夜に溶けきる寸前の空が、窓の外に広がっていた。十八時少し前の社内。残業申請のない社員たちはすでに引き上げ、オフィスの中には散らばる蛍光灯の光と、ところどころの席に残されたデスクライトだけが灯っていた。コピー機の作動音も、清掃員の足音もなく、東都商事・営業二課は、稀に見る静寂をまとっていた。晴臣は、自席で最後のチェックを終えた書類をデータ化し、USBを外してバッグにしまった。「さて…」声に出すこともなく、そう呟くように息を吐きながら立ち上がる。机の引き出しを静かに閉め、ジャケットを肩にかける。タイムカードを切ろうとフロアを出たそのとき、目の前の廊下の先に岡田の後ろ姿が見えた。その人も、ちょうど帰るところだったらしい。背中のラインが、ネクタイの先まできちんと整っているのが目に留まる。珍しいな、と思った。それだけのことだったはずなのに、なぜか、その後ろ姿に吸い寄せられるように足を進めていた。エレベーター前に立つと、岡田が気配に気づいたように振り返った。「お、主任もお帰り?」「はい、今ちょうど」それだけ言葉を交わすと、また沈黙が落ちた。しんとした廊下に、電子音と共にエレベーターの扉が開く。乗り込んだふたりの間に、会話はなかった。フロア表示がひとつずつ下がっていくたびに、わずかに軋むような機械音が耳に残る。晴臣は、自分でも妙だと思いながら、真正面を見ていた。視線を岡田の横顔に向けないように、まるで意識してそうしていた。なぜだろう。ここ数日、岡田という存在がやけに近い。仕事で関わっているのはもちろんだが、それだけでは片づけられない“密度”が、どこかにある。昨日触れた手の感触が、ふと指先に蘇る。あの温度。言葉にできない沈黙。交わされなかった答え。扉が静かに開いた。一階のロビーは、昼間の賑わいが消えて、ガラス張りの壁から伸びた斜めの夕陽が床に長く差し込んでいた。岡田が先に歩き出し、自動ドアの前で立ち止まる。その横顔に、ちょうど西日の光がかかる。
Last Updated : 2025-10-27 Read more