All Chapters of そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。: Chapter 11 - Chapter 20

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11.気づいたら、見てしまっていた

夜に溶けきる寸前の空が、窓の外に広がっていた。十八時少し前の社内。残業申請のない社員たちはすでに引き上げ、オフィスの中には散らばる蛍光灯の光と、ところどころの席に残されたデスクライトだけが灯っていた。コピー機の作動音も、清掃員の足音もなく、東都商事・営業二課は、稀に見る静寂をまとっていた。晴臣は、自席で最後のチェックを終えた書類をデータ化し、USBを外してバッグにしまった。「さて…」声に出すこともなく、そう呟くように息を吐きながら立ち上がる。机の引き出しを静かに閉め、ジャケットを肩にかける。タイムカードを切ろうとフロアを出たそのとき、目の前の廊下の先に岡田の後ろ姿が見えた。その人も、ちょうど帰るところだったらしい。背中のラインが、ネクタイの先まできちんと整っているのが目に留まる。珍しいな、と思った。それだけのことだったはずなのに、なぜか、その後ろ姿に吸い寄せられるように足を進めていた。エレベーター前に立つと、岡田が気配に気づいたように振り返った。「お、主任もお帰り?」「はい、今ちょうど」それだけ言葉を交わすと、また沈黙が落ちた。しんとした廊下に、電子音と共にエレベーターの扉が開く。乗り込んだふたりの間に、会話はなかった。フロア表示がひとつずつ下がっていくたびに、わずかに軋むような機械音が耳に残る。晴臣は、自分でも妙だと思いながら、真正面を見ていた。視線を岡田の横顔に向けないように、まるで意識してそうしていた。なぜだろう。ここ数日、岡田という存在がやけに近い。仕事で関わっているのはもちろんだが、それだけでは片づけられない“密度”が、どこかにある。昨日触れた手の感触が、ふと指先に蘇る。あの温度。言葉にできない沈黙。交わされなかった答え。扉が静かに開いた。一階のロビーは、昼間の賑わいが消えて、ガラス張りの壁から伸びた斜めの夕陽が床に長く差し込んでいた。岡田が先に歩き出し、自動ドアの前で立ち止まる。その横顔に、ちょうど西日の光がかかる。
last updateLast Updated : 2025-10-27
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12.ネクタイはまた曲がっていた

月曜の朝は、どこか湿気を孕んでいた。十月も半ばになり、秋の匂いは濃くなってきたはずなのに、東京の空気はまだ汗ばんだ肌にじっとりと張り付くような温度を残している。東都商事の営業二課フロアには、冷房の名残とコーヒーの香りと、キーボードの軽快な打鍵音が交錯していた。週明け特有の張りつめた空気が漂うなか、晴臣はすでにデスクに着いてメールのチェックを終え、会議用の資料に目を通していた。エレベーターの扉が開く音がして、ゆるい足音がフロアに近づいてくる。晴臣は手元の資料を閉じ、気配だけで誰なのかを察する。「おはようさん」岡田佑樹の声だった。相変わらずのんびりとした関西訛り。大して早口でもないのに、言葉の輪郭だけがはっきりと届くその話し方は、フロアに不思議な余白を作っていく。晴臣は顔を上げた。案の定、岡田は今日も寝癖をつけたまま現れた。白いシャツはアイロンが甘く、ネクタイは見事なまでに右に傾いている。「……おはようございます」「ん、おはよ」岡田はそのまま自席に座ると、鞄からぐちゃりとした資料を取り出し、机の上に広げた。椅子の背にジャケットを放り投げるようにかけ、ペンを探して机の中を引っ掻き回す。ペン立てに入っているにもかかわらず。晴臣は無言のまま立ち上がり、会議室に提出する資料を手にした。そのついでのように、岡田の席に近づいていく。岡田が気づくよりも先に、晴臣は手を伸ばした。ネクタイの結び目に指先が触れる。岡田の動きが一瞬、止まる。ごく軽く、人差し指と親指で結び目を整える。その下の細い布がまっすぐになるように撫で下ろすと、晴臣の手の甲に微かな温もりが触れた。岡田の喉が、わずかに動いた。声を出すでもなく、身を引くでもなく、ただそこに立っている。触れた首元の皮膚は思っていたよりも柔らかく、熱を持っていた。香水でも汗でもない、岡田の体温のような匂いが、わずかに指先にまとわりつく。「……」晴臣は何も言わず、手を引いた。
last updateLast Updated : 2025-10-27
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13.ボタンと声と、無防備な笑顔

廊下の奥から、うっすらと紙詰まりの警告音が聞こえていた。昼下がりの本社ビル。営業二課のフロアを離れたコピー室は、どこか取り残されたような静けさを湛えていた。晴臣は手にした企画書を提出先に届ける途中、その音に足を止めた。「……」角を曲がった先、コピー機の前で困ったように立ち尽くしている人物がいた。岡田だった。ネクタイは当然のように少し斜めにずれ、シャツの裾が片方だけわずかにズレている。足元にはコンビニのビニール袋。よく見ると、襟元のボタンもどこか浮いている。手にしたマニュアルのような紙を片手でひらひらさせながら、もう一方の指でタッチパネルをあちこち突いている様子が、まるで機械に遊ばれている子どものようだった。「何してるんですか」晴臣が声をかけると、岡田は振り向いた。「あ、主任。えっとな、両面印刷しようとしたら…なんか、裏だけ真っ白で出てきてもうて」「設定、逆ですよ。原稿、上向きに置かないと」「そうなんか?ほな…あ、もう出てきてもうた」言いながら、岡田が手を伸ばした拍子に、シャツの前がふわりと開いた。見えてはいけないほどではないが、ボタンが一つ、ずれていることに晴臣はすぐに気づいた。こういうとき、なぜか目が勝手にそういう場所を捉えてしまう。コピー機の排出口から無音で吐き出される失敗した用紙を岡田が受け取り、肩をすくめる。「すまんな。紙、無駄にしてもうて」「いいですけど。あと…ボタン、ひとつずれてます」「え、どこ?」岡田が視線を下に向ける。その間に晴臣は自然と数歩近づいていた。「ここ。第二ボタンがこっちの穴に入ってる。ちょっといいですか」「え、ああ…うん」言うよりも先に、手が動いた。襟元に指先を滑り込ませ、ずれているボタンを静かに外す。そのまま、正しい穴に通し直す。指が一度、岡田の胸元に触れた。シャツ越しに感じた肌の温度は
last updateLast Updated : 2025-10-27
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14.その笑い声が、気に障る

正午を少し回った頃、営業二課のフロアには昼休み特有のゆるやかな空気が流れていた。いつものように弁当を囲むグループ、食事を終えてスマホを見つめる者、コンビニの袋を提げて戻ってくる者、それぞれが束の間の自由に身を預けている。蛍光灯の白い光の下に、どこか気の抜けた会話と笑い声が響いていた。晴臣は自席でサラダをつつきながら、斜め向かいに目をやった。岡田が、川嶋紗英と話していた。川嶋は入社三年目の営業アシスタントで、明るく、誰にでも分け隔てなく接するタイプだ。けれどその人懐っこさが、たまに必要以上に近く感じられるときがある。特に、相手が岡田である場合には。「ほんまに?課長、それどう見ても自分が悪いですよ〜」川嶋の声はよく通る。笑い混じりに軽く詰め寄るような口調に、岡田が苦笑する。「いやいや、紗英ちゃん、それはちょっと手厳しいわあ」その呼び方に、晴臣の指がピタリと止まった。咀嚼の途中、舌に残ったトマトの酸味が妙に鮮烈に感じられる。箸を持つ手が、ほんの僅かに硬直した。「紗英ちゃん」――岡田の口から出たそれは、あまりにも自然で、悪気のない甘さを含んでいた。だが、耳に入った瞬間に、喉奥に何かが刺さるような感覚を覚えたのはなぜだろう。「やだ、課長、ちゃっかり名前で呼ぶとかずるい〜」「いややなあ。人見知り克服のための努力やがな」「どこが人見知りですか。あれでモテるんですよね〜、うちの課長」それは別の席から投げられた軽口だった。ちょうど今食事を終えたばかりの若手社員が笑いながら言った。「この前、総務の小泉さんも言ってたよ。『岡田課長って絶対ギャップあるよね』って」「ギャップとかあったっけ?」「あるある。見た目ちょっと頼りなさそうなのに、めちゃくちゃ切れるとこ、あれ反則でしょ」笑い声が小さく弾けた。晴臣は作り笑いを浮かべたまま、声を出さずに箸を置いた。胸の奥に、じりじりとした熱が渦巻いている。岡田はと言えば、恥ずかしそうに後頭部をかいている。「そない持ち上
last updateLast Updated : 2025-10-28
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15.俺はただ、整えているだけだ

会議室のドアがゆっくりと開いた。まだ照明が点けられていない薄暗い部屋に、静かに差し込む朝の日差しが、ブラインド越しにテーブルの上に筋を描いている。整然と並んだ椅子と、中央のプロジェクター、ガラス張りのホワイトボード。人の気配が薄いぶん、空気は冷えて張りつめていた。「おはようさんです」岡田の声が響いたのは、そんな空気を割るようにしてだった。手に抱えていた資料がふた束。左腕に挟むようにして、片手でノートパソコンを持っている。姿勢がやや崩れ、そのせいか、ジャケットの裾が捲れていた。晴臣はすでに部屋の隅にいた。プロジェクターの接続を確認し、スクリーンを下ろしている途中だった。「おはようございます。資料はそこに置いてください」「了解」岡田は笑いながらテーブルの端に資料を置き、ようやく手が空いたらしい。すっと伸びをしてから、席のひとつに腰を下ろす。だがそのとき、晴臣の視線は一箇所で止まっていた。やはり今日も、ネクタイは少し曲がっている。結び目が微妙に左寄りにずれており、シャツの襟がわずかに浮いていた。締め方が甘いせいか、ネクタイの結び目そのものもゆるくて、首元に隙間ができている。いつも通りだった。なのに、今日はどうしてこんなにも気になるのだろう。プロジェクターの電源を入れ終えると、晴臣は何も言わず、岡田のほうへ近づいた。岡田は椅子に腰かけたまま、資料の順番をぱらぱらと指先でめくっている。無防備な横顔に、いつもの気の抜けた笑み。ネクタイの歪みも、襟の乱れも、気にする様子はまったくない。「……失礼します」それだけ言って、晴臣は手を伸ばした。岡田が驚いたように目を上げるよりも早く、ネクタイに指を添え、そっと結び目をほどき始める。結び直すというより、“整える”という動作だった。指先がシャツの生地とネクタイの間を滑る。その下にある岡田の喉が、わずかに動くのが見えた。瞬間、彼が息を飲んだ気配がした。晴臣は視線を上げない
last updateLast Updated : 2025-10-29
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16.誰が決めたわけでもないのに

営業二課のフロアに、夕暮れの色がじわりと差し込んでいた。窓際のブラインド越しに、陽が斜めに傾いて差し込み、デスクの上に淡い影を作っている。外はもう、秋の気配が濃い。時間はまだ18時にも届いていないはずなのに、オフィスの照明が早々に灯されていた。晴臣は、デスクの資料をまとめながら、ふと近くの椅子に座る男に目を向けた。岡田は、何やら書類に赤ペンを走らせていた。ジャケットを椅子の背に引っ掛けたまま、シャツの袖を肘までまくっている。くしゃっとした髪と、気の抜けた背中。けれども、その手元のチェックは案外几帳面で、赤ペンの文字は整然と並んでいた。ふと顔を上げた岡田が、こちらに目をやりながら呟く。「今日も頼むわ」唐突なその言葉に、晴臣は目を細めた。「…俺、そういう係じゃないんですけど」「わかってるけど、なあ? もう慣れたやろ?」慣れた、とは。その言葉に皮肉を返しかけたものの、視線が岡田の首元に滑って止まる。案の定、今日もネクタイが斜めに曲がっていた。結び目がわずかに右寄りにずれて、片方の襟が持ち上がっている。前に注意してもまったく改善されなかったせいで、いまではもはや直すことが習慣のようになっていた。誰が決めたわけでもないのに。いつのまにか、自分の役目になっていた。晴臣は軽くため息をつきながら、椅子から立ち上がる。岡田はすでに、背筋を伸ばし、あごをほんの少し上げていた。直してもらう気満々のその姿勢に、苦笑すら漏れる。「ほんとに、無意識でこうなるんですね。どうしたらこんな結び方になるんですか」「才能かなあ」「ただの不精です」そう言いながら、晴臣は指先をネクタイの結び目に添えた。触れた瞬間、ほんのりとした温かさが伝わる。岡田の体温。夕方になって冷えてきた空気の中、そのぬくもりがやけに鮮明だった。ネクタイの生地はやや光沢のあるネイビー。午後の日差しがかすかに反射して、指先にわずかな滑りを感じさせた。一度結び目を緩めて、左右のバランスを整える。自然と目線
last updateLast Updated : 2025-10-30
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17.気づいたのは、俺の方が先だった

夜のオフィスは、まるで別の場所のようだった。人の気配がすっかり消えたフロアには、冷たい蛍光灯の光とパソコンの待機音だけが残っている。定時をとうに過ぎたはずなのに、晴臣はまだ自席に残っていた。机の上には、今日一日で使った資料やメモ、回覧されてきた社内報、ペンの類が散らばっている。その一つひとつを、静かに、整えるように片づけていた。シャーペンのキャップを指先で押し込むたび、紙の角を揃えるたびに、指先に神経を集中させる。まるで、それをしている間だけ、何かを考えずに済むかのように。…けれども。手は勝手に動いていても、思考だけは勝手に動くことをやめてくれない。晴臣の脳裏には、ついさっきまで目の前にいた人間の顔が、ずっと居座っていた。岡田課長。だらしない寝癖と、常に片方だけ緩んでいるネクタイ。ちょっと気を抜くとボタンのかけ違いすら起こす、正直に言って“社会人としてどうなのか”のレベル。なのに、たまに見せる真っ直ぐな眼差しや、低く通る声には、妙に説得力がある。笑えば柔らかく、黙ればやけに鋭く見える。そして、ネクタイ。今日も、結び直したばかりだった。いつものように。…いや、いつものように、というのは違うかもしれない。あの瞬間の、触れた指先の感覚。布地の中に感じた、わずかに脈打つような熱。近すぎる距離に呼吸を飲み込んでしまいそうになった、あのときの胸の奥のざわめき。それはもう、日常でも、仕事でも、役割でもない。ふと、自分でも気づいてしまった。「あの人はたぶん、自分では気づいていない」呟いた声が、誰もいないフロアに吸い込まれていく。無意識に首元を差し出してくるその様子は、あまりにも無防備だった。けれど、それが単なる鈍感さやルーズさとは違うことに、晴臣は気づいてしまった。隙だらけで、気が抜けていて、頼りなさすらあるのに、どこか脆さを抱えている。ふとした言葉に、こちらが勝手に踏み込んでしまいそうになる。ふとした笑顔に、心の奥を掬われて
last updateLast Updated : 2025-10-31
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18.夜更けの傘、濡れた道

深夜零時を過ぎたばかりの駅前は、週末とは思えないほど静かだった。昼間の賑わいが嘘のように消え、開いているのはコンビニと、明かりの落ちた居酒屋の看板だけ。細い裏路地には小雨が落ち続け、傘に当たる雨粒の音が、やけに耳に残った。晴臣は、右手に持った黒い折りたたみ傘の下で、隣を歩く岡田の歩幅に合わせていた。酔いが回っているのか、岡田の足取りはやや不安定で、ときおり地面の水たまりを踏む音が鈍く響いた。「おー、よう降るなあ。せっかくの金曜やのに」岡田がぽつりとそう言いながら、濡れた髪をかき上げた。「飲み過ぎなんですよ。自分で帰れるって言ってたくせに」「言ったなあ。言ったけど、ちょっと不安やってん。ほら、電車もないし…」「タクシー拾ってください」そう返しながらも、晴臣は岡田の隣を離れなかった。どちらからともなく歩き出した道は、駅前の広い通りではなく、一本奥に入った裏通りだった。傘が二人分にしては少し小さくて、肩がかすかに濡れるたび、岡田の上着の袖が晴臣の手の甲をかすめた。「ありがとさん。助かるわ」「別に、帰り道ですから」岡田は笑った。その笑顔が、夜の静けさの中では妙に近く感じた。いつものような緩さに加えて、酔いのせいか、どこか力が抜けていて…その無防備さが、少しだけ晴臣の呼吸を乱した。そして、不意に。岡田の手が、晴臣の腕に触れた。「おっと…」ぐらりと体が傾いだ岡田が、バランスを取るように晴臣の肘を掴む。ほんの一瞬、彼の指がシャツの生地越しに肌へと触れた。湿気を含んだ空気と雨粒に包まれていたはずの感覚の中に、指先だけが異様に熱を帯びて残った。「……すみません」「ん?ああ、ええよ。ちょっと足元ふわふわしてたわ」岡田は悪びれる様子もなく笑っていた。その笑顔の輪郭が、街灯の滲んだ光に照らされていた。洗剤の匂いがした。香水ではない、けれど岡田自身に馴染んだ柔らかい香り。シャツの襟が少し開いていて、首筋
last updateLast Updated : 2025-11-01
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19.灯りの下の横顔

岡田のマンション前に立ったとき、雨はすでに小降りになっていた。駅から十分も歩けば着くような距離だったのに、やけに長く感じたのは、傘の下にあった静かな空気のせいか、それとも隣にいた男の無防備さに気を取られていたからか。マンションのエントランス前、足元に敷かれた濡れたタイルが照明を鈍く反射している。上からは淡い橙の光が差していて、雨粒を抱いた髪の先や、岡田の頬を仄かに照らしていた。「……ちょっとだけ、寄ってく?」傘を畳んだタイミングで、岡田がふと口にした。そう言ってからすぐに、自分でも軽率だったかと思ったのか、彼は少しだけ笑った。「別に、変な意味ちゃうよ。お礼や、お礼」「……お礼って、何のですか」「今日、送ってくれたやんか。ありがとな」岡田はそう言って、スーツの内ポケットに手を入れる。鍵を探しているようだったが、その手つきもどこか緩やかで、まるで深く考えていないように見えた。だが、その笑顔がどうにも引っかかる。唇の端は上がっている。声もいつものように間延びしている。けれど――その目だけが、どこか笑っていなかった。マンションのエントランス前は半屋外のようなつくりになっていて、コンクリートの天井から吊るされた照明が風に揺れていた。わずかに風が吹き込むと、その灯りがふわりと揺れ、岡田の顔の影がふっと動いた。鍵を取り出す瞬間、岡田の横顔に陰影が差した。雨に濡れた髪が額にかかり、目元の陰が濃くなったせいか、晴臣は一瞬、まったく知らない人間を見るような錯覚を覚えた。ふだんの岡田ではない。会社でネクタイを曲げて歩き、コーヒー片手に寝癖をつけて笑っている、あの脱力した大人ではない。そうではなくて――もっと、何かを隠しているような、大人の男の顔だった。そして、その視線の奥に、ほんのわずかな“確信”を見た気がした。遊びのふりをしているのに、ほんとうはそれが冗談じゃないことを、本人だけが知っているような、そんな目。
last updateLast Updated : 2025-11-02
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20.ソファと声と、近すぎる距離

岡田の部屋は、表通りから少し奥まった場所にある築浅のワンルームだった。靴を脱いで上がった瞬間、晴臣の鼻腔をくすぐったのは、洗濯洗剤と衣類柔軟剤が混ざったような、どこか優しい匂いだった。決して香水のような人工的なものではない、けれど妙に記憶に残る、生活の温度を伴った匂い。「片付けてなくて、ごめんな」岡田が笑いながら言う。確かに部屋は雑然としていた。脱ぎ捨てられた上着、読みかけの雑誌、リモコン、散らばったスリッパ。けれど、全体に漂う空気は不思議と落ち着いていて、散らかっているのに居心地が悪くないという矛盾があった。リビングに置かれたブラウンのソファに、岡田は崩れるように腰を下ろした。背もたれに肩を預けながら、深く息を吐き出す。「ふー……あかん、ちょっと飲み直そか」そう言って、床に置かれていたコンビニ袋からチューハイの缶を二本取り出す。パキンという金属音が響いて、炭酸の泡が喉奥を想像させる音を立てた。「はい、どーぞ」岡田が片方を差し出す。晴臣は一拍置いてから、それを受け取った。仕方なく、という態度を崩さないまま、岡田の隣に座る。ソファのクッションが、微妙に沈み込み、背を押し上げるような柔らかさがじんわりと伝わる。テレビはついていない。部屋の明かりはフロアスタンドだけで、部屋全体が薄ぼんやりとした影に包まれていた。外から差し込む信号の青い光が、カーテン越しに室内をかすかに照らすたび、岡田の横顔が淡く浮かび上がる。「なんや、晴臣くん、距離とってるん?」岡田が、ふとそう言って笑う。「……とってません」「うそや。だって、背筋ピンってなってるやん。猫背ぐらいがちょうどええのに」笑いながら、岡田がすこし体を寄せてくる。ソファのクッションが再び揺れて、自然と太もも同士が触れそうになる。軽く重なった手の甲が、晴臣の腿にふれて、ひやりとした温度が伝わる。その瞬間、晴臣の背中に微かな緊張が走った。岡田の動きはどこか自然で、何気ないように見える。けれ
last updateLast Updated : 2025-11-03
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