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第5話 返事のない夜

Author: 花柳響
last update publish date: 2025-10-26 23:55:18

「やめて、燈」

 彼の指が止まった。

「そんな話、聞きたくない。……気持ち悪い」

 言ってから、静は言葉を選び損ねたと思った。儀式のことを言ったのに、燈の顔から何かが引いていった。静は紙へ視線を落とし、そこに人形のような細い線があるのを見た。

「そんなに簡単な話じゃ、ないんじゃないの」

「まあな。先輩にも、触るなとは言われたけど」

 彼は紙を二つに折り、ポケットへ押し込んだ。

「おいおい、大げさだな、しずくは。ただの昔話だって。この大学の連中が好きそうな、ありがちなオカルト話の一つだよ」

 彼はそう言って笑い、今度こそチーズケーキをフォークで刺して口に放り込んだ。しかし、その咀嚼の動きはどこかぎこちなく、味わっているようには見えなかった。ただ、この気まずい空気を霧散させるための、義務的な作業に過ぎない。

「……本当?」

 静は、彼の目をじっと見つめた。自分の声が、自分でも驚くほどか細く震えていることに気づく。

「本当に、ただの作り話だと、思ってるの?」

 燈はフォークを置いた。食器の触れ合う音の中で、その小さな音だけが、静の近くに残った。

「……もし、本当だったら、どうする?」

 その声は、囁きに近かった。

「もし、本当に、自分の影に全部押し付けて、忘れられるとしたら……それって、すげえことだと思わないか?」

 返す言葉が見つからなかった。忘れたいと思ったことなら、静にもある。講義室にいる時の苦しさも、知らない人間の気配に怯える自分自身も、何もかもどこかへ置いてこられたらと思う。その願いに触れる言葉を、燈は選んでいた。

 けれど、静が頷くのを待つ目は、いつもの彼のものではないように見えた。

「何かあったなら、聞くから」

 遅れて出た言葉を、燈は笑って受け流した。

「しずくには、関係ない話だよ」

 そう言われると、聞き返せなかった。

 燈はコーヒーを飲み、ほとんど残っているケーキを見下ろした。それから、思いついたような軽さで言った。

「俺さ、ちょっとやってみようと思うんだ」

 静が椅子を引くより早く、彼は盆を持って立っていた。名前を呼ぶと、一度だけこちらを見た。右の眉は下がらなかった。

「私も、その先輩に話を聞く。一緒に行こう」

 静は立ち上がって言った。燈は人の流れの向こうで片手を上げた。

「また今度な」

 待って、と声をかけた時には、返却口の列に姿が紛れていた。静も盆を持って追ったが、廊下へ出たところで見失った。階段の上から笑い声が降ってきた。燈の声かどうか、分からなかった。

 午後にもう一度、電話をかけた。

 出なかった。

『一人で行かないで。話を聞くだけなら、私も行くから』

 送ると、夕方になって『平気。気にすんな』と返ってきた。静はその文字を見ながら、何が平気なのかと打ち、送った。今度は、返事がなかった。

 その夜、燈のアカウントに短い投稿が出た。

『これから面白いことしてくる』

 添えられた写真には、灯りの少ない廊下が写っていた。突き当たりの窓、その手前で下へ折れる階段。静は拡大して見たが、手振れのせいで奥は読めなかった。

『やめて。今どこ?』

 送った文字のそばに、既読はつかなかった。

◇

 土曜日の朝も、返事はなかった。

 静は電話をかけ、呼び出し音が続くのを聞いた。切ってから『起きたら連絡して』と送った。昼にはそれが少し責める言い方に見えて、『昨日の話、怒ってないから』と付け足した。怒っていない、というのも違っていた。何に腹を立てればいいのかさえ分からないのだった。

 日曜日、画面に触れる回数を数えるのをやめた。燈は時々、思いつきで遠出をする。深琴へ尋ねると、彼女も連絡を受けていなかったが、「明日来たら、二人で文句言おう」と返ってきた。その言葉を静は何度も読み直した。

 月曜日の講義に、燈は来なかった。

 静は決まった席で、隣の椅子を時折盗み見ていた。開始のチャイムが鳴り終わった頃、わざとらしい足音を立てて入ってくるはずだった。遅れた理由を小声で話し、教授に見られて口を噤む。静は笑いを堪えながら、開いていた教科書を少しだけ彼の方へずらす。

 その癖で、まだ誰も来ていない側に、半分ほど場所を空けていた。

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