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第24話(24)

「……ヤクザの組長が、ずいぶん可愛いことを言うんだな」 さらりと軽口で応じた和彦を、なぜか賢吾がまじまじと凝視してくる。機嫌を損ねたかと一瞬緊張したが、どうやらそうではないようだ。「俺相手に『可愛い』なんて単語を使うのは、先生ぐらいのものだろうな。オヤジですら、言ってくれたことはないぞ」「言ってもらいたかったのか……」 賢吾は唇の端に微苦笑らしきものを刻み、わざわざ後部座席のドアを開けてくれる。おとなしく乗り込んだ和彦だが、車が走り出した方向を確認してから、たまらず賢吾に問いかけた。「次は、どこに行くんだ?」「ついてからのお楽しみだ」「帰りが遅くなるんじゃ――」「先生は何も心配しなくていい」 別に心配はしていない、と心の中で応じた和彦は、ウィンドーの向こうを流れる景色に目を向ける。 夕方になり、少しずつ気温が下がってきたが、車内はほどよく暖房が効き、しかも食後だ。歩き回ったことによる軽い疲労感もあり、急速に眠気に襲われる。賢吾の視線を気にかけつつも、外の景色を眺めるふりをして目を閉じていた。 ただ、なんとなく落ち着かない。車内で男たちがどんな会話を交わすのか、どんな道を走っているのか、神経の一部を尖らせて探る。裏の世界に引き込まれる前から、自分はこんな癖を持っていたのか、もう和彦は思い出すことはできない。なんのためにこんなことをしているのかすら、実は和彦自身わかっていないのだ。 いまさら賢吾が、和彦をどこかに連れ去るはずもないのに。 そう思いながらも、車が、坂とカーブの多い道に差しかかったのを感じ、一体どこに向かっているのだろうかと、さすがに不安になってくる。 とうとう和彦はゆっくりと目を開け、思いがけない周囲の暗さに驚く。軽くウトウトしたつもりだが、時間の感覚が麻痺する程度には寝入ってしまったらしい。完全に日が落ちていた。 外を見ようとシートに座り直すと、賢吾に声をかけられた。「気持ちよさそうに寝ていたな、先生」「……目を閉じていただけだ」「寝息が聞こえたと思った
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第24話(25)

 息を呑んだ和彦は、桜の花に一瞬にして魅入られる。無意識のうちに賢吾の腕にきつくしがみついていた。「この辺りは、今が満開の時期だ。だから連れてきた」「わざわざ?」 ほっと息を吐き出して和彦が問いかけると、賢吾も桜の木を見上げながら和らいだ表情となる。「――花見がしたかったんだ。先生と二人きりで。もっとも先生のほうは、とっくに桜は見飽きたかもしれないけどな」「そんなことは……ない。この何日かで見た桜は、全部印象が違うんだ」「こんな辺ぴな場所に、人が桜を見にやってくるのは、理由がある。特別な桜があるんだ。その桜が人を呼び寄せるようになって、いつの間にか他の桜が植えられて、こんなふうになったらしい」 話しながら歩いているうちに、鮮やかなピンク色の花をつけた桜の木が目に飛び込んでくる。他の木とは種類が違うのは、一目瞭然だった。 古くて大きな木から伸びた枝は、満開の花をつけて重そうに垂れている。さほど植物に詳しくない和彦でも、すぐにこの名が口を突いて出た。「……しだれ桜?」「そうだ。樹齢は確か、軽く三百年は超えているはずだ。まあ、立派なもんだ。古いくせに、どの桜よりも艶やかな花を咲かせて、泰然としてる」 淡々と語る賢吾の言葉に、ふと和彦の脳裏にある男の顔が浮かぶ。もしかすると賢吾も同じかもしれない。和彦は、桜ではなく、賢吾の横顔を見つめていた。視線に気づいたのか、前触れもなく賢吾がこちらを見て、ニヤリと笑う。「なんだ先生、俺に見惚れているのか?」「どうしてそんな恥ずかしいことを、口にできるんだ……」「浮かれているんだ。着物姿の先生と二人、こうして立派な桜を眺められて。去年の今ごろとは違って、今年はそれなりに落ち着いた日々を過ごせていると、実感もしている。来年は――どうだろうな?」 どう答えれば賢吾は満足なのだろうかと考えた次の瞬間、妙な照れを感じた和彦は、しがみついていた腕から手を離す。賢吾に背を向けて、足元に視線を落とす。地面には、まるで雪のように桜の花びらが積もっており、風が吹くたびにふわりと舞い上がる。
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第24話(26)

 ここまで考えたところで和彦は、これは自惚れだと自戒する。急に恥ずかしくなった。「――窓から落ちるなよ、先生」 背後からおもしろがるような声をかけられ、慌てて体勢を戻す。振り返ると、浴衣姿の賢吾が立っていた。和彦より先に風呂に入ったあと、一階のロビー――とも言えない、狭い玄関横の応接セットに組員たちと陣取り、わずかなつまみとビールで酒宴を催していたのだが、もうお開きになったらしい。 敷かれている二組の布団を見下ろした賢吾は、すぐに片方の布団を移動させ、ぴったりとくっつけてしまう。どういう意図からかは明白で、なんだか見てはいけないものを見た気になった和彦は、さりげなく視線を逸らし、再び外の桜を見下ろす。「今日は、俺のわがままにつき合わせたな」 賢吾の言葉に、和彦はちらりと笑みをこぼす。「もう慣れた。それに、いまさらだ」「先生はなんだかんだと言いながら、どんなわがままでも受け止めてくれるから、つい甘えちまうんだ。多分――他の男たちもな」 わずかに体を強張らせると、すぐ背後に賢吾が立った気配を感じる。首筋に冷たい唇を押し当てられ、強烈な疼きが背筋を駆け抜けた。 片腕で和彦を抱き締めながら、賢吾が窓を閉める。体の向きを変えられ、今日初めて賢吾と唇を重ねた。じっくりと丹念に唇を吸われながら、和彦はじっと賢吾の目を見つめる。大蛇の潜む目に、はっきりと情欲の熱っぽさを見て取り、心の中で安堵する。今の賢吾は、和彦の反応を試しているのではなく、本当に和彦を欲しているのだ。「今、カチコミをかけられたら、俺はあっさりと殺られるだろうな。護衛はたった二人、簡単に蹴破れる古い旅館の玄関に、三階のこの部屋まで階段で一直線。先生と知り合う前までの俺なら、こんな危なっかしいところで泊まったりはしない」「……ぼくの、せいだと言いたいのか……」 ニヤリと笑った賢吾に、軽く唇を吸われる。「違う。大事で可愛いオンナを喜ばせるために、俺は命を賭けているということだ」「ものは言いようだ」「ヤクザは恩着せがましいぞ。お前のためにここまでしたやった。だからお前も、俺のために尽
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第24話(27)

 傍らに置いたハンカチを開いた賢吾は、花びらを軽く掴み取り、思いがけない行動に出た。しどけなく開いたままの和彦の両足の間に、振り撒いたのだ。慌てて足を閉じようとしたが、賢吾の腕に押さえられて動けない。「何、してるんだっ……」「桜の花を愛でてるんだ。先生に似合うかと思ったが……なかなかのもんだ」 濡れそぼった和彦のものに花びらが張り付く。さらに賢吾はおもしろがるように、数枚の花びらを先端に擦りつけてくる。刺激に声を上げそうになった和彦は必死に唇を噛み、顔を背ける。しかしそれが、さらに賢吾を煽ったようだ。 片足を抱え上げられ、内奥の入り口をまさぐられる。まさか、と思ったときには、指を挿入されていた。すぐに指は引き抜かれたが、再び挿入され、それを何回も繰り返される。わずかな違和感があった。いや、異物感というべきかもしれない。 ハッとして賢吾を見上げると、のしかかられ、唇を塞がれる。一方で、内奥を指でまさぐられ――桜の花びらを押し込まれる。 鳥肌が立つような倒錯的な悦びと興奮を覚えていた。「うっ、あぁっ――」 賢吾の指を締め付けて、和彦は絶頂に達していた。賢吾は、和彦のその反応に悦びを覚えたように、官能的なバリトンを耳に注ぎ込んできた。「もうイッたのか。堪え性のないオンナだ。それとも、桜の花びらとも相性がいいのか?」 少し意地の悪い囁きに、和彦の理性は陥落する。賢吾の首にしがみつき、懇願していた。「……早、く……、賢吾さん、早く中にっ……」「中にもう入れてるだろ。指も、桜の花びらも」 もう一度桜の花びらを内奥に押し込まれる。焦れた和彦は、癇癪を起こしたように賢吾の背を殴りつける。ようやく体を起こした賢吾が、もったいぶるように浴衣の帯を解いた。 裸の熱い体にのしかかられ、夢中になって背の大蛇を両手でまさぐる。内奥の入り口に賢吾の欲望が押し当てられて、潤んだ吐息が洩れていた。「んっ、くうぅっ――……」 圧倒的な存在感を
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第24話(28)

 背を撫でられ、和彦は身を強張らせる。和彦の怯えが伝わったのか、賢吾は低く笑い声を洩らした。「冗談だ。――今は、これで満足だ」 和彦は、羽毛でくすぐられたような感触を背に感じる。何事かと思っていると、目の前にひらひらと桜の花びらが降ってきた。「どこもかしこも、桜の花びらだらけだな、先生」「……誰の、せいだ」「桜の花はあっという間に散っちまうが、記憶にはずっと残るだろ。こうして、俺と〈遊んだ〉ことも」 賢吾はこんなことを、どんな顔をして言っているのか。和彦は首を巡らせ確認しようとしたが、その瞬間、内奥で蠢く感触を強く意識していた。 興奮しきった賢吾の欲望を強く締め付ける。和彦の官能が高まっていることを知ったのか、賢吾は律動を再開した。「あっ、あっ、い、いぃ。賢吾、さんっ……」 激しく腰を打ち付けられながら、体を前後に揺さぶられる。和彦は声を抑えられず、放埓に嬌声を上げていた。 汗に濡れた肌に桜の花びらを貼り付かせ、浅ましく腰を振って肉を求める〈オンナ〉の姿に、賢吾は満足しているようだった。その証拠に、和彦の耳に低い唸り声が届く。 内奥深くに二度目の精を注ぎ込まれ、和彦は何度も深い吐息を洩らしながら、すべてを受け止めていた。全身に快美さが行き渡り、これが賢吾に執着されているということなのだと、肉に刻み込まれる。 体に力が入らず、与えられた快感の余韻に浸っていた和彦だが、賢吾はさらに〈遊び〉を楽しむつもりのようだ。呼吸を落ち着けると、こんなことを言い出した。「遊んだあとは、しっかり後片付けをしないとな」 次の瞬間、和彦は目を開く。内奥から賢吾のものが引き抜かれたからだ。「待っ――」 蕩けて喘ぐ内奥から、注がれた精がドロリと溢れ出す。しかし、それだけではない。和彦はようやく、賢吾の行為の目的がわかった気がした。「せっかくきれいだったのに、桜の花びらがひどいことになってるな」 言葉とは裏腹に、楽しげな声で言いながら賢吾が内奥に指を挿入し、出し入れを繰り返す。精と、無残なことになっているであろう花びらを掻
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第25話(1)

 久しぶりの大掛かりな手術だった。 額にじっとりと汗が滲むのを感じながら和彦は、腹部に詰め込んだガーゼを慎重に取り除き、足元に置いたバケツに落としていく。昨日開腹したときは、血が溢れ出てどうしようもない状態だったが、どうやら出血は落ち着いたようだ。もっとも、そうでなければ、患者はとっくに命を落としている。「先生、どうですか?」 和彦同様、手術衣を着込み、帽子も被った男が尋ねてくる。何かを手伝うために簡易の手術室に留まっているわけではなく、あくまで監視のために手術に立ち合っているのだ。つまりそれほど、ベッドの上で半死半生の状態となっている男は、大事な存在だということだ。 だったら、美容外科医に預けるようなまねをせず、設備の整った病院に行くほうが、命が助かる可能性は遥かに高いはずだが、彼らにその選択肢はない。組や、己の立場を守るためには、命を危険に晒すほうがマシだと判断するのだ。 腹部で内出血を引き起こした傷が一番ひどいが、それ以外にも、全身に打撲を負っており、明らかに硬い棒状のもので滅多打ちにされたとわかる。つまり、暴行を受けたのだ。この傷を見れば、真っ当な医者は間違いなく警察に通報し、そこから厄介な事態に至るのは、容易に推測できる。「先生っ」 返事をしない和彦に焦れたように、もう一度呼ばれる。昨日、患者の腹を開け、治療をするどころか、黙々と大量のガーゼを詰め込み始めた和彦に、やはり男はこうして呼びかけてきた。 いかにも若く、美容外科医という肩書きを持つ和彦の腕を明らかに信用していないのだ。笑えることに、和彦自身、全幅の信頼を寄せられるほどの腕が自分にあるとは、毛頭思っていない。「――……出血はなんとか止まった。昨日、手術をしなかったのは、体温が下がりすぎて危険だったからだ。その状態で止血処置をすると、かえって容態が急変することがある。だから、腹にガーゼを詰め込んで、一時的に止血した。今は状態が落ち着いているから、こうして手術ができる」 体内の状態は今説明したように単純なものではないが、この組員が、他の組員に説明をするときに伝えやすいよう、かなり噛み砕いた言い方をする。そうすることで和彦も、これからの手術の手順を頭の
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第25話(2)

 すぐに車を手配するという言葉を受けた和彦は、背もたれに深く体を預けようとしたところで、自分の格好に気づく。もう必要なくなった手術衣を脱ぐと、丸めて組員に手渡す。 ささやかな開放感を味わいながら、ソファに置いたままにしてあったジャケットを羽織る。ここで、ポケットに入れたままにしておいた携帯電話の存在を思い出し、何時間ぶりかに電源を入れる。そしてアタッシェケースから、もう一台の携帯電話を取り出す。先週、賢吾から渡されたプリペイド携帯だ。 一瞬逡巡はしたものの、電源を入れてみると、メールが届いていた。わざわざ確認するまでもなく、送信主はわかっている。この携帯電話の番号とメールアドレスは、賢吾以外にはたった一人、里見にしか知らせていないのだ。 以来、毎日メールが送られてくる。内容は他愛ないものばかりだが、だからこそ、和彦の生活の様子を慎重にうかがっているのだと感じられる。当然といえば当然だろう。これまで、公衆電話から一方的に電話をかけてくるだけだった相手が、突然、携帯電話から連絡を取ってきたのだ。 それでも理由を問うてこないのは、里見らしいといえた。問われたとしても、和彦も答えに困る。 複雑な気持ちを押し隠し、二時間ほど前に送られてきたメールに目を通す。 和彦の父親である俊哉と一緒に昼食をとったという内容に、無意識のうちに眉をひそめていた。和彦の態度の軟化を気にかけているとも記されており、わずかな苛立ちが胸の奥で芽生える。実家で暮らしている頃、父親は和彦の様子になど目を向けたことはなかったのだ。 佐伯家の様子を伝えてほしいと頼んだのは自分だが、知らされるたびに、神経がささくれ立つような感情に苛まれるのかと思うと、疲れているせいもあり、少しだけ和彦は気が滅入る。だからといって届いたメールを無視するわけにもいかない。 何時であろうがメールしてもらってかまわないという里見の言葉に甘え、俊哉のことには触れずにメールを返信した。 これでやっと、日づけは変わってしまったが、今日一日の仕事が片付いた気がする。 和彦は大きく息を吐き出すと、顔を仰向かせて目を閉じる。これから帰宅したところで、あまり睡眠時間はとれないだろう。ほんの少し前まで、桜の花を眺めて浮かれてい
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第25話(3)

「繊細だな、先生。さぞかし、長嶺組長に大事にされているんだろう。花見会のときの様子を見れば、簡単に想像はつくがな」「あなたの隊が面倒を見ることになった人の腹に、たった今手を突っ込んできたのは、ぼくです。そういう言い方はやめてください」 苛立ちを押し殺して冷ややかな声で応じるが、和彦のその反応は、南郷の神経をわずかでも傷つけることはできなかったようだ。返ってきたのは、低い笑い声だった。「そうだった。どうも、育ちのよさそうなあんたの外見に惑わされる。あんたは、下手なヤクザが裸足で逃げ出す、性質の悪い〈オンナ〉だったな」「――ぼくに皮肉を言うために、こんな時間に出向いてきたんですか」「まさか。むしろ、あんたには礼を言いたい。前にも話したと思うが、第二遊撃隊っていうのは仕事上、どうしたって荒事が多くなる。荒事が多いと、怪我人も出る。そして、その怪我人が世話になるのが、先生だ」 果たして南郷から礼を言われたことがあっただろうかと、つい和彦は考えてしまう。南郷とはすでに何回も顔を合わせているが、この男から常に感じるのは、凶暴性と不気味さだ。そのうえ、上辺だけの礼儀正しさすらも、なぜか和彦相手には発揮せず、ひたすら無礼だ。「総和会が抱えている医者は、ぼくだけじゃありませんから……」「オヤジさんが特別気に入っている医者は、あんた一人だ」 南郷が言外に、和彦と守光の関係を匂わせる。疲れているせいもあって、和彦はいつもより感情の抑制が利かなかった。 敵意を込めて南郷を睨みつける。もしかすると嫌悪や恐怖という感情も混じっていたかもしれない。 少し前に守光から、南郷に慣れるよう言われた。総和会や守光という存在に慣れろというならまだわかるが、あえて南郷の名を挙げたのは不思議だ。守光の身近にいて、信頼されている男だからというのは、理由としては理解できる。しかし、なぜ南郷なのか――。 実の息子とさほど年齢の変わらない男を、隠し子ではないかと噂されながらも側に置き、可愛がっているのには、やはり相応の理由が必要だ。〈信頼〉という抽象的な言葉ではなく。 睨み続ける和彦の目を覗き込み、歯を剥くようにして南郷は笑った。
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第25話(4)

 耳に注ぎ込むように囁いた南郷に、耳朶に歯を立てられる。このままでは食い千切られると、本気で危機感を覚えた和彦は我に返り、南郷の体を必死に押し戻す。 何か言われる前に、平手で思いきり頬を打っていた。 車内に鋭い音が響き、次に息苦しいほどの沈黙が訪れる。 和彦はシートに座り直すと、激しい動揺とは裏腹に、冷然とした声で告げた。「……あなたを殴ったことをぼくに謝罪させたいなら、長嶺組長に話を通してください。そうすれば、土下座だろうが、あなたの気が済むように謝罪します」 南郷は凶悪な笑みを浮かべた。「そんな野暮はしない。これは、俺とあんたとの間でケリをつけることだ。そして――」 突然頭を下げた南郷が発したのは、すまなかった、という一言だった。呆気に取られた和彦は、すぐには声が出せず、ただ目を丸くする。「これでケリはついた。だろ?」 頭を上げた南郷が悪びれた様子もなく同意を求めてくる。車内というごく狭いスペースでのトラブルを外に持ち出し、組の面子というレベルにまで騒ぎ立てるつもりはない。 和彦は、南郷の反応をうかがいつつも、小さく頷く。 力を持たない自分には、南郷の謝罪をこの場で受け入れるしかないと、よくわかっていたからだ。****「――心ここにあらず、といった感じだな、先生」 笑いを含んだ声でそんなことを言われ、ショーウィンドーにぼんやりと視線を投げかけていた和彦は慌てて隣を見る。賢吾がニヤニヤと笑っていた。 ムキになって反論しようとしたが、ここがどこであるか思い出し、寸前のところで声を潜める。「はっきり言って、歩くのもつらいほど……眠いんだ」「だったら遠慮なく、俺の腕に掴まれ」 できるわけないだろ、と心の中で言い返して、和彦は周囲を見回す。夕方の街中は、人と車で雑然として慌ただしい。仕事や学校を終え、夜が訪れるまでの時間をどう過ごすか、足早に歩きながら考えている人もいるだろう。 当の和彦は、予定ではまっすぐ帰宅し、食事もとらずにすぐ
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第25話(5)

 南郷ほどの男に頭を下げさせたことがいまさらながら怖くなる。今晩の食事中の話題は、決まったようなものだった。南郷との間にあったことを黙っているわけにもいかず、打ち明けることにしたのだ。賢吾に隠し事をするのが、和彦には何より怖い。「先生?」 賢吾に呼ばれ、伏せていた視線を上げた和彦は大仰に顔をしかめてみせる。「ぼくが大変な状況だとわかっていて、わざわざ外に連れ出したのか」「やつれた先生の顔を見たくてな」 澄ました顔でさらりと言われ、和彦のほうが照れてしまう。誤魔化すようにぼそぼそと説明をした。「……昼休みを挟んで、予約時間まで余裕があったから、様子を見に。感染症が心配で、本当は目が離せない状態なんだ。患者の容態は落ち着いていたし、夕方からは他の医者が付き添うことになったから、金曜日の診察まで、ぼくは顔を出さなくていいみたいだ」「先生が文句を言わないのをいいことに、気安く仕事を頼みすぎだな、総和会の連中は」「気安いかどうかはわからないが、美容外科医に対して、無茶な注文をしてくるのが困る。……あんたも、総和会も」「そうだったか?」 露骨にとぼける賢吾の脇腹を軽く小突くと、悪戯っぽい笑みで返される。つられるように和彦も、微笑を浮かべていた。 先日、一緒に夜桜見物をして宿に一泊して以来、賢吾は機嫌がいい。もっと正確にいうなら、和彦に対して甘くなった気がする。そして和彦自身、そんな賢吾の側にいると心地いい。困ったことに。「まあ、先生が働くおかげで、うちの組の稼ぎになる。今日はこれから、俺の靴を買いに行くんだが、先生にも何か買ってやる。なんでもいいぞ」「いきなり言われても……」「言わないなら、俺が勝手に選ぶからな」「それは、いつもと同じじゃないか」 ときには笑みをこぼし、他愛ない会話を交わしながら、賢吾と並んで歩く。こうしていると、相手が大きな組の組長であるということを忘れそうになるが、即座にヒヤリとするような緊迫感が蘇り、そこで賢吾が何者であるかを実感させられる。「そろそろ、夏物の着物も仕
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