All Chapters of 攻略対象は私じゃない! ~腐女子が神視点で推しカプ見てたら、いつの間にか逆ハーレムの中心にいた件~: Chapter 51 - Chapter 60

144 Chapters

第51話 父の口から

 氷室。  その名が告げられた瞬間、隣で奏くんが小さく舌打ちをした。  脳内で警報が鳴り響く。まさか、奏くんの父親。 「一年間、君たちには地獄を見てもらうことになるかもしれないが……覚悟はいいかね?」  氷室教授は楽しげに目を細めた。その瞳の色は奏くんと同じ灰色だが、そこにあるのは静かな情熱ではない。底知れない支配者の色だ。  ラスボス降臨。  新学期の初日にして、私の運命は『詰み』の気配を漂わせていた。  蛇に睨まれた蛙のように、全身の毛穴が収縮する。冷や汗が背中を伝う感覚が気持ち悪い。 「……さて、まずはメンバーの確認といこうか」  教授は手元の名簿に目を落とし、事務的に出席を取り始めた。名前を呼ばれた学生が裏返った声で返事をするたび、眼鏡の奥で値踏みするような光が瞬く。 「――天王寺、輝」  ついにその名が呼ばれた。  右隣で、スッと手が挙がる。 「はい」  淀みのない返事。爽やかな声色の中に、決して屈しない鋼の芯が通っている。  教授はゆっくりと顔を上げ、輝くんを見据えた。 「天王寺……。フッ、君がそうか」 「何か?」 「いや。噂には聞いているよ。天王寺グループの御曹司にして、学業優秀、品行方正。……だが、私のゼミでは親の七光りは通用しない。それを肝に銘じておくことだね」  明確な敵意を含んだ先制攻撃。  輝くんは眉一つ動かさず、完璧なポーカーフェイスで微笑み返した。 「ご忠告、痛み入ります。ですがご心配なく。俺は自分の力でここに来ましたから」 「ほう……口だけは達者なようだ」  視線だけで人が殺せそうな睨み合いに、胃痛が加速する。  教授は興味を失ったように視線を外し、次の名前に移った。 「――氷室、奏」 「……はい」  左隣から不機嫌な声が上がる。教授は実の息子に対し、さらに冷ややかな視線を向けた。 「公私混同は好まないが……あえて言おう。私の名を汚すような真似だけはするなよ」 「分かっています」  奏くんが唇を噛み締める。その横顔に落ちた影を見て、胸が痛んだ。親子とは思えない冷え切った関係。彼が纏う孤独の正体を、垣間見た気がした。  そして、ついに私の番が回ってくる。 「――月詠、栞」 「は、ひゃいっ!」  情けない声が教室に響き渡った。穴があったら入りたい。  教授は名簿から視線を
Read more

第52話 合宿を前に

 奏くんが俯いたまま、指先で講義資料の端を揃えていた。紙の角はもう揃っている。それでも手が止まらない。 「奏くん、私、あの時ちゃんと聞いたから」  冬に万年筆を借り、約束の日に返した。あの図書館で聞いた話は、教授が面白がって話したこととは違う。 「今日のことで、変わらないよ」 「……ああ」  奏くんの指が、胸ポケットの縁へ触れた。  右隣の輝くんは、黙って私たちの話を聞いていた。 「あとで、話せる?」  低い声に頷く。奏くんは鞄を持ち上げかけ、輝くんへ向き直った。 「父のしたことは、俺から言っておく。彼女に聞かせるために話したことじゃない」 「ああ。……俺も、あれは嫌だった」  輝くんの返事に、奏くんがわずかに目を上げた。 「昔の話を、あんなふうに人前で使われるのは」  二人の間に短い沈黙が落ちた。仲良くなったわけではない。それでも、教授のしたことと、私たちの間のことが、ようやく別々の場所に置かれた気がした。  教室を出ると、窓辺に残った桜の花びらが、風で床へ落ちた。輝くんがそれを踏まないように足をずらす。 「……悔しかったんだ。俺の知らない頃の栞を、あいつは覚えてるから」 「私だって、輝くんの知らないこと、いっぱいあるよ」 「うん」  彼は廊下の先へ目をやったまま、息を吐いた。 「もらったの?」 「借りただけで、もう返したよ。奏くんには、輝くんが好きだって伝えた。返事は変わらないよ」 「分かった。……そこは、疑いたくない」  階段の踊り場で、私たちは足を止めた。下の階から誰かの笑い声が上がってくる。輝くんの袖に触れると、彼の手が開き、私の指を待った。 「昔の話、私にも聞かせてね」 「格好悪いやつが多いけど」 「それは、お互いさまです」  ようやく笑った彼と、階段を下りた。中庭の桜はすっかり葉になっていた。◇ 梅雨が明ける頃には、ゼミの班で顔を合わせることにも、少し慣れていた。  奏くんが資料を広げ、輝くんが数字の根拠を尋ね、私が横から話を物語へ逸らして二人に戻される。教授の皮肉には慣れなかったけれど、発表のたびに三人で同じページを開くようにはなった。  七月の終わり。合宿を翌日に控えた夕方、私は輝くんのマンションで、しおりを鞄に入れていた。  大学四年の彼には卒業研究もある。それでもこの学部横断のゼミを
Read more

第53話 合宿の顔ぶれ

 合宿のしおりをもう一度開くと、赤字の一行が目に飛び込んできた。  【備考:当宿の露天風呂は時間帯により男女別・混浴となります。掲示をご確認ください】  私はその部分を指で押さえた。輝くんも覗き込み、何か言いかけて笑う。 「何ですか」 「いや。栞、すごい顔してる」  明日は勉強をしに行くのだ。自分に言い聞かせ、しおりを閉じた。◇ 翌朝、集合場所の木立から蝉時雨が降っていた。  本来なら、冷房の効いた部屋でアイス片手に推しカプの動画を巡回するのが、正しい夏の過ごし方のはずだった。  それなのに、なぜ今、こんなにも胃が痛くなる状況に置かれているのか。 「――それで? 今回の合宿のテーマについて、君たちの班の仮説はまだまとまらないのかね?」  大型バスの後方、二人掛けの座席。  空調は効いているはずなのに、背中には冷たい汗が伝う。一列前で振り返った教授から、絶対零度の視線が突き刺さっていた。  氷室巌教授。  通称『氷の独裁者』にして、今回のゼミ合宿の引率者。そして、元・推しである氷室奏くんの実父であり、現在の彼氏である天王寺輝くんの宿敵でもある。 「教授。その件については昨日提出したプロポーザルに記載した通りです」  右隣、窓側の席に座る輝くんが涼しい顔で答える。  膝の上で組まれた指先には、微塵の力みもない。完璧なポーカーフェイスだ。  だが、座席の下で繋がれた左手は違う。  繋いだ指に一瞬、力がこもった。私が握り返すと、彼は小さく息を吐いて緩めた。 「ほう。あれで完成形のつもりか? 天王寺グループの次期総帥ともあろうものが、随分と浅い考察だ」「ご指摘感謝します。ですが、現場のデータを軽視した机上の空論よりは、実証性があるかと」  バチバチバチ。  目に見えない火花が散る音が聞こえてきそうだ。バスが出発してから一時間以上、この舌戦は続いている。  そして、そのとばっちりを一身に受けているのが、二人の間に挟まれている私だ。物理的距離以上に、心理的摩耗が激しい。 「……父さん。いい加減にしてくれ。月詠が怯えている」  通路を挟んだ左側の席から低い声が割り込んだ。  奏くんは手元の文庫本に視線を落としたまま、不機嫌そうに眉を寄せている。その横顔は父親譲りの冷徹な美しさを湛えているけれど、こちらに向けられる気配だけは微かに
Read more

第54話 旅先にも後輩

『月光院』の名に恥じない、幽玄な美しさをたたえた旅館だった。 「へえ、悪くないね」  輝くんがサングラスを外し、品定めするように旅館を見上げる。その横顔は、すっかり「御曹司モード」だ。 「部屋割りだが、女子学生は離れの大部屋。男子学生は本館の二階だ」  教授が事務的に告げる。  よかった。女子部屋と男子部屋が離れているなら、夜這い……じゃなくて、不測の事態は避けられそうだ。ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間。 「ただし」  教授が、ニヤリと底意地の悪い笑みを浮かべた。 「夕食までの間、班ごとに周辺のフィールドワークを行ってもらう。課題は『観光資源としての温泉の効用と限界』。レポート用紙十枚分。提出できなければ、夕食は抜きだ」 「はぁっ!?」  学生たちから悲鳴が上がる。到着早々、鬼畜すぎる。  しかも、班ごとということは……。 「……よろしくね、栞」 「……足手まといにはならないようにする」  左右から、同時に声がかかった。  輝くんの甘くねっとりとした声と、奏くんの静かで硬質な声。  A班:天王寺輝、氷室奏、月詠栞。  この地獄のトライアングルで、フィールドワークという名のデート(?)の開始だ。 「じゃあ、行こうか」  輝くんが右手を握る。  すかさず、奏くんが反対側に回り込み、無言で左側のスペースを確保する。手こそ繋いでいないものの、その距離は限りなくゼロに近い。  傍から見れば両手に花かもしれないが、当事者にとっては両側が高圧電流だ。  私の心の叫びなど露知らず、二人のイケメンに挟まれたまま、観光客で賑わう温泉街へと連れ出された。  温泉街は、硫黄の香りと湯気に包まれていた。  石畳の坂道、軒を連ねる土産物屋、浴衣姿の観光客たち。本来なら情緒あふれる光景に心を躍らせるところだが、景色を楽しむ余裕など皆無だ。 「栞、温泉饅頭食べる? あそこの店、美味しそうだよ」 「……喉が渇いたなら、ラムネを買ってやる」  輝くんが顔を覗き込めば、奏くんが背後から声をかける。  二人とも、私への気遣いというよりは、お互いへのマウント取りに必死なように見えるのは気のせいだろうか。 「あ、あの! 二人とも! まずは課題の調査を……!」  必死に軌道修正しようとした、その時だった。 「――あれ? 栞先輩?」  聞き覚えのあ
Read more

第55話 お風呂は早めに

「……時間はあまりない。手分けしてデータを集めるぞ」  さすが奏くん。このカオスな状況でも冷静だ。  私たちは奏くんの指揮のもと、なんとかフィールドワークを再開した。  ……まあ、その間も「先輩、この湯気熱いから(腰に手を回す)」「(その手を払い除けて)栞、足元段差があるよ(手を繋ぐ)」という攻防は続いたけれど。  夕刻。  這う這うの体で旅館に戻った私たちは、広間で夕食の時間を迎えていた。  レポートは、三人の優秀な頭脳と要領の良さによって、なんとか提出期限に間に合った。 「――ほう。ギリギリだったな」  上座に座る氷室教授が、レポートをパラパラと捲りながら冷ややかに笑う。その視線が、私と輝くん、奏くんを舐めるように動く。 「内容は……まあ、及第点といったところか。天王寺、君にしては凡庸なまとめ方だが」 「……共同作業ですので。チームワークを優先しました」  輝くんが涼しい顔で嘘をつく。チームワークなど崩壊していた。あれは個々の能力のゴリ押しだ。 「ふん。まあいい。食事の用意ができている。席につきなさい」  仲居さんたちが次々と料理を運んでくる。  豪華な会席料理だが、私の席は教授の正面、輝くんと奏くんに挟まれるという処刑席だ。  小さく手を合わせ、箸を伸ばす。味なんて分からない。左右からの冷気と正面からの重圧で、高級食材が砂の味に感じる。 「ところで」  刺身を口に運んでいた教授が、唐突に口を開いた。 「この旅館の風呂は、入ったかね?」 「い、いえ、まだです……」  恐縮して答えると、教授はニヤリと口角を上げた。 「そうか。ここの露天風呂は『美肌の湯』として有名でね。特に夜の景色は格別だ。……ただし」  教授が意味深に言葉を切る。 「露天風呂は一つしかない。時間帯によって男湯と女湯が入れ替わるシステムだ。そして……夜の八時から十時の間は、『混浴』となっている」 「……混浴」  その単語が出た瞬間、場の空気が凍りついた。  輝くんの手が止まり、奏くんが眉をひそめる。 「昔ながらの風情を残すため、あえて仕切りを設けていないそうだ。まあ、最近の学生は奥手だから、好んで入る者はいないだろうがね」  教授はそう言って、私をじろりと見た。 「月詠くん。君も時間は間違えないようにすることだ。……万が一、男子学生が入って
Read more

第56話 湯気の向こうの二人

「えっ!?」  嘘。  パニックになりながら、入り口の看板を思い出す。  そういえば、赤色の『女湯』の札が、裏返っていたような……? 「おい、天王寺。どうした」  さらに奥から、もう一つの声がした。冷静で、涼やかな声。  ザパァ、と音を立てて、もう一人の人影が湯船から現れる。  陶磁器のように白い肌、しなやかについた筋肉、長い手足。濡れた黒髪が額にかかり、眼鏡を外した素顔の瞳が私を捉える。  氷室奏。 「……月詠?」  奏くんが、信じられないものを見るような目で私を見た。 「ひ、ひぃぃぃっ!?」  悲鳴を上げそうになり、慌てて両手で口を覆った。  目の前には、半裸の推しカプ(元)。しかも、最高級のシチュエーション。  湯気、月光、滴る水滴、そして筋肉美。  脳内BLフィルターが、死んだはずなのに爆発的な勢いで再起動する。  尊い。いや、違う。これは現実。  私は今、彼氏と元推しの入浴中に、タオル一枚で乱入してしまったのだ。 「し、栞、見ちゃダメだ!」  輝くんが慌てて駆け寄ろうとする。その拍子にお湯が波打ち、彼のタオルが危うげに揺れる。 「っ……!」  刺激が強すぎる。  推しの裸体(ほぼ)と、彼氏の裸体(ほぼ)を同時に、至近距離で。貧弱な血管は、情報の奔流に耐えきれなかった。  視界がクラクラと揺れる。  のぼせたのか、興奮したのか、それとも単なるキャパオーバーか。 「栞!?」 「月詠!」  二人の焦った声が重なる。  私の意識は、湯気の中に溶けるように遠のいていった。 「――り、……お……!」  遠くで呼ぶ声がする。  水の音。肌を打つ湿った熱気。そして、全身を包み込むような、硬くて温かい感触。 「……っ、気がついた?」  ハッとして目を開けると、視界いっぱいに、心配そうに眉を寄せた輝くんの顔があった。  濡れた前髪から雫が滴り、長い睫毛が震えている。月明かりに照らされたその瞳は、宝石のように美しく、切実な色を帯びていた。 「あ、あれ……私……」 「のぼせたんだよ。急に倒れるから、心臓止まるかと思った」  輝くんがホッとしたように息を吐く。  現状を把握しようと視線を動かし――再び石化した。  私は今、岩風呂の縁に腰掛けさせられ、輝くんの逞しい腕に支えられている。  背中に回された腕
Read more

第57話 湯気の向こうの視線

 奏くんが、手桶に入れたペットボトルの水を差し出してくれた。 「あ、ありがと……」  受け取ろうとして、危うく取り落とす。右に輝くん、左に奏くん。しかも二人とも半裸だ。私が普段、画面越しに拝んでいるものと同じ造形が、手を伸ばせば届くところにある。落ち着け。まず水。鑑賞は後。いや、しなくていい。  一口飲むと、冷たさが喉を通り、ようやく周りを見る余裕が出てきた。岩の縁に座らされている私の肩には、タオルがかけてある。 「あの、今、何時……?」 「七時五十分だ」  奏くんの答えに、ペットボトルを持つ手が止まった。まだ男湯の時間だった。女湯のつもりで入り、驚いて気が遠くなって、目を開けても男湯。現実は、私が目を閉じたくらいでは都合よく変わらない。 「ごめんなさい、すぐ出るね」  立ち上がりかけた膝が頼りなく揺れ、輝くんの手が肘を支えた。 「慌てなくていい。ここ、滑るから」  近づいた肩に、また目が吸い寄せられる。見ないようにすればするほど、視界の端に入ってくるのはなぜなのだろう。 「……栞。顔、上げられる?」 「無理です。目の置き場がありません」  正直に答えてしまい、輝くんが吹き出した。奏くんは咳払いをして、少し向こうを向いてくれる。助かる。できれば輝くんも、そちら側に並んでほしい。  私がタオルを握り直した時、その端が首から滑り落ちた。  奏くんの視線が止まる。昨日、輝くんがつけた痕。朝、薄く重ねたコンシーラーが、汗と湯で落ちてしまったらしい。 「あ……」  言葉が出ない。恥ずかしさの後から、奏くんに見られた痛さが追いついてきた。私はもう、彼に返事をした。それでも、こういう形で突きつけたかったわけじゃない。  輝くんは何も言わず、ずれたタオルを肩へ戻してくれた。首元まで包まれると、止めていた息が少しずつ抜けていく。 「月詠」  奏くんの声に顔を上げる。 「水は、まだ持っていてくれ。……もう少し飲んでからでいい」  目は合わなかった。さっきまで手桶の縁に置いていた指が、きつく折り曲げられている。 「うん。ありがとう」  私は水を飲んだ。何か別のことを言って、この沈黙をなくしたくなる。でも、気休めの言葉を足す方が、きっとひどい。  輝くんに支えられて一歩踏み出すと、足は今度こそ地面を捉えた。脱衣所までなら歩けそうだ。そう思っ
Read more

第58話 今は見ないで

 陽翔くんは、私と、肘を支える輝くんと、少し離れた奏くんを順番に見た。 「え、何これ。俺だけ呼ばれてないやつですか」 「違うの、私が時間を間違えて……」  説明しながら、どこを向けばいいのか分からなくなる。陽翔くんまで腰にタオル一枚だ。こうして三人揃うと、もはや画面が眩しすぎて何も読めない限定カードである。ただし拡大表示を解除するボタンはない。 「栞、ふらついてるんだ。先に出る」  輝くんが言うと、陽翔くんの顔から笑いが消えた。 「先輩、大丈夫なんですか」 「うん。お水をもらって、だいぶ……」  陽翔くんが近づきかけ、私がタオルの前を握っているのに気づいて足を止める。 「……あ。すみません」  くるりと背を向けた耳が赤い。その様子に、かえってこちらも照れてしまった。いつもなら軽口の一つくらい飛んでくるのに、何も言わない。 「脱衣所に、係の人を呼ぶ電話がありました。浴衣、持ってきてもらえないか聞いてきます」 「私の着替え、女湯だと思って入った方に置いてあるの」 「それも伝えます!」  勢いよく戻っていきかけ、足元でつるりと滑った。 「七瀬、走るな」  奏くんの声に、陽翔くんが片手を上げる。危なかった。ここでもう一人倒れたら、私は一生このお風呂から出られない気がする。  脱衣所へ向かう間、輝くんは私の歩幅に合わせてくれた。肩が触れるたびに緊張はする。それでも、さっきのように視界が揺れることはなかった。 「ありがとう。もう歩ける」  そう言うと、肘に添えられた指が離れた。思っていたよりあっさりと。  自分で言ったくせに、少し心細くなるのだから始末が悪い。私は一歩先で待つ彼の背中を見て、浴衣を着たら、今度はちゃんと隣を歩こうと思った。  呼ばれてきた仲居さんは、事情を聞くとすぐに着替えを取りに行ってくれた。男性陣には外で待つように言い、私を人目につかないところへ案内してくれる。 「気分が悪くなったら、すぐ呼んでくださいね」 「ありがとうございます……ご迷惑をおかけしました」  深々と頭を下げた。三人に囲まれている時には忘れていたけれど、私、とんでもなく恥ずかしい間違いをしたのではなかろうか。いや、今さらだ。  浴衣に袖を通し、帯を結ぶ。鏡の中の首筋には、まだ赤い痕があった。襟を重ねて隠した時、奏くんが目を逸らした顔を思い出し
Read more

第59話 肝試しのくじ

 輝くんが、耳元で甘く囁く。  返事をしようとしたのに、頷くので精いっぱいだった。自分から隣に呼んでおいて、たったこれだけの言葉に照れてしまう。  障子を閉め、布団に潜り込む。同室の女子たちはまだ戻っていないらしく、部屋は静かだ。  目を閉じると、瞼の裏に焼き付いた光景が蘇る。  湯気に霞む、三人の裸体。  私に向けられた、熱っぽい瞳。  そして、呼んだら隣に座ってくれた輝くん。  私、明日生きて帰れるのかな。  心臓のドキドキが収まらないまま、天井を見上げた。  ゼミ合宿はまだ始まったばかり。  明日は、恒例の「肝試し」が待っている。  暗闇。密着。吊り橋効果。  波乱の予感しかしないキーワードが、頭の中をぐるぐると回り続けていた。  一夜明けても、胸の奥で早鐘が鳴り止まない。  朝食の席でも、移動のバスの中でも、視線が突き刺さってくる。輝くんの独占欲に満ちた熱っぽい瞳と、奏くんの静かだが確かな熱量を孕んだ眼差し。そして、別の宿にいるはずなのに朝の散歩中に遭遇した陽翔くんのあざとい笑顔。  三方向からのプレッシャーに、生きた心地がしなかった。 「――さて、諸君」  夕食後、大広間に集められたゼミ生を見渡し、氷室教授が低い声を響かせた。  浴衣姿の教授は、時代劇に出てくる悪代官さながらの貫禄を漂わせている。口元に浮かぶ笑みは、不吉な予感の塊でしかない。 「勉強ばかりでは息が詰まるだろう。今夜は、この宿の裏山を使って、日本の伝統的なレクリエーションを行いたいと思う」  ざわざわと学生たちが色めき立つ。レクリエーション? あの「氷の独裁者」が?  背筋を嫌な汗が滑り落ちた。 「……『肝試し』だ」  その単語が耳に入った瞬間、サーッと血の気が引いていく。  肝試し。暗闇。幽霊。  三大苦手要素のフルコースだ。脳内で幾多のBL妄想を繰り広げ精神を鍛えてきたとはいえ、オカルト耐性とは使用する回路がまるで違う。 「コースは裏山の神社まで。男女ペアで出発してもらう。……親睦を深めるいい機会だろう?」  教授の鋭い視線が、私と輝くん、そして奏くんの並びをなめるように掠めた。瞳の奥に宿る光は、学生の親睦を願う教育者のものではない。極上の見世物を期待する、サディスティックな光だ。 「ペア決めは公平を期すため、くじ引きで行う」  
Read more

第60話 仕組まれた組合せ

 旅館の裏手には、鬱蒼とした杉林が広がっていた。月明かりも届かない山道は、足元の判別すらつかないほど暗い。風が木々を揺らす音が、正体不明の何かの囁き声のように耳へ絡みつく。 「うぅ……暗い……怖い……」  両腕を抱きしめ、ガタガタと震えながら足を運ぶ。  修羅場の緊張感など一瞬で吹き飛ぶほど、原初的な闇への恐怖が支配していた。どこからか白い手が伸びてきたら。落ち武者の霊が目の前に現れたら。 「……月詠」  隣を歩く奏くんが、静かに声をかけてきた。懐中電灯の明かりが、彼の足元だけを白く切り取っている。 「大丈夫か? 歩くのが遅れているが」 「ご、ごめん……足がすくんで……」 「……そうか」  奏くんが足を止め、振り返る。暗闇の中で、瞳だけが微かに光を宿していた。少し躊躇うように視線を泳がせた後、意を決したように手が差し出される。 「……掴まれ」 「え?」 「足元が危ない。……それに、震えているだろう」  ぶっきらぼうな口調。だが、声色には隠しきれない優しさが滲んでいる。差し出された手は大きく、骨ばっていた。  輝くんが出発前に見せた、いかにも不服そうな顔が脳裏をよぎる。しかし、この恐怖には勝てない。腰を抜かしてリタイアするよりは、好意に甘える方がマシだ。 「……ありがとう」  おそるおそる、彼の手を取る。  ひんやりとしていた指先は、握るとすぐに熱を帯びていった。ギュッと握り返してくる力強さに、不思議と恐怖が和らいでいく。 「行くぞ」  手を引かれ、再び歩き出す。  一歩先を行く背中は、昨日まで見ていた「線の細い美少年」のそれとは違っていた。浴衣の肩幅は意外と広く、私を闇から守るように立ちはだかっている。  (……頼もしい、かも)  不覚にも、そう感じてしまった。推しカプとして見ていた時は「儚げな受け」だと思っていたのに、現実の彼はこんなにも「男」なのだ。  吊り橋効果だろうか。心臓が早鐘を打つ。でも、この鼓動は恐怖のせいだけじゃない気がして、慌てて首を振った。  ダメだ。私には輝くんがいる。それに、このペア決めだって裏工作があったはずだ。奏くんもグルだったのか? 「……奏くん」 「なんだ」 「あのくじ引き……本当に偶然だったの?」  問いかけに、奏くんの足がピタリと止まる。握られた手に、わずかに力がこもった。
Read more
PREV
1
...
45678
...
15
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status