」 結菜は人垣をかき分けてて駆け寄り、樹の手を強く握ると、智輝に背を向けて逃げ出そうとする。 しかしその数歩先で、智輝が回り込んで彼女の行く手を塞いだ。彼の動きには一切の無駄がない。「お待ちください」 声は低いが、周囲の喧騒を切り裂くほどの強い圧力があった。「少し、よろしいですか」 それは疑問形でありながら、拒否を許さない命令だった。 館長や県の職員たちが、ただ事ではない雰囲気を感じ取る。気まずそうに視線をそらして、後ずさっていく。◇ 智輝は結菜の腕を掴むことはしなかった。ただ無言の圧力で彼女と樹を、近くの空いていた事務室へと導く。 ぱたん、とドアが静かに閉められて、外の音が遮断された。 智輝は結菜を無視した。それが彼女にとって、最大の心理的な圧力になる
last update最終更新日 : 2025-10-15
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35

 智輝の心の中で、止まっていた時計の針が軋んだ音を立てて動き出す。(5年前の、秋……。そこから十月十日。計算が、合う) 彼の心の中で、予測が素早く組み立てられていく。この子供は、あの一夜の結果である可能性が極めて高い。裏切られた痛みが5年の時を経て、より鋭く胸を貫いた。「樹! こっちに来て」 結菜が悲鳴のように言って、息子を背後にかばった。◇ 智輝はゆっくりと立ち上がる。彼の全意識は、樹を背後にかばうように立つ結菜へと向けられた。部屋の温度が、数度下がったかのような錯覚。 結菜は、彼の視線がただの驚きではなく、冷たい猜疑心に満ちていることを見て取った。 5年前に浴びせられた「金目当て」という言葉が、彼女の脳裏に蘇った。(この人は、私を許していない) 智輝が一歩、結菜に近づく。距離が縮まるにつれて、緊張が極限まで高まる。 彼はこの5年間ずっと心の奥底に封じ込めてきた問いを、全ての感情を削ぎ落とした、氷のような声で突きつけた。「……その子は、誰の子だ?」 それは、父親が我が子に再会した時の問いではない。まるで検事が容疑者に事実確認を迫るような、一切の感情を排した冷たい声だった。(この人は、5年前と同じように、今も私を信じていない) その言葉を聞いた瞬間、結菜の心に広がっていたのは、どうしようもない絶望だった。ああ、終わってしまった。この人に見つかってしまったのだ。樹と2人だけで築き上げてきた、ささやかで穏やかな日々が今、目の前で壊されていく――。足元から這い上がってくる冷たい感覚に、膝の力が抜けそうになるのを必死で堪えた。 そして結菜が顔を上げた時、智輝の瞳に浮かぶものを見て、全てが変わった。 そこに宿っていたのは、驚きや戸惑いではない。父親としての喜びや期待の欠片すらなかった。あるのは5年前のあの時と寸分違わぬ、冷え切った猜疑心だけ。まるで「お前が金のために仕組んだことだろう」とでも言うような、侮蔑の色さえ浮かんでいた。
last update最終更新日 : 2025-10-16
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36:欺瞞

 その子は、誰の子だ。 長い息の詰まるような沈黙の末、結菜ははっきりと首を横に振った。5年前に彼に突き放された時と同じ絶望を押し殺して、母親としての覚悟を決めた声で告げる。「あなたには、関係のないことです」 その一言は、智輝にとって彼女が下した「判決」のように聞こえた。「樹、行きましょう」「うん……」 結菜はそれ以上何も言わず、樹の小さな手を引いて、智輝を一度も振り返ることなく部屋を去っていく。 樹だけが最後にドアの隙間から、不思議そうな顔で智輝を見つめていたが、やがてその姿も完全に消えた。◇ ぱたん、と閉まるドアの乾いた音が、智輝の心に突き刺さる。張り詰めていた緊張が切れて、彼は一瞬、近くの本棚に手をついて体重を支えた。(関係ない、だと……?) 結菜の言葉が、頭の中で嘲笑うように反響する。(あの瞳……俺と同じ色をしていながら、俺の子ではないと。そういうことか) 彼の思考は、最も傷つかずに済む結論へと、無意識のうちに突き進んでいった。 もし、この子が自分の子であるならば、それは何を意味するのか。 あの一夜がただの気まぐれや打算ではなかったことの、動かぬ証拠になってしまう。彼女が抱いていた想いが、本物だったということになってしまう。だって結菜は、子を盾にすることもなく一人で育ててきたのだから。 そして何より、智輝は真実から目を背けて、愛した女性を「金目当て」と罵り、身重の彼女をたった一人で絶望の淵に突き落としたことになる。5年間、己の子の存在に気づきもせず、のうのうと生きてきたことになる。 その罪の意識は彼のプライドを、これまでの人生の全てを、根底から破壊するには十分すぎる威力を持っていた。 それならば――。 彼女がまた別の男との間に子をもうけ、偶然似た瞳を利用して、再び自分から金を引き出そうとしていると考えた方が、どれほど楽だろうか。 それならば、5年前に
last update最終更新日 : 2025-10-16
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37

 智輝が宿泊する、町の最高級ホテルのスイートルームにて。 部屋に戻った智輝は、感傷に浸る代わりにすぐに行動を起こした。スマートフォンを取り出し、東京本社の筆頭秘書に電話をかける。その声に、私的な感情は一切含まれていない。「俺だ。例の図書館プロジェクトの件、スケジュールの前倒しを検討しろ。一切の遅延は認めん」 淡々と指示を続ける。「現地スタッフとの折衝は、すべて君を通せ。例外はない」「かしこまりました」 一瞬の間を置いて、最も重要な指示を低い声で付け加えた。「特に、早乙女結菜という司書。彼女からの連絡は、直接俺には繋ぐな。業務上の報告として、全て文書で上げさせろ」 智輝は、結菜との間に明確な一線を引くことを決めた。2人の関係はあくまで仕事上のもの。それ以上でも、それ以下でもない。 そうすることで、彼女を視界に入れないようにした。◇ 一方、アパートに帰った結菜は、何も知らないまま眠りについた樹の寝顔を見つめていた。 日中の緊張が解けると、智輝の瞳に宿っていた冷たい不信感がまざまざと蘇り、彼女の両目から音もなく涙がこぼれ落ちる。(もう、あの人はいない。私が愛した人は、もうどこにもいないんだ) 5年間抱き続けた最後の幻想が、静かに消え去っていく。 本当は、心のどこかで願っていた。樹を――智輝に生き写しの目をした息子を見れば、誤解が解けるのではないかと。 もう一度あの夜の愛情を取り戻して、3人で暮らしていけるのではないかと。 でも、だめだった。現実は結菜の想像を超えて冷たいものだった。 智輝は樹を受け入れるどころか、結菜への疑いを濃くした。樹をまるで道端の石でも見るような目で見た。 結菜だけならまだ、いい。けれど樹を傷つけるのは、とても許せるものではない。 もう和解はできないと、思い知ってしまった。 だが彼女はいつまでも泣いてはいなかった。涙を拭い、眠っている息子の頬をそっと撫でる。その温もりが、彼女に絶望の底から立ち上がる力を与えた。
last update最終更新日 : 2025-10-17
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38:婚約者の焦り

 東京、青山。陽光が降り注ぐ、最高級ホテルのエグゼクティブラウンジにて、女性たちのお茶会が開かれている。 綾小路玲香は、完璧に計算された笑みを浮かべながら、友人たちの会話に耳を傾けていた。 今日の彼女の装いは、パリから取り寄せたばかりの最新コレクション、オフホワイトのシルクワンピースだ。胸元には、智輝から贈られた大粒のダイヤモンドが、肌の上で気品高く輝いている。「先日のチャリティガラ、玲香も来ていたのね。あなたのドレス、とても素敵だったわ」「ありがとう。あなたのパールのイヤリングこそ、とてもお似合いだったわよ」 当たり障りのない賛辞の応酬。それが彼女たちの世界の流儀だった。しかし会話が途切れた一瞬の隙を突き、向かいに座る友人がわざとらしく甘い声で尋ねてきた。「それにしても玲香、桐生智輝様とのご結婚はいつになるの? 婚約されてからもう5年ですわよね?」(また、この話……)「本当よ。そろそろ正式な日程を伺わないと、私たちもお祝いの準備ができないわ」 別の友人が追い打ちをかける。心配を装っているが、好奇と侮蔑の色が隠しきれていないことを玲香は見抜いていた。「智輝様は今、地方の大きなプロジェクトでとてもお忙しくて。企業の社会的責任、というものらしいの。落ち着いたら、きっと話も進みますわ」 練習を重ねた、完璧な返答。友人たちは「さすが世界的企業のCEOの婚約者ね」と頷くが、瞳の奥には嘲笑の気配が漂っている。(早くしないと、笑いものになる) 5年。22歳で婚約した玲香も、今年で27歳になった。その歳月は、玲香のプライドをじわじわと蝕んでいた。◇ 玲香は化粧室に立つと、苛立ちを隠さずにスマートフォンを取り出した。コール音は長い。ようやく繋がった相手の声は、想像していた以上に冷たかった。「会議中だ。要件はなんだ」「智輝様? お仕事お疲れ様ですわ。今、どちらに……」「また連絡する」 ぷつり、と一方的に通話
last update最終更新日 : 2025-10-17
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39

 市立図書館の午後は、いつも穏やかな時間が流れている。ふと、結菜はカウンターから窓の外に目を向けた。何かが、午後の陽光を不自然にさえぎったからだ。 音もなく滑るように現れたのは、一台の黒塗りの高級車だった。この地方都市ではめったに見ることのない、艶やかな黒い車体。周囲の空気を支配するように、図書館のロータリーに鎮座している。「すごい車。KIRYUホールディングスの関係者かしら?」「ザ・お金持ちって感じですね」 同僚たちがひそひそと話しているのが聞こえた。 智輝がこの町に現れてからというもの、様々なことが起きる。 運転席から現れた制服姿の男が、恭しく後部座席のドアを開ける。最初にアスファルトを踏んだのは、ピンのように鋭いヒールの先端だった。続いて、寸分の隙もなく仕立てられたスーツに身を包んだ女性が姿を現す。 カツン、カツン。 古い図書館の床に、場違いなほど硬質なヒールの音が響き始めた。古い自動ドアがやや軋みながら開いて、彼女が館内へと足を踏み入れる。 カウンターの奥でその姿を認めた瞬間、結菜は身を強張らせた。(綾小路、玲香さん……どうして、あの人がここに……?) 血の気が引いていくのが分かる。5年前の記憶が、脳裏にフラッシュバックした。 玲香の心無い悪口の数々と、智輝を失ったあの日の絶望。(ここで動揺してはいけない!) 結菜は爪が食い込むほど強く拳を握りしめて、業務用の作り笑顔を顔に貼り付けた。 玲香は女王のように顎を上げ、まっすぐにカウンターへと進んでくる。結菜の顔を認めた瞬間、玲香の歩調がほんのわずかに乱れた。その瞳が驚きに見開かれ、すぐに鋭く細められる。(まさか……この女が、まだ智輝様の近くに?) 一瞬にして沸き上がった動揺を、玲香は笑みの仮面の下に押し殺す。驚きはすぐに確信と侮蔑へと変わった。彼女の唇に嘲るような笑みが浮かんだ。「あら、こんな所にいたのね」 5年前と変わらない、見下しきった声。
last update最終更新日 : 2025-10-18
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