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血と束縛と의 모든 챕터: 챕터 1071 - 챕터 1080

1152 챕터

第30話(16)

**** テレビの画面を漫然と眺めていた和彦に、部屋に戻ってきた賢吾がおもしろがるように話しかけてくる。「先生はスポーツに興味がないタイプかと思ったが、野球が好きなのか?」 数瞬、なんのことかと思った和彦だが、賢吾とテレビの画面を交互に見て、ああ、と声を洩らした。テレビでちょうど流れているのは、プロ野球の結果だ。視線はテレビに向けていながら、内容が一切頭に入っていなかった。「そういうわけじゃ……」 ちょっと考え事をしていたと言いかけて、口ごもる。賢吾が向かいの座椅子に座ったので、和彦はテレビを消した。「どうした、先生?」 短く息を吸い込んでから、和彦は思いきって用件を切り出した。「――そろそろ、戻ろうと思っている。あっ……、あの、マンションの部屋のほうに」 賢吾は表情を変えなかったが、両目にいくらか鋭い光が宿ったように見えたのは、気のせいではないだろう。 賢吾の部屋で、二人で過ごすことに馴染み始めたところで、和彦がこんなことを言い出し、怒らせてしまったのだろうかと思ったが、次の賢吾の発言を聞き、そうではないと知る。「鷹津にたっぷり慰めてもらったあとだと、俺と一緒に過ごすのが心苦しくなってきたか?」 和彦は咄嗟に返事ができなかった。このとき胸を過ぎったのは、賢吾に対する後ろめたさと恐怖だ。 目に見えて和彦の顔色が変わったのだろう。賢吾は軽く息を吐き出すと、自分の傍らを手で示す。その動作の意味を察し、和彦はのろのろと賢吾の隣へと移動した。 賢吾の片手が伸ばされ、ビクリと身を竦める。もちろん、賢吾が暴力を振るうはずもなく、優しく髪を撫でられた和彦は、視線を伏せつつ問いかけた。「怒ったのか?」「先に質問したのは、俺だと思うが」 賢吾の口調は柔らかだが、ちらりと視線を上げた和彦は、寒気を感じた。賢吾は、無表情だった。こういうときの賢吾は、和彦の心の奥底まで容赦なく浚い、本音を引き出そうとしてくる。 和彦と男たちの奔放な関係に賢吾が寛容なのは、いざという
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第30話(17)

「あいつは番犬どころか、今じゃ先生の騎士気取りかもな。自分が犬であることを忘れたんだ。それもこれも先生が、鷹津を甘やかすからだ。躾もせず、ちょっとしたお使い仕事をこなすだけで、美味い餌をたっぷり与えて……。甘やかすだけじゃ狂犬は、単なる駄犬になる」 賢吾の口調が暗い凄みを帯びる。その迫力に圧された和彦は、知らず知らずのうちに体を後ろに引きそうになったが、賢吾に強く指を掴まれて、首を竦める。「痛っ」「――そろそろ鷹津を、適度に距離を置いて飼う時期になったのかもな。刑事であるあいつ自身にとっても、それがいいと思わないか?」 底冷えするような冷徹な眼差しを向けられて、和彦は返事ができなかった。迂闊な返事をしてしまえば、賢吾が鷹津をどうにかしてしまいそうな、そんな危機感が芽生えていた。 和彦が顔を強張らせると、賢吾は苦笑を浮かべて手の力を抜く。和彦は素早く指を抜き取ると、急いで立ち上がる。「少し、中庭で風に当たってくる」 賢吾の顔も見ないでそう言い置き、部屋を出ようとすると、冗談交じりの言葉を背後からかけられた。「この歳で、色恋で嫉妬することになるとは、思いもしなかった。――嫉妬深い男は嫌いか、先生?」 和彦は何も言わず、振り返りもせずに部屋を出る。自分でも戸惑うほど、賢吾の言葉に動揺していた。賢吾の目に、鷹津の存在がそんなふうに見えていたことにも驚いたが、鷹津の身を心底心配している自分自身に、気づいたからだ。 鷹津の存在が自分の中で変わりつつある。足早に廊下を歩きながら、和彦は無意識のうちに胸に手をやろうとして、寸前のところで我に返る。 今それを確認するのは、この家ではあまりに危険すぎた。 ここは、物騒な大蛇の住処なのだ――。**** 最後まで残っていたスタッフを見送った和彦は、いつもより時間をかけて日常業務を終え、パソコンの電源を落としてしまうと、所在なくクリニック内を歩いて回る。目についたところの掃除でも、と思ったが、ここで働いているスタッフたちは有能で、まじめだ。どこも手を抜いた様子がない。 仕方なく
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第30話(18)

 和彦を案内した男が声をかけ、スッと襖を開ける。座椅子についた守光と目が合い、穏やかに微笑みかけられた。和彦もぎこちなく微笑み返す。「しっかり働いたあとだと、腹も減っただろう。すぐに料理を運ばせよう」 和彦が向かいに座ると同時に、守光がそう切り出す。和彦は、お茶と一緒に運ばれてきたおしぼりで手を拭きながら、改めて守光を見つめる。今晩はすでに総和会会長としての仕事を終えているのか、ノーネクタイ姿だった。 和彦の視線に気づいたのか、守光は自分の格好を見下ろしてから、こう言った。「あんたが相手だと、体面を取り繕う必要もない。もしかすると普段から、大物ぶった格好をしているとか、年甲斐のない格好をしているとか思われているのかもしれんが」「いえっ、そんなことっ……」 わかっている、と言って、守光が笑う。「今のような立場にいると、相手の目にどう映るのが効果的か、そういう賢しいことでも神経を使う。大なり小なり、この世界で生きている人間は、そういうものだ。己の存在を軽んじられるのは、何よりの侮辱だということだ」 肩書きは医者である和彦にこういうことを説くのは、そういう人間になれというわけではなく、関わりを持つ男たちがどういう生き物なのか、理解しておけということだろう。その関わりを持つ男たちの中には当然、守光自身も含まれている。 他愛ない会話を交わしている間に、料理が運ばれてきて目の前に並ぶ。ここで意外に感じたが、今晩は酒は用意されておらず、守光はお茶で口を湿らせた。和彦には、グラスワインが。あまり細かいことを指摘するのも不躾に思え、和彦は口当たりの軽いワインを一口飲む。 和やかな雰囲気のまま食事は始まった。守光に呼ばれた理由を、最初はあれこれと推測していた和彦だが、料理の一品一品を満足げに味わう守光につられて、食事に集中する。確かに、働いたあとだけに空腹だったのだ。「本宅では、しっかりと美味いものを食わせてもらっているかね?」 揚げ物をすべて食べ終えた和彦に、守光がそう問いかけてくる。美味しいものを食べてすっかり気分が解れた和彦は、笑みをこぼして頷く。「はい。すっかりぼくが好きな味を把握されたみた
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第30話(19)

 忘れたことはなかった。英俊と会うことに神経をすり減らしながらも、常に頭の片隅にあった件だ。このままなかったことにならないだろうかと、願わなかったといえばウソになるが、巨大な組織を背負う者に、そんな甘さがあるはずもない。和彦の状態が落ち着くのを待っていたということは、虎視淡々と機会をうかがっていたのだ。「重責を背負わされるとは考えんでほしい。クリニックはあくまで、総和会における佐伯和彦という人物の地位を示すためのものだ。極道であれば、肩書きを与えて、組を持たせて、とやりようがあるが、あんたは違う。極道ではないからこそ、価値がある。いや、佐伯和彦であるからこそ、〈我々〉はあんたを大事にしたい」「ぼくに、そこまでの価値は――」「三世代の長嶺の男に想われているというだけで、十分価値はある。他の男たちにとっても。手間と金をかけて、あんたにクリニックを持たせるということは、要は檻だ。あんたを逃がさんためではなく、守るための」 これは、長嶺の男特有の詭弁だ。だが、理性を揺さぶるだけの熱意も甘美さもあった。禍々しい狐を背負った男の言うことは、どこに真意があるのかまったく読めないが、すべてがウソというわけではないだろう。和彦を必要として、逃すまいとしている。この物騒な世界から、とっくに逃げられなくなっている和彦を。 自分の存在に価値を見出してくれるのはありがたいが、反面、医者としての腕や経験が未熟であるという現実が、肩に重くのしかかってくる。 堪らず、苦しい胸の内を気持ちを吐露していた。「ぼくは、自分を知っているつもりです。医者として、何もかも不足しているんです。毎回、患者がいると連絡が入るたびに、自分の手に負えられる状態であってほしいと、祈っています。腕がいいからじゃない。使い勝手がいいから、必要とされていることは、よくわかっています。それでも……患者を助けられたときは、普通の医者のような喜びを味わえるんです。だから、仕事をこなせてきた」 話しながら和彦は、前髪に指を差し込む。「これ以上のプレッシャーを抱えると、きっとぼくの頭も気持ちも容量がいっぱいになります。前にしていただいたお話は覚えています。最低限の必要な手続きをして、ときどき業務に
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第30話(20)

 守光の言葉に潜む凄みに、和彦は静かに気圧されていた。言おうとしていることはわかるし、これまでこなしてきた仕事の中で、この世界特有の考え方は少しずつ和彦に染み込んできた。しかし守光は、さらに踏み込んでくる。 今いる世界で和彦は、長嶺の男たちの〈オンナ〉であることが大きな比重を占めてきた。しかし守光の申し出を受けることで、その比重が変わる。「知らず知らずのうちに、あんたには身についたはずだ。腹に呑み込む、ということが。組のために、男のために、何かしら呑み込んできただろう。これからは、医者として、あんたが呑み込むものは増えてくる。単なる医者ではなく、組織に必要とされる医者としてだ」 あんたならできる、と賢吾によく似た声が力強く言い切る。 強い拒否感と、逃げ出したい気持ちと、それすら凌駕する、見えない圧倒的な力に気持ちを押さえつけられる感覚に、和彦は眩暈に襲われる。 たまらず目を閉じると、じわじわと体内に満ちていくものがあった。強い男に求められているという、奇妙な安堵感だった。**** すっかり様子が変わった店内を見回した和彦は、所在なくその場に立ち尽くし、少し戸惑う。 男の自分が来ていい場所なのだろうかと、いまさらながら思ったのだ。 気を利かせた従業員がすぐに動き、和彦をこの場に招いた当人を呼んでくる。開店準備のため、忙しく立ち働いている従業員――ホストたちの誰よりも、華やかな雰囲気と美貌を持つ男は、和彦を見るなり、艶やかな笑みを浮かべた。こんな笑みを向けられては女性客はたまらないだろうが、残念なことに、秦がホストとして接客することはない。特別な場合を除いて。「いらっしゃいませ」 秦からそう声をかけられ、和彦は苦笑で返す。「別にぼくは、ホスト遊びがしたくて来たわけじゃないんだが」「お望みなら、店の者をつけますよ」「それでぼくがハマったら、君はいろいろ困るんじゃないか」 和彦がそう返すと、秦は芝居がかった仕種であごに指を当て、何か思案するような顔をする。「それもそうですね……。大事な先生に悪い遊
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第30話(21)

「先生は、王様のように振る舞ってください。なんといっても、わたしの友人でもあるし、命の恩人でもありますから。それにこの間は、わたしの事情で迷惑をかけてしまいましたしね」 ソファに腰掛けた和彦は淡い笑みで返し、斜め向かいに座った秦に水割りを作ってもらう。「――いろいろと大変だったようですね」 和彦がグラスに口をつけるのを待ってから、秦がそう切り出してくる。一人だけ飲むのは気が引けるが、秦が新たなグラスに氷を入れるのを見て、和彦は安心して会話を始める。「いろいろありすぎた。……一つ片付いたと思ったら、次が。そして、それが片付かないうちに、次、次――」「先生はいつでも、波瀾万丈だ」 自分の分の水割りを作った秦が、意味ありげな流し目を寄越してくる。「……他人事のような顔をしているが、ぼくは君のせいで、大変な目に遭ったことがあるんだからな」「それでも先生は、わたしとこうして会ってくれる。その寛容さが、先生の日常がにぎやかになる原因の一つだと思いますね」 物は言いようだと、苦い顔をした和彦は、ナッツを口に放り込む。すると、すぐ隣に移動してきた秦に片手を取られた。ドキリとした和彦は咄嗟に手を引こうとしたが、予想外の力強さで阻まれる。それ以上の抵抗はできなかった。そんな和彦に対して、秦は満足げに頷く。「寛容ではなく、甘い、ですね。先生の場合は」「自覚はあるんだ。それにもう一つ、〈こっち〉の世界に引きずり込まれてから、他人を拒むことが怖くなった。周りは、腹の内が読めなくて、ぼくなんて簡単に押さえ込める怖い男ばかりだ。機嫌を損ねることを、無意識のうちに恐れているんだ」「でも、先生に対して優しい男ばかりでしょう」 わたしも含めて、とヌケヌケと言えてしまうのが、秦という男だろう。声を上げて笑っていた和彦だが、すぐに真顔に戻ると、ぽつりと洩らす。「だからこそ、怖い。無条件の優しさなんてないとわかっているんだ。この世界でぼくは使い勝手のいい医者で、オンナだ。もし、男たちの期待を裏切ることになったら――」 賢吾は気軽に、もっと傲慢になれと言うが、それは、物騒
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第30話(22)

「実は自分の人生について考えるのは、苦手だ。医者になるまで、親に命じられるままの進路を選んできたせいで、心のどこかで、自分の人生は自分のものではないと思っていたのかもしれない。……今も、似たようなものなのかもな」 気持ちが塞ぎ込んできている証か、そんな自虐的な言葉が口をついて出る。男たちの求めによって、自分の進むべき道は決められていくという危惧もあった。賢吾と関係を持った時点で、そんなことはわかりきっていたはずなのだが、守光から決断を迫られて、先の見えない道が新たに現れたような心境だ。 和彦がふっとため息をついた瞬間、まるで甘い毒を吹き込むように秦が言った。「――だったら、逃げ出してみますか。新しい人生へと」 いつもよりアルコールの巡りがよくなっているのか、和彦の思考は少し緩慢になっていた。ゆっくりと瞬きを数回繰り返してから、秦をまじまじと見つめる。「えっ?」 ここまで穏やかに微笑んでいた艶やかな美貌の男が、表情を一変させる。鮮烈な鋭さが潜んだ眼差しで、じっと和彦の目を覗き込んできた。「わたしと先生は、似ていますよ。権力のある家に生まれ、抗えないままに進む道を決められて、思いがけない事情によって一見順風満帆な人生が一変する。そして、したたかに生き抜く術を身につけた」「……そんなふうに言われると、確かに」「わたしと似ているから、わかるんです。先生はきっと――」 秦の話に危うく引き込まれかけた和彦だが、ホストと客たちの一際盛り上がった声が聞こえてきて、我に返る。秦の眼差しがふっと和らぎ、和彦もソファに座り直してから、簡潔に答えた。「逃げるなんて、ありえない。……というより、あの男たちから逃げられるとは、思えない」「まあ、そうでしょうね」 あっさりと秦に肯定され、失笑を洩らした和彦だが、きっと本気ではなかったのだろうと思いつつ、質問をぶつけてみた。「ぼくを唆そうとしていたが、君は何か考えがあるのか?」「おや、やっぱり興味がありますか」 賢吾に報告するつもりなのではないかと警戒しながら、和彦はぼそ
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第30話(23)

**** 何日ぶりかに自宅マンションに戻った和彦は、バッグを運んできてくれた組員が帰るのを見届けてから、ゆっくりと肩から力を抜く。 自分以外の気配がないことを確認して、やっと一人になれたのだと思った。 和彦はジャケットを脱ぐと、とりあえずバッグをクローゼットに押し込む。着替えを仕舞うのは、何も今しなくてはならない仕事ではない。 キッチンでオレンジジュースを飲んでから、携帯電話を片手に寝室へと向かう。夜景を眺める気力もなく、素早くカーテンを閉めると、和彦は身を投げ出すようにしてベッドに横になった。 持て余すほど広いベッドで手足を伸ばしてから、ほっと息を吐き出す。さっさと入浴を済ませてしまおうと思いながらも、どうせ自分一人なのだから、どう時間を使おうが自由だとも思ってしまう。「……本当に、静かだ……」 本宅での、絶えず人の気配が感じられた空間を思い返して、和彦はぽつりと呟く。自覚もないまま、他人と同じ部屋で過ごすことに馴染んでいたらしく、こうして一人でいることに多少の違和感があった。 もっともこの感覚は、すぐに消えてしまうのだろうが――。 枕元に放り出した携帯電話が鳴る。どうやら、和彦を送り届けた組員が、本宅への報告を終えたようだ。 和彦は、相手が誰かわかったうえで電話に出た。「――ぼくが、すぐに部屋を抜け出すとでも思ったのか?」 前置きもなしに淡々とした声で告げると、電話の相手が微かに笑った気配が伝わってきた。『そう、ツンツンするな、先生。この何日か、先生とまともに会話を交わしていなかったから、こうして電話をかけたんだ。顔を合わせていなければ、多少は言いたいことが言えるだろう』「別に……、言いたいことはない。こうしてマンションに戻ってきたし、あんたはそれを引き留めなかった。だから、何も……」『話しかけるなと言わんばかりの、不機嫌そうな顔をしていたんだ。そんな先生に、本宅で生活を続けろなんて無体は言えねーな』 怒っ
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第30話(24)

 普段は車では通らない道をあえて選んで、ゆっくりと歩きながら、辺りを見回す。基本的に、和彦がマンションの周囲を歩くときは、せいぜいがコンビニに出かけるぐらいなのだ。そのため、ここで暮らし始めて一年ほどになるというのに、いまだに地理には疎い。 詳しくなったところで、いつまでここにいられるかわからないが――。 無意識に、そんな自虐的なことを考えた和彦は、小さく身震いする。この瞬間、ひどく不吉なものが自分の中を駆け抜けた気がしたのだ。 わずかに歩調を速めて歩いていると、細い脇道に気づく。きれいにレンガが敷き詰められた道で、なんとなく興味を引かれた。まさか、こんなところで迷子になったりはしないだろうと思いながら、誘われるようにその道に入る。 最初は、コンクリートの壁に左右を挟まれた、おもしろ味のない道だと感じていたが、数分も歩くと様子が変わった。 和彦は、差していた傘をくるんと回す。青の色合いが鮮やかな紫陽花が、レンガ道の傍らを彩っていた。降り続ける雨を受け、風情が増している。 人が通りかからないのをいいことに、和彦はしばらくその場に立ち尽くし、紫陽花に見入っていた。車のエンジン音すら届かない場所に、雨音と、雨粒が傘にぶつかる音だけが響き、それが耳に心地いい。錯覚なのかもしれないが、ここのところ胸の奥にこびりついている重苦しい感情が、少しだけ洗われていくようだ。 ふと、感じるものがあった和彦は、わずかに傘を動かす。いつの間にか背後に、誰かが立っていた。スラックスを穿いた足元しか見えないが、それだけで和彦には十分だ。 唇を引き結びはしたものの、黙ってはいられず、結局口を開いた。「――……組長に、放っておいてくれって言っておいたのに……」「そうなのか。俺は何も言われなかった」 雨音に慣れた耳に、深みのあるハスキーな声がしっとりと馴染む。和彦は、隣にやってきた声の主をちらりと見た。三田村は、紫陽花になど興味ないとばかりに、まっすぐ和彦を見つめ返してきた。その眼差しを受けただけで、頬が熱を持つ。「護衛の人間に頼んでおいたんだ。先生の行動で気になることがあったら、連絡してほしいと」
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第30話(25)

「そんな顔をしないでくれ。前に総和会の別荘で言った通り、先生が誰と寝ようが、情を交わそうが、俺は大丈夫だ。俺は別に、人がいいわけでも、物わかりがいいわけでもなく、先生をこの世界に繋ぎとめておく鎖でいるからこそ、堂々としていられるんだ。そういう事情がなきゃ、ただの狭量でつまらない男だ」「ぼくの〈オトコ〉に、ひどい言いようだな」 和彦がちらりと笑い返すと、三田村は目元を和らげる。ヤクザとは思えない表情だが、自分に対してだけなのだと思うと、現金なもので、誇らしい気持ちになる。 来た道を引き返そうとすると、三田村がすぐ背後をついて歩く。狭い道なので、並んで歩くと傘がぶつかるのだ。「組長に試されていると思うんだ。寛容な男を装って、実は嫉妬深い組長は、ぼくの反応をうかがっていた。……きっと、ぼくが動揺するとわかっていた」 歩きながら和彦が話しても、背後から返事はない。三田村としては、賢吾の批判とも取れる内容に、迂闊に相槌も打てないだろう。和彦以外、聞いていないというのに。「……鷹津のこと、組長に交渉しないといけないだろうな。ぼくはあの男と寝てはいるけど、情に溺れているからじゃない。実家のことを探ってもらうのに、組の人間は使いたくないんだ。ぼくが気兼ねなく使えるのは、あの男だけだから」「先生は甘くて優しい人間だが、情だけじゃ絶対溶かせない、氷の部分を持っているようだ。それが嫌だというんじゃなく、むしろその部分が――男を惹きつける。先生みたいな人に手酷く扱われたいと、妙な考えを起こさせるんだ」「ぼくは、自分が甘い人間だと思うことはあっても、優しい人間だと思ったことは、一度もない。そんなぼくを優しいと感じる男たちが、ぼくは怖い」 だが、その男たちが、和彦を大事に守ってくれてもいる。離れようにも、もう離れられない存在なのだ。 細いレンガ道を出た和彦は、三田村を振り返る。優しい声で話し続けていた三田村だが、表情は険しかった。鷹津の存在を危惧していたのか、和彦がこの物騒な世界から逃げ出したいと、頭の片隅でわずかでも考えたことを感じ取ったのか。 和彦は、三田村がときおり見せる激しさや鋭さが、愛しかった
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