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禁区の残穢 ~影を喰われると存在が消える世界で、私は冷酷な退魔師に拾われた~
禁区の残穢 ~影を喰われると存在が消える世界で、私は冷酷な退魔師に拾われた~
Author: 花柳響

第1話 背中の影

Author: 花柳響
last update publish date: 2025-10-26 23:48:04

 大学の講義室で、氷鉋静(ひがのしずく)は、人の感情まで吸い込まないように息を浅くしていた。誰のものとも分からない苛立ちや焦りが、ざらついた空気に混じり、肺を満たしていく。

 静は、背中を丸め、机の木目の一点へ目を落とした。肩のあたりで切り揃えた黒髪が、頬に触れる。長く伸ばした前髪を払おうとして、手を膝へ戻した。顔の前に垂れた重いカーテンの隙間から、教壇だけを見ていればよかった。度の弱い丸眼鏡を押し上げる。視線を遮るには薄すぎるレンズの奥で、静はゆっくりと息を詰めた。

 教壇に立つ老教授の単調な声は、広い講義室の壁に吸い込まれては、乾いた埃の匂いを連れて戻ってきた。十一月初めの木曜日。午後の日差しが、高い窓から差し込んでいるはずなのに、この部屋の空気はいつも澱んで冷たい。まるで、厚いガラスを一枚隔てた向こう側の出来事のようだった。

 こめかみの内側で、鈍い痛みが鼓動に合わせて脈打っていた。人が密集する閉鎖された空間では、いつもこうなる。

 空気に溶け込んだ、無数の澱み。他人の感情の沈殿物を、静はひそかにそう呼んでいた。目で見えるわけではない。それでも、粘り気のあるものが呼吸とともに入り込み、神経を逆撫でしていくのが分かる。

 三列前でノートを取っている学生の背には、焦げつくような気配があった。焦りなのか、怒りなのかまでは分からなかった。後ろの席からは、生ぬるいものが流れてきた。笑い声に悪意があると感じて身を縮めた後で、誰かが忘れ物を届けてくれたこともある。その親切を疑いたくはないのに、体の方が先に怯えてしまう。

 ようやくチャイムが鳴っても、静は席を立たなかった。椅子を引く音が重なり、閉じられたノートが風を起こす。人の波が過ぎ去るまで待ち、それから鞄を持った。

 誰もいなくなった講義室で、数分間。ようやく立ち上がると、足が僅かに震えていた。壁際に沿うようにして廊下へ出て、中庭に面した渡り廊下を目指す。ガラス窓の外、午後の陽光を浴びた芝生の緑が、目に痛いほど鮮やかだった。

 外気に触れた瞬間、張り詰めていたものが、ふっと緩む。肺の奥にこびりついていたヘドロのような空気が、ようやく洗い流されていく。頭痛はまだ残っているが、胃の不快感は少しだけ和らいだ。

「しずく!」

 背後からかけられた声に、びくりと肩が跳ねる。けれど、その声の持ち主を認識した瞬間、強張っていた全身の筋肉が、意思とは関係なく弛緩した。

 振り向くと、友人の朱鷺燈(ときともる)が立っていた。

 オレンジブラウンに染め抜かれた髪が、西日に透けて燃えるように輝いている。大きなロゴの入ったパーカーに、緩いシルエットのカーゴパンツ。左耳で揺れるいくつものピアスが、彼が歩くたびに、ちり、と微かな金属音を立てた。

 静とは何もかもが正反対の、光と音の塊のような男。

「なんだよ、また死にそうな顔して。教授の話、そんなに退屈だった?」

 悪戯っぽく笑いながら、燈が隣に並ぶ。すると、廊下に残っていたざわめきが、ふっと遠くなった。声そのものは聞こえているのに、その裏から押し寄せてくるものがない。

 燈に顔を覗き込まれ、静は視線を落とした。

「……別に」

「別に、じゃねーだろ。顔、真っ青だぞ」

 燈はそう言うと、自販機で買ったらしい缶コーヒーを静の頬に押し当てた。静が身をすくめると、缶を立て直し、持ちやすい向きで差し出してくれた。ひやり、とした感触に、また肩が震える。

「ほら、これやるよ。糖分足りてねーんじゃねえの」

「……ありがとう」

 かさついた声で礼を言うと、燈は「おう」と短く応え、自分の分の缶コーヒーのプルタブを開けた。カシュ、という軽快な音が鼓膜を心地よく揺らす。

 静は缶を両手で包んだ。「冷たい」と零すと、燈は自分の缶の表示を見て「あ」と言った。十一月に冷たい方を買ってくるのが燈らしかった。右の眉をわずかに下げ、「温かい方のつもりだった。替えてこようか」と笑う。自販機の方へ戻りかける彼を、静も笑って引き止めた。

 昔から、彼といる時は幾分楽だった。黙っていても、何か話せと求めない。具合が悪いと知れば、理由を詮索する前に窓を開けてくれる。そういう人だった。けれど、この三週間ほどの静けさは、それまでの安心とは違っていた。彼が二、三歩離れるだけで、空気のざらつきが戻ってくる。

 その静けさがどこから来るのか、静は一度も確かめていなかった。

 その顔を見ているうちに、尋ねかけていたことが引っ込んだ。最近、何か変わったのか。どうしてこんなに静かなのか。彼自身にも説明できないことだったら、気味悪がらせるだけだ。

「この後、暇? 駅前のカフェ、新しいパフェ出たらしいんだけど」

「……うん」

「よし、決まりな!」

 燈は静の返事を聞くと、先に歩き出した。新しいメニューの話をしている。その言葉の半分ほどしか耳に入らないまま、静は後ろをついていった。

 さっきまで、この男の隣へ戻ることだけを願っていた。

 彼のそばでなら、息ができる。肺の奥まで空気を吸い込めることが、今はただ、ありがたかった。

 燈が、渡り廊下の角を曲がった。

 燈の背中に、もう一人、誰かがいた。

 西日が二人を追い越した。大きなロゴのあるパーカーに、細い腕のような黒いものが重なっている。腕は燈の脇をすり抜け、静の方へ垂れていた。

 気配だけではなかった。黒い輪郭が、たしかに目に映っていた。

 燈は前を向いて歩いている。それなのに、背中の黒い腕だけが、静との距離を測るように伸びてきた。

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