LOGIN「……いえ、そんなことは……」
まさか今の和彦の生活ぶりについてまで、光希に報告しているとは思えないが、受け答えは慎重になる。「でも、経営者には向いてそう。この人のために尽くしたいと思わせるタイプ。うちのおじいちゃんがそれよ。物腰が柔らかくて、偉ぶってなくて。そのせいで、どこか頼りないと陰口を叩かれることもあったそうだけど、大半の人は、盛り立ててあげないと、って気持ちになるみたい。もう昔のようにバリバリと仕事をする立場じゃないけど、でも、人たらしぶりは健在。いまだに〈お友達〉が多いみたい」 わたしね、と光希が続ける。「おじいちゃんと同じ種類の人と、最近出会ったの。誰だかわかる?」 話を聞いていて、ある人物の顔が脳裏に浮かんでいた和彦は、光希の反応を探りながら答えた。「――もしかして、ぼくたちの父、ですか」「素敵なおじさま。官僚として優秀なのににこやかで優しくて、しかもあんなに眉目秀麗。いろいろな方面から話を聞いたけど、あなたのお父様を悪く言う「……医者にしたいと、母が先に言っていたようです」『母』という呼び方が、どうしてもしっくりこない。戸籍上の母親である綾香に対しても、『母さん』と呼ぶことに、和彦はずっと引け目のような感情を抱き続けていたぐらいだ。和彦にとって母親とは、手を伸ばしても届かない幻のような存在なのだ。そのため思慕の念を抱くのは難しい。 堪らず、総子にこう訴えていた。「あの、母を名前で呼んでもいいですか? 頭ではわかっているんですが、まだ混乱していて……。ぼくを産んでくれた人は、ずっと前に亡くなったと聞かされていたし、記憶からも抜け落ちているんです。それが、ここにきて急に、存在がはっきりとした輪郭を持ち始めて、なんだか――」 怖い。知りたいはずなのに、知ることが怖いのだ。そこには、自分がいままでとは違う生き物になってしまいそうな危惧も含まれる。「呼びたいようにお呼びなさい。母と呼ぶことに抵抗があるのなら、それは仕方のないことで、あなたは悪くありません」 ただ、と総子が続ける。「紗香が、本当にあなたの誕生を望んでいたことだけは、知っていてほしいのです。あの子なりに必死に考えて、足掻いた結果だとしても」「父も、同じ気持ちだったと思いますか?」 総子が一息つき、湯飲みを口元に運ぶ。和彦はじっとその行動を見守っていた。 どんな返事があったとしても受け止めるつもりだったが、総子が口にしたのは意外なことだった。「わたしは本当は、あなたは俊哉さんの血を引いていないのではないかと思っています」 和彦は、自分でも不思議なほど冷静だった。実の母親に殺されたかけたと告げられただけで、十分すぎるほど衝撃を受け、まだ気持ちが持ち直していないところにこの言葉だ。もう、どう驚いていいか自分でもわからなくなっていた。「さっき言われた、母の……、紗香さんの前に現れた男性、ですか?」「紗香は、俊哉さんとの子だといい、俊哉さんも、それを認めた。だけど当時、紗香が想いを寄せていたのは――」 当時医学部に通う学生だったと総子は言った。学生の父親が、正時たちの働きかけに
和彦は、総子の発言をすぐには理解できなかった。数瞬、呼吸すら忘れる。「ぼく、が……」 総子に手を取られてなんとか部屋に入る。ぎこちなく座布団に腰を下ろして愕然としている間に、君代がやってきて静かに二人分のお茶を出すと、すぐに部屋を出て行った。 それを待って総子が再び語り出す。「紗香が当時、精神的に不安定だったというのは、言い訳にはならないでしょう。ただ、それが原因で善悪の区別がつかなくなり、母親としての本能が暴走したと、考えています。親としては、そう願わずにはいられなかった」「……ぼくは、生まれてすぐに、佐伯家に引き取られたと聞いています。それがどうして、母が、そんな――」 ここで和彦は、俊哉から言われたことを思い出す。「父に言われました。ぼくが、短い間一度だけ、母と暮らしたことがあると。そのときに、何かあったんですか?」「『暮らした』というのは、俊哉さんにしては、婉曲な表現ね」 総子の口調がわずかに皮肉げだったのは、気のせいではないだろう。「まずは、紗香について話しましょうか。その様子だと、あまり教えてもらってはいないのでしょう?」「どういう人だったかということは、ほとんど何も……」 わずかに教えられたのは、奔放で、火のように激しい気性の持ち主だったことぐらいだが、次の総子の言葉を聞いて、和彦は目を丸くした。「――子供の頃からおとなしくて、手がかからない子でした。あまり自己主張もせず、親に逆らうこともなく……。綾香とは対照的な姉妹でしたよ。外に出て自立して、自分で見つけた相手と結婚した綾香の代わりに、婿を取って、この家を守っていくとも言ってくれて」「婿?」「紗香には婚約者がいました。和泉家と古いつき合いのある家の次男で、子供の頃からお互いを知っているという安心感もあって、あとはいつ式を挙げるかという話にまでなっていました。でも、そんな紗香の前に現れた男性がいた」「ぼくの父、ですか?」「いいえ」 えっ、と声を洩らした和彦の顔を、総子はし
「……ずいぶん、静かですね」「大勢の人が出入りしていたのは、十年以上も前の話です。今は、商売を畳んだり、この辺りのいくつかの田畑以外は、貸し出すか、処分しましたから。あとの世代に苦労と面倒を背負わせたくないというのが、わたしと主人の考えです」 途中、総子に言われて洗面所に立ち寄り、丹念に手を洗う。ガラス戸の部屋の前で差し出されたマスクをしてから、ようやく和彦は祖父である正時との対面を果たすことができた。 ベッドに横たわる正時は酸素マスクをつけており、深くゆったりとした呼吸を繰り返していた。眠っているかと思ったが、和彦たちの気配を感じ取ったように目を開く。総子が顔を寄せて告げた。「和彦さんが来てくれましたよ」 意識ははっきりしているようで、正時の視線は迷うことなく和彦に向けられ、表情が和らぐ。何か言おうと正時は唇を動かしたが、すぐに咳き込み、代わって片手を布団の下から出した。意図を察し、和彦は痩せた手を握り締める。ドキリとするほど熱く、かかりつけ医を呼んだのはこの熱が理由なのかもしれない。「和彦です。顔を出すのが遅くなりました」 よく来てくれたと、咳が落ち着いてから、絞り出すような声で正時が言う。勘違いなどでなく、総子同様、和彦の訪問を歓迎してくれているのだ。 傍らの総子を見遣ると、嬉しそうに笑みを湛えている。正時はまだ話したそうにしていたが、宥めるように総子が言葉をかける。「熱が下がってから、思う存分話してください。和彦さん、ゆっくりしてくれるそうですよ」 一瞬視線が泳いだ和彦だが、すぐに頷く。この場で否定できるはずもなかった。なんにしても、今日は泊めてもらうことになる。 明日の予定は、明日考える。 短い対面を終え、最初に通された部屋に戻りながら総子が教えてくれた。「心臓が、だいぶ弱っているんです。年齢が年齢ですから、仕方がないんでしょうけど。――この家に婿に入ってくれてから、とにかく一生懸命働いてくれた人で、いい歳になったら、さっさと隠居して二人でのんびりしましょうねと話していました。でもお互いの性分で、それが無理で……。娘の一人を亡く
ボストンバッグとコートを女性に預けてから、部屋に入る。座卓についた高齢の女性がじっと和彦を見つめていた。着物姿だからというだけではないだろう。凛然とした佇まいに和彦は気圧され、緊張すら一瞬忘れてしまう。 声が出ない和彦に対して、高齢の女性は穏やかな笑みを口元に湛えると、座布団を外して畳の上に正座し直す。そして、深々と頭を下げた。「――お帰りなさい。和彦さん」 まさか、仰々しい挨拶で出迎えられるとは想像していなかった和彦は、慌ててその場で正座して、同じく頭を下げる。「長らくご無沙汰しておりまして、申し訳ありません」「あなたが謝ることではありません。むしろ悪いのは……」 ここで一旦言葉が途切れたあと、頭を上げるよう言われて従った。改めて向き合うと、にっこりと笑いかけられる。こんな表情を目にしてしまうと、勘違いしそうだった。 自分は、和泉家に歓迎されていると――。「あの……、おばあ様、と呼んでも、いいですか?」「小さい頃のように、〈ばあちゃま〉でもかまいませんよ」 和彦が曖昧な表情を浮かべると、祖母である和泉総子はわずかに顔を伏せた。このとき、肩の上で切り揃えられた白髪がさらりと揺れる。「やっぱり、覚えていませんか」「すみません……」「あなたは悪くありません。悪いのは、わたしたちです。……佐伯の家では、ずいぶん肩身の狭い思いをしてきたでしょう。あの娘は、気位が高いうえに、強情なところがありますから。紗香の子に冷たく接しているのではないか、ずっとそのことが気がかりでした」 総子は、和彦が置かれていた環境をどこまで把握しているのか。それを問おうと口を開きかけたとき、板戸の向こうからさきほどの女性が呼びかけてきた。それを受けて総子が立ち上がる。「込み入った話を始める前に、まずは〈じいちゃま〉に顔を見せてあげてください。ずいぶん楽しみにしていたのですよ。うちの人は特に、あなたを可愛がっていたから」『可愛がっていた』という言葉に、和彦は不思議な感覚に陥る。
「あのっ――」 和彦が石階段を駆け下りるより先に、車は走り去ってしまう。 少しの間、その場に立ち尽くしていたが、いつまでもそうしているわけにもいかず、インターホンを鳴らす。応じたのは元気な女性の声だった。名乗ると、数秒の間のあと、慌てた口調ですぐに迎えに出ると言われる。 その言葉通り、パタパタと走ってくる足音が聞こえてきて、門が開く。出迎えてくれたのは、割烹着姿の中年女性だった。 「寒い中、お待たせしましたっ。どうぞお入りください」 大きな声に面食らった和彦だが、満面の笑顔を向けられて、門を潜る。 まず驚いたのは、目を瞠る敷地の広大さだった。土塀に囲まれてはいても閉塞感が一切ないのは、露地から見渡せる景色のよさのおかげだろう。 寄棟屋根の大きな平屋が母屋で、渡り廊下で別棟が繋がっている。さらに、ざっと確認できただけでも、白壁の土蔵が三つ、納屋らしき建物もある。広々とした庭の先にはなだらかな坂道があり、そこから山へと上がれるようだ。ただ、ここからの位置では、和泉家の全容を見ることはできない。 一つの集落がすっぽりと収まっているみたいだなと、観光地を訪れたような感想を抱きつつ、和彦は玄関に入る。 廊下を歩いていた白猫といきなり目が合った。さらに、下駄箱の上にはトラ猫が。見知らぬ他人がやってきたというのに警戒する様子もなく、香箱座りで寛いでいる。 「このお家、猫が多いんですよ。あっ、猫は大丈夫ですか?」 靴を脱いだ和彦はスリッパに履き替えながら、表情を緩める。 「はい。飼ったことはありませんが、好き、です……」 「昔は、外飼いがほとんどだったんですよ。お米とか蔵に保管してあって、ネズミ駆除のために。でも今は、その必要もなくなったんですけど、不思議と猫が居ついちゃうんですよ。旦那様も奥様も、寂しくなくていいからっておっしゃって、みんな引き取られて」 肉付きも毛並みもいい猫たちは、ずいぶん可愛がられているようだ。和彦はトラ猫に触れてみたかったが、機嫌を損ねるのを恐れてやめておく。 案内されて廊下を歩いていると、夕食の準備をしているのか、いい匂いが漂ってくる。医者の往診を頼む事態が起こったにしては、張り
「あ、の……」 戸惑う和彦に対して、男性は取り繕うように笑いかけてきた。「ああ、ごめんなさい。昔の知人によく似ていたものだから、もしかして身内の方なのかと思って」 雰囲気そのままに、口調も柔らかだった。和彦は数回目を瞬いたあと、いまさらながら、ここは〈母親〉の生まれ育った地なのだと実感する。しかも、実家の前だ。いくらなんでも誤魔化すのは無理がある。「……この家の主の孫、です」 やっぱり、と洩らした男性は、ふっと笑みを消すと、気遣わしげな視線を門の向こうへと投げかけた。それだけで、和彦も不穏な気配を感じ取る。 病院が休みであるはずの三が日に、往診を頼むぐらいだ。誰かに、何かが起こったのだ。 本当に自分はこの地を訪れてよかったのだろうかという思いは、移動中ずっと胸を塞いでいた。そして今、和彦の中に過ったのは、自分は疫病神なのではないかという考えだ。「ご高齢だからね。少しでも体調で気になることがあれば、いつでもお呼びくださいとお願いしているんだよ。杞憂で済めばそれでいいし、万が一にも何かあれば、すぐに大きな病院への入院の手続きができる。今回は、杞憂のほうだ」「そう、ですか……」「去年からずっと、お孫さんと会えるのを楽しみにされていたんだ。少し興奮したのかもしれないと、ご本人は笑っていらっしゃったよ」 ここで車のクラクションが短く鳴らされる。看護師の女性が運転席から身を乗り出して、こちらを見ている。「ああ、いけない。これから、新年の集まりにお呼ばれしているんだ」 そう言って男性は車に駆け寄ろうとしたが、ふいに立ち止まって和彦を振り返る。さきほどまでとは一変して、真剣な顔をしていた。「一つ、不躾な質問をしていいかな?」「えっ」「――君の年齢が知りたい」 なぜ、と思わなくもなかったが、男性が和泉家から出てきた医者ということもあり、和彦は素直に答える。「来月で、三十二になります……」「三十二……。そうか、君が――