LOGIN朝の空気は薄い蜜のように澄んで、村にやわらかな匂いが戻っていた。
昨日、焚き火が残していった言葉――「食べて、生きろ。」が、まだ灰の奥で温かい。 「行こう」 アレンが立ち上がる。リオは緊張で喉を鳴らし、ミナは袖をそっとつまんだ。 霧の向こうに、畑が広がる。土は灰色、葉は紫がかり、茎は黒ずみ、根は硬い。 風の匂いは、腐敗と薬草の中間。どこかで助けを求めている匂いだった。 村長が来た。背中は相変わらず大きい。 「ここはもう十年、実りを拒んでいる」 「土ごと毒が回った。……どうする気だ、料理人」 アレンはしゃがみ、土をつまんで舌に触れさせる。 「味がする」 ざわめきが起きる。 「味だと? 土がか?」 「苦い。けれど、“生きてる”苦さだ」 リオが眉を上げる。「生きてる?」 「うん。まだ間に合うって匂いだ」 ミナが畝を見つめる。「……助けてって、言ってるの?」 「そう聞こえる」 アレンは畑の一角を選んで、灰を掌でほどく。 指の間からこぼれる灰は、朝日に透けて、細い文字に変わった。 昨日の焚き火が残した“生きた記憶”だ。 「また火を使うのか」 「焼けば土が死ぬ!」 村人たちの声。 アレンは短く首を振る。 「火は殺すためじゃない。味を返すためにある」 細枝を寄せ、灰の中心に息をひとつ。 赤い核が生まれ、低い火が灯る。 灰の文字がふわりと立ち上がり、風に乗って畝を走る。 細い線は根の下にもぐり、金色にゆらめいた。 「……土が光ってる」ミナが息を飲む。 リオは地面に手を置いた。「あったかい。……土が、呼吸してる」 村長が腕を組み、目を細める。 「……魔か、奇跡か」 「どちらでもいい。食べられれば、それでいい」 アレンの声は、火の音と同じ高さだった。 「何をするの?」リオが問う。 「苦味の芯をずらす。水は浅く、風は低く。灰で輪郭をつける」 アレンは灰を薄く撒き、古い井戸の水をひしゃくで掬って霧のように散らした。 「水をかけるの?」ミナが首をかしげる。 「かけるんじゃない。香りを通す。水は“運ぶ舌”だ」 風が一度だけ方向を変え、畝に沿ってやわらかく吹いた。 灰の線が、その風に乗って土の奥へすべり込む。 どこかで小さな音がした。 ――ぱち、という、芽の内側だけで鳴る音。 「いま、鳴ったよね?」リオが顔を上げる。 「うん。起きた音だ」 アレンは土を掌で軽く押して、手のひらの温度を確かめる。 「焦るな。火も、腹も、同じだ」 彼は微笑み、火を少し弱めた。 「ほんとに、これで変わるのか」 村人のひとりが呟く。 アレンはその人に灰を一つまみ渡した。 「匂いを嗅いで。……焦げていない、甘い匂いがするはず」 男は戸惑い、鼻先に持っていく。「……甘い……?」 別の女が小さく笑った。「忘れてた匂いだよ。昔、収穫の夜に嗅いだやつ」 村長はなおも黙って畑を見つめる。 アレンは火の旁にしゃがみ、灰の文字が崩れないようそっと手で囲った。 「毒も味も、選ぶのは舌じゃない。心だ」 「小難しいことを」村長が鼻を鳴らす。 「簡単だよ。――おいしいか、そうでないか」 アレンが肩をすくめると、周りの空気が少しだけ軽くなった。 *** 昼を越えて、光が柔らかくなった頃。 畝の線が一つ震え、土が丸く盛り上がった。 最初の新芽が、灰と緑のあいだの色で顔を出す。 「芽が……出た! 本当に!」 リオが駆け寄る。ミナが両手で頬を押さえる。 村人が集まり、各々の指でそっと触れる。 「柔らかい……」「あったかい……」 指先に伝わる温度は、まるで小さな鼓動のようだった。 アレンは土を拾って、鼻に近づける。 「……うまい匂いがする」 ミナが袖を引く。「ねぇ、あの芽、食べてもいいの?」 「まだだ。命は焦らせないほうがいい」 アレンは指で芽の周りの土を軽く整えた。 「でも、ひとつだけ。混みすぎた芽を、間引く。――ごめん、ひと口だけ借りる」 彼は最も強い芽の隣にある、細い一本を選ぶ。 根を傷つけないように持ち上げ、土を払う。 村人の誰かが息をのむ。 アレンはその芽を水で洗い、ほんの少しの灰と合わせて指先で揉んだ。 「灰は塩になる。ここでは、これがいちばんの塩」 焚き火が再び低く灯る。 鍋はない。石を二つ寄せ、間に小さな器代わりの葉を重ねる。 間引いた芽をちぎり、井戸水を数滴。 炎は葉を焦がさず、ただ香りを立てた。 「なに作ってるの?」リオが覗く。 「スープのはじめ。味を教える前菜だ」 湯気はほとんど立たない。 それでも、匂いが人を呼ぶ。 アレンは小さな匙を作り、ひと口だけ掬った。 「リオ、ミナ。一緒に」 「うん」「……うん」 二人が舌にのせる。 「……すごい」リオの肩の力が抜けた。 「ちいさくて、あったかい」ミナの目が潤む。 アレンは頷く。 「これで、土はもうひとりで歩ける。――あとは、手伝いだ」 夕日が畑の端を金色に染める。 再生した芽はまだ小さいが、畝の呼吸は確かだった。 リオと村の男たちが土を崩さぬよう畝を整え、女たちが水を“香りで”運ぶ。 「水は運ぶ舌だよ」ミナが真似をして教える。 笑いが混じり、泣き声に似た喜びが、あちこちで生まれた。 日が沈む。 焚き火のそばに輪ができる。 アレンは“間引いた芽”と、朝に拾っておいた野草の甘い部分を合わせて、小さなスープを作った。 灰の塩を指でひとつまみ。 葉の器から湯気が立ち、昨日よりもはっきりした“うまい匂い”が広がる。 村長に最初の一杯を差し出す。 「……俺がか」 「守ってきた人から、お願いします」 村長は黙ってうなずき、ゆっくり口をつけた。 長い沈黙。火の音だけが畑に散る。 「……甘い。土の味がする。生きた味だ」 顔がほどける。 「毒の土から、生きた味を取り戻すとはな」 アレンは火を眺める。 「毒は、命の裏返しだ。 味を忘れた世界が、少しずつ思い出してるだけだ」 誰かが空を指さす。 霧は薄く、井戸の上の黒に、白い点がひとつ増えていた。 昨日より、少し大きい。 村人が肩を寄せ合い、星の数を数える。 リオが笑う。「明日になったら、もっと増えてるかな」 ミナがうなずく。「畑にも、星が降りる?」 アレンは頷いた。 「灰の畑が、星の畑になる日が来る。――その時まで、火を絶やすな」 火がやわらかく返事をする。灰の文字が、温かい一行を描く。 “おかえり、味。” 村長が立ち上がる。 「料理人。……いや、アレン。お前のやり方で、この畑を続けろ。 俺も、昔の頑固を少しだけ間引いてみる」 アレンは笑った。「それがいちばん難しい調理だ」 輪がほどけ、人々は家に戻る。 火のそばには、アレンと子どもたちだけが残った。 「明日も手伝う」リオが拳を握る。 「わたしも」ミナが袖を掴む。 「もちろん。――ゆっくりでいい。火も、腹も、同じだ」 そのときだ。 灰を踏む乾いた音が、夜の端から近づく。 一歩ごとに、白い灰が小さく舞い上がる。 外套の人物が輪の外に立ち、焚き火の光に顔を半分だけ見せた。 「誰?」リオが身構える。 男は手短に礼をし、硬い声で言った。 「王都からの使いだ。……“灰の聖人”に、用がある。」 火は静かに丸くなり、空に小さな星が増えた。その光の下で、誰もまだ知らない物語が動き出していた。夜の路地は湿っていて、息が白いのに薄かった。苔の生えた共同窯の口に、古い札と錠。金具は冷たく、光は弱い。「……怖い匂い、消えないね」ミナが小声で言う。「上書きする。焼ける匂いで」アレンは窯の口を見たまま、ゆっくり息を吸って吐く。「窯、開けられるの?」リオが鍵を指先で示す。ディアスは札に触れず、目だけで警戒の輪をなぞった。「触るなよ、って顔してる。……札が」「触らないよ。起こすだけ」アレンは錠の冷たさを一拍、確かめる。音は立てない。噂は路地の向こうから流れてくる。今夜は火刑祭。鐘の三で、香炉の見習いが晒される。誰も大きな声を出さない。灯は、低く抑えられている。「粉、少しもらえる?」リオが角の粉屋に目で合図する。粉屋の女は口を開かず、端粉の小袋を二つ。頷きだけ。「芋も……余りでいいの」ミナが芋屋の台に手を置く。皿の上の小さな芋が三つ、手のひらに移る。手の体温がすぐに移っていく。井戸の水はぬるくもなく、冷たすぎもしない。芋を崩す。灰塩を指でひとつまみ溶かす。「手、冷えてる?」アレンが覗く。「ううん。ちょっとだけ、あったかい」「それでいい。手って、渡す道だから」ミナは掌で生地を押す。息を一度だけ、近くに吐く。縁が薄くなって、空気が中に入る。粉の白が指の腹に残る。リオが器を支え、手から手へと回す。「順番じゃなくて……回そ」「うん。落とさないでね。息、合わせて」アレンは札の灰の字を見つめ、息をふっと当てた。紙がわずかにしっとりして、糊が緩む。錠は鳴らない。窯の口が、ほんのわずかに吐いた。夜気と、内側の古い冷たさが触れ合う。「来る」ディアスが短く言って、路地の出口に目をやる。松明の列。黒衣の司祭、固い肩。兵の足音が揃う。「香りは堕落。火は罰だ」高い声が通りに沿って流れる。ディアスが一歩だけ前に出て、低く言う。「刃を抜かないで。……子どもが見てる」アレンは窯の床を木杓子でそっと撫でた。無音。もう一度、撫でる。きゅ、と短い声が床の奥で鳴く。泣くみたいで、すぐ止む。「生きた灰、薄く」アレンが灰袋を傾ける。床に広げる。呼吸が通る道を作る。ミナは子どもたちに向き直る。「一緒に、ね。平たくして。ここ、薄く」小さな手が、彼女の手つきを真似る。「息、ふーって少し」「ふー」子どもが真似をする。粉が舞わないくらいの短さで。
道の両脇が黒くて、土がまだ硬かった。家は近いのに、音がない。煙突が並んでいるのに、空は澄んだまま。「……匂い、しないね」ミナが手を袖に入れる。「焚き火の跡、古いままだ」リオは靴先で灰をつついた。アレンは小さく息を吐く。「火が止まると、声も止まる」ディアスは帽子を深くかぶったまま、目だけで道を追った。村の人は会釈だけする。口が動かない。風の音だけが通り抜けた。古い屋敷に通される。かつて兵が寝泊まりしたという部屋。鉄の椀が、棚の上で冷たく光っている。椅子に腰を下ろした老兵が、喉を鳴らしてから言った。「熱で舌をやられてな。何を食っても、ただのあったかさだ」声は紙みたいに薄い。アレンは頷いて、卓に指を置いた。「ぬくもりだけなら、そこから始めよう」ミナがアレンを見る。呼び止めない。ディアスの拳が、音を立てずに握られた。台所は狭い。袋に残った硬い麦。しわの入った根菜が少し。灰塩の袋を、アレンが軽く叩く。「噛まずに食べられるやつ、作る」アレンが言う。「こんなので、味する?」リオが笑う。「するよ。……先に“ぬくもり”が触るよ」大鍋に湯を張る。「弱い火で」ディアスが焚き口を開け、火を息で整えた。ミナが灰塩を薄く溶き、指先で味を見る。「しょっぱくしないのね」「うん。今日は、舌じゃなくて、腹から起こす」刻んだ根菜を、一度に入れない。少し待って、またひとつ。鍋の内側で、小さな音が生まれる。きゅ、と鳴いて、すぐ消える。ミナが目を上げる。「……いま、鳴いた」「腹が先に笑うんだ」アレンは木杓子で底を撫でた。麦は洗って、握らずにほぐす。とろみは弱い。噛まなくても喉が動くくらいに。アレンは椀を三つ並べた。一つめは、ぬるい。二つめは、少し温い。三つめは、ちゃんと熱い。木杓子が底をなぞる。音はしない。みんなの息だけが揃う。「順番で渡す。焦らないで」「子どもの頃、母にやられたな……」ディアスがぼそっと言って、口をつぐむ。空気が少しだけ柔らかくなる。若い兵が椀を見て首を振る。「熱いのは、もういい」アレンは椀を遠回りで置く。「じゃあ、ぬるいところから」配るのは列じゃなく、輪にした。腰を下ろして、手渡しで回す。老兵が、一つめを受け取る。唇に当てて、少しだけすすった。「……温かい」隣の兵は、二つめで眉
朝の広場は白くて、音が薄かった。屋台の並ぶ通りに紙が貼ってある。「臭気取締令 第1号 料理の香り、通報対象」墨がまだ新しい。風で角が少しめくれる。「……おいしそうな匂いが、しない」リオが小声で言う。「人の声も、冷たいね」ミナは手袋を外す。指が赤い。アレンは一度、胸に空気を入れてから吐く。「香りは、お腹の言葉だよ。黙らされたら、笑えなくなる」ディアスは視線だけで巡回の兵を数えた。「三隊。火は使えない。動くなら、昼の前」屋台の老婆が周りを見て、鍋の蓋をほんの少しだけ持ち上げた。湯気が一筋、逃げる。すぐに兵が二人、歩みを速める。「匂いがしたな」老婆は蓋を閉じる。手がわずかに震えた。「罰金。品は没収」兵は札を板に打ちつける。釘の音が乾いた。ミナが小さく息を吸う。「……匂いまで、捕まえるの?」アレンは老婆に会釈して、鍋に触れない距離で目を伏せた。「目に見えないから、怖がるんだろうね」リオが眉をひそめる。「どうすんの。作れないじゃん」「作れるよ」アレンは肩の力を抜く。「遅れてくるやつなら」アレンは布包みを一つ、台の上に置く。中には、透きとおった欠片がいくつも並んでいた。冷たい澄ましを固めたもの。「匂いは出ない。でも、笑える」ミナが覗く。「これ、どうするの?」「舌の上で、起こす」井戸の水を汲む。手のひらで温度を確かめる。冷たいままでいい。アレンは欠片を小さく割って、器に落とした。音はしない。リオが近くの子どもに声をかける。「匂いしないよ。……ひと口だけ、どう?」子はうなずき、指でひとつ摘んだ。舌にのせる。目を閉じて、少し待つ。「……あったかい」喉の奥で、息がほどけた。ミナが思わず前に乗り出す。「今、少し……香った」アレンは笑うだけで、次の器に欠片を落とす。「人の体温が、火になる」老婆が自分の鍋に手を置いたまま、こちらを見た。「匂わないのに、顔が明るくなるねぇ」兵が近づく。「何をしている」アレンは器を示す。「配ってます。無臭の」兵は紙を顎で示す。「規定違反かもしれん」ディアスが半歩出て、視線を受け止める。「匂いは、ありません」もう一人の兵が、無言で欠片をひとつ取った。じっと見てから、舌にのせる。少しの間。「……遅い香りだな」アレンは肩をすくめる。「遅れてくるものは、止めにくいんです」兵は何も言わずに紙を
白い息が重なって、音が小さかった。市は広くて、人は多いのに、匂いが薄い。雪室から出された干物が台に並び、板の上で硬い音を立てる。「……音も、冷えてる」リオが指先をこすった。「火が遠いと、声も小さくなる」アレンは肩で息を吸う。ミナは手袋を外して、手をこすり合わせた。「あっためても、すぐ冷めるね」ディアスが風の向きを見て、「外れに炭の残り。風、避けられる」と短く示す。屋台の婆が笑って、魚の尻尾を指で弾いた。「凍ってるうちがいいのさ。匂わないだろ」ミナは言いかけて、唇の内側で止める。「……匂わないと、食べた感じが」アレンが穏やかに首を傾ける。「冷たさは、悪くない。けど、ずっと冷たいままは、もったいない」「こっちは手が冷えるのさ。触れないんだよ」婆は手を見せた。指の節が赤い。魚が一尾、ミナの前に置かれる。触れると、氷みたいな固さが掌に張りついてくる。ミナは小さく息を吐いた。「……逃げるね、温度」アレンがうなずく。「じゃあ、火は使わずに、手で渡そう」近くの桶に井戸水をもらう。灰塩をひとつまみ、広く薄く伸ばす。雪室の冷気が残る切り身を、その上に置いた。ミナは手を洗って、布でしっかり拭く。息を一度、静かに吐く。「手、冷たい。これで……あったかい味になる?」「なるよ。手って、渡す道だから」ミナは切り身を掌で包む。指の腹で、端を少し折り返す。握りこまない。押しつぶさない。手の温度がゆっくり移る。リオがのぞきこんで、一つつまんだ。「……香り、遅れてくる」ミナは目を丸くして、笑う。「ほんとだ。手の味、する」婆が鼻に手を当てて、「あんたの手、いい手だねぇ」子どもがそろりと近寄って、一口で噛む。「つめたい……でも、やわらかい」ミナは頬に手を当てた。「かたくないでしょ。手で、やわらかくしてるの」アレンは小声で、「火の代わりに、人がいる。……それで足りる」アレンは雪を浅くすくって、鉢に入れる。「冷たいほうで混ぜる」灰塩のだしを少し落とす。雪がきゅっと鳴る。ミナがその上に薄片を広げ、指で撫でるように整える。手が止まりそうになるたび、アレンが首だけで合図した。「止めないで。息も、味になる」「……うん」指の跡が残る。跡が残るほどに、色がやわらぐ。輪を作る。列にしない。腰を下ろして、ぐるりと回す。リオが一つ口にして、目を細めた
夕方の街道は、人の声が近いのに、鍋の声が薄かった。宿の軒先に大きく「無火料理」とある。土間は賑やか、灯はついている。けれど、湯気が泣かない。「“無火”って…生で出すの?」リオが看板を覗きこむ。「お腹、びっくりしないかな」ミナは小声で。アレンは鼻を少し上げて、空気を吸う。「びっくりの前に、まず匂い…しないな」土間の奥で、主人が胸を張った。煤けた前掛け、腕は太い。「火を使わないから、上品で、安全だよ。遠くの町でも、評判でね」皿が次々に出る。見栄えは良い。だが、一口のあと、舌の先が動かない。「舌、しびれてない?」リオが眉を寄せる。「…鼻、通らない」ミナはくしゃみの手前で止める。アレンは土間の鍋をちらと見て、「湯気が、泣かない。鍋、泣かせ直せば起きる」ディアスが小声で寄る。「土間、火はある。使ってないだけだ」娘が皿を下げに来た。手の先、爪の間に、薄い灰色の粉が残っている。アレンは声を柔らげる。「それ、渋い匂い。どこで振った?」娘は肩をすくめ、すぐ父のほうを見てから、小さく。「…少しだけ。旅人は香りが強いと怖がるからって…」主人が割って入る。「金は払ってくれる。文句は少ない。悪くないやり方だ」ディアスが一歩、二人の間に入る。「腹が減ってると、喧嘩になる。先に食わせてから話そう」主人は鼻で笑いかけたが、アレンが土間の大鍋を覗き込んで、底を木杓子で軽く叩くと、わずかな音が返る。「底、泣きっぱなし。弱くして、涙を甘くする」主人の目が一瞬だけ揺れた。主人は柄を離さない。「客は、これで金を――」木杓子が底で小さく鳴る。香りが一筋、立つ。主人の指が、ゆっくり力を抜く。「……任せる」* * *アレンは井戸の水を桶に取り、袋から灰塩をほんのひとつまみ落とす。高く振らない。水面の手前で止める。茶葉と刻み草を指先で揉む。苦みの筋を少しずらす。焚き口の火は最小。沸かさない。湯気の手前で止める。「冷たいの、かけるの?」ミナが首をかしげる。「熱い上に冷たいと、鼻が目を覚ます」アレンは割り麦の飯を土間のどんぶりに盛る。「起こし方、やさしいね」リオは手伝いながら笑う。アレンは、温かい飯に冷たいだしをすっとかけた。器から立つのは湯気ではなく、やわらかな息。冷たいだしが当たると、器の内側が白く曇った。茶葉が一度浮いて、ゆっくり沈む。仕上げに、
風が、薄かった。谷に入ると、音がすぐ弱くなる。共同井戸のまわりだけ、人の気配が集まっては散り、また戻ってくる。「……舌、しょぼんってする」ミナが井戸桶の水を少し舐めて、眉を寄せた。「塩、怒ってる?」リオが覗きこむ。井戸端に腰を下ろした老女が、ゆっくり桶の縁を撫でた。「怖いのは味じゃなくてね、思い出さ」老女が続けた。「涙の石は使うなって言う人もいるよ」アレンは静かにうなずく。「使わないと、ずっと泣いたままだから……少しだけ、起こすね」アレンは、素焼きの鉢を二つ取り出した。手を洗って、井戸水を静かに張る。「ここで一晩、おろす」ディアスが周囲を見回しながらうなずく。「見張りは交代でやる。……今のところ、静かだ」ミナが鉢のふちを見つめる。「これ、明日になったら、やさしくなるの?」アレンは灰袋を軽く叩き、口を指で摘んだまま笑った。「泣いてる水は、眠らせると落ち着く。……塩はそういうやつ」「ねぇそれ、焦げてる?」リオがアレンの小皿を指した。さっき試しに炙った麦のかけらが、縁で黒かった。「焦げてない……と思う」ミナが首をかしげる。「“少し焦げ”は、ごちそう側だよ」アレンが肩をすくめる。老女がくすりと笑った。「そりゃ頼もしいねぇ」* * *夕方、鉢は井戸小屋の陰に置かれた。周りで村の子どもが丸く座り、何度も中を覗く。アレンはその目線の高さにしゃがみ込む。「ここ、触っちゃだめ?」「触らないで“見る”のが仕事。……できる?」「できる!」いちばん小さな子が胸を張って、すぐに控えめになった。「たぶん」ディアスは離れたところに立ち、村境の道を見ている。「列を作りそうになったら、輪に戻すぞ」「うん。輪のほうが、腹が喧嘩しない」アレンが返し、少しだけ火の場所を整える。夜気は浅く、星の出る前に皆が解散した。「明日、上澄みだけ使う」老女が鉢のふちに布をかけて、「おやすみ」と手の甲で軽く叩いた。* * *朝。谷の空気はまだ重かったが、鉢の水はわずかに澄んで見えた。アレンはゆっくり上澄みをすくい、別の鉢へ移す。手首の動きは小さく、息は短く。灰袋からひとつまみ。高く振らず、湯気の手前にそっと落とす。水面が一度くもる。誰かの息が止まる。……すぐ澄んだ。ミナが鼻で探る。「……塩、泣いてる匂い」「泣いたぶん、やさしくなる」アレンは灰の沈







