LOGIN朝。焚き火は灰になり、白い息だけが立っていた。
アレンは灰を指で弾く。灰は軽く、薄い文字をひとつだけ残した。 「行こう」 リオが頷き、ミナは小さな手で裾を握る。 霧の道。並木は痩せ、畑は色を失っている。 村の入口には、歪んだ札がぶら下がっていた。 ――毒草注意。 「……いい匂いがしないな」 アレンが小声で言う。 「当たり前だよ。ここ、もう何も食べられないんだ」 リオの声は低い。ミナがうつむく。 通りかかった老婆が舌打ちした。 「また流民か。うちには分けるもんなんてないよ」 「ぼくたち、村の子だよ。戻っただけだ」 リオが言い返す。老婆は目を逸らした。 「戻って何をする。食べ物は毒、畑は枯れ、鍋は鳴かない。……ここは“何も食べられない村”なんだよ」 言葉は霧より冷たかった。 村の中心に、ひび割れた井戸。 人の気配はあるが、誰も立ち止まらない。 視線だけが刺さる。 「村長に会わせてくれ」 アレンが言う。 「行こう。ぼくが案内する」 リオが前を歩いた。 粗末な小屋。扉の向こうに、どっしりとした背中。 「誰だ」 「リオです。……それと、アレン」 「他所者か」 低い声が唸る。 アレンは静かに頭を下げた。 「アレン。料理人だ。村の食を見せてほしい」 「帰れ」 即答。 村長の額には深い皺。目は火を信じない目だ。 「毒草を煮て死んだ奴を、何人も見た。鍋は墓じゃねえ。……他所者の出る幕じゃない」 「アレンは、ぼくらを助けてくれた!」 リオが一歩出る。 小屋の外に人が集まり、ざわめきが膨らむ。 「草を食わせたって?」「狂ってる」「毒を使う魔物使いだ!」 ミナがアレンの袖を握る。指が震えていた。 アレンはその手に軽く触れ、袖をまくる。 「……見せた方が早いか」 「やめろ!」「触るな!」「匂いが移る!」 叫びが重なるその中で、アレンは路傍の草を摘んだ。 紫の斑点。楕円の葉。村人が顔をしかめる。 彼は葉を揉み、指先に滲む汁を嗅いだ。 灰の地面に、淡い線がふっと現れる。 火の息のような細い文字が、彼の指の動きに寄り添った。 「見たか。魔の文字だ!」 「違う」 アレンは否定を短く置く。 「苦味の芯をずらし、熱を通す。……味の通訳を信じろ」 「信じられるか!」 村長の拳が震える。 ミナが、おそるおそる口を開いた。 「……あの時も、これで……おいしかった」 小さな声が、小屋の空気に小石を落とす。 沈黙。ざわめきが一瞬しぼむ。 アレンは灰を指で集め、井戸の脇に石を三つ組んだ。 細枝を重ね、灰の文字に息を乗せる。 赤い核が生まれ、低い火が灯る。 「火だ……」 誰かが呟く。しばらく聞いていなかった音だ。 「葉は丸めず、逃げ道を残す。芯は炙って苦味を切る。実は砕いて、香りを先に起こす」 アレンは独り言のように言い、動作は簡潔だ。 灰をひとつまみ、石の皿に薄く散らす。 「灰をふりかけるだと?」「馬鹿な……」 「灰は火が残した記憶だ。味の輪郭を整える」 湯気が立ち、香りが流れる。 「……甘い匂い?」 「毒のはずなのに」 鼻先を上げる村人が増える。 井戸の水面が、湯気の影を揺らした。 村長が唸る。 「……それは、何の魔法だ」 アレンは手を止めず、短く答えた。 「料理だ」 静まり返った中で、彼は最初の皿を二つ作った。 平たい石に、炙った芯、柔らかくなった葉、砕いた実。 灰の塩を指先でひとつまみ。 「リオ、ミナ。先に」 「うん」「……うん」 リオは葉を齧る。眉が寄り、すぐにほどける。 「苦くない。あったかい」 ミナは根を舐め、目を丸くして笑った。 「……あまい」 唾を飲む音が、あちこちで重なった。 アレンは次の皿を作る。 「嫌なら、断っていい。無理はさせない」 彼は皿を差し出し、視線を逸らす者には無理に近づかない。 最初に手を伸ばしたのは、老婆だった。 震える指で葉を摘み、歯でちぎる。 目尻に皺が寄り、すぐに濡れた。 「……何年ぶりだろう、“味”がする……」 隣の男が、恐る恐る根を齧る。 「苦くない……いや、苦いけど、嫌な苦さじゃない……」 人が寄ってくる。短い息と短い言葉。 皿が空き、火が育つ。灰の文字は、小さな輪をいくつも作った。 アレンの舌の奥にも、同じように円環が増えていく。 村長は腕を組んだまま、動かない。 アレンは彼に向かって、最後の皿を作った。 芯の焦げ目をひとつ、葉の柔らかい縁をひとつ、実の香りを少し。 「村を見た。……あなたが守ってきたことも、匂いでわかる」 「戯言を」 「守るために、捨てすぎた。味も、火も、希望も」 アレンは皿を置いた。押しつけない。 村長はしばらく見つめ、ふっと笑った。 「言葉が生意気だ」 そして、葉を齧る。 静かな咀嚼。目蓋が震え、息が漏れる。 「……食える。……いや……うまい、のか、これは」 ざわめきが笑いに変わる。泣き笑いだ。 井戸端に座り込む者、空を仰ぐ者、手を合わせる者。 アレンは火を見た。火は丸く、低く、よく働いた。 「人は、食べられるものを忘れる」 アレンの声は焚き火に溶けた。 「けれど、“食べていい”と知った瞬間、生き返る」 リオが胸を張る。 「アレンは、魔法使いじゃない。料理人だ」 ミナが頷く。 「火のこと、ちゃんと聞いてくれる人」 村長が咳払いをした。 「……お前さん。名は」 「アレン・フォルテ」 「アレン。明日、畑を見ろ」 村長は短く言う。 「毒をどうにかできるなら――それを見せろ。……信じるのは、食ってからでいい」 アレンは笑った。 「明日、畑を見よう。毒を育てるんじゃない。味を育てるんだ」 夜。霧が薄れ、井戸の上の黒に、白い点がひとつ灯った。 誰かが「星だ」と言い、誰かが泣きながら笑った。 火はやわらかく頷き、灰の文字が一行だけ増える。 ――食べて、生きろ。 アレンはその言葉を胸に収め、火に礼をした。 「ごちそうさま」夜の路地は湿っていて、息が白いのに薄かった。苔の生えた共同窯の口に、古い札と錠。金具は冷たく、光は弱い。「……怖い匂い、消えないね」ミナが小声で言う。「上書きする。焼ける匂いで」アレンは窯の口を見たまま、ゆっくり息を吸って吐く。「窯、開けられるの?」リオが鍵を指先で示す。ディアスは札に触れず、目だけで警戒の輪をなぞった。「触るなよ、って顔してる。……札が」「触らないよ。起こすだけ」アレンは錠の冷たさを一拍、確かめる。音は立てない。噂は路地の向こうから流れてくる。今夜は火刑祭。鐘の三で、香炉の見習いが晒される。誰も大きな声を出さない。灯は、低く抑えられている。「粉、少しもらえる?」リオが角の粉屋に目で合図する。粉屋の女は口を開かず、端粉の小袋を二つ。頷きだけ。「芋も……余りでいいの」ミナが芋屋の台に手を置く。皿の上の小さな芋が三つ、手のひらに移る。手の体温がすぐに移っていく。井戸の水はぬるくもなく、冷たすぎもしない。芋を崩す。灰塩を指でひとつまみ溶かす。「手、冷えてる?」アレンが覗く。「ううん。ちょっとだけ、あったかい」「それでいい。手って、渡す道だから」ミナは掌で生地を押す。息を一度だけ、近くに吐く。縁が薄くなって、空気が中に入る。粉の白が指の腹に残る。リオが器を支え、手から手へと回す。「順番じゃなくて……回そ」「うん。落とさないでね。息、合わせて」アレンは札の灰の字を見つめ、息をふっと当てた。紙がわずかにしっとりして、糊が緩む。錠は鳴らない。窯の口が、ほんのわずかに吐いた。夜気と、内側の古い冷たさが触れ合う。「来る」ディアスが短く言って、路地の出口に目をやる。松明の列。黒衣の司祭、固い肩。兵の足音が揃う。「香りは堕落。火は罰だ」高い声が通りに沿って流れる。ディアスが一歩だけ前に出て、低く言う。「刃を抜かないで。……子どもが見てる」アレンは窯の床を木杓子でそっと撫でた。無音。もう一度、撫でる。きゅ、と短い声が床の奥で鳴く。泣くみたいで、すぐ止む。「生きた灰、薄く」アレンが灰袋を傾ける。床に広げる。呼吸が通る道を作る。ミナは子どもたちに向き直る。「一緒に、ね。平たくして。ここ、薄く」小さな手が、彼女の手つきを真似る。「息、ふーって少し」「ふー」子どもが真似をする。粉が舞わないくらいの短さで。
道の両脇が黒くて、土がまだ硬かった。家は近いのに、音がない。煙突が並んでいるのに、空は澄んだまま。「……匂い、しないね」ミナが手を袖に入れる。「焚き火の跡、古いままだ」リオは靴先で灰をつついた。アレンは小さく息を吐く。「火が止まると、声も止まる」ディアスは帽子を深くかぶったまま、目だけで道を追った。村の人は会釈だけする。口が動かない。風の音だけが通り抜けた。古い屋敷に通される。かつて兵が寝泊まりしたという部屋。鉄の椀が、棚の上で冷たく光っている。椅子に腰を下ろした老兵が、喉を鳴らしてから言った。「熱で舌をやられてな。何を食っても、ただのあったかさだ」声は紙みたいに薄い。アレンは頷いて、卓に指を置いた。「ぬくもりだけなら、そこから始めよう」ミナがアレンを見る。呼び止めない。ディアスの拳が、音を立てずに握られた。台所は狭い。袋に残った硬い麦。しわの入った根菜が少し。灰塩の袋を、アレンが軽く叩く。「噛まずに食べられるやつ、作る」アレンが言う。「こんなので、味する?」リオが笑う。「するよ。……先に“ぬくもり”が触るよ」大鍋に湯を張る。「弱い火で」ディアスが焚き口を開け、火を息で整えた。ミナが灰塩を薄く溶き、指先で味を見る。「しょっぱくしないのね」「うん。今日は、舌じゃなくて、腹から起こす」刻んだ根菜を、一度に入れない。少し待って、またひとつ。鍋の内側で、小さな音が生まれる。きゅ、と鳴いて、すぐ消える。ミナが目を上げる。「……いま、鳴いた」「腹が先に笑うんだ」アレンは木杓子で底を撫でた。麦は洗って、握らずにほぐす。とろみは弱い。噛まなくても喉が動くくらいに。アレンは椀を三つ並べた。一つめは、ぬるい。二つめは、少し温い。三つめは、ちゃんと熱い。木杓子が底をなぞる。音はしない。みんなの息だけが揃う。「順番で渡す。焦らないで」「子どもの頃、母にやられたな……」ディアスがぼそっと言って、口をつぐむ。空気が少しだけ柔らかくなる。若い兵が椀を見て首を振る。「熱いのは、もういい」アレンは椀を遠回りで置く。「じゃあ、ぬるいところから」配るのは列じゃなく、輪にした。腰を下ろして、手渡しで回す。老兵が、一つめを受け取る。唇に当てて、少しだけすすった。「……温かい」隣の兵は、二つめで眉
朝の広場は白くて、音が薄かった。屋台の並ぶ通りに紙が貼ってある。「臭気取締令 第1号 料理の香り、通報対象」墨がまだ新しい。風で角が少しめくれる。「……おいしそうな匂いが、しない」リオが小声で言う。「人の声も、冷たいね」ミナは手袋を外す。指が赤い。アレンは一度、胸に空気を入れてから吐く。「香りは、お腹の言葉だよ。黙らされたら、笑えなくなる」ディアスは視線だけで巡回の兵を数えた。「三隊。火は使えない。動くなら、昼の前」屋台の老婆が周りを見て、鍋の蓋をほんの少しだけ持ち上げた。湯気が一筋、逃げる。すぐに兵が二人、歩みを速める。「匂いがしたな」老婆は蓋を閉じる。手がわずかに震えた。「罰金。品は没収」兵は札を板に打ちつける。釘の音が乾いた。ミナが小さく息を吸う。「……匂いまで、捕まえるの?」アレンは老婆に会釈して、鍋に触れない距離で目を伏せた。「目に見えないから、怖がるんだろうね」リオが眉をひそめる。「どうすんの。作れないじゃん」「作れるよ」アレンは肩の力を抜く。「遅れてくるやつなら」アレンは布包みを一つ、台の上に置く。中には、透きとおった欠片がいくつも並んでいた。冷たい澄ましを固めたもの。「匂いは出ない。でも、笑える」ミナが覗く。「これ、どうするの?」「舌の上で、起こす」井戸の水を汲む。手のひらで温度を確かめる。冷たいままでいい。アレンは欠片を小さく割って、器に落とした。音はしない。リオが近くの子どもに声をかける。「匂いしないよ。……ひと口だけ、どう?」子はうなずき、指でひとつ摘んだ。舌にのせる。目を閉じて、少し待つ。「……あったかい」喉の奥で、息がほどけた。ミナが思わず前に乗り出す。「今、少し……香った」アレンは笑うだけで、次の器に欠片を落とす。「人の体温が、火になる」老婆が自分の鍋に手を置いたまま、こちらを見た。「匂わないのに、顔が明るくなるねぇ」兵が近づく。「何をしている」アレンは器を示す。「配ってます。無臭の」兵は紙を顎で示す。「規定違反かもしれん」ディアスが半歩出て、視線を受け止める。「匂いは、ありません」もう一人の兵が、無言で欠片をひとつ取った。じっと見てから、舌にのせる。少しの間。「……遅い香りだな」アレンは肩をすくめる。「遅れてくるものは、止めにくいんです」兵は何も言わずに紙を
白い息が重なって、音が小さかった。市は広くて、人は多いのに、匂いが薄い。雪室から出された干物が台に並び、板の上で硬い音を立てる。「……音も、冷えてる」リオが指先をこすった。「火が遠いと、声も小さくなる」アレンは肩で息を吸う。ミナは手袋を外して、手をこすり合わせた。「あっためても、すぐ冷めるね」ディアスが風の向きを見て、「外れに炭の残り。風、避けられる」と短く示す。屋台の婆が笑って、魚の尻尾を指で弾いた。「凍ってるうちがいいのさ。匂わないだろ」ミナは言いかけて、唇の内側で止める。「……匂わないと、食べた感じが」アレンが穏やかに首を傾ける。「冷たさは、悪くない。けど、ずっと冷たいままは、もったいない」「こっちは手が冷えるのさ。触れないんだよ」婆は手を見せた。指の節が赤い。魚が一尾、ミナの前に置かれる。触れると、氷みたいな固さが掌に張りついてくる。ミナは小さく息を吐いた。「……逃げるね、温度」アレンがうなずく。「じゃあ、火は使わずに、手で渡そう」近くの桶に井戸水をもらう。灰塩をひとつまみ、広く薄く伸ばす。雪室の冷気が残る切り身を、その上に置いた。ミナは手を洗って、布でしっかり拭く。息を一度、静かに吐く。「手、冷たい。これで……あったかい味になる?」「なるよ。手って、渡す道だから」ミナは切り身を掌で包む。指の腹で、端を少し折り返す。握りこまない。押しつぶさない。手の温度がゆっくり移る。リオがのぞきこんで、一つつまんだ。「……香り、遅れてくる」ミナは目を丸くして、笑う。「ほんとだ。手の味、する」婆が鼻に手を当てて、「あんたの手、いい手だねぇ」子どもがそろりと近寄って、一口で噛む。「つめたい……でも、やわらかい」ミナは頬に手を当てた。「かたくないでしょ。手で、やわらかくしてるの」アレンは小声で、「火の代わりに、人がいる。……それで足りる」アレンは雪を浅くすくって、鉢に入れる。「冷たいほうで混ぜる」灰塩のだしを少し落とす。雪がきゅっと鳴る。ミナがその上に薄片を広げ、指で撫でるように整える。手が止まりそうになるたび、アレンが首だけで合図した。「止めないで。息も、味になる」「……うん」指の跡が残る。跡が残るほどに、色がやわらぐ。輪を作る。列にしない。腰を下ろして、ぐるりと回す。リオが一つ口にして、目を細めた
夕方の街道は、人の声が近いのに、鍋の声が薄かった。宿の軒先に大きく「無火料理」とある。土間は賑やか、灯はついている。けれど、湯気が泣かない。「“無火”って…生で出すの?」リオが看板を覗きこむ。「お腹、びっくりしないかな」ミナは小声で。アレンは鼻を少し上げて、空気を吸う。「びっくりの前に、まず匂い…しないな」土間の奥で、主人が胸を張った。煤けた前掛け、腕は太い。「火を使わないから、上品で、安全だよ。遠くの町でも、評判でね」皿が次々に出る。見栄えは良い。だが、一口のあと、舌の先が動かない。「舌、しびれてない?」リオが眉を寄せる。「…鼻、通らない」ミナはくしゃみの手前で止める。アレンは土間の鍋をちらと見て、「湯気が、泣かない。鍋、泣かせ直せば起きる」ディアスが小声で寄る。「土間、火はある。使ってないだけだ」娘が皿を下げに来た。手の先、爪の間に、薄い灰色の粉が残っている。アレンは声を柔らげる。「それ、渋い匂い。どこで振った?」娘は肩をすくめ、すぐ父のほうを見てから、小さく。「…少しだけ。旅人は香りが強いと怖がるからって…」主人が割って入る。「金は払ってくれる。文句は少ない。悪くないやり方だ」ディアスが一歩、二人の間に入る。「腹が減ってると、喧嘩になる。先に食わせてから話そう」主人は鼻で笑いかけたが、アレンが土間の大鍋を覗き込んで、底を木杓子で軽く叩くと、わずかな音が返る。「底、泣きっぱなし。弱くして、涙を甘くする」主人の目が一瞬だけ揺れた。主人は柄を離さない。「客は、これで金を――」木杓子が底で小さく鳴る。香りが一筋、立つ。主人の指が、ゆっくり力を抜く。「……任せる」* * *アレンは井戸の水を桶に取り、袋から灰塩をほんのひとつまみ落とす。高く振らない。水面の手前で止める。茶葉と刻み草を指先で揉む。苦みの筋を少しずらす。焚き口の火は最小。沸かさない。湯気の手前で止める。「冷たいの、かけるの?」ミナが首をかしげる。「熱い上に冷たいと、鼻が目を覚ます」アレンは割り麦の飯を土間のどんぶりに盛る。「起こし方、やさしいね」リオは手伝いながら笑う。アレンは、温かい飯に冷たいだしをすっとかけた。器から立つのは湯気ではなく、やわらかな息。冷たいだしが当たると、器の内側が白く曇った。茶葉が一度浮いて、ゆっくり沈む。仕上げに、
風が、薄かった。谷に入ると、音がすぐ弱くなる。共同井戸のまわりだけ、人の気配が集まっては散り、また戻ってくる。「……舌、しょぼんってする」ミナが井戸桶の水を少し舐めて、眉を寄せた。「塩、怒ってる?」リオが覗きこむ。井戸端に腰を下ろした老女が、ゆっくり桶の縁を撫でた。「怖いのは味じゃなくてね、思い出さ」老女が続けた。「涙の石は使うなって言う人もいるよ」アレンは静かにうなずく。「使わないと、ずっと泣いたままだから……少しだけ、起こすね」アレンは、素焼きの鉢を二つ取り出した。手を洗って、井戸水を静かに張る。「ここで一晩、おろす」ディアスが周囲を見回しながらうなずく。「見張りは交代でやる。……今のところ、静かだ」ミナが鉢のふちを見つめる。「これ、明日になったら、やさしくなるの?」アレンは灰袋を軽く叩き、口を指で摘んだまま笑った。「泣いてる水は、眠らせると落ち着く。……塩はそういうやつ」「ねぇそれ、焦げてる?」リオがアレンの小皿を指した。さっき試しに炙った麦のかけらが、縁で黒かった。「焦げてない……と思う」ミナが首をかしげる。「“少し焦げ”は、ごちそう側だよ」アレンが肩をすくめる。老女がくすりと笑った。「そりゃ頼もしいねぇ」* * *夕方、鉢は井戸小屋の陰に置かれた。周りで村の子どもが丸く座り、何度も中を覗く。アレンはその目線の高さにしゃがみ込む。「ここ、触っちゃだめ?」「触らないで“見る”のが仕事。……できる?」「できる!」いちばん小さな子が胸を張って、すぐに控えめになった。「たぶん」ディアスは離れたところに立ち、村境の道を見ている。「列を作りそうになったら、輪に戻すぞ」「うん。輪のほうが、腹が喧嘩しない」アレンが返し、少しだけ火の場所を整える。夜気は浅く、星の出る前に皆が解散した。「明日、上澄みだけ使う」老女が鉢のふちに布をかけて、「おやすみ」と手の甲で軽く叩いた。* * *朝。谷の空気はまだ重かったが、鉢の水はわずかに澄んで見えた。アレンはゆっくり上澄みをすくい、別の鉢へ移す。手首の動きは小さく、息は短く。灰袋からひとつまみ。高く振らず、湯気の手前にそっと落とす。水面が一度くもる。誰かの息が止まる。……すぐ澄んだ。ミナが鼻で探る。「……塩、泣いてる匂い」「泣いたぶん、やさしくなる」アレンは灰の沈