All Chapters of あざとい女に夫も息子も夢中!兄たちが出動!: Chapter 501 - Chapter 510

696 Chapters

第501話

真奈美は杏奈に言い返され、思わず言葉に詰まった。すると、そばにいたファンは黙っていられなくなり、ビデオカメラを置いて歩み寄ってきた。「あなたみたいな素人に、真奈美ちゃんのこととやかく言われたくないわ。真奈美ちゃんはずっとプリマなのよ。専門的なことくらい、あなたより分かってるに決まってるじゃない!」「みんなの前で人のケガを指摘しておいて、今度は交代しなくていいって言うの?言ってることめちゃくちゃじゃない。あなた何様のつもり?」「そうよ、どうせ男の力でのし上がった女でしょ。山崎先生に才能があるなんて言われたからって、その気になってるんじゃないの?笑わせないでよ!」……そうやってファンたちは杏奈を目の前で、好き放題に罵った。それを聞いていた真奈美は、胸がすっとしたように思えた。しかし、杏奈が何か言う前に、聞いていられなくなった南が険しい顔で立ち上がった。そして、いつもは穏やかな南の顔から、すっかり表情が消えていた。「ここはリハーサルの現場よ。あなたたちみたいな関係ない人が、どうしてここにいるの?」すると、ファンたちは何も言えず、真奈美に迷惑をかけてはいけないと思ったから顔を見合わせるばかりだった。「すみません、先生。この子たちは私のファンなんです。外の日差しが強かったから、中に入って来てもらいました。リハーサルの内容を外に漏らしたりはしないので、安心してください」しかし、南は真奈美に取り合わなかった。「こんなに広いところよ。他に涼める場所がなかったとでも言うの?リハーサル現場に入らなければ、日焼けをしてしまうとでもいいたいわけ?」それを言われ、真奈美は悔しさで顔が青ざめた。でも、相手は自分の先生だ。癇癪を起こすわけにもいかなかった。だが、南が真奈美の顔を潰したのを見て、ファンたちの南に対する敬意は一瞬で跡形もなく消え去ってしまった。彼女たちは真奈美の前に立ちはだかり、南に言い放った。「真奈美ちゃんの先生だからって、そんな風に彼女をいじめていいと思ってるの?真奈美ちゃんは優しいから、私たちのことを心配して中に入れてくれたのよ。あなたには関係ないでしょ!」「そうよ、えこひいきも大概にしてよ。あの鈴木って女が橋本社長の彼女だからって媚びてるだけでしょ。あんなのどうせいつか捨てられるわよ。その時になったら
Read more

第502話

それに気が付いて真奈美は、南のその目つきに思わず動揺してしまった。以前、ダンス協会での自分の立場をいいことにして南の意見に逆らったときでさえ、こんな目で見られたことはなかった。それはまるで、自分を見捨てるかのような目つきだった。そう感じると彼女は不安になった。「先生、今回のことは私の不手際でした。本当にすみません」そう言って真奈美は急に畏まって言った。でも、真奈美のファンはそんな状況を分かっていなかった。彼女らは真奈美がいじめられていると思い込んで、南に対する態度はさらにひどくなるばかりだった。「真奈美ちゃん、謝らなくていいよ!あんな人が先生だなんて、信じられない!」「そうだよ!あなたは今日、何も悪くないもん。ただ舞台のことを真剣に考えてただけなのに。なのに先生は味方してくれず、むしろどこの誰かも分からないような女の肩を持つなんて!どうせあの女が金持ちだからでしょ?お金のために、大事な舞台も蔑ろにしようとしたんだ。そんな先生、こっちから願い下げだよ!」「真奈美ちゃん、大丈夫だよ!今日は私たちがあなたを守るから。私たちがいる限り、誰にもあなたを傷つけさせない!」……こうなって初めて、真奈美は、ファンたちをここまで入れてしまったことを、少し後悔し始めていた。どっちにしろ、南は自分の先生なのだ。もし今日のことが外部に漏れたら、ネットではどんな言い訳も通用しない。「先生を敬わない、恩知らず」というレッテルを貼られてしまう。そうなったら、芸能界の監督たちと仕事なんてできなくなる。それに、南はダンス界でとても地位の高い人だ。南を敵に回すなんて、自滅行為だ。そう思うと、真奈美は真剣な表情でファンたちに言った。「あの人は私の先生なんだから!先生のことを悪く言わないで!」その口調は、断固としていた。真奈美が怒っているのを見て、ファンたちはやっと黙った。だけどファンたちは、真奈美が急に厳しい態度をとったことに腹を立てるどころか、南をかばう姿を見て感心していた。自分たちの推しは、なんて先生思いで、立派な人なんだろうと逆に思うようになったのだ。一方で、真奈美の言葉を聞いて、杏奈はさらにがっかりした。真奈美はファンに、「先生を悪く言わないで」とだけ言った。でも、ファンが言った南への中傷自体を否定しなかったのだ
Read more

第503話

それで真奈美はあの事故を企てて、陥れようとする相手を杏奈に定めたのだった。そして竜也は真奈美の期待に応え、自らの手で杏奈を刑務所に送り込んだ。さらに刑務所の者たちに命じ、杏奈の手足の腱を切らせて再起不能にしたうえで、わざと治療を遅らせたのだ。それは真奈美にとって、なんともスカッとするような出来事だった。あれから落ちぶれた杏奈の姿を見るたびに、彼女は心の底からせいせいしていたのだ。でも、まさか杏奈の手足が不自由になった今でも、南は彼女のことだけを特別扱いしているなんて。しかも、あんな女のために自分のファンを追い出すようなことまでして、それはまさに自分の顔に泥を塗るような仕打ちだ。そう思ったから、真奈美が腹を立てるのも無理はなかった。嫉妬の豪が胸の中で燃え上がり、ついに真奈美は前に進み出た。そして、冷静な表情で南を見つめた。「私はずっと先生のことを尊敬してきました。でも先生は、一度だって私を認めてくれたことがありません。彼女たちは私のファンなんです。それで私の顔を立てて大目に見ようというお考えは、少しもないんですか?」真奈美は、溜まっていた不満をぶつけるように言った。それを聞いて杏奈は、真奈美にかばわれるように立っている数人のファンに目をやった。彼女たちの手にはスマホがあり、明らかにこちらを撮影しているのだった。それに気づき、杏奈は冷たい視線を向けた。もしここで南が強く出てしまうと、真奈美のネットでの人気をもってすれば、根も葉もない噂があっという間に広まり、南は炎上に巻き込まれてしまうだろう。南がそんな理不尽な目に遭うのを、黙って見てはいられなかった。そう思って杏奈は南の前に立ちはだかり、カメラからかばうようにして冷たく言い放った。「肖像権の侵害と情報漏洩で訴えられたくなかったら、撮影はやめた方がいいわよ」すると真奈美の後ろにいたファンたちは、指摘されても悪びれる様子はなく、鼻で笑って杏奈に言った。「私たちは守ってくれてる真奈美ちゃんを撮ってるだけ。あなたには関係ないでしょ?」「そうよ。自分の姿に自覚はないわけ?あなたなんか撮るだけ映像が汚れてしまうだけよ」ファンたちの言葉はとげとげしいものがあった。だが、杏奈はこれくらいのことで傷つくような人間ではないのだ。だってかつて京市で受けた屈辱は、こんな生ぬる
Read more

第504話

真奈美は黙り込んだ。もちろんファンを信用していなかった。さっきファンの後ろにいた時、彼女たちが南と杏奈を動画で撮影しているのがはっきり見えたからだ。真奈美はこの手のファンをよく知っていた。口では、「あなたのため」と言うけれど、結局はそれぞれの思惑もあるのだ。多分誰もがこの機会にSNSで、自分に直接会えたって自慢したいのだ。そうやって、他のファンに羨ましがられて、優越感に浸りたいのだろう。そう思って真奈美はファンの方を向いて言った。「動画、消してくれるかな」一方ファンたちは、まさか真奈美に動画を消すよう言われるとは思ってもみなかった。でも、真奈美がお願いするように見てきたので、彼女たちも推しに迷惑はかけたくなかった。だから、ファンたちは黙ってスマホを取り出すと、今日リハーサルで撮った動画や写真を全部消した。ごみ箱フォルダの中身も空にした。そして、腹が立った様子で、杏奈にスマホを突き出した。「全部消したから!もしリハーサルの動画が出回っても、真奈美ちゃんを疑わないでよね!」そう言われ、杏奈は真奈美の周りにいるファンたちは、若いけど、本当に彼女のことを思ってくれているんだなと思った。そして、杏奈は言った。「もう行っていいわ」すると、ファンたちも何か言いたげだったけど、真奈美に迷惑がかかることを恐れて、結局何も言わずにその場を去った。ファンが去ったあと、真奈美はがっかりしたように、切なげな目で南を見た。「先生、私だってあなたの生徒です。私が言ったことも、この舞台のため、先生のためを思ってのことです。それなのにこんな風にして、私が傷ついても構わないのですか?」そう言うと、彼女は杏奈を強く睨みつけ、踵を返して去って行った。リハーサル会場はもともとざわついていた。でも、真奈美と南のやり取りで、会場全体が静まり返っていた。そして、真奈美が去っていくまで、誰も口を開かなかった。そんな中、南は舞台の中央を見て言った。「彩乃さんはこっちへ来て。他の人たちは練習を続けて」それから杏奈は南を支えながら、一緒にバックステージの休憩室へ向かった。ドアを入るなり、彩乃は、自分を降ろさないでほしいと南に頼み込んだ。南は杏奈に視線を向けた。「あなたは元医者だったわよね。この件はあなたに相談するのが一番よさそうね」そ
Read more

第505話

その一言で、彩乃は、溜まっていた不安な気持ちをようやく吐き出すことができた。「私、本当に降板させられないでしょうか?」「よほどのことがないと、センターが簡単に交代させられることはないですよ」杏奈は運転しながら答えた。「私が怪我してること、バラしたから怒っていますか?」彩乃は首を横に振った。「私が怪我でミスをしたのは事実です。あなたはそれに気づいただけですし、それであなたを責めることはできませんので」それを聞いて、杏奈は思わずバックミラーで彼女の顔を見た。彩乃は目鼻立ちもはっきりしているすっとした顔立ちで、今は疲れてやつれているように見えるけど、それでも上品な雰囲気は隠しきれていなかった。このルックスに、このスタイル。もし彼女が降板させられたら、今回の公演にとっては大きな損失になる。そう思って杏奈はそれ以上何も言わず、N市中央病院へと車を走らせた。診察の予約は杏奈が前もって取っておいた。幸い、今日はそれほど忙しくないようだった。空は杏奈から怪我人を見てもらいたいと聞いて、診察室で待っていてくれた。そして、ほどなくして杏奈は彩乃を連れて空の診察室に入った。「お兄さん、この子、足の裏に釘が刺さっちゃったの。でも明後日が本番だから、何とか安心して舞台に立てるようにしてあげられないかな?」空はすぐには答えず、まず彩乃を座らせて傷の様子を見ることにした。彩乃は靴を脱いで、傷のある足を見せた。そして、彼女は少し顔を赤らめて伏し目がちになりながらも、時々ちらりと空の顔に視線を送っていた。彼女にとってこんなにかっこいい人に会ったのは、生まれて初めてだったから。一方、診察を終えた空は言った。「傷が少し深いですね。手当てしていなかったから、少し膿んでいます。これから破傷風の注射をしてから手当てをしましょう。本番前には痛み止めを打てば大丈夫ですよ」彼の声は落ち着いていて淡々としていたが、不思議と説得力があった。それを聞いて、彩乃は、久しぶりに心からの笑顔を見せた。「先生、ありがとうございます」空はカルテを作りながら尋ねた。「お名前は?」「上杉彩乃です」空はパソコンを操作し、受付に提出する書類を彩乃に渡した。「まずは破傷風の注射を打ちに行きましょう」杏奈は彩乃に付き添うつもりだったが、アトリエから緊急
Read more

第506話

一方、杏奈は、警戒するように圭太を見つめた。以前、久保家の両親がN市まで訪ねてきたけど、杏奈はそれを無視した。だから、もう二度と久保家の人と関わることはないだろうと思っていた。だから、まさか圭太の方から訪ねてくるなんて、思ってもみなかった。「なにか用?」睦月から、圭太が来てるって電話があったとき、何か目的があるんだろうとは思っていた。それに圭太は久保家の両親と違って、昔からやんちゃしていた。だから、何をしでかすか分からなかった。すると圭太は、ぶっきらぼうに杏奈の前に立つと、冷たい目で彼女の瞳をじっと見つめた。「鈴木家の本当の娘、だっけ?」圭太は鼻で笑い、馬鹿にするような口調で言った。「俺たち久保家がお前を育ててやったから、鈴木家に戻って、今みたいなお金持ちの生活ができるんだろ?」その言葉を聞いて、杏奈は圭太の目的が分かった。たぶん、翔平と椿と同じ用件だろう。久保グループに何があったのかは知らない。でも、相当お金に困っているから、何度もこうしてやって来るに違いなかった。そう思ったが、彼女は黙っていた。すると、圭太は、ついに本題を切り出した。「20億円よこせ。それで、お前の久保家への恩はチャラにしてやるよ」杏奈は軽く笑った。「そのセリフ、8年前に……ううん、もう9年前か。9年前にあなたも同じこと言ったじゃない、忘れたの?」「竜也さんと結婚して、うちの会社の資金繰りを助けろ。そうすれば、久保家への恩は返したことになるからな」って。真奈美が久保家に戻ってきてから、杏奈への生活費の仕送りは全部止められた。その頃、彼女は自分でバイトして生計を立てていた。その後、竜也と結婚すると、翔平と圭太は長年の恩を盾にして、杏奈に竜也から会社の海外事業への出資を取り付けるように迫った。あの頃、杏奈は罪悪感でいっぱいで、申し訳ない気持ちで竜也にお願いしたんだ。竜也も当時、真奈美と一緒になるために杏奈を盾にしたかったから、彼女のお願いはほとんど何でも聞いてくれた。それで、竜也は久保家の会社に20億円を出資して、海外事業を後押ししてくれた。だから、杏奈はずっと竜也に頭が上がらなかった。結婚していた8年間も彼にとことん尽くしてきた。それでとっくの昔に、久保家への恩は返し終わっている。それなのに、今になって
Read more

第507話

「そう?じゃあ、どんな汚い手を使ってくるか見せてもらおうか」そんなあざけるような、挑発的なその言葉を口にしたのは、杏奈ではなかった。車の前を回り込んで杏奈の隣に立った、健吾が発したものだった。杏奈は少し驚いて健吾に視線を向けた。彼の横顔に、駐車場の薄暗い光が影を落としている。銀色の髪が数本、汗で頬に張り付いていた。その涼しげな切れ長の瞳は、目の前の圭太をただ冷たく見据えているだけだった。圭太は、それが健吾だとわかると、みるみる顔色が変わった。昔、京市にいたとき、杏奈のそばにいる健吾を見かけたことがあった。当時はみんな、健吾のことを橋本家の運転手の一人だと思っていた。まさか彼が橋本家の御曹司だなんて、夢にも思わなかったのだ。それは自分ごときが逆らえる相手ではないと分かったのか、圭太は歯を食いしばった。そして杏奈の隣に立つ健吾が彼女の手をそっと握って明らかに守ろうとしているのが見えたから、彼は悔しくてたまらなかった。「杏奈は長年俺の妹として、久保家で大切に育ててきたんだ。彼女を好きなら、俺たち久保家にも少しは気を遣ってくれてもいいんじゃないか?」それを聞いた杏奈は、冷たい表情で言い返した。「私ですら久保家から恩恵を受けたなんて感じたことがないのに、どうして彼がそんなことを言われなきゃいけないの?彼こそ久保家とは全く関係がない赤の他人でしょ」そう言って杏奈もまた、健吾が絡まれないように守ろうとした。それを聞くと健吾は、口を開きかけたが、黙って言葉を飲み込んだ。すると圭太の顔は、怒りでみるみる青ざめていった。だが、杏奈は続けて言った。「もうとっとと消えて。1円だってあげるつもりはないから」一方、圭太は憤りで怒鳴り散らしそうになったが、杏奈の隣にいる健吾の顔を見て、結局その言葉を飲み込んだ。圭太は杏奈をきつく睨みつけて、「覚えてろよ」と言った。そして、そう吐き捨てると、彼は車に乗り込んで走り去った。一方、杏奈は圭太が走り去った方向を嘲笑うように見つめた後、健吾に向かって言った。「あなたって、まるで大ボスね。誰だってあなたを見たら縮こまっちゃうんだから」さっき彼女一人の時は、圭太が今にも殴りかかってきそうな勢いだったのに。それが健吾が出てきた途端、すぐに怯んで逃げていくんだもの。「それでいいんじ
Read more

第508話

そして、南の舞台公演当日、杏奈は健吾も連れて行った。杏奈が、南に健吾を紹介しなければならないと言ったのだ。その言葉を聞いて、健吾は俄然張り切りだした。彼は朝早くから身支度を始めた。普段は自分の外見に無頓着なのに、珍しく杏奈のドレッサーから淡い色の口紅を見つけ出して、彼女にこう尋ねた。「俺も化粧した方がいいかな?」まだ早い時間だったので、杏奈はまだ眠っていた。しかし、健吾が立てる物音で、すっかり目が覚めてしまった。すると、彼女はベッドから恨めしそうに起き上がり、健吾が行ったり来たりするのを見ていた。やがて彼が口紅を持ってベッドの前に来て例の質問をしたとき、杏奈はとうとう言葉を失った。杏奈は手を伸ばし、健吾の手から真っ赤な口紅を奪い取った。「この色があなたに似合うと思う?本気で塗るつもり?」だけど、こういうことには全く疎い健吾は、杏奈に化粧をしてくれるよう真剣に頼み込んだ。すると、杏奈は仕方なく口紅を置くと、彼の袖を引っ張って甘えるような声で言った。「公演は夜からよ。家を出るのは午後だし、今はまだ朝の6時。もうちょっと寝かせてもらえないかな?」そこで健吾は窓の外のまだ薄暗い空と、杏奈のうっすらと隈ができた目元を交互に見た。今日は日曜日。せっかくの週末だ。確かに、杏奈をゆっくり寝かせてあげるべきだろう。その上、昨日の夜は遅くまで求めすぎてしまった。自分は平気でも、彼女は疲れ切っているはずだ。そう思うと健吾は少し申し訳ない気持ちになった。彼は着替えたばかりの服を脱いでパジャマに着替えると、再び布団にもぐりこんで杏奈を抱きしめた。「もう少し寝よう」こうして、杏奈はようやく静かなひと時を手に入れることができた。彼女は健吾の腕の中で心地よい場所を見つけ、深い眠りに落ちていった。一方、耳元で杏奈の穏やかな寝息を聞きながら、健吾は全く眠れなかった。鈴木家の兄弟に会った時でさえ、これほど緊張はしなかった。南は、長年杏奈を育ててくれた、親同然の存在なのだ。健吾は、南が杏奈にとってどれだけ大切な存在か知っていた。だからこそ、彼女が大事にしている南の前で、少しでも良い印象を与えたかったのだ。どうにか南に、安心して杏奈を任せてもらいたいと思ってもらえるようにと、健吾は密かに願った。杏奈が次に目を
Read more

第509話

こうして三人は空いている席を見つけて座った。そこは一番よく見える、特等席だった。席に着くと、杏奈が空に尋ねた。「お兄さん、そのチケットって、上杉さんからもらったの?」この席のチケットは普通では手に入らない。関係者からの招待でなければ難しいはずだ。だから、彩乃から渡されたとしか思えないのだ。すると空は頷いて答えた。「ああ。以前のお礼にとチケットをもらったんだ。今夜は休みだし、暇だったので顔を出そうかと思ってな」「それもそうね。あなたも最近は仕事続きで大変だったから、少しは息抜きした方がいいわ」杏奈と空が親しげに会話する様子を見て、横に座る健吾は少し嫉妬していた。だが、二人は兄妹なのだから、自分が口を挟むわけにもいかない。そう思って健吾は不満を飲み込み、杏奈の手を指で弄りながら気を紛らわせた。その様子を目敏く見つけた空は、思わず呆れてしまった。ここ最近彼もずっと見ていて分かったことがあった。付き合っている間中、健吾はまるで子犬のように杏奈にべったりで、どうやっても引き離せないのだ。多分杏奈に蹴り飛ばされたとしても、健吾は間違いなくまたすぐに尻尾を振って擦り寄っていくだろう。全く、呆れてものが言えないよ。でもこんな健吾だから、杏奈を任せてもいいかもしれないとかろうじて思う空だった。そうこうしているうちに、舞台が始まった。舞台中央に立つ彩乃は、杏奈と空に一瞬目をやると、軽く微笑んだ。その後彼女は踊りに意識を集中させた。一方、生でダンスを見るのは久しぶりだった杏奈の視線は舞台上のダンサー一人一人に注がれた。彼女らの姿はあまりにも美しく、儚げで、ただただ目を奪われるだけだった。こうして舞台の上で大輪の花が次々と開花していくようで、ダンサーたちがこれまで積み重ねてきた努力の全てがその身に宿っているようだった。それを見ていて杏奈は心の奥底で諦めかけていたはずの夢が、再び鮮やかに花開いていくのを感じた。そして今彼女らの放つ光によって、胸に焦がれていた想いに、命を吹き込まれたかのように思えた。一方、健吾の視線は、舞台から杏奈へと移っていた。そして手で彼女の柔らかい肌を優しくなでながら、健吾の胸にも、ちくりと小さな痛みが走った。杏奈だって。あの怪我がなければ、あのように舞台で光り輝けたはずなのに。
Read more

第510話

健吾が連絡を受けた時、ネット上ではすでに杏奈に対する誹謗中傷がひどいことになっていた。ひき逃げだとか、人殺しだとか、そういう出鱈目ばかりだ。そして大したことにはならなかったが、橋本グループにも少し火の粉がかかっていた。それを見た健吾は洋介に電話をかけた。「ネット上の書き込みをなんとかしろ。それと、真奈美が事故に遭った現場の防犯カメラを確認してくれ」「カメラの映像はすでに調べましたが、きれいに削除されていました」それを聞いて健吾は鼻で笑った。「カメラも何もないなら、なぜあいつは杏奈さんがやったと決めつけられるんだ?」洋介は答えた。「真奈美さんの方には目撃者がいます。柳田早紀(やなぎた さき)という女性が、杏奈さんが車で真奈美さんを撥ね飛ばすを見たと主張しているようです」続いて、洋介は詳しい経緯を健吾に報告した。真奈美が事故に遭ったのは、アトリエ・シリンに向かう道の途中だった。その間一部の道路が一昨日から工事中になっており、防犯カメラが撤去されていた。工事エリアの手前のカメラには杏奈の車が入る姿が、出口のカメラには数分後に出てくるその姿が記録されているようだ。真奈美が事故に遭った現場は、ちょうどその工事エリアだった。真奈美の話によれば、杏奈に呼び出されて工事エリアで待っていたという。大切な話があると思って行ってみると、いきなり車で撥ねられ、そのまま逃走されたのだとか。それをたまたま別の通りを歩いていた早紀が現場を目撃したと言っており、今では彼女が唯一の目撃者となっているのだ。するとちょうど洋介からの報告を終えたところに、杏奈が深刻な顔つきで中から出てきた。彼女は同様に厳しい表情をしている健吾を見て、彼もすべて知ったのだと察した。「警察から、警察署で事情を聞きたいって連絡があった」それを聞いて、健吾は洋介への指示を済ませると、杏奈の冷え切った手をそっと包み込んだ。「大丈夫、俺も一緒に行くよ」だが、杏奈の心には不安が渦巻いていた。なぜなら、これは以前にもあった展開だからだ。ひき逃げ。それは彼女にとってあまりにも嫌な思い出を誘う言葉だった。去年、真奈美が起こしたひき逃げ事故で、浩に偽証され、加害者に仕立て上げられたのが未だに記憶に新しい。それがせっかく汚名を返上したというのに、今になっ
Read more
PREV
1
...
4950515253
...
70
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status