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灰の信徒

Author: 吟色
last update Last Updated: 2025-10-15 19:26:51

朝。王都はしんとしていた。

かまどは冷たく、工房の煙突も黙ったまま。

けれど風の底に、昨日の焚き火の名残がほんの少しだけ混じっている。甘いような、土のような、思い出の匂いだ。

「……火、ないね」

水汲みの少女がつぶやく。

「灰の聖人さまが、また火を返してくれるって」

「香りを嗅いだら、お腹が鳴ったよ」

人々は小声で笑って、それから不安そうに空を見上げた。

通りの角では黒衣の僧が香炉を割っていた。

「焚き火を禁ずる。香りは魂を腐らす。灰も封ぜよ」

淡々とした声が、石畳に吸いこまれていく。

その横で若い兵が立っていた。ディアスだ。

「……王の命が、信仰を呼んだか」

彼は小さく息を吐いた。「腹が鳴るより先に、言葉が騒ぐな」

***

庁舎の小部屋。窓の外から歌が聞こえる。

「灰の息で、種は芽吹く」「香りよ、戻れ」

どこか幼い、けれど真剣な節回しだ。

ミナが窓辺に立つ。「歌、いっぱいだね」

「うん。お礼を言いたいのか、祈りたいのか……どっちもかな」リオが肩をすくめた。

アレンは机の上で灰を指先にのせる。「拝まれても、腹はふくらまないんだけどね」

戸が軽く鳴り、ディアスが入ってきた。

「王都がざわついてる。“灰の信徒”だ。お前を拝む連中が出た」

「困ったな」アレンは笑った。「俺は台所が似合うのに」

「似合うかどうかで決まらないのが、都だ」ディアスは窓の外を見た。「信仰は動く。お前の火が、神になりかけてる」

「神にする気はないよ。火は食べるためのものだし」

アレンがそう言ったとき、黒い影が扉口に立った。

灰断会の司祭だった。痩せて、冷たい目をしている。

「“香り”は堕落の入口だ」

司祭の声は濁っていないが、温度がなかった。

「火を封じ、灰を封じよ。王も民も、火の言葉を聞く資格はない」

ミナが一歩下がる。リオは無言で立ったまま。

アレンは席を立ち、声の高さを下げた。

「香りは封じられないよ。風が運ぶ。息がある限り、誰のものでもない」

「異端だ」司祭は首を振る。「おまえは“火の罠”を広める者」

ディアスが間に入った。

「ここで争えば、火より早く腐る。庁舎の中で刃を抜くな」

司祭はアレンを長く見てから、背を向けた。

「神はおまえの香りを嫌う。次は、風を止める」

靴音だけが廊下に残った。

ミナがそっと袖を引く。「風、止まるの?」

「止まらないよ」アレンは微笑む。「止まらないから、困る人もいるんだ」

ディアスが腕を組む。「お前は何で戦う」

「戦わないさ。食べさせるだけ」

「……腹は正直だな」ディアスは目だけで笑った。「じゃあ俺は、腹の側に立つよ」

***

夕方。王都の裏通りで、子どもたちが灰山に手を入れて遊んでいた。

火はないのに、灰はほんのり温かい。昨日までの息が、まだ残っているからだ。

「見て、ここやわらかい」ミナが指先で灰を掘る。

リオが顔を近づけた。「なんか、緑……?」

アレンがひざをつく。「貸して。そっとね」

指で灰を払うと、小さな芽が顔を出した。

細くて、でもまっすぐだ。

「……風が、種を運んだんだ」

アレンは嬉しそうに目を細めた。

「また、畑ができる?」ミナの声が弾む。

「ああ。火がなくても、味は育つよ。火は、あとから手伝えばいい」

ディアスが歩いてくる。「人が集まってるな」

「芽が出たんだ」リオが胸を張る。

ディアスはしゃがみ、芽を見た。「ちいさいな」

「でも、あったかいね」ミナが笑う。

「灰が覚えてるからね」アレンは灰を少しつまんで、風にのせた。「昨日の火のことを」

ディアスがふと真面目な顔になる。

「アレン。お前は、何を信じる」

アレンは肩をすくめた。

「食べられるものを、食べる。それだけかな」

「哲学じゃないのか」

「台所の哲学だよ。難しい言葉にすると、焦げやすいし」

三人が笑った。笑いは短く、けれどやわらかかった。

***

夜。街では黒衣の僧が香炉を踏み砕きはじめた。

「禁ずる、禁ずる」と唱える声に、人々の怒鳴り声が混じる。

鍋を守ろうとする手。香を拾い集める手。泣き声。

庁舎の窓からそれを見て、アレンは小さく息を吐いた。

「火を奪う者は、香りを恐れてる。……なら、香りのほうを広めよう」

「どうやって?」ディアスが問う。

「食べさせるだけだよ」

アレンは中庭へ降りた。王の命で“火を消す日”はもうすぐ終わる。

彼は灰を薄く広げ、井戸水を一滴落とした。

「点けるのか」

「小さくね。夜の腹は、驚きやすいから」

息をそっと吹きかける。

赤い核が生まれ、灰の縁に細い文字が灯った。――ゆっくり。――ここ。

ミナとリオが顔を寄せる。

「なに作るの?」

「香り」

アレンは間引いた芽のひとかけらと、干した野草を指先で揉み、灰の塩をひとつまみ。

火は燃え上がらず、ただ匂いの道を開いた。

甘く、やさしく、腹の底に届く匂いだ。

通りの喧騒が少しずつやわらぐ。

人々が足を止め、風上を探す。

「……匂いだ」「どこから?」

灰断会の僧も顔を上げる。目は怒っているが、喉は無意識に鳴っていた。

ディアスが低く言う。「これが、お前のやり方か」

「うん。香りは、勝手に人を集めるからね」

アレンは火を見つめ、声を落とした。

「息を揃えれば、分け合える。台所も、街も、たぶん同じだよ」

火は小さく丸くなり、煙は細い糸のように上へ伸びていく。

王都の上空で風にほどけ、点々と散った。

星のように。

ミナが空を指さす。「ねぇ、星、増えた?」

「匂いが、教えてくれるのかもね」アレンは笑った。

ディアスはしばらく黙って、それからぽつりと言った。

「腹が鳴る音が、戦を止めるなら……悪くないな」

王都の夜に、火はもうなかった。

でも、風の中には、まだ“味の匂い”が残っていた。

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