LOGIN その朝、
だが静にとって、この霧は単なる気象現象ではなかった。
「……土の匂い」
乾いた唇から、吐息と共に言葉が漏れる。
それは、湿った
古くから、この土地の霧は「
大学へ向かう道は、異界への入り口と化していた。
数メートル先でさえ、白く煙っている。街灯の光はぼんやりと滲み、まるで水底から見上げる月のように頼りない。いつもは賑やかなはずの駅前通りも、今日に限っては、しんと静まり返っていた。車のヘッドライトが、霧の壁の向こうで不意に点灯しては、音もなく通り過ぎていく。人の話し声も、足音も、分厚い綿に吸い取られたように遠い。
自分の足音だけが、湿ったアスファルトの上でやけに大きく響いた。
霧の奥から、何かが現れる。それは人であり、自転車であり、時には犬を連れた老人だ。しかし、彼らが白い闇から姿を現すその瞬間、静の心臓はいつも氷の塊に握り潰されるような感覚に襲われた。あれは本当に、いつも通りの日常の一部だろうか。霧という帳の向こう側からやってきた、別の「何か」ではないのか。
そんな妄想に囚われながら歩いていると、不意に、すぐ背後で甲高いブレーキ音が鳴った。びくりと振り返るが、そこには誰もいない。ただ、濃密な霧が渦を巻いているだけだ。幻聴ではない。だが、音の発生源は、その白い闇に呑み込まれてしまったようだった。
静は、逃げるように足を速めた。この霧は、何かを隠している。そして、隠された「何か」は、すぐそこにいる。そんな確信にも似た恐怖が、背中にじっとりと張り付いていた。
静の切実な声に、燈は一瞬、虚を突かれたように目を瞬かせた。そして、次の瞬間にはもう、いつもの人懐っこい笑顔に戻っていた。だが、その切り替わりのあまりの速さが、逆に不気味な印象を与える。まるで、スイッチを切り替えるように、表情の仮面を付け替えたかのようだった。「おいおい、大げさだな、しずくは。ただの昔話だって。この大学の連中が好きそうな、ありがちなオカルト話の一つだよ」 彼はそう言って笑い、今度こそチーズケーキをフォークで刺して口に放り込んだ。しかし、その咀嚼の動きはどこかぎこちなく、味わっているようには見えなかった。ただ、この気まずい空気を霧散させるための、義務的な作業に過ぎない。「……本当?」 静は、彼の目をじっと見つめた。自分の声が、自分でも驚くほどか細く震えていることに気づく。「本当に、ただの作り話だと、思ってるの?」 燈の動きが、ぴたりと止まった。彼の喉が、ごくりと鳴る。カフェテリアの喧騒が、また嘘のように遠ざかっていく。静と燈、二人の間のテーブルだけが、真空のスポットライトに照らされているかのようだ。 やがて燈は、フォークを皿の上に、ことり、と置いた。その乾いた音が、やけに大きく響く。「……もし、本当だったら、どうする?」 その声は、囁きに近かった。「もし、本当に、自分の影に全部押し付けて、忘れられるとしたら……それって、すげえことだと思わないか?」 その言葉は、静の心の最も柔らかな部分を、冷たい刃物で抉るようだった。彼の「光」に安らぎを感じていたのは、彼が「影」を知らない人間だと思い込んでいたからだ。だが違った。彼は誰よりも深く、濃い影を、その眩しい光の裏側に隠し持っていた。そして今、その影が彼の魂を喰い尽くそうとしている。 静は何も言えなかった。どんな言葉も、彼の絶望の深さには届かないと悟ってしまったからだ。否定すれば、彼はますます頑なになるだろう。肯定すれば、彼の背中を押すことになる。 沈黙を肯定と受け取ったのか、燈はふっと息を漏らし、再びあの屈託のない笑顔を顔中に貼り付けた。完璧な、しかしだからこそ恐ろしい、能面のような笑顔だった。「俺さ、ちょっとやってみようと思うんだ」 その声は、信じられないほど明るく、弾んでいた。まるで、明日ど
燈は、静の反応を面白がるように口の端を吊り上げた。だが、その瞳の奥に宿る光は、単なる好奇心とは異質な、もっと粘り気のある何かに変質しているように見えた。静は、彼の背後に一瞬だけ見えた、あの黒い人影の幻覚を思い出していた。あれは、彼の内側に巣食う「何か」の予兆だったのかもしれない。「ビビってんの、しずく? まあ、名前からしてヤバいもんな」 彼はわざと軽い口調で言い、フォークでケーキを一口分すくい取った。しかし、それを口に運ぶことなく、再び皿の上に戻す。食欲など、とうに失せているようだった。「そのウツロ様ってのが、この咎凪市の、いわば土着神みたいなもんなんだと。でも、神社とかがあるわけじゃない。実体がないんだ。空っぽ。だから『虚』様」 その説明は、カフェテリアの雑音に紛れて掻き消えてしまいそうなほど静かだったが、静の耳には呪いの言葉のようにこびりついた。実体がない。それは、どこにでもいるということだ。この澱んだ空気の中にも、霧の中にも、人の心の隙間にも。「でな、そのウツロ様を信仰してた連中が、昔やってた儀式がある。それが――『カゲオクリ』」 影送り。その言葉の不吉な響きに、静は喉の奥が乾ききるのを感じた。心臓が、嫌なリズムで脈打ち始める。「人間、誰だってあるだろ。ミスったこととか、誰にも言えない秘密とか、忘れてえ記憶とか……そういう『咎』がさ」 燈の視線が、ふいと静から外れ、窓の外の灰色の空に向けられる。その横顔に、一瞬、彼のものではない深い疲労と苦悩の色がよぎったのを、静は見逃さなかった。彼の纏う光が、翳っていく。「その『咎』を、自分の影に移すんだと。強く、強く念じるんだ。あの時の罪悪感を、この後ろめたさを、全部、俺の影にくれてやる、ってな」 それは、遊びや噂話にしては、あまりにも具体的で、生々しい手順だった。まるで、誰かの切実な願いが、長い年月を経て儀式という形にまで練り上げられたかのような。静の脳裏に、湿った土の匂いと、暗い沼のイメージが勝手に浮かび上がった。「そうして自分の『咎』を全部吸わせた影を、『ウツロ様』に捧げる。……つまり、喰ってもらうんだ」「……喰ってもらう?」 掠れた声で問い返すのが精一杯だった。「ああ。影を喰わ
ざわめきが、ぬるま湯のように思考を鈍らせる。 大学のカフェテリアは、昼のピークを過ぎてもなお、無数の声と食器の触れ合う音、そして様々な人間の感情の匂いで飽和していた。氷鉋静は、テーブルの隅で背中を丸め、色の抜けたチャコールグレーのパーカーのフードを深く被っていた。気休めに過ぎないとわかっていても、そうせずにはいられない。他人の視線が、声が、その裏側にある粘ついた本音が、彼女の皮膚を直接撫でるようで、全身の肌が粟立つのを止められなかった。 誰もが、無害な笑顔の仮面を貼り付けている。友人の成績を妬む声。恋人の無神経さを詰る声。講義への退屈と、未来への漠然とした、しかし自己本位な不安。それら一つ一つが、静にとっては明確な形と色を持つ「澱み」として見えた。それは物理的な汚れのように空間に浮遊し、呼吸のたびに肺腑を汚していく。胃の奥がじりじりと灼けるような不快感に、静はアンティークシルバーの丸眼鏡のブリッジを押し上げ、テーブルの木目をただ見つめた。爪を噛む癖が、また顔を出す。親指の先に歯を立てた瞬間、不意に、澱みを切り裂くような明るい声が鼓膜を打った。「しずく、いた! 探したぜ」 顔を上げると、朱鷺燈が盆を片手に立っていた。オレンジブラウンに染め上げた髪が、カフェテリアの気怠い照明を吸って鮮やかに光る。安全ピンのピアスが揺れ、派手なロゴの入ったパーカーが、周囲のくすんだ風景から浮き上がっていた。彼がそこにいるだけで、澱んだ空気がわずかに晴れるような錯覚を覚える。静にとって、燈の存在はそういうものだった。彼の内側から発せられる光は、他人の悪意の影を薄めてくれる。「……燈」「隣、いい?」 静が頷くより先に、燈は向かいの席にどかりと腰を下ろした。アメリカンコーヒーと、ほとんど手をつけていないチーズケーキが盆の上に乗っている。彼は甘いものが好きだが、それ以上に、誰かと話すためのおもちゃとしてそれを買う癖があった。「またそんな暗い顔して。世界終わんの?」 からかうような口調。だが、静はその裏にある心配の色を正確に感じ取る。だからこそ、彼女は燈の前でだけ、少しだけ心の壁を低くできるのだ。「別に。通常運転」「通常運転がそれってのが問題なんだよなー」 燈はプラスチックのフォークでチーズケーキの角を無意味に突き
大学の正門が見えてきたところで、霧の壁から不意に人影が滲み出した。心臓が喉元まで跳ね上がる。だが、その輪郭が色を得るにつれて、安堵が恐怖を上書きしていった。最初に視界に飛び込んできたのは、この白の世界で唯一彩度を許されたような、オレンジブラウンの髪だった。「よお、しずく。遅かったじゃん」 朱鷺燈が、ポケットに手を突っ込んだまま立っていた。彼がそこにいるだけで、濃霧が作り出した非日常の風景に、無理やり日常のラベルが貼り付けられる。まとわりつくような土の匂いが、少しだけ薄れた気がした。「……待っててくれたの」「んー、まあな。こんな日に一人だと、どっかに連れてかれそうだろ」 燈はそう言って笑った。けれど、その笑みはいつもの太陽のような明るさとは違い、どこか湿っている。霧が彼の輪郭だけでなく、その快活ささえも僅かに侵食しているようだった。 二人で並んで、霧に包まれたキャンパスを歩く。人の姿はまばらで、足音が白い静寂に吸い込まれていく。「しかし、すげえ霧だな」 燈が、面白そうに周囲を見回しながら言った。「この霧、何かを隠すのにちょうどいいよな」 その言葉は、静の背骨を冷たい指でなぞるような感触を残した。冗談めかした口調。だが、静の耳には、それが単なる冗談には聞こえなかった。昨日見た、彼の背中に張り付いていた黒い人影の幻覚が、脳裏を掠める。隠す。何を? あるいは、誰を?「……不吉なこと言わないで」 かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。「はは、わりいわりい。でもさ、マジで何も見えねえ。自分の影すら、すげえ薄いし」 燈が、自分の足元に目を落とす。確かに、霧が光を乱反射させているせいで、地面に落ちる影はほとんど見えなかった。まるで、最初から存在しないかのように。 その時、燈がぴたりと足を止めた。 静もつられて立ち止まる。彼の横顔から、表情が抜け落ちていた。いつもの人懐っこい笑顔も、悪戯っぽい光も消え、能面のように平坦になっている。視線は、何もないはずの地面の一点に縫い付けられていた。 霧が、二人の周りで音もなく渦を巻く。「なあ、しずく」 彼の声は、ひどく低く、抑揚がなかった。「最近、影を踏まれるのが怖いんだ」 それは、神経質に研ぎ澄まされた刃物のような呟きだった。静は、返事もできず、ただ彼の横顔を見
その朝、咎凪市は乳白色の息を吐いていた。 静がアパートの窓を開けると、粘り気のある冷気が奔流のように流れ込んできて、肌を粟立たせる。外の世界は、完全に「白」に塗り潰されていた。隣の建物の輪郭も、電線の黒い線も、すべてが曖昧なグラデーションの中に溶け落ちている。季節外れの、濃すぎる朝霧。この街では、珍しくもない光景だった。 だが静にとって、この霧は単なる気象現象ではなかった。「……土の匂い」 乾いた唇から、吐息と共に言葉が漏れる。 それは、湿った腐葉土の匂いだ。黴の胞子と、掘り起こされたばかりの古い土が混じり合ったような、生命の循環から取り残された死の匂い。人々はこれを「盆地特有の天気」と片付けるが、静の神経は、その奥にある本質を正確に感じ取っていた。これは空気が運んでくる匂いではない。土地そのものが、皮膚呼吸のように吐き出している「澱み」の気配だ。 古くから、この土地の霧は「黄泉路の帳」と呼ばれていると、祖母から聞かされたことがある。現世と常世の境界を曖昧にする、忌むべきもの。その言葉の意味を、静は肌で理解していた。視界が奪われるからではない。霧に満たされた世界では、あらゆるものの輪郭が、存在の確かさが、揺らいでしまうからだ。 大学へ向かう道は、異界への入り口と化していた。 数メートル先でさえ、白く煙っている。街灯の光はぼんやりと滲み、まるで水底から見上げる月のように頼りない。いつもは賑やかなはずの駅前通りも、今日に限っては、しんと静まり返っていた。車のヘッドライトが、霧の壁の向こうで不意に点灯しては、音もなく通り過ぎていく。人の話し声も、足音も、分厚い綿に吸い取られたように遠い。 自分の足音だけが、湿ったアスファルトの上でやけに大きく響いた。 霧の奥から、何かが現れる。それは人であり、自転車であり、時には犬を連れた老人だ。しかし、彼らが白い闇から姿を現すその瞬間、静の心臓はいつも氷の塊に握り潰されるような感覚に襲われた。あれは本当に、いつも通りの日常の一部だろうか。霧という帳の向こう側からやってきた、別の「何か」ではないのか。 そんな妄想に囚われながら歩いていると、不意に、すぐ背後で甲高いブレーキ音が鳴った。びくりと振り返るが、そこには誰もいな
燈の背中は、静にとって世界の中心だった。 彼が前を歩き、静がその後ろを数歩ぶんだけ離れてついていく。その距離が、今の静には何よりも安全なテリトリーに思えた。彼の肩幅、無造作に揺れる髪、ストリート系のパーカーがつくる緩やかな輪郭。そのすべてが、静を苛む無数の「澱み」から彼女を守る防波堤だった。 彼が楽しげに話すカフェのメニューのことや、昨日見た深夜アニメの馬鹿げた展開について、静は半分も聞いていなかったかもしれない。ただ、彼の声の響き、その明るい音色が、ささくれた神経を優しく撫でるのを感じていた。彼と一緒にいる時だけ、自分も「普通」の女子大生になれたような気がした。このまま、時間が止まればいい。そう、本気で願った。 渡り廊下を抜け、校舎の出口へ向かう。西日が強く差し込む角を曲がった、その瞬間だった。 一歩先を歩いていた燈の身体が、一瞬だけ、強い光の中にシルエットとして浮かび上がる。 静は、息をのんだ。 違う。 燈の背中に、彼ではない「何か」が、ぴったりと張り付いている。 それは影ではなかった。影は彼の足元に、アスファルトの色より少しだけ濃く落ちている。静が見たのは、もっと立体的で、冒涜的な黒。まるで、人間の形をした「染み」が燈の背中に重なっているかのようだった。陽炎のように輪郭が揺らめき、その手足は燈自身のものより僅かに長く、細い。まるで、燈を後ろから抱きしめるような形で、その黒い人影は存在していた。 一秒にも満たない幻覚。 静が強く瞬きをすると、それはもう消えていた。そこにいるのは、いつも通りの朱鷺燈だ。彼は何も気づかずに、不思議そうな顔で振り返る。「しずく? どうかしたか?」 声が出なかった。喉が、見えない手に締め上げられたように硬直している。さっきまで和らいでいたはずの頭痛が、鉄の杭を打ち込まれたように激しく再発した。胃の腑の底から、氷よりも冷たいものがせり上がってくる。 講義室で感じていた無数の「澱み」が、嵐のように静の内に逆流してきた。だが、今度のそれは、ただの不快な感情の沈殿物ではなかった。明確な「意志」と「形」を持った、純粋な悪意の塊。 あの黒い人影は、いったい何だ。 静は、自分の左手の親指が、血が滲むほど強く噛み締められていることに、気づいていなかった。