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第2話 遅れてくるもの

Penulis: 花柳響
last update Tanggal publikasi: 2025-10-26 23:49:43

 瞬きをすると、黒い腕は消えた。

「しずく? どうかしたか?」

 燈が振り返る。少し下がった右の眉も、左耳で揺れる安全ピンのピアスも、いつもと変わらない。静の手には、彼がくれたばかりの缶コーヒーがあった。冷たさだけが、まだ指に馴染まなかった。

「顔、真っ青だぞ。座る?」

 こちらへ戻ってきた燈の肩越しに、静は床を見た。西日に押し延ばされた影が一本、靴の下から斜めに伸びている。さっきの腕はどこにもない。

「……ううん。大丈夫」

 大丈夫、と口にした途端、親指の痛みに気がついた。缶を持つ手に力を入れすぎて、ささくれたところに爪が食い込んでいた。

 燈は少し考えるように静を見ていたが、それ以上は聞かなかった。今度は追い越さず、隣を歩く。その気遣いがありがたかった。ありがたいのに、彼の背中をもう一度見ることができない。

 出口のガラス戸が開く。通り抜ける風は冷たく、二人の間にしばらく留まった。

 燈が一歩踏み出した。

 床に残った影だけが、ほんの僅か、遅れた。

◇

 金曜日の朝、カーテンを開けると、向かいの建物がなかった。

 白いものが、窓のすぐ外まで来ていた。硝子に額を近づけて、静はようやくいつもの非常階段の輪郭を見つけた。錆びた踊り場が、昨日より遠い場所にあるように見える。

 その朝、咎凪市(とがなぎし)は乳白色の息を吐いていた。

 咎凪市は、霧の多い街だった。地形のせいだと聞いたことがある。だが静には、その説明だけで片づかない朝があった。窓を閉じているのに、濡れた土の匂いがする。車が通れば聞こえるはずの音が、途中で途切れる。

 今朝は、その匂いがした。

 それは、湿った腐葉土の匂いだ。黴の胞子と、掘り起こされたばかりの古い土が混じり合ったような、生命の循環から取り残された死の匂い。人々はこれを「盆地特有の天気」と片付けるが、静の神経は、その奥に何かがあると訴えていた。これは空気が運んでくる匂いではない。土地そのものが、皮膚呼吸のように吐き出している「澱み」の気配だ。

 古くから、この土地の霧は「黄泉路の帳」と呼ばれていると、祖母から聞かされたことがある。現世と常世の境界を曖昧にする、忌むべきものなのだという。本当に別の世との境があるのか、静には分からない。それでも、その言葉の意味を、肌で理解できる気がした。視界が奪われるからではない。霧に満たされた世界では、あらゆるものの輪郭が、存在の確かさが、揺らいでしまうからだ。

 靴紐を結び直し、いつもより早く部屋を出た。玄関の鍵がかかる音は、妙に乾いていた。その音に縋るように、もう一度ノブを引いてから階段を下りる。

 数メートル先でさえ、白く煙っている。街灯の光はぼんやりと滲み、まるで水底から見上げる月のように頼りない。いつもは賑やかなはずの駅前通りも、今日に限っては、しんと静まり返っていた。車のヘッドライトが、霧の壁の向こうで不意に点灯しては、音もなく通り過ぎていく。人の話し声も、足音も、分厚い綿に吸い取られたように遠い。

 自分の足音だけが、湿ったアスファルトの上でやけに大きく響いた。

 霧の奥から、人が現れる。自転車を押す女、犬を連れた老人。そのたびに、静は道の端へ寄った。姿が見えてから足音が聞こえるまでの、僅かな隔たりが嫌だった。誰もいないと思った場所を、誰かが通り過ぎていく。

 白い霧の中を歩いていると、昨日の講義室の空気が、まだ喉の奥に残っているようだった。

 静は無意識に左手の親指を口元へ運び、爪の縁を小さく噛んだ。かり、と乾いた音が、自分だけの世界で鳴る。噛むたびに返ってくる痛みだけが、他人の感情の濁流から意識を引き離してくれる唯一の錨だった。この感覚がなければ、自分という輪郭が溶けて、他人の悪意の海に沈んでしまいそうだった。

「……普通、とは何なのだろう」

 声にはならない声が、乾いた唇から漏れる。

 講義室では誰もが、あの空気の中で平然と呼吸をしていた。笑い、欠伸をし、眠っていた。感じないことが普通なのなら、静は幼い頃から、その外側にいた。

 早く、終わってほしい。

 昨日も、ただそれだけを願いながら、机の木目へ意識を戻していた。今朝は、足元に次々と現れるアスファルトの継ぎ目を追った。爪を噛む力が、わずかに強まる。

 駅前の交差点で、すぐ背後に甲高いブレーキ音が鳴った。

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