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追放された料理人、異世界で伝説の味を創る
追放された料理人、異世界で伝説の味を創る
Penulis: 吟色

追放の宴

Penulis: 吟色
last update Terakhir Diperbarui: 2025-10-10 17:26:54

香りが、音より先に広がった。

火竜の脂が熱にほどけ、甘く焦げる匂いが石畳の床を滑っていく。

銅鍋の縁が細く歌い、包丁の刃がまな板に触れて止まる。

掌に吸い付く木柄の重みが、今夜の出来を告げていた。

アレンは火口を半歩ずらし、炎を低く撫でつける。

肉の表面が微かに泣き、密やかな水蒸気が立ちのぼる。

粗挽きの胡椒が星のように弾け、琥珀のソースが艶を増す。

「呼吸を合わせろ」

彼は若手たちの手元を見ずに言う。

「料理は命を分けるものだ。――誰のために作るかを、間違えるな」

震えていた手が、少しだけ静まった。

温めた皿が白く息を吐き、塩は言葉より少なく、火は祈りより正確に。

最後の裏返し。格子の焼き目が美しく重なる。

白い裾が視界の端で止まる。

振り向くと、入り口に王女セレナがいた。

淡い金の髪をまとめ、控えめに笑っている。

「邪魔、してしまったかしら」

「いいえ」

アレンは火から視線を外さず、口角だけで応えた。

「姫様の『楽しみ』が、厨房を整えます」

セレナは近づき、指先で皿の縁をそっと確かめる。

温かさに目を細め、息を弾ませた。

「今日の香り、好き。……皆も、きっと」

その笑顔は、真昼の光に似ていた。

胸の奥で固くなっていた何かがほどける。

アレンは頷き、火竜のローストを仕上げる。

ソースを一筋。香草は一枚だけ。余白は、食べる者の息のために。

「出す」

合図に若手が駆けた。

銀の蓋が重なり、音のない行進が王の間へ吸い込まれていく。

扉が閉まれば、厨房はふたたび静かな海になった。

アレンは手拭いで指を拭い、深く息を吸う。

火竜の熱が鼻腔に残る。

この夜は、長くなる――そんな予感があった。

王の間から微かな拍手が届く。

杯が触れ合う高い音。

楽人の弦が、ゆるやかに響く。

若手はほっと肩を落とし、誰かが小さく「やった」と呟いた。

アレンは首を振る。

「まだだ。最後の最後まで油断するな」

自分に言い聞かせるように。

――空気が変わった。

扉の向こうで、音楽が一瞬だけ弾きを忘れる。

次の瞬間、杯が床に打ちつけられる鈍い音が、廊下を伝ってきた。

「……?」

若手の一人が顔を上げる。

叫び声。椅子が引き倒され、足音が重なる。

扉が開く前に、アレンはもう動いていた。

非常用の薬箱、活性炭、薄めた果実酒、冷水。

「運べ。氷もだ」

「は、はい!」

声が裏返った青年が走る。

扉が激しく開き、衛兵が飛び込んできた。

その後ろで、貴族派の筆頭――ガルバが、わざとらしく鼻を押さえる。

「毒だ」

その一言は、香りよりも早く広がった。

「王弟殿下が倒れた。吐瀉の臭い、顔色、脈――」

ガルバは指先で空を切り、ゆっくりとアレンを指差す。

「この料理人が、毒を仕込んだ!」

若手たちの呼吸が止まり、鍋の音だけが場違いに続く。

アレンは薬箱をそっと置いた。掌が汗ばんでいる。

震えたのは指ではない。胸の奥の、別の場所だ。

それでも、口に出た声は静かだった。

「俺が作った料理で、人が死ぬはずがない」

ガルバが口角を上げる。

「では、証を見せてもらおうか」

衛兵が厨房へ踏み込み、次々に蓋を外す。

スパイスの小瓶が持ち上げられ、布袋が裂かれ、粉が白い息のように舞った。

「待て、触るな」

アレンは一歩踏み出し、すぐに止まる。

王女の侍女が扉の向こうでうろたえていた。

セレナの姿が見えない。

若手の一人がアレンと目を合わせかけ――逸らした。

その一瞬で、背中の汗が冷える。

届くはずのないざわめきが胸に降り積もった。

「ほら、ここに」

ガルバが小瓶を掲げる。

黒い粉末が、光を吸い込むように沈んでいた。

「厨房に、禁断の“苦涙草”。――致死量の一歩手前。良い匙加減だ」

「それは俺の棚ではない」

「この場に在ることが、充分だ」

ガルバは肩をすくめ、衛兵に顎をしゃくる。

「王の前へ」

王の間は、熱を失っていた。

冷えた空気の中心で、王弟が担架に横たわっている。

王は顔色を固くし、セレナは父の袖を握っていた。

彼女の目が、アレンを見て揺れる。

信じる、という言葉が、唇の形だけで伝わる。

「アレン・フォルテ」

王の声は、長剣の鞘のように重い。

「そなたの厨房から、禁薬が見つかった」

「存じません」

「供饌の中に、毒が混じっていた」

「俺の料理ではありません」

「では、誰が」

「……厨房に、俺以外の手が入った」

ざわめき。

ガルバの目が細く笑う。

「自らの無謬を誇るのは、職人の悪癖だ」

「誇りではありません。確認です」

アレンは担架に近づき、許しを請うように一礼してから、王弟の口元の香りを嗅いだ。

果実酒。だが、厨房で仕上げた酒ではない。

似ているが、違う。樽香が古い。

杯――差し替えられている可能性が高い。

「陛下。杯の確認を」

王の目がわずかに動く。

侍従が慌ただしく杯を集め始めた。

ガルバの頬が、ひと筋だけひきつる。

それでも退かない。

「だとしても、厨房から禁薬が出た事実は消えん」

「事実ならば」

アレンは手を下げ、指先の震えを火にくべるように沈める。

「俺は包丁を置こう。だが、でっち上げなら――」

言葉は最後まで届かなかった。

扉が開き、衛兵が跳ねるように入ってくる。

「陛下! 広場に人が集まっています。噂が……『王弟が毒殺』『料理長が手を染めた』と」

空気が、決壊した水のように崩れた。

王はゆっくりと立ち上がる。

「……広場へ出る。民に示さねばならぬ」

夜の広場は、人の熱で揺れていた。

松明の火が、噂の形にちぎれては舞う。

アレンは囲まれ、手首に冷たい拘束具をかけられる。

足元の石が湿っている。

雨は降っていないのに、どこかで水音がした。

壇上に王が立つ。

「アレン・フォルテ、汝をこの王国より永久追放とする」

その言葉は、刃ではなく、重石のように胸に落ちた。

群衆がうねり、歓声と罵声が混じる。

セレナが駆け寄ろうとして衛兵に止められ、声を張る。

「父上、彼は――彼はそんなことを!」

涙が喉で震え、言葉がほどける。

アレンは彼女を見た。

泣くな、という言葉が、自然と舌に載る。

「泣くな、姫様」

彼は笑った。

笑えると気づくまでに、一拍の間があった。

「料理は……どんな世界でも作れる」

魔法陣が展開する。

古い石が光に満ち、足元が薄く浮く。

ガルバの口元が光の縁で歪み、群衆の顔が遠のく。

アレンは深く息を吸い、胸の中心に残った熱に名を与えた。

――味覚よ、導け。

光が弾け、世界がひっくり返る。

静寂が鼓膜の内側まで流れ込み、次に、風の匂いがした。

荒れた大地。星のない空。

砂粒が靴の縁で鳴り、冷たい夜気が頬を撫でる。

遠くで、腹の虫が鳴く音がした。

子供の、それも複数の腹の音。

アレンは振り向く。

崩れかけた石垣の向こう、痩せた影が寄り添っている。

目が合うと、影はびくりと肩をすくめた。

アレンは袖をまくった。

掌に、王宮の厨房とは違う土のざらつきが戻る。

肺に入る空気が、腹の底で温かい火種に触れる。

「……最初の一皿は、笑顔のために作ろう」

足もとで乾いた枝が折れた。

次の瞬間、誰の手も借りずに、小さな赤い火が点る。

焚き火の芯に、見たことのない薄い文字がゆらめいた。

炎の欠片が浮かび、舌の奥で何かが目を覚ます。

塩を思い、甘みを思い、誰かの笑顔を思う。

その順番で、世界が少しだけ色を取り戻した。

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