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炎のはじまり

Author: 吟色
last update Last Updated: 2025-10-10 17:33:07

風に、味があった。

星のない空から降りてくる夜気は、舌先でほどけて――

塩と鉄と……少し、血の匂い。

アレンは鼻で吸い、ゆっくりと吐く。

肺の奥に沈んだ熱が、小さく返事をした。

転移の眩しさはもう消え、荒れた大地の黒が視界を満たす。

崩れた石垣、ひび割れた水瓶、干からびた草。

世界は音を忘れたように静かだった。

「誰か、いるか」

石垣の影がびくりと揺れた。

痩せた少年が妹の肩を抱き寄せる。

少年は十歳ほど、骨ばった手に小さな棍棒。

少女は七つか、両膝を抱えて、目だけが大きい。

「近づくな」

少年が唇を強く結ぶ。

「食い物はない。ぼくらのだ。あげない」

アレンは両手を見せた。

包丁も鎧もない、火傷の薄い痕だけを持つ手。

「奪いに来たんじゃない。……作りに来た」

「作る?」

「腹が鳴ってる音が聞こえたからな」

彼は笑う。自分の笑いが、まだこの世界で錆びていないと知って、少しだけ安心した。

「俺はアレン。料理人だ」

少年は逡巡し、棍棒を下ろす。

「ぼくはリオ。こっちはミナ」

ミナが小さく会釈して、すぐ膝に顔を埋めた。

近づけば、空腹の匂いと、乾いた土の匂い。

それから――遠い場所で燃えた煙の、薄い名残。

「この辺りに火は?」

「昼に、ちょっとだけ。枝が湿ってて……すぐ消えた」

リオが指さした地面には、灰にもなりきれない黒い塊が円を描いている。

アレンはしゃがみ込み、指で灰を撫でた。指先に、粉ではない“線の抵抗”がかすかに触れる。

――灰の中から、細い文字が立ち上がった。

火の息のように淡い線で、舌の形を真似るように、揺らめく。

「……なるほど」

彼の胸の中心に、王城の厨房では一度も聞いたことのない音が鳴った。

味が、形になる。線と面で、風向きと熱の道を描く。

“味覚の魔法”。名を与えた瞬間に、世界の輪郭が少しだけ濃くなる。

アレンは立ち上がる。

「食べられそうなものを探そう。……毒草でも構わない」

「毒は、死ぬ」

リオの声が震える。

「死ぬほどの量を、そのまま食べればな」

彼はにやりと目だけで笑い、視線でミナの小さな手を確かめる。

「でも、熱を通し方を変え、苦味の芯をずらせば――」

彼は足元の草むらに膝をつき、葉を千切って指で揉む。

鼻腔を通る香りが、灰の上の光の線と重なり、

“ここを焼け”“ここは蒸せ”“ここは捨てろ”と、静かに示してくれる。

楕円の葉、紫の斑点――この世界で“食べるな”と教えられる草だろう。

でも、根に近い白い脈は甘い。

種子には脂がある。

乾いた実は渋いが、舌の奥に眠る甘さが、ごく薄く響く。

「香りが違う」

アレンは自分に言うように、低くつぶやいた。

「熱の通り道を変えれば、苦味は旨味になる」

彼は石を三つ拾って三脚にし、灰の円の中心に細い枝を組む。

指先で灰を集め、塩の代わりに薄く散らす。

リオが目を丸くする。

「灰を、ふりかけるの?」

「灰は火が残した記憶だ。うまく使えば、味の輪郭を引き締める」

火打ち石はない――だが、灰の文字にそっと息を吹きかけると、

線が短く明滅し、赤い核が生まれた。

ミナが小さく声を上げ、手で口を押さえる。

「……きれい」

「この火は賢い。腹を満たす火だ」

細い薪を重ね、炎を低く育てる。

葉は丸めずに広げ、蒸気の逃げ道を残す。

苦味の強い芯は切り出して炙り、焦げる一歩手前で湯に落とす。

乾いた実は砕いてから、灰と一緒に乾煎りして香りを立たせる。

草の根は薄く削ぎ、水を吸わせてから焼き目をつける。

香りの線と、炎の線が、灰の上で交差する。

リオの腹が、素直に鳴った。

彼は恥ずかしそうに俯くが、アレンは気づかないふりをする。

「いい音だ。合図になる」

湯がわずかに白く濁り、苦味の角が落ちていく。

アレンは木の枝でつくった即席の匙ですくい、舌にのせた。

その瞬間――舌の奥に光が走る。

灰の文字がひとつ、ふっと増え、輪になって彼の味覚を抱いた。

塩――鉄――甘み――そして、温度。

世界の形が、味の秩序として口内に組み上がっていく。

「……感じる。“味”が、世界の形をしている」

声は驚きよりも、納得に近かった。

彼はすぐに火加減を一つ落とす。

旨味は、焦らないほうが深くなる。

リオとミナの視線が、熱の揺らぎの向こうで揺れている。

アレンは二つの平らな石を洗い、湯から上げた根と葉を並べ、砕いた実を散らした。

焚き火の煙を一呼吸だけ当て、灰の塩を指先でひとつまみ。

即席の“山野の皿”が、静かに完成する。

「一口だけでいい。嫌なら、そこでやめていい」

彼はミナに皿を差し出す。

リオが前に出て、妹を庇いながら、目で味わうように皿を見つめ――

小さく頷いた。

「……ぼくが先に」

リオは葉を一枚、慎重に齧った。

歯が触れた瞬間、顔がこわばる。

そして次の瞬間、眉間の皺がほどけ、目が丸くなる。

「……苦くない。甘い。あったかい」

ミナも恐る恐る根を齧り、口の中で転がす。

頬がゆっくりと赤みを取り戻し、震えていた指が落ち着く。

「……おいしい」

焚き火の炎が、呼吸のリズムで大きくなった。

青い芯が一瞬だけ光り、灰の文字が、彼らの吐息に合わせて踊る。

世界に、色が差す。

遠くの黒が、濃紺に、土の茶に、草の淡い緑に、少しずつ戻っていく。

「もっと食べていい?」

ミナの声は糸のように細いが、端だけが明るい。

「もちろん。……でも、ゆっくりだ。体は驚くからな」

彼らが口に運ぶたびに、アレンの舌の奥で円環がひとつずつ増える。

円は重なり、炎の上に小さな冠を編む。

それは祝福の形をしていた。

食べることが、世界に許されているという形。

リオが涙を拭った。

「……こんなの、初めてだ。草が、こんな味するなんて」

「草は草のままじゃない。火に会えば、別の名になる」

アレンは微笑む。

「それが、俺の魔法だ」

彼は灰の円の縁に指で線を描き、残った根を刻んで保存用に干す方法を教えた。

熱の当て方、苦味の抜き方、灰の塩の使い方。

言葉は少なく、手の動きで伝える。

リオは真剣に頷き、ミナは指を真似て小さくなぞる。

夜風はもう冷たくない。舌に触れる風は、わずかに甘い。

「おじ……アレン」

ミナが言い直し、頬を指でこする。

「ありがとう」

「礼なら、火に言ってくれ。俺は、火と味の通訳だ」

空を仰ぐ。

星のない黒のはずが、焚き火の上に一つだけ、白い点が灯っていた。

それは星というより、火の記憶が空に移ったような、小さなひかり。

リオとミナが息を飲む。

「星……」

「この世界は、食べるたびに少しずつ思い出すのかもしれない」

アレンは冗談めかして言い、胸の中で固かったものが、ようやくほどけたと知る。

「王のためじゃない」

ひとりごとのように、夜に向けて呟く。

「今度は、食べる者のために作る」

火は小さく頷き、灰の文字が一行だけ新しく生まれた。

“導く舌”。

それは、彼がこの世界で背負うべき役目の名に思えた。

腹が満ち、ミナはうつらうつらと目を閉じる。

リオは棍棒を膝に置き、少しだけ肩の力を抜いた。

「村がある。……でも、毒の草しかなくて、皆、咳が止まらない。

 ぼくら、村から出された」

言葉の端が欠ける。痛みは、食べてもすぐには治らない。

アレンは頷く。

「明日、案内してくれるか」

「……うん」

リオの目に、焚き火の光が映る。

頼るというより、並んで歩くと決めた目だった。

夜が深まる。

炎は低く、丸い。

ミナの寝息に合わせて、灰の文字が柔らかく揺れる。

アレンは火のそばに座り、包丁の代わりに平たい石を磨いた。

指先は確かで、目は穏やかだ。

追放の夜は終わった。

ここからは、はじまりの夜だ。

遠く、風の向こうで草が擦れる。

毒草の村へ続く道が、薄く匂いで示される。

塩と鉄と、今はもう少しだけ、温かい甘み。

彼は立ち上がり、焚き火に一礼した。

「明日も、頼む」

火は、柔らかな音で答えた。

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