All Chapters of 攻略対象は私じゃない! ~腐女子が神視点で推しカプ見てたら、いつの間にか逆ハーレムの中心にいた件~: Chapter 41 - Chapter 50

144 Chapters

第41話 二人で謝ろう

 格好のつかない告白だった。いつもの余裕のある笑顔で押し切られるより、ずっと胸に響いてしまう。私は彼のシャツをそっと掴んだ。 「輝くん……」 「栞」  名前を呼ばれるだけで、背筋が痺れる。  彼はゆっくりと顔を寄せ、私の耳元に唇を寄せた。  吐息がかかる距離。彼の体温が、私の体温と溶け合っていく。 「また教えてくれる? 今度は、俺にも分かるところから」 「……うん。でも、奏くんにはちゃんと謝ってね」 「分かってる」  輝くんが苦笑する。私も一緒に謝ろう。そう決めると、ようやく少し笑えた。  輝くんが私の額へ自分の額を軽く当てた。 「頼むよ、先生」 「生徒さんも、分からないところは聞いてください」  笑った拍子に鼻先が触れそうになり、二人で顔を離す。窓に映る私たちは、さっきまでの険しい顔をしていなかった。  翌日、奏くんには二人で謝った。彼は聞き終えると眼鏡を押し上げ、「俺を教材にするな」とだけ言った。返す言葉がない。◇ それから数日後。  静寂に包まれた図書館の空気は、どこか古い紙とインクの匂いが混じり合っていて、私の心を落ち着かせてくれる……はずだった。  机の上に置いたスマートフォンの画面が暗くなるのを、私はぼんやりと見つめていた。画面に残っていたのは、天王寺輝――私の彼氏であり、学園の王子様――からの、謝罪のメッセージ。 『ごめん、急に父さんに呼び出された。今日の勉強会、行けそうにない』  短く簡潔な文面からは、彼がどれほど急いでいるか、そして申し訳なく思っているかが伝わってくるようだった。私は小さく息を吐き出し、誰も見ていないことを確認して、机に突っ伏した。 「うぅ……輝くん……」  付き合い始めてから、二人きりで過ごす時間をどれだけ楽しみにしていたか。今日のために新しいノートも買ったし、昨日から気合を入れて予習もしていたのに。  でも、輝くんの家――天王寺家は、日本有数の財閥だ。彼が背負っているものは、一般庶民の私には想像もつかないほど重くて大きい。わかってる。わかってるけど……。 「……寂しい、なぁ」  ぽつりと漏れた本音は、空調の低い駆動音にかき消された。  いけない、いけない。こんな時こそ、腐女子としてのスキルを発動させなければ。  私は顔を上げ、頬をパンパンと両手で叩いた。彼氏に会えない時間は、
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第42話 同じ作家が好き

 背表紙に並ぶタイトルの数々。ここには『Fallen Covenant』の世界観に通じるような、退廃的で美しい耽美な古典文学が眠っている。ジークとアークの関係性を深掘りするための、聖なる経典たちだ。  指先で背表紙をなぞりながら、私は脳内で妄想の翼を広げ始めた。  (この時代の騎士道精神と、主従の誓い……まさにジークがアークに抱く執着の原点よね。禁欲的な生活の中で、ふとした瞬間に触れる指先とか……あぁ、尊い)  不意に、視界の端で何かが動いた。  誰かが同じ棚の列に入ってきたようだ。私は慌ててニヤけていた口元を引き締め、真面目な顔で本のタイトルを目で追うふりをする。  カツ、カツ、と硬質な靴音が近づいてくる。その足音は規則正しく、どこか冷ややかで、それでいて品がある。  私の隣で、足音が止まった。  ふわりと漂ってきたのは、清潔な石鹸の香りと、微かなミントの清涼感。輝くんの華やかな香りとは違う、もっと静かで、研ぎ澄まされた香り。 「……奇遇だな」  頭上から降ってきた声は、氷のように透き通ったバリトンボイスだった。  ビクリと肩を震わせて見上げると、そこには銀縁眼鏡の奥から私を見下ろす、冷徹な瞳があった。 「ひ、氷室くん……!?」  氷室奏。私の彼氏……の、ライバルであり、かつての中学時代の同級生。そして、今もなお私に執着を見せる「氷の騎士」。  彼は長い指で眼鏡のブリッジを押し上げると、手にした数冊の本を抱え直した。その仕草一つとっても、まるで絵画のように洗練されている。 「図書館にいるとは思わなかった。……天王寺はどうした?」  私の周囲を見回し、輝くんの姿がないことを確認すると、彼の眉がわずかに寄せられた。 「えっと、輝くんは急用ができちゃって。今日は一人なの」 「……そうか」  短い返答の中に、微かな感情の揺らぎが含まれていたことに、私は気づけなかった。彼は一瞬だけ目を細め、それから視線を私の手元――適当に手に取っていた古典文学全集――へと落とした。 「その本……オスカー・ワイルドか」 「あ、うん。ちょっと興味があって」 「『幸福の王子』……自己犠牲と献身の物語だ。君が好きそうだな」  ドキリとした。彼が私の好みを、的確に言い当てたからだ。  氷室くんは私の隣に並び、同じように書架を見上げた。彼の整った横顔は、図
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第43話 答えは変わらない

 心臓が、早鐘を打った。  目の前にいるのは、普段の何でも分かっているような奏くんではなかった。私の手の中の万年筆を見つめ、返事を待っている。 「奏くん……私、そんな、大したことしたつもりじゃ……」 「分かってる。君には、ただの落とし物だった」  責める声ではなかった。それでも、胸の奥がちくりとした。  私はあの日のことを忘れていた。彼に拾った物を渡して、そのまま教室へ戻った。中学時代に転校してきた無口な男の子の、その後を気にかけたこともなかったのだ。  それを今になって、大切な思い出だったと言ってもらっている。  どう返せばいいのだろう。綺麗な台詞なら、頭の中に山ほどある。長年の初恋が報われる場面だって、何度も読んできた。  でも、私は輝くんの顔を思い浮かべていた。 「……私、輝くんが好きなの」  言葉にした途端、奏くんの指が止まった。  彼が傷つくところを見たくなくて、すぐに何かを付け足しそうになる。奏くんのことも大切だよ、とか、嫌いなわけじゃないよ、とか。どれも嘘ではない。けれど、それを先に言ったら、一番伝えなければいけないことが薄まってしまう。  私は万年筆を両手で持ち直した。 「だから、同じ気持ちは返せない。……ごめん」  図書館の奥で、本を閉じる音がした。  奏くんはしばらく黙っていた。目の前の書架に並ぶ背表紙を一つずつ読むように視線を動かし、やがて、短く息を吐いた。 「知っていたつもりなんだがな」  口元だけで笑おうとして、上手くいかなかったようだった。 「本人から聞くのは、少し……きついな」  何も言えなかった。  こんな時まで、私の方が泣きそうになるなんて卑怯だと思う。私は唇を噛み、彼が次の言葉を見つけるのを待った。返事を待たせる側の気持ちを、今、少しだけ知った気がした。 「すぐに諦めるとは言えない」  奏くんが顔を上げる。 「でも、聞かなかったことにはしない。君が、ちゃんと言ってくれたんだから」  静かな声に、ようやく頷くことができた。  彼は私の手元を見たまま、シャツの胸元を一度だけ押さえた。何かを落ち着かせるような、不器用な仕草だった。  その手を取って慰めることはできない。そう気づいた時、さっき言えたはずの言葉が、急に重くなった。 「……これ、返すね」  万年筆を差し出す。けれど、奏く
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第44話 仕事が手につかない

 彼は一歩下がり、いつもの冷静な「氷室奏」の仮面を被り直すように、指先で眼鏡の位置を直した。  その仕草は洗練されていて、隙がない。さっきまでの、感情を露わにして私に迫ってきた男性と同一人物だとは、とても思えないほどだ。  でも、眼鏡のレンズの奥に光る瞳だけは、まだ消えきらない熾火のように、静かに私を射抜いていた。 「今日はもう行くよ。……勉強、頑張って」  彼はそう言うと、抱えていた本を持ち直し、踵を返した。  その背中は、凛としていて、どこか孤独だ。  私は、彼の背中を見送ることしかできなかった。呼び止めることも、突き放すこともできず、ただ、万年筆をしまった鞄の持ち手を握りしめることしか。  カツ、カツ、と遠ざかる足音。  それが書架の角を曲がり、完全に聞こえなくなる直前。  彼はふと足を止め、振り返った。  逆光の中で、彼の表情はよく見えない。  でも、その声だけは、図書館の静寂を切り裂いて、私の鼓膜に鮮明に届いた。 「月詠」  名前を呼ばれ、私はビクリと肩を震わせる。  彼は私をまっすぐに見つめ、宣言した。 「返す時、感想を聞かせてくれ。……本の方の」  ドクン、と心臓が大きく跳ねた。  恋人である輝くんへのときめきとは違う痛みが残った。普通の頼み事にしてくれたことに、ほっとしている自分が情けなかった。  彼の瞳に射抜かれたまま、私は息をするのも忘れて立ち尽くしていた。  彼が去ったあとの図書館で、私の心臓の音だけが、いつまでも大きく鳴り響いていた。◇ 翌日の昼、私はバイト先のカフェで、アイスコーヒーを載せたトレイを運んでいた。  ガシャンッ!  派手な破砕音が、ランチタイムで賑わうカフェ店内に響き渡った。  一瞬にして静まり返る客席。視線が一斉に私に集まる。私の足元には、無惨に砕け散ったグラスと、飛び散ったアイスコーヒーが黒い水溜まりを作っていた。 「あ、あ……っ、ご、ごめんなさい……!」  顔から火が出るほど恥ずかしい。手元が狂ったわけでもないのに、トレイの上でバランスを崩してしまったのだ。完全に私の不注意だった。  慌ててしゃがみ込み、破片を拾おうとしたその時、私の視界に誰かの手が滑り込んできた。 「先輩、触っちゃダメです! 怪我しますよ」  聞き慣れた、明るく弾むような声。顔を上げると、そこに
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第45話 笑ってごまかさないで

 カップを握っていた指に、力が入った。  陽翔くんはまだ笑っている。でも、さっきみたいに隣へしゃがんではくれなかった。 「俺のこと、可愛いって言ってくれるの、嬉しかったんですよ。最初は」  低い声だった。怒鳴られるより、よほど胸に響いた。 「でも、そればっかりだと……俺、いつまでここにいればいいのかなって」  いつもなら、冗談だと思って笑っていたかもしれない。今は、笑えなかった。彼が私を見る目を、ようやくまともに見てしまったから。 「陽翔くん、私……」  彼が身を屈める。顔が近づき、何をするつもりなのか理解するより早く、頬に柔らかいものが触れた。  私は息を止めた。  彼の顔が離れても、触れられた場所の熱だけが残っている。嬉しいのか、驚いているのか、それすら分からず、カップを潰しそうになった。 「これでも、弟みたいって言えます?」  強気な台詞とは裏腹に、陽翔くんの笑顔はぎこちなかった。私の返事を待つ数秒が、彼にも長いのだと分かった。  今度は、私が逃げる番じゃない。 「……弟だとは、もう思ってないよ」  彼の瞳が揺れた。その期待を見て、喉が詰まりそうになる。 「でも、私は輝くんと付き合ってる。好きだから。だから、こういうことは……しないでほしい」  最後はほとんど息になった。それでも、彼には聞こえた。  陽翔くんが一歩離れる。近くの棚に置かれた伝票の束が、その肘に当たってずれた。 「……はい」  たったそれだけの返事が、いつもの明るい声とは違っていた。  私は余計なことを言いそうになり、カップの縁を見つめた。これからも仲良くしてね、なんて、今ここで私の方から頼むのは違う気がした。 「ごめん。さっきのキス、調子に乗りました」  陽翔くんが伝票を揃え直す。 「俺、先輩を困らせたかったわけじゃ……いや、困らせてでも、こっち向いてほしかったんだな」  自分に呆れたように笑い、彼は顔を背けた。私の知っている、いつでも機嫌のいい後輩ではなかった。見ないふりをしてきたのは私の方なのだ。  店内から、カップの触れ合う音が聞こえた。 「……戻らなきゃ」  私が立ち上がると、陽翔くんも顔を上げた。何か言いかけて、やめる。それから私の手元へ視線を落とした。 「空ですよ、それ」 「あ」  飲み終えたカップを、まだ大事に持っていた
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第46話 言えない出来事

 私の日常は、いつから乙女ゲームの「修羅場ルート」に突入してしまったのだろうか。  大学の講義室、一番後ろの席。教授の単調な声がBGMのように流れる中、私は机に突っ伏して、自らの現状を冷静に分析しようと試みていた。いや、冷静になんてなれるはずがない。私の脳内は今、大規模なシステムエラーを起こしている真っ最中なのだから。 「……どうしてこうなった」  小さく漏れたその言葉は、誰に届くわけでもなく空気に溶けていく。  私の名前は月詠栞。どこにでもいる平凡な女子大生であり、重度の腐女子だ。私の生きがいは、推しカプである『Fallen Covenant』のジーク×アークを壁になって見守ること。それだけが望みだったはずなのに、神様の悪戯か、はたまた前世で徳を積みすぎた反動か、私は今、学園の王子様こと天王寺輝くんと付き合っている。  それだけでも奇跡に近い「公式供給」なのに、ここ数日、私の周囲では異常事態が頻発していた。  まず、氷室奏くん。  クールで無口な氷の騎士様であり、私の中学時代の同級生。彼に図書館で、あの思い出の万年筆を握らされた時の手の熱さが、まだ掌に残っている気がする。私の返事を聞いて、一度目を伏せた時の顔と共に。  そして、七瀬陽翔くん。  あざといわんこ系後輩男子。いつもニコニコしている彼が、バイト先のバックヤードで見せた、上手く笑えない顔。頬へのキスを断ったあとも、その顔だけが胸に残っている。  (あーっ! もう! 私の脳内ハードディスクは、そんな高カロリーな乙女ゲーイベントを処理できるスペックじゃないのよ!)  机の下で頭を抱える。  これはまずい。非常にまずい。何がまずいって、私は輝くんという彼氏がいながら、他の男性キャラたちとの「イベントスチル」を回収してしまっているのだ。乙女ゲームなら、これは間違いなくバッドエンド直行の「浮気フラグ」。もしくは、攻略対象たちの好感度が変な方向に振り切れて発生する「監禁・ヤンデレエンド」のトリガーになりかねない。  特に、輝くんはまずい。  彼は一見、爽やかで完璧な王子様だ。誰にでも優しく、笑顔が眩しく、まさに光属性の具現化のような存在。けれど、私は知っている。彼がその光の裏側に、底なしの独占欲という名の「闇」を飼っていることを。  以前、私が少し他の男性と話しただけで、あの綺麗な笑顔の
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第47話 袖をつまむ指

「そうだね。確認したいことがあって」  輝くんは私の目の前で立ち止まると、両手を教卓につき、私を腕の中に閉じ込めた。  いわゆる「机ドン」の状態だ。  至近距離にある彼の顔。長いまつ毛の一本一本まで数えられそうな距離で、彼の蜂蜜色の瞳が私を射抜いている。その瞳は綺麗なのに、光が届いていない深海のように暗い。  私は鞄の紐を握り直した。隠し事を見抜かれるのを待っていたら、また何も言えなくなる。 「昨日、奏くんと話したの。図書館で。……私が好きなのは輝くんだって、ちゃんと言った」  彼の目が、鞄の口から覗く手帳へ動いた。 「七瀬くんにも?」 「うん。今日、頬にキスされて……でも、もうしないでって言った」  口にした途端、教卓に置かれた彼の指が強張った。怖くなったけれど、ここまで言って話を変えることはできなかった。 「びっくりして、すぐに言えなかった。……ごめん」 「謝られると、余計にきついな」  輝くんが低く言った。 「栞が自分で断ったのは、分かった。……分かったのに、平気な顔ができない」  彼の視線が私の頬で止まった。どちらに触れられたか尋ねることさえしない。その顔を見て、私の方から右頬に指を当てた。 「ここ。もう、何でもないから」  何でもない、という言い方は失敗だったかもしれない。彼が唇を噛むのを見て、私も黙った。  輝くんが顔を寄せかけて、途中で止まった。教卓に置いた手はそのままで、長いまつ毛が伏せられる。さっきまで怖いと思っていた顔が、ひどく困っているようにも見えた。 「……先に聞けてよかった。七瀬くんから聞いてたら、たぶん、もっと格好悪かった」  私が返事を探している間に、彼は苦笑して片手を退けた。空いた方へ逃げることもできたのに、足が動かない。ちゃんと話したら安心してくれると思っていた。その考えが、少し甘かったのだろう。 「私も、黙ってたくなかったの」  鞄を教卓に置く。彼に近づきたくて、でも、どうすればいいのか分からなくて、持ち手を整えるふりをした。 「奏くんにも陽翔くんにも、嫌な思いはさせたくない。でも、それで輝くんに何も言えなくなるのは、もっと嫌だから」 「うん」  輝くんがようやく私を見た。いつもなら冗談にしてしまう距離で、二人とも笑えなかった。 「俺、思ってたより嫉妬深いみたいだ」 「……それは
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第48話 袖を離せない

 名前を呼ばれて顔を上げると、輝くんが、さっきよりずっと近くにいた。同人誌ならここから十八ページくらい使う場面だ。なのに私の頭には、気の利いた台詞が一行も浮かばない。  重ねられた手を見ているうちに、頬に彼の指が触れた。陽翔くんのことを思い出す暇はなかった。目の前の人に触れられている、それだけで、耳の裏まで熱くなる。 「……輝くん、ここ、学校」 「うん。分かってる」  分かっている人の距離ではない。そう言いたかったのに、彼が額を寄せて目を閉じると、私はつまんでいた袖を離す代わりに、もう少し強く握ってしまった。  彼の息が頬にかかる。いつもなら私の反応を見て楽しそうにするくせに、今は自分の呼吸を落ち着かせようとしているみたいだった。 「断ってくれたの、嬉しかった。……言うのが遅くなったけど」  その言葉が欲しかったのだと、聞いてから気づいた。怒らせるために話したわけではない。私が誰を好きなのか、ちゃんと受け取ってほしかった。 「うん」  返事をしたら、ほっとして力が抜けた。彼が顔を上げ、私を見つめる。格好いい、とこんな時まで思ってしまう自分が情けない。でも、それ以上に、さっきの困った顔をもうさせたくなかった。  私からほんの少し近づくと、唇が触れた。  目を閉じても、教室の外の音は聞こえている。どこかで椅子を引く音。遠い廊下の笑い声。誰かがこちらへ来るかもしれないと思うと落ち着かないのに、離れた瞬間には、もう少しだけ、と願ってしまった。 「……栞、真っ赤」 「輝くんも、耳」  彼が自分の耳に触れて、しまった、という顔をする。その反応がおかしくて笑うと、腰をそっと引き寄せられた。ふざけて返せる余裕は、たちまちどこかへ行ってしまう。  教卓の縁が後ろに当たり、私は手をついた。彼が支えようと腰に腕を回し、その拍子に浅く腰掛ける形になった。目の高さが近くなると、伏せたまつ毛までいつもと違って見えた。  もう一度触れた唇は、最初より長く離れなかった。私は彼の肩に手を置き、指に伝わるシャツの皺を頼りに、何とか息を整える。  好きだと伝えるのは、言葉だけではないらしい。こんなこと、画面の向こうで散々見てきたはずなのに、いざ自分の番になると何もかも初めてだった。  彼の肩から手を離しかけると、指先がシャツの縫い目に引っかかった。ほんのそれだけのこと
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第49話 余裕のない王子様

 彼は大きく息を吐き出し、乱れた前髪をかき上げた。その仕草だけで絵になるのが腹立たしいほどカッコいい。  深呼吸をして顔を上げた時、彼の顔にさっきまでの笑みはなかった。私の言ったことを考えているのか、鞄を抱えた手に目を落としていた。 「……怖かったよね」  輝くんが私へ手を伸ばしかけ、途中で下ろす。 「さっき、栞も同じ気持ちだって、勝手に思ってた」  言いかけて、彼は一度口を閉じた。私の顔を見てから、ゆっくり続ける。 「下りたいって言った時に、退けばよかった。……次は、あんなに言わせない」  声がまだ震えているのが悔しかったけれど、私は頷いた。好きだと思うことと、怖くなることが、同時に起こるなんて知らなかった。  彼は困ったように眉を下げたまま、教卓に残っていた私の手帳を拾って差し出した。私は受け取り、乱れた襟元を自分で直した。 「よし。……帰ろうか」  輝くんがドアノブへ手をかけた。  重たいドアが開き、廊下の空気が流れ込んできた瞬間、私はようやく魔法が解けたように大きく息を吸い込んだ。◇ 廊下を並んで歩く帰り道。  輝くんは隣を歩いていたけれど、すぐには手を伸ばさなかった。さっきまであんなに近くにいたのに、たったこれだけ離れると、何を話せばいいのか分からなくなる。  鞄を持ち替え、私から彼の手に触れた。まだ少し気まずい。でも、手までつなぎたくなくなったわけではない。その違いを、私自身がうまく掴めずにいた。 「……手は、いいの」  言ってから顔が熱くなった。注文が細かい。ゲームなら面倒な選択肢が増えたところだ。でも輝くんは笑わず、私が指を絡めるのを待ってくれた。 「うん。ありがとう」  繋いだ手を彼のポケットに入れると、冷えかけた指が温まった。輝くんの歩幅が少し小さくなる。さっきのことをすぐ忘れるのは無理だけれど、今日はこの手を、私の方から離したくなかった。◇ あの翌日、借りた万年筆を奏くんへ返した。彼は軸に傷がないか確かめるように指を滑らせ、胸ポケットへ収めた。「使えたか」と聞かれ、少しだけ、と答えた。それ以上の話はしなかった。  冬休みが過ぎ、学年が変わった。  キャンパスの桜はすでに散り、鮮烈な新緑が目に痛い。  大学三年、春。それは新たな出会いの季節であると同時に、波乱の幕開けを告げるファンファーレでもあった
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第50話 教授も氷室

「……ごめん。会えたから、つい」  腰に回っていた腕が離れた。輝くんは私の隣へ来ると、何事もなかったような顔で扉を見上げる。けれど、行き場をなくした手をポケットに入れるところを、私は見てしまった。  付き合い始めて数ヶ月。爽やかな王子様にも、こんな分かりやすい顔がある。人前で抱きつかれるのは困るけれど、会えて嬉しいのは私も同じだった。  私から袖を引くと、彼がこちらを見た。指を絡める。その途端に笑ったので、現金だなあと思いながら、こちらまで顔が緩んでしまう。 「……ゼミが終わったら、一緒に帰ろうね」 「うん。で、緊張してる?」  輝くんが教室の方へ目を向けた。 「してるよ……相手はあの『独裁者』だよ? 生きて帰れる気がしない」 「大丈夫。俺も一緒だし」  彼もまた、同じゼミを選んでいた。「栞がいるなら俺も」という、志望動機など欠片もない理由で。もっとも、論文コンクール入賞歴を持つ彼を、教授側が拒むはずもないのだが。 「ほら、行こう」  差し出された手を握り返し、教室のドアを開ける。  室内の空気は、すでに張り詰めていた。私語は一切なく、集まった十数名の学生は彫像のように背筋を伸ばしている。異様な重圧に足がすくみそうになりながら、中央付近の空席へと滑り込んだ。  だが、安堵は一瞬で氷点下へと叩き落される。 「……隣、いいか」  絶対零度の声が降ってきた。  弾かれたように顔を上げれば、そこには見慣れた、しかし決して会いたくなかった美貌がある。  氷室奏。  かつての推しカプの片割れにして、今なお私に執着を見せる『氷の騎士』。 「ひ、氷室くん……っ!?」 「奇遇だな。君もこのゼミだったとは」  彼は無表情のまま、私の左隣に鞄を置いた。  奇遇などと白々しい。その灰色の瞳は、最初から獲物の居場所を知っていた狩人のように静まり返っている。 「……氷室」  右隣から、獣が唸るような低い声が響いた。  輝くんが笑顔のまま、けれど瞳の光を消して奏くんを射抜いている。 「お前、わざとだろ」 「何がだ? 俺はこの分野に興味があった。それだけだ」  奏くんは涼しい顔で分厚い専門書を開く。その泰然とした態度が、輝くんの神経を逆撫でしたらしい。繋いだ手に一瞬力がこもったけれど、私が見上げると、輝くんはすぐに緩めた。奏くんへ向ける笑顔だ
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