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灰の街

Author: 吟色
last update Last Updated: 2025-10-13 09:23:13

焚き火は丸くなり、灰のふちに細い光が残っていた。

外套の男は一礼だけして名を告げる。

「王都は、“灰の奇跡”を確認したいそうだ。私は供饌庁付きの使い、ディアス」

低い声。硬い目。けれど息づかいは乱れていない。訓練された兵のそれだ。

「王都が動いたってことか」「また税か」「今度は神を奪いに来た」

村の輪がざわめく。恐れと怒りと、見えない期待が混じる。

ミナが袖を引く。「……行くの?」

「行くさ」アレンは焚き火を見て答えた。「誰かが火の意味を伝えなきゃな」

村長が大きな手を肩に置く。

「気をつけろ。王都の目は“味”を知らん」

「なら、教えればいい。焦らず、ゆっくりとな」

ディアスは村人たちをひととおり見渡し、短く告げた。

「夜明けに発つ。同行は三名までだ」

「俺と、リオと、ミナ」

「わたしも行くの?」ミナが目を丸くする。

「途中で引き返してもいい。匂いを確かめるだけでも、意味はある」

火は最後に小さく息を吐き、灰の文字をひとつ描いて消えた。

――行ってこい。

***

王都へ向かう街道は驚くほど真っ直ぐだった。

整えられた石の道。鼻をくすぐるのは、灰ではなく、鉄と油の匂い。

時おり、遠くから鐘が鳴る。風はまっすぐ鳴らない。建物に切られて、角のある音になる。

「この匂い、苦手」ミナが鼻を押さえる。

「食べものの匂いがしない」リオが言う。

アレンはうなずく。「ここは火はあるが、香りが死んでる」

ディアスが横目で笑った。

「奇跡は都合のいい言葉だ。利用できるうちは、信仰になる。利用できなくなれば、迷惑だ」

「腹は、言葉じゃ満たせない」

「だが、言葉で人は動く。……王都は、そういう場所だ」

門前には長い列。兵士、商人、祈祷衣をまとった者、痩せた子ども。

列の中からささやきが漏れる。

「灰の聖人だ……!」「触れたら治るって……」「王が呼んだらしい」

アレンは顔を上げ、風の匂いを嗅いだ。

油、鉄、熱。

そこに、かすかに――焦げかけた甘さ。

どこかで誰かが、ぎりぎりの火を使っている。

城壁の向こうへ通される。

灰の街。煙突が並び、白と黒の煙が空を縫う。

車輪が軋み、蒸気が唸り、鐘が重ねて鳴る。

すべてが動いているのに、どこにも「食べるための匂い」がない。

「ようこそ王都へ。供饌庁は中央広場の先だ」

ディアスが歩を速める。

広場に入ると、巨大な建物が口を開けていた。

丸い屋根。壁面には香草や穀物のレリーフ。

だが扉から漂うのは、祈りの香ではなく、乾いた香料の粉っぽさ。

「供饌庁(きょうせんちょう)。王に供する“味”を司る場所だ」

ディアスの声は淡々としている。

「味が政治の象徴?」リオが首を傾げる。

「そうだ」アレンは短く答えた。「味は、誰のためにあるかで、武器にも、祈りにもなる」

石段の上、扉が開き、銀の杖を持った男が歩み出た。

白髭は整えられ、衣は香で固められている。

「供饌長アルマンである。――お前が“灰の聖人”か」

アレンは軽く頭を下げる。

「アレン・フォルテ。料理人だ」

アルマンの目が細くなる。「王は“毒を味わう者”を探していた。お前がそうか?」

アレンは肩の力を抜いたまま、穏やかに言う。

「毒も味も、同じ皿にある。違うのは、食べる人の心だけだ」

広間は冷たく広かった。

高い天井。香炉。磨かれた石床。

中央には大きな卓。銀の皿。整然と並ぶ器。

そして、机の端に――灰が山のように盛られていた。

黒い。重い。匂いがない。

「奇跡の再現を」アルマンが指を動かす。

神官が灰を匙で差し出す。

アレンは一つまみ取り、指で挟む。

粉は重く、指に張り付く。

嗅いでも、何も来ない。

「……これは“灰”じゃない」

アレンの声は低い。

「死んだ火の抜け殻だ」

空気が硬くなる。

「不敬だ」「神の火に口を出すな」「聖人が火を拒むのか!」

声が石壁に反響する。

ディアスは何も言わず、ただ見ている。目だけがわずかに動いた。

アレンは掌の粉を見つめた。

「火は神じゃない。食べるためにある。灰は火の記憶だ。記憶がなければ、ただの黒だ」

彼は一歩下がり、掌を下に向けた。

重い粉がこぼれ、石の上に落ちる。

音は鈍い。香りは、やはりない。

「神に頼って火を忘れたのは、お前たちだ」

静かな言葉。

アルマンの眉がぴくりと動く。

神官の一人が杖を打ち鳴らした。「無礼者!」

ディアスが一歩出る。「待て」

彼は机の端の灰を別に掬い、指で軽く弾く。

粉は同じように沈んだ。

「……匂いがしない」彼が初めて、わずかに表情を変える。

アレンは懐から小さな布袋を出した。

村から持ってきた、焚き火の灰。

掌に落とし、息をふっと吹きかける。

灰は軽く舞い、細い文字を描く。

――ゆっくり。

――ここ。

――まだ生きてる。

「灰はこうなる。火の言葉を、少し残す」

アレンは袋を閉じた。

「そっちのは、黙ったままだ」

広間のどこかで、誰かが喉を鳴らした。

アルマンは冷たい目で言う。

「王の召しで来たのだ。ここで神の理を論じる必要はない。――奇跡を見せよ」

「奇跡は、腹を満たさない」ディアスが小さく呟く。

アルマンが横目で彼を刺す。「黙っていろ、使い」

「奇跡って、なに?」ミナが小さく訊いた。

アレンは片膝をつき、ミナの目線で短く答える。

「食べていい、とわかること」

ミナは「ふむ」とうなずいた。

そのやり取りに、何人かが息を飲んだ。広間に、妙な静けさが降りる。

アレンは供饌庁の灰にもう一度指を触れ、目を閉じる。

沈黙。

それでも、どこからも香りは来ない。

「偽りの香りだ。舌を閉ざすべきだ」

その瞬間、アレンの掌の上で、粉が勝手に動いた。

灰の線がひとつ、ふたつ。

――偽りの香りに、舌を閉ざすな。

誰かが椅子を引く音を立てた。

ディアスが近づき、文字を見下ろす。

「……あんた、ただの料理人じゃないな」

アレンは立ち上がり、指についた灰を軽く払った。

「そうだ。俺は、まだ“腹を空かせてる”だけだ」

そのとき、遠くで鐘が鳴り始める。

一度。二度。三度。

重い音が重なり、窓の格子が震える。

神官が膝をつき、声を張った。

「王が、“灰の聖人”を召している!」

広間がざわめきに満ちる。

アルマンは口角だけで笑い、杖を鳴らす。

「王の御前で、もう一度問おう。味とは何か、とな」

アレンは小さく息を吸い、灰の袋を確かめた。

「行こう」

リオがうなずき、ミナが手を握る。

ディアスは一瞬だけ空を見た。

「……面白くなってきた」

灰の街に鐘が鳴り、煙の空にひとつだけ星が灯った。

その星の下で、誰かが“本当の味”を思い出そうとしていた。

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