All Chapters of 悪役令嬢に転生したけど、追放された先で精霊王に溺愛されました: Chapter 11 - Chapter 20

20 Chapters

神に愛された罪人 ―沈黙の果実―

朝が、森に帰ってきた。霧は薄く、金の粉みたいにほどけて、鳥の声が一つずつ目を覚ます。足元には、夜の名残が花びらの模様になって残っていた。焦げてはいない。やわらかい光の跡だけが、土の上で呼吸をしている。私は焚き火の灰を寄せ、細い枝をそっと足す。手のひらの“赤い花”は、欠けたまま――でも、淡い明かりで脈を刻んでいた。すぐそばで、白い呼吸。ルシフェルは静かに横たわっている。瞼はまだ下りたまま、胸だけがゆっくり上下していた。「……生きてる。よね」声は霧に吸われて、戻ってこない。けれど、息の音がある。それだけで、喉の奥がじん、と熱を帯びた。私は彼の指先に触れる。冷たくない。火のそばへ毛布を引き寄せ、肩口まで掛け直す。布の上に落ちた光が、薄い羽の形を作って、すぐ壊れた。小さく息を吐く。寂しさと安堵が同じ肺に入って、うまく分けられない。*鐘の音が、石の街を斜めに走った。王都ルクシアの広場。朝の光が尖塔に触れ、人々は顔を上げる。湯気の立つ屋台、笑い声、祈りの仕草――祝祭のようで、空気は少し冷たい。聖堂の壇上に、白衣の司祭が立つ。セレノの唇がわずかに開き、紙の音よりも小さな声が、広場の真ん中へ落ちた。「神の火は、現れた。……だが、それを扱う者は、神の座を――奪った」ざわめきが、波になる。子どもたちの指先が空を真似てゆれ、両手のあいだで見えない火をこしらえる。大人たちの目は、誰かの肩越しに遠くを見ていた。セレノがもう一枚の紙を広げる。息を吸い、吐く間が、わざとらしいほど静かだ。「異端の聖女。名を――エリカ・クローディア」名前が空で薄く鳴り、石畳に降りる。何人かは胸に手を当て、何人かは指を組んだ。祈りの形は同じでも、視線の温度は揃わない。広場の端で、青い外套の騎士がひざを折った。リオン。刃の音はしないのに、見えない鎖が足首に絡むような感覚。「お前の報告は虚偽。異端をかばった罪、拘束する」兵の手が剣を奪う。リオンは抵抗しない。ただ、喉が一度動いて、言葉がそこから落ちた。「……彼女は、祈っただけだ」風が、その一言だけを運んでいった。誰の耳にも届かないふりをして、広場のどこかで、誰か一人の胸にだけ残るような、弱い風だ。*森の朝は、夜よりも静かだった。焚き火の音が小さく、霧の粒と混じって消える。私はルシフェルの手を両
last updateLast Updated : 2025-10-18
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祈りの残響 ―声をなくした神と、願いを拾う人―

霧が、静かに薄くなる。濡れた土の匂いと、葉の裏の冷たさ。朝は、音を立てずに戻ってきていた。そばで、白い呼吸。ルシフェルの睫毛がふるえ、閉じていた瞼がゆっくり持ち上がる。光はつかまえるのに、音はつかまえられない、という顔。私は赤い実を布でそっと磨いて、顔を上げた。「……おはよう」すぐ返事は来ない。胸の上下だけが、代わりに答えてくれる。「ルシフェル?」呼んで、待つ。彼の喉が、ほんの少し動く。けれど声は、まだ、遠い。私は指で輪を作って見せる。だいじょうぶ、の形。彼は短く瞬きして、視線を私の手から、朝の霧へ、もう一度私へ。迷子の光みたいに、静かに戻ってくる。手のひらに、欠けた“花”の印。そこに赤い実のぬくもりを少し移して、彼のそばに置く。「急がなくていい。……いまは、息だけで」霧の粒が髪先にたまり、ぽとりと落ちた。その小さな音に、森がやわらかく呼吸を合わせる。*鉄の匂い。王都の石壁の内側は、朝でも冷たい。細い窓から、薄い光の板が床にのびている。リオンは壁にもたれて座り、目だけで空を見た。雲が動く。音は届かない。届かないなら、と思って、彼は指を組む。「……届かなくて、いい」声にならない声で。「それでも」掌に白い羽根が一枚、残っていた。あの森の朝に見た光の、かけら。「――まだ、光の中に、いて」言い終えないまま、息が切れて、笑って、ごまかす。囁きは石に吸われ、消えたようで、どこかへ行ってしまったようで。それでも、指はほどけない。*焚き火は消えていた。代わりに、果実が淡い明かりを作る。赤い灯が、苔の上に丸い呼吸を落とす。小鳥が一羽、音もなくとまる。羽を畳まず、静止したまま、首だけこちらを見て――その瞬間、果実の奥で、かすかな音が鳴った。ほんとうに小さな、ため息みたいな音。私が顔を上げると、ルシフェルも同じ方を見ていた。目の奥に、なつかしい色がひとつ、灯る。「聞こえた?」問いというより、確認。彼はゆっくり頷いて、喉に手を当てる。声はまだ、来ない。音は続く。言葉になる前の、柔らかい息。果実の薄い皮を透かして、ひとつだけ、かたちになる。――守りたい、もの。誰の声でもない。けれど、ひどく近い。胸のどこか、昨夜つないだ場所から、ひかりが上がってくる感じ。「……あなたの?」見つめると
last updateLast Updated : 2025-10-20
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嘘を祈る人 ―奇跡の残響―

朝の風が、屋根と屋根のあいだをすり抜けていく。王都の空に、粉のような光が少しずつ降りた。祈りほど強くなく、雨ほど冷たくない、名前のない光。「また、ほら」「あの森の」「聖女だろ」「いや、だから異端で」囁きは湯気と混じって、パンの匂いの上を流れていく。誰も確かめないのに、みんな見上げる。手のひらで受けようとして、受けきれないで笑う。石の廊下の奥、鉄の扉の前で足音が止まった。ガチャン、という音と、短い視線。床に、小さな包み。リオンは鎖の鳴る音を気にしないふりで、包みをほどく。赤い実が一つ、掌にころり。冷たいのに、内側だけがやわらかい。「……誰が」返事はない。隙間風が、そこだけ温度を変えた。彼は息をひと口分だけ吸って、目を閉じる。言葉にしない言葉が、舌の裏で丸くなる。「届かなくて、いい。……それでも」*森は、薄い音で目を覚ましていた。霧が低く、苔は湿り、鳥の声は奥で細い。ルシフェルは指先で空の輪郭をなぞり、言葉を置き忘れた顔で、こちらを見る。私は赤い実を布で磨く。かすかに光る繊維が、果皮の下で呼吸している。「おはよう」返事の代わりに、睫毛が一度だけふるえて、止まる。足音。枝を払いながら、旅の装いの若者が立ち止まった。「ここ、でしょうか。……森に“声”が残ってるって」「あなたが、その……」言い切らない。私も、言い切らない。「ええ」うなずくと、胸の奥が少しだけ痛む。「声は……届いてる。ちゃんと」若者は肩の力を抜いて、目を伏せた。「よかった。母が、夜ごと、眠れなくて」言葉の続きは風にほどけ、私の足元で止まる。私は赤い実を握り直した。ルシフェルが、こちらを見ている。問いもしない目。責めない目。沈黙が、私の手を軽く押す。「今日は……焚き火のそばで、少しだけ」私は座を示す。「うん、そこまで。……ここからは、静かに」若者はうなずいて、膝を折った。火はまだ起こしていないのに、暖かい気持ちだけが輪になる。私は息を整えて、目を閉じる。言葉にしない祈りが、喉で丸くなる。*牢。リオンは赤い実を、そっと割った。柔らかな音。指先を濡らす、ほのかな光。耳の奥で、ささやきがほどける。――守りたい、もの。彼は笑うでも泣くでもなく、ただ立ち上がった。鎖が短く鳴り、光は指の隙間から床へ落ちる。「ま
last updateLast Updated : 2025-10-21
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囁きの門 ―名前の手前―

霧がほそく伸びて、枝の先でほどけた。焚き火は灰の下で、赤く、呼吸だけ残している。ルシフェルは膝をつき、指で灰を撫でた。輪をひとつ。羽を一本。思い出していない顔で、手だけが憶えているみたいに。「ここ、座って。……火、強くしないで。ゆっくり」私が布を敷くと、姉弟と祖父が肩を寄せた。姉は指をぎゅっと握り、目を落とす。「母が、夜になると……そこだけ寒くて」「寒いところ、ここにもある。だから……少し、あたためて」赤い実を掌でころがす。薄い光が指の間で脈を打つ。灰の上で、羽の線がかすかに震えた。私はその指先を見て、笑ってみせる。「覚えてるの? ……指だけ」彼は目を上げる。否定でも肯定でもなく、短い瞬き。祖父が咳をひとつ、柔らかく残す。私は実の灯をすこし分けて、姉の掌へそっと置いた。「声、出さないで。息だけ合わせて。……それで、少し」鳥の鳴き声が遠ざかり、苔の匂いが深くなる。姉の肩がゆっくり下がって、弟の指先から力がほどけた。祖父が帽子のつばを摘んで頭を下げる。言葉は置いていくように、小さく。彼らが木立に溶けるころ、ルシフェルはもう一度、灰の輪に触れた。輪の端が風で崩れ、羽だけが残る。「……うん。行こうか」私は灰を軽く撫で、輪と羽をいったん消した。*石の冷えが、聖堂の床から立ち上がっている。奥の間。司祭セレノは横顔だけで笑い、正面の黒を見た。黒衣の女が立つ。鈴のない錫杖を、音を立てずに置く。沈黙審問官――ミレイユ。睫毛の影まで、音がない。「声なき神は、都合がいい。……だから危うい」セレノの言葉に、ミレイユは首を少し傾けるだけ。唇は開かないまま、気配が答える。「声を返すのは簡単。消すのは、もっと」机に押された公文が赤く乾く。『神の代弁者 エリカ・クローディア 拘束令』欄外に、小さく“封声の輪”の搬出印。*牢の空気は薄く、鉄の匂いが喉に残った。隙間から、細い包みが滑り込む。鎖の音をごまかすみたいに、私は包みを開いた。――いや、私はいない。開いたのはリオンだ。指に馴染む早さで。赤い実がころり。光は弱く、冷たさだけ残して、内側だけが温い。看守が視線だけで合図を落とす。「……行け。いま、なら」リオンは喉を鳴らし、うなずきかけてやめる。「恩に……いや、また」果実の温度が錠の内側に移る。金属がた
last updateLast Updated : 2025-10-22
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廃聖堂 ―声の井戸―

門の向こうは、思ったより暗くなかった。石の匂い。苔の湿り。床のひびから、淡い明かりがにじむ。「ここ、静かすぎて……息の音が大きいね」私が言うと、ルシフェルは壁に手を当てた。爪でひっかいたみたいな痕に、指をそっと重ねる。「……ここ、前にも」「思い出せそう?」「まだ」彼は首を振らず、ただ瞬きを一度。指先だけが、覚えているみたいに止まった。「無理は、しないで。ね」歩くたび、靴の裏がやわらかく鳴る。聖堂の中央に、浅い窪み。井戸みたいに丸い縁。私は縁に膝をつき、そっと覗いた。暗くない。音でもない。――小さな泡がぽつぽつ上がって、消える。「音じゃなくて……泡、みたい」ルシフェルも覗く。息が、わずかに浅くなる。縁に刻まれた古い“羽”の印へ、彼の指が吸い寄せられる。ぴたり、と重なる。「……眠れない、子……」「え?」「夜、寒い。胸、速い。——怖い。って」「昨夜の人たちと、同じ……」「これ、聞きすぎると、こっちが沈むね」「……だから、“待て”」井戸の面に、薄い赤が立った。赤い実の光と似ている。熱はないのに、胸があたたかくなる。「ねえ、これ、“祈り”じゃない。もっと、息に近い」「……吐いて、落ちる。誰かの中から」「うん。命令の言葉じゃない。お願いの……できそこない、みたいな」彼は小さく息を吐き、羽の刻印から指を離した。指の先だけ、まだ何かを掴んでいるみたいに震えている。「休む?」「大丈夫。——じゃ、ないか。……平気に“する”」「それ、逆。ちょっと座ろ」私は自分の外套を折って縁に敷いた。彼は素直に腰を下ろし、肩を壁へ預ける。呼吸がゆっくり整っていく。*その頃、森の外。封声の輪を掲げた小隊が、列を組んで進んでいた。金属は鳴らないのに、空気だけが硬い。「刃は抜かないで。今、抜くと……誰も話せない」リオンが列の脇に立ち、低く投げかける。若い修道騎士が眉を寄せる。「命令は……」「命令、守るなら。まず息。揃えよう」修道兵(柄に触れかけ)「……」リオン「手、離して。吸って——吐いて」兵の指が柄から滑り、歩調が半拍遅れる。彼は列を見渡し、顎で合図。二拍、間を作ってみせる。兵たちの肩が、少しずつ落ちる。歩みが半拍だけ遅くなる。修道騎士は視線だけで頷いた。輪は鳴らないまま、周りの音を一枚ずつ剥いでいく。*
last updateLast Updated : 2025-10-26
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残響の回廊 ―忘れた名前たち―

回廊は冷えていた。壁は浅く磨り減って、指でなぞると粉の匂いがした。床に落ちる息が、静かに戻ってくる。「少し、歩こ。……触るだけで、何か起きる気がする」私が言うと、ルシフェルは短くうなずいた。視線だけを先にやって、足はゆっくり。壁の刻印は、羽と蔓と、雨の滴みたいな小さな線。私は羽に指を置く。ほんのわずかに、空気が揺れる。泡が、ひとつだけ、遠くで割れる音がした気がした。「呼んでみるね。……短く」「待て。脈、速い」手首を取られて、息をひとつ整える。私は目で合図した。「だいじょうぶ。今は」「半歩、離れて」言われたとおりに下がる。壁の冷たさが、指先から少し抜けた。「……じゃあ、呼ぶよ」「来い、じゃない。名を」「うん」私は正面を見て、息の端だけを残す。「ルシフェル」彼は目だけでこちらを見た。喉が動く。声は小さいのに、よく届いた。「ここに」回廊の灯が一つ、やわらかく立った。胸の圧が、指一本ぶんだけほどける。「今の、いいね」「増やさない。二語まで」彼は視線で釘を打つみたいに合図した。私は肩を落として、笑うだけにした。回廊の角に、小さな机があった。赤い果実が一つ、皿の上に静かに置かれている。触らない。見ているだけで、落ち着いた。「まだ、呼ぶ?」「……一度だけ。返事までで止めよ」私はうなずく。手首の脈を、彼の指が軽く押さえた。速くない。たぶん、大丈夫。「ルシフェル」「いる」二つ目の灯がついた。明るいわけじゃない。でも、足の力が、少し戻る。「……この感じ、覚えとく」「忘れないうちに、止める」彼は聖具庫のほうへ目線を送った。割れた鈴が、棚の上にそのままある。触れない。今はそれでいい。回廊の奥に、風が一度だけ通った。私たちは同時に息を吸って、そして離した。灯は二つのまま、揺れない。外の空気は、樹の匂いが濃い。森の縁を、封声の輪を掲げた隊列がゆっくり進む。金具は鳴らないのに、足音だけが地面に吸い込まれていく。「見る。前だけ。……半拍、落として」リオンが列の先に目をやり、顎で小さく合図した。先頭の兵の足が石に噛んで、膝がわずかに揺れた。若い兵が一度だけ息を詰め、柄から指を離す。歩調が、ほんの半拍だけ遅れる。列の端で握られた柄が離れ、肩の力がほどけた。「はい」輪が空気を
last updateLast Updated : 2025-10-28
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静けさを破る灯 ―届かないけど届く―

井戸の縁まで戻った。冷えは薄い。手のひらの温度で、石が静かに落ち着く。「言葉、置いていくね。……願いだけ」私が囁くと、ルシフェルは頷き、脈に触れた。指先が軽い。落ち着いてる、という合図だけが伝わる。小さな机から赤い果実を一つとる。爪で浅く入れて、半分に割る。においは甘いのに、喉は乾かない。「半分だけ、落とす」「待て。戻れない感触が来たら、すぐ手を」「うん」片割れを、井戸の面にそっと触れさせる。落ちる音はしない。吸われる。面が、息をひとつだけしたみたいに薄く動いた。赤が灯に変わる。井戸の底から、細い帯が立ち上がる。天の穴へ向かって伸びる。音はないのに、胸の奥が少しあたたかい。「……行った、と思う」「脈、問題ない。ここで止める」彼は果実のもう半分を私の手の中に戻させ、井戸から半歩離した。帯は途切れない。薄く、上へだけ進む。床のひびが静かに呼吸している。私は深く吸わない。肩の高さで止める。「ことば、いらなかったね」「今は、そのほうがいい」天窓の向こうで、細い光が一度だけ瞬(まばた)きをした。街の夕方は、ちょうど灯が入るころだった。露店の上の角灯が揃って、ごく短く明滅する。誰も理由を言わない。けれど、顔が上がる。「今、光……」子どもの声に、親の手が止まる。「風かも。……でも、きれい」笑い声が小さくこぼれて、すぐ戻る。通りはいつもどおりなのに、目の奥だけが明るい。森の縁では、封声の輪の下で列が息を合わせていた。輪は音を剥がし続けている。それでも、空のほうから細い帯が降りてきて、重なりの間に狭い道を作る。「前を見て。半拍、落として」リオンは顎で合図し、目で数える。先頭の兵の足が石に噛んで、膝がわずかに揺れた。握っていた柄が、すべり落ちる。肩の力が抜ける。「今なら……」看視役の騎士が、誰にも聞こえないくらいの声で言う。リオンは目だけで返す。「借りる。戻す時は静かに」輪の内側で、光の細い帯が道になる。音のない道。誰も喋らないのに、進む場所だけがはっきりする。廃聖堂の井戸は、まだ薄く灯っていた。赤い帯は、呼吸に合わせてわずかにゆれるだけで、荒れない。「もう一度は、しない」「うん。半分で十分」果実の片割れは机に戻した。皿が小さく鳴る。私は手のひらを見た。果汁はすでに乾き始めていて、匂いだけが
last updateLast Updated : 2025-11-01
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沈黙の取引 ―囮と扉―

扉は叩かない。木目は静かに温かい。金具は指先で冷たい。「無事……で、よかった」リオンが低く言う。息は短く区切られている。「そっちこそ。鎧、重くない?」私は笑いに寄せる。声を上げすぎない。ルシフェルは扉の縁に目を置いたまま、私の手首へ指を乗せる。脈は落ち着いている。彼は視線だけで合図した。「離れるな」「離れない。……今は」一瞬だけ、肩が触れた。抱きしめるほどではない。それでも体温は渡る。外気がわずかに揺れて、草の先が伏せた。封声の輪は門の前で薄く唸り、音を剥いでいく。息の音さえ、すぐに浅くなる。「輪を、半歩だけ下げて」リオンが顎で示す。兵の肩が一段下がる。輪は土の上で小さく軋み、位置を譲った。場が整う。誰も座らないのに、席ができた。扉は真ん中に、息の通り道のように立っている。「ねえ……誰も傷つけないで」私は扉の木目を見たまま言う。言い切らずに止める。「私が出るから。……静かに来て」輪の縁から、柔らかい声が届く。姿は見えない。距離は守られている。「声は止めるだけ。痛くしない」女の声だ。落ち着いていて、急がない。「それが一番、痛い時もある」リオンが低く返す。目は前だけを見ている。ルシフェルの指が脈を一度押す。軽い強さだ。止めというより、合図。「待て」私はうなずかない。目で答える。胸の奥で息を折りたたむ。輪の内側で、兵の誰かが柄へ指をかけた。金具がかすかに鳴る。前へ出る筋肉の動きが、空気に混じった。リオンが顎をわずかに落とし、視線だけで前を切る。半拍、落ちる。指が柄から離れる。肩の力が流れた。足音は生まれない。土は柔らかく受ける準備だけをしている。「叩かなくていいよ」私は扉に額を寄せないまま言う。「ここで、呼吸を合わせよう」「壊す前に、読む」輪の向こうで女が小さく言った。紙片を揃えるような、平らな音が一つだけ続く。剣に手は行かない。赤い果実の匂いが、扉の陰でまだ薄く残っている。昨日の灯が、空気の奥で冷めないまま座っている感じ。私は舌の奥で甘さを探さない。「私が行く。……すぐ戻る」「約束」ルシフェルが目を逸らさず言う。手首の脈に触れた指は離れない。「うん。嘘じゃない」扉の木目は温かいまま。輪は半歩後ろで薄く唸り、息を剥いでいる。空
last updateLast Updated : 2025-11-02
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沈黙を渡る言葉 ―名を呼ぶために―

聖具庫の前はひんやりしていた。金具は指の腹で冷たい。紐は乾いていて、少しざらつく。割れた鈴は、口を閉じたまま黙っている。「ここで合わせよう」リオンが棚の奥から薄い紙を抜いた。角が擦れて、文字はところどころ薄い。“逆”の字だけが、はっきり残っていた。「鳴らすんじゃない」ルシフェルは目を細める。扉の向こうの息が整うのを待って、短く続けた。「黙ってるほうを……揺らす」「うん。じゃあ、俺が紐。君は欠片を」リオンが結び目を一度ほどき、指で撫でて柔らかさを戻す。紐のきしみが小さく逃げる。私は鈴の欠片をそっと持ち上げた。重さはあるのに、冷えは薄い。「待て」ルシフェルの指が私の手首に触れる。脈は乱れていない、という合図。私は顎だけで返す。回廊の灯は二つのまま。聖具庫の奥には古い布と瓶。赤い果実の匂いが、どこかにまだ残っている。「向き、合う?」リオンが言う。私は欠片の縁を、元の鈴の割れ目に並べる。ぴたり、とまではいかない。それでも、口が閉じた形に近づく。「今」ルシフェルの声は短い。三人の呼気が、同じ高さに落ちる。リオンが紐をわずかに引く。私は欠片を、重ねるだけで押さえない。鳴らない。ただ、耳の奥の圧が少しほどけた。棚の瓶の中で水が静かに落ち着く。金具の冷えが、痛くない。「来てる」リオンが低く言う。私はうなずかない。目で受け取る。ルシフェルは鈴から視線を外さず、呼気を浅く切り替えた。「もう一度、合わせる」リオンが合図する。私は欠片の角をほんの少しだけずらす。紐は引かない。維持する。保ったまま、次の呼気まで耐える。空気が一枚、軽くなった。輪の縁に目に見えない段差ができ、息がそこをまたいで流れた。誰も声を出さない。それでも、聖堂全体が小さく息を返した気配だけがある。「道、できた」ルシフェルの目が細くなる。痛みは来ない。彼の肩が、半分だけ落ちる。扉のほうで、木目が静かに温かい。叩かない扉は、そのまま立っている。リオンは掌を一度だけ開閉して、指先の血の通いを確かめた。外は輪の唸り。押し出す音はないのに、言葉は剥がされていく。それでも、今はわずかに通り道がある。「ねえ」私は扉へ近づかず、呼気だけ揃える。「大きな声はいらないよ。ここで、息を合わせよう」外にいる私は、唇を
last updateLast Updated : 2025-11-03
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名を渡す ―祈りの再定義―

聖具庫は静かだった。金具は冷たく、紐は乾いている。割れた鈴は、鳴らないまま、低く脈を打つ。「高さ、このまま」リオンが紐を指の腹で支える。結び目は動かさない。棚の瓶の水面が、半拍遅れて落ち着く。ルシフェルは鈴片の接ぎ目を目だけで追った。胸に手は置かない。呼吸は一定だ。扉の内側で、二人の息がそろう。木目の温度が、指の腹に移る。「……保て」ルシフェルが短く言う。声を強くしない。喉の力を上げずに、場を支える。外の空気は薄い。輪の唸りは遠くに下がって、草の先で止まる。「聞こえる?」私は扉に額を寄せず、口形と息だけで落とす。舌先を湿らせて、音を乗せない。脈が、わずかに返事をした。耳ではなく、指先でわかるくらいの強さ。「……エリカ」内から私の名が落ちる。ためらいはない。息がぶつからない。「うん。ここにいるよ」私は小さく答える。声は立てない。それでも、届く。棚の瓶の皺が一つ消えた。逆鐘は鳴らずに、脈だけを刻む。「名で行こう」リオンが紐を持ち替え、顎で合図する。紐は引かない。支えるだけ。私は喉を使わず、唇の形だけで置く。「ルシフェル」扉の木目が、指先で温かい。間を半拍だけ置いて、内側の声が返る。「……ここに」壁の灯が一つ、白く点いた。小さく、一定。すぐ揺れをやめる。同時に、輪の縁の圧がひと目盛りだけ下がった。私は息を吸い直す。深くは吸わない。肩で止める。「もう一度」間を短くして促す。「エリカ」今度はまっすぐに来る。怖さは混じらない。輪の縁が薄くしぼみ、靴裏のぐらつきが消えた。前のめりの重心が、自然に後ろへ戻る。外の列で、肩が連鎖的に落ちる。柄から指が外れ、戻らない。「隊長、どうします」兵の声は上がらない。距離を崩さず、息だけ問う。「上げない。耳、休めて」ミレイユの声は柔らかい。顔は見せない。剣に手は行かない。「命令は進攻で」「だから、休めるうちに。倒れる前に下がるの」短く、そこで止める。列の重心が、わずかに後ろへ下がった。扉は静かに立っている。私は掌を木目から外さず、熱を確かめる。「前、見て。半拍、落として」内側からリオンの合図。紐はそのまま。圧は上げない。私は名をもう一度、口形で置く。「ルシフェル」「ここに」内側の呼気は乱れな
last updateLast Updated : 2025-11-07
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