「その件は保留だと言ったはずだ。今は地方の図書館プロジェクトが最優先事項になる」「またそれですの? たかが地方の図書館でしょう?」「たかが、ではない」 智輝の声が、絶対零度の冷たさを帯びた。「これは県全体の文化インフラを担う、重要な社会的貢献事業だ。企業としての責任が問われる。失敗は許されない」 玲香は不満そうに唇を尖らせたが、仕事の話をする智輝にはそれ以上何も言えない。この5年間、彼は常にそうだ。あらゆる理由をつけて、結婚という核心から巧みに逃げ続けている。「いい加減、決めてくださいな。さすがに5年は長過ぎますもの」(結婚……) 智輝の脳裏に、遠い日の記憶が蘇る。柔らかな茶色の髪、穏やかな瞳、そして腕の中で無防備に眠っていた、温かいぬくもりの面影が。(あの夜以来。愛だの結婚だの、そんな言葉は意味を失った) たった一夜で彼の心の全てを奪っていった女。その幻影が、今も智輝の心の最も深い場所を凍りつかせていた。 ◇ 図書館リニューアル計画の説明会、当日。 その日の午後、図書館の視聴覚ホールは職員や市の関係者で埋め尽くされて、異様な熱気に包まれていた。結菜も末席で、できるだけ目立たないように体を小さくしながら、開始を待っていた。 よほど欠席しようと思ったが、今日も説明会以外の仕事がある。それに今日だけ避けたところで、また同じような機会はあるかもしれない。責任感の強い結菜は、休めなかったのである。 館長が緊張した面持ちでマイクの前に立つ。「皆様、本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます。ご紹介します。本プロジェクトの総責任者、株式会社KIRYUホールディングス、代表取締役CEO、桐生智輝様です」 桐生、智輝。 その名前が鼓膜を打った瞬間、結菜の世界から一切の音が消えた。全身の血が、さあっと足元へ引いていく。隣に座る佐藤が「どうかしたの?」と心配そうに顔を覗き込むが、その声はひどく遠くて結菜にはよく聞こえなかった。(本当に、あの人なの?) 頭では分かっていた。先週の昼休みに佐藤から聞かされて、覚悟を決めたはずだった。それなのに心のどこかでまだ、何かの間違いであってほしいと愚かにも願っていたのだ。(逃げられない。もう、逃げられないんだ) 祈るような思いで、壇上の入り口を見つめる。 ゆっくりと、ホールの扉が開かれた。
最終更新日 : 2025-10-13 続きを読む