LOGIN土煙が雨風に浚われていく。
破壊された扉の向こう、雷光に切り裂かれた闇の中に二つの人影が浮かび上がっていた。「……離れろ、天王寺」 どさり、と重い音が響く。どこで拾ったのか、赤錆の浮いたバールが床に投げ捨てられた。 踏み込んできた奏くんが、大股で距離を詰めてくる。濡れそぼった黒髪が青白い頬に張り付き、眼鏡の奥の双眸は凍てつくように冷たい。だが、その底には抑制の効かない焦燥と、ドロドロとした怒りが渦を巻いているのが見て取れた。「先輩から……離れてくださいッ!」 背後から陽翔くんも続く。泥に塗れた顔を拭おうともせず、射殺さんばかりの鋭い視線。いつもの人懐っこい「わんこ」の面影など欠片もない。そこにいるのは、己の縄張りを荒らされた獣そのものだった。「……チッ」
耳元で、わざとらしいほど大きな舌打ちが弾ける。 輝くんは私を抱きしめていた腕を解こうとはしない。覆いかぶさるような体勢からわずかに身を引き、私を背に隠すようにして闖入者たちと対峙した。「せっかくのいい雰囲気を……。野暮な奴らだな」「貴様……! この状況で何をしていた!」「見ればわかるだろ? 恋人同士の『雨宿り』だよ」 悪びれる様子もなく、輝くんが唇の端を吊り上げる。 その挑発的な態度に、奏くんのこめかみで血管が脈打つのが見えた。「……ふざけるな」 胸倉が乱暴に締め上げられる。 一触即発。殴り合いが始まるまで、秒読みの空気。「や、やめて! 二人とも!」 悲鳴に近い声を上げ、私は輝くんの背中から飛び出した。 強引に二人の間へ割って入ろうとした、その時だ。動いた拍子に、乱れていた浴衣の襟元がはらりと広がる。「……ッ!」 三人の視線が一点に吸い寄せられた。 私の首筋。輝くんが刻み込んだばかりの所有の印と、執拗に啄まれた赤く腫れた唇。 空どれくらい眠っていただろうか。 ふと、意識の端が浮上した。まどろみの中で聴覚だけが鮮明に世界を捉える。 雨音はいつの間にか止み、深い静寂が満ちていた。その静止した世界に、ぽつり、ぽつりと、低い話し声が落ちてくる。「……寝たか」「ああ。……穏やかな寝息だ」「すげえ無防備な顔。……襲っちゃいたいくらい可愛いっすね」 おどけた調子の中に、隠しきれない熱を含んだ陽翔くんの声。 私は動くタイミングを完全に失ってしまった。私の寝顔を囲んで、男三人の秘密の会話が始まろうとしている。バレないように呼吸を整え、私は全神経を耳に集中させた。「……七瀬。お前、さっきの言葉、訂正しろ」 輝くんの声が、鋭い刃のように冷たくなる。「冗談ですよ。……でも、先輩があんな顔で寝てたら、男なら誰だって理性が揺らぐでしょ」「……否定はしない」 奏くんが短く、重みのある同意を返した。「だが、今は緊急事態だ。彼女にこれ以上の負担をかけるわけにはいかない」「分かってますよ。俺だって、先輩が怖がってる姿は見たくないし」 衣擦れの音がして、誰かが私の毛布を整えてくれた。その手つきは、驚くほど繊細で優しい。「……なあ」 沈黙を破ったのは輝くんだった。いつもより低く、フラットな声。「お前らさ。……本当はどう思ってんの。栞のこと。……ただの執着なのか、それとも」 深夜の密室。恋のライバル同士が交わす、本音の腹の探り合い。起きるべきか否か葛藤する私の耳に、奏くんの静かな独白が流れ込んできた。「……俺は、ずっと後悔していた」 奏くんの声は、夜の静寂に溶け込むほど澄んでいた。「中学のあの日、彼女が声をかけてくれた時……本当は嬉しかった。なのに、素直になれな
嵐の咆哮は、未だ止む気配を見せない。 窓ガラスを激しく叩きつける雨音と、時折建物を芯から震わせる雷鳴。けれど、この狭い資料室の中に流れる空気は、先ほどまでの張り詰めた緊張感とは異なる、奇妙な静けさを帯び始めていた。「……とりあえず、場所を確保するか」 誰かがぽつりと漏らした独り言が合図となり、ようやく止まっていた時間が動き出した。 視界には、泥にまみれてずぶ濡れの美青年が二人と、浴衣を乱したまま不機嫌そうに腕を組む彼氏が一人。 あまりに情報量が多い。カオスすぎる状況に、私の脳は処理限界を迎えようとしていた。「先輩、寒くないですか。これ、使ってください」 陽翔くんが部屋の隅で見つけてきた毛布を広げ、私の肩に回してくれる。埃を払う手つきさえ、どこか手慣れていて様になっていた。「あ、ありがとう……」「いいえ。あ、でも俺も濡れてるから、ちょっと乾かさないとな」 彼はそう言って、無造作にTシャツの裾を掴んだ。そのまま、ためらいもなく一気に脱ぎ捨てる。「ひゃっ!?」「おい七瀬! 栞の前で脱ぐな!」 輝くんが即座に反応し、私の視界を大きな手で遮った。 しかし、指の隙間からは引き締まった腹筋と、若々しい肌の質感が嫌でも目に飛び込んでくる。普段のわんこ系な振る舞いからは想像もつかない、しっかりとした「男」の体つき。そのギャップは、今の私にはあまりに毒が強すぎた。「えー、だって濡れてて気持ち悪いし。……それに、輝先輩だってはだけてるじゃないですか」「俺はいいんだよ、彼氏なんだから」「はいはい、出た出た彼氏特権」 陽翔くんはどこ吹く風といった様子で、上半身裸のままストーブの前へと移動した。奇跡的に灯油が残っていた旧式の石油ストーブが、赤い火を灯して部屋を暖め始める。「……月詠。こっちのソファを使え」 奏くんが、一番状態の良さそうな長椅子を指し示した。彼もまた、濡れたシャツが肌に張り付き、しなやかな身体のラインが透けて見えている。眼鏡の
土煙が雨風に浚われていく。 破壊された扉の向こう、雷光に切り裂かれた闇の中に二つの人影が浮かび上がっていた。「……離れろ、天王寺」 どさり、と重い音が響く。どこで拾ったのか、赤錆の浮いたバールが床に投げ捨てられた。 踏み込んできた奏くんが、大股で距離を詰めてくる。濡れそぼった黒髪が青白い頬に張り付き、眼鏡の奥の双眸は凍てつくように冷たい。だが、その底には抑制の効かない焦燥と、ドロドロとした怒りが渦を巻いているのが見て取れた。「先輩から……離れてくださいッ!」 背後から陽翔くんも続く。泥に塗れた顔を拭おうともせず、射殺さんばかりの鋭い視線。いつもの人懐っこい「わんこ」の面影など欠片もない。そこにいるのは、己の縄張りを荒らされた獣そのものだった。「……チッ」 耳元で、わざとらしいほど大きな舌打ちが弾ける。 輝くんは私を抱きしめていた腕を解こうとはしない。覆いかぶさるような体勢からわずかに身を引き、私を背に隠すようにして闖入者たちと対峙した。「せっかくのいい雰囲気を……。野暮な奴らだな」「貴様……! この状況で何をしていた!」「見ればわかるだろ? 恋人同士の『雨宿り』だよ」 悪びれる様子もなく、輝くんが唇の端を吊り上げる。 その挑発的な態度に、奏くんのこめかみで血管が脈打つのが見えた。「……ふざけるな」 胸倉が乱暴に締め上げられる。 一触即発。殴り合いが始まるまで、秒読みの空気。「や、やめて! 二人とも!」 悲鳴に近い声を上げ、私は輝くんの背中から飛び出した。 強引に二人の間へ割って入ろうとした、その時だ。動いた拍子に、乱れていた浴衣の襟元がはらりと広がる。「……ッ!」 三人の視線が一点に吸い寄せられた。 私の首筋。輝くんが刻み込んだばかりの所有の印と、執拗に啄まれた赤く腫れた唇。 空
暗い室内、ソファの背もたれと輝くんの体の間に押し込められ、身動きが取れない。上からのしかかる影が視界を塗りつぶしていく。「……あ、きら、くん……っ」 呼ぶ声が上擦った。「逃げないで」 帯の結び目に指を掛けられる。衣擦れの音が耳元で大きく響き、背筋を氷のような、それでいて焼けつくような電流が駆け抜けた。「輝くん、待って……! 本当に、心の準備が……!」「準備なんていらないよ。……栞はただ、俺に溺れてればいい」 鼓膜を溶かすような囁きと共に、鼻先が触れ合う距離まで顔が迫る。混ざり合う吐息。瞳の奥に揺らめく昏い熱情が、理性を焼き尽くそうとしていた。 脳裏で警鐘が鳴り響いているのに、四肢は泥のように重く、拒絶の動作を取れない。むしろ、熱を帯びた掌が肌の上を滑るたび、身体の芯から得体の知れない疼きが湧き上がってくる。 これが、「現実」の恋人同士のスキンシップなのか。 紙面越しに見てきたBLの世界とは違う。もっと生々しい重量と、湿り気を帯びた匂い。どうしようもなく甘美な引力が、思考を停止させる。「……栞」 首筋に顔を埋められた。脈打つ頸動脈の上へ、熱い唇が押し当てられる。「んっ……!」「いい匂い……。昨日の、あいつの匂いなんて、もう残ってないね」 昨夜、嫉妬に駆られた彼がつけた痕を、上書きするように甘噛みされた。針で刺したような痛みと、痺れるような快感。背中が勝手に反り返る。「俺だけのものだ。……誰にも渡さない」 呪文のように繰り返される独占欲。指先が浴衣の襟元をゆっくりと広げていく。張り詰めた空気に晒された肌を、外気の冷たさと彼の手の熱さが交互に苛んだ。「輝くん……私、輝くんのこと、好きだよ……」 恐怖と快楽の狭間で、堰を切ったように本音
「とりあえず、窓際から離れよう。雷が近いし、風が入ってくる」 輝の声に引かれ、別館のさらに奥、資料棚が迷路のように入り組んだスペースへと足を踏み入れた。 頼りなく揺れるスマホのライトが、積み上げられた古文書や民具の影を不気味に長く引き伸ばしていく。外では絶え間なく雷鳴が轟き、建物全体が風に煽られミシミシと悲鳴を上げていた。「うぅ……」 生きた心地がしない。 古びた建物特有の湿った空気と、密室という逃げ場のない圧迫感。喉の奥にへばりつくような恐怖が、胃の腑を冷たく締め上げる。「ここなら少しはマシかな」 輝が足を止めたのは、部屋の隅に鎮座する古びたソファの前だった。 埃よけの大きな布がかけられ、脇には木箱に入った毛布らしき布地が見える。「これ、使えるかな……。ちょっと埃っぽいけど」 輝が毛布を広げ、パンパンと軽く叩く。 長年放置されていた黴臭い匂いが鼻をつくが、贅沢は言っていられない。雨に濡れた浴衣が皮膚に張り付き、体温を容赦なく奪っていく。「座って、栞」 言われるままソファに腰を下ろすと、頭上からふわりと毛布が降ってきた。 直後、当然のように隣へ沈み込む気配。同じ毛布の中に、彼が潜り込んでくる。「……っ!」 狭いソファだ。必然的に肩と肩、太ももと太ももが密着する。 芯まで冷え切っていた肌に、彼の体温が火傷しそうなくらい鮮烈に伝播した。「寒い?」「う、ううん。……大丈夫」「嘘つき。震えてる」 伸びてきた腕が、毛布ごと体を抱き寄せる。 抵抗する間もない。気づけば彼の胸の中にすっぽりと収まり、逃げ場を失っていた。「あ、輝く……」「じっとしてて。暖房もないし、こうしてるのが一番暖かいから」 耳元で囁く声は低く、理性的だ。 だが、肋骨越しに響く鼓動は、トクトクと速いリズムを刻んでいる。抱きしめる腕の強さと、裏腹な心臓の音。同調す
本館とは打って変わり、郷土資料館の別館はしんと静まり返っていた。 歩を踏み出すたび、頼りない床板が軋み声を上げ、埃っぽい空気が鼻腔をくすぐる。窓の外には鬱蒼とした木々が迫り、真昼だというのに薄暗い。 何かが起きそうな気配が、肌にまとわりつくようだ。「ここ、すごいね……。何十年前の資料だろう」「さあね。整理されてないみたいだし、掘り出し物があるかもよ」 スマホのライトが古びた棚をなぞる。闇に浮かび上がる輝くんの横顔は、探検を楽しむ少年のようで、同時に頼りがいのある男の顔も覗かせる。不覚にも、胸の奥が甘く疼いた。「あ、これとか面白そう! 『月光院に伝わる天女伝説異聞』だって!」「へえ。栞はそういうの好きだもんね」「うん! こういう土着の伝承って、実は禁断の恋の隠喩だったりするんだよ。例えば天女が実は男で、村の若者と……」 いつもの妄想を口走りかけた、刹那。 ゴロゴロ……ッ!! 腹の底を直接殴りつけるような重低音が、遠くで響いた。 肩を震わせて窓の外を見る。さっきまで木漏れ日が差し込んでいた空が、いつの間にかどす黒い雲に覆い尽くされている。風が唸り声を上げ始め、木々がザワザワと騒ぎ出した。「……雷?」「天気予報、外れたかな。……降りそうだね」 眉を潜めて空を見上げた、次の瞬間だった。バラバラバラッ! と大粒の雨礫が屋根を叩き始める。 音は瞬く間に轟音へと変わり、バケツをひっくり返したような豪雨が世界を白く染め上げていく。「わ、すごい雨……!」「戻ろう、栞。ここじゃ雨宿りも心細い」 差し出された温かい手を取ろうとした時。 ピカッ!! ドガアアアアアン!!!! 視界が白熱した光に塗りつぶされ、鼓膜を破らんばかりの轟音が炸裂した。 地面が跳ねたかと思うほどの衝撃。「きゃあっ!」「っ、伏せて!」 強い力で抱き寄せられ、覆いかぶさられる。直後、フツリと室内の照明が落ちた。「……え?」 漆黒。 窓外の雷光だけが、チカチカと不規則に室内を切り取る。雨と雷の支配する世界に、取り残されてしまったようだ。「し、停電……?」「みたいだね。……大丈夫? 怪我はない?」 耳元で囁く声。暗闇の中、密着した体温だけが鮮明な輪郭を持って伝わってくる。 早鐘を打つ心臓を片手で押さえ、コクコクと首を縦に振った。声が出ない。「う、うん。大