All Chapters of 貴方は海で笑う夜、私は愛を葬った: Chapter 261 - Chapter 270

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第261話

「やっぱり病院へ行かないと」「医者がお前より上手く処置できるとは限らない」洵は淡々とそう言った。「そんなわけないじゃない……」澪はどのような表情を出すべきなのかはわからなかった。傷口の手当てを終えて彼女が立ち上がっても、洵はソファに座ったままだった。二人の間には、言葉で言い表せない気まずい空気が流れていた。澪は無意識のうちに、洵のプレジデンシャルスイートを観察していた。こんなに広い部屋なのに荷物が少なく、しかも洵一人分の荷物しかないことに気づいた。「千雪は俺と同室ではない」洵の言葉に、澪はハッとした。そんなに顔に出ていただろうか?澪の目が泳ぐのを見て、洵は微笑み、何気ない風を装って尋ねた。「澪、離婚したら……俺と別れるのが名残惜しいか?」澪は、心臓を軽くつねられたような感覚を覚えた。「……全然」「今、迷ったな」洵のその一言が、澪の怒りに火をつけた。彼女は憤然と振り返り、洵を直視してきっぱりと言い放った。「洵、千雪さんを愛しているなら、彼女だけをしっかり愛しなさいよ。私に中途半端に絡まないで。もし私があなたに未練があるなら、こんなに急いで離婚しようとするわけないじゃない。離婚すれば私は完全に自由になれるの。一刻も早くあなたから離れたいわ!」澪が怒り出すとは予想外だったのか、洵は淡々と一言だけ返した。「そうか」プレジデンシャルスイートは静まり返った。澪は深呼吸をした。自分が何に腹を立てているのか、自分でもよく分からなかった。ただ、洵がいつも自分の前で余裕に満ちていて、自分ばかりが惨めな思いをしていることにイライラするのだ。洵は自分の初恋の人で、深く愛した人なのに、彼は自分のことなど覚えておらず、愛してすらいない。だから、自分はこの恋と言うゲームにおいて、永遠に敗者なのだ。「早く病院に行って。私、帰るから」澪はわざと冷たく言い放ち、歩き出した。「待て」洵は立ち上がり、静かに言った。「もう暗い。送って行こう」澪は振り返り、包帯でぐるぐる巻きにされた洵の腕を見た。この怪我は、自分の身代わりになって負ったものだ。嵐が人々の面前で自分に腐食性の液体を浴びせようとしたこと自体が理解できなかった。そして何より、洵がなぜ自分を庇ったのかが理解できな
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第262話

「お前にプレゼントだ」千晃がしべのむしり取られた大きな赤いバラの花束を澪の前に突き出した時、彼女はどう反応していいか分からなかった。「どうしてここに?」「ショーでお前が俺に感謝しているのを聞いたから、来てみたのさ」千晃は正直に答えた。金縁眼鏡の奥の目はいつも人を食ったように笑っているが、今の言葉に嘘はないように聞こえた。「この花、安心して受け取ってくれ。しべは全部俺が摘み取って、花びらを一枚一枚くっつけ直したんだ。かなり骨が折れたぜ」千晃の口ぶりは恩着せがましかったが、澪は思わずにはいられなかった。だったら、そんな面倒なことをするくらいなら、別のものをプレゼントすればよかったのに。「ありがとう。受け取っておくわ」理由はどうあれ、千晃が誠意を持って花を贈ってくれたのだから、断る理由はなかった。こんなに大きな花束を抱えているのに、くしゃみが一つも出ないのは初めての経験だった。澪がホテルのエレベーターに乗ると、千晃も乗り込んできた。「あなたもここに泊まってるの?」澪は不思議に思った。千晃ほどの資産と地位がある人間が、自分と同じようなビジネスホテルに泊まる理由がない。「いや」千晃は首を振った。ちょうど目的の階に着き、澪がエレベーターを降りると、千晃も後をついてきた。「泊まる場所がないから、仕方なくお前の部屋で一晩我慢してやろうと思ってな」澪は足を止め、千晃を振り返った。千晃は片手をポケットに突っ込み、もう片方の手で金縁眼鏡を押し上げながら、上品に微笑んでいた。冗談なのか本気なのか、見分けがつかない。「男女の同室はご法度でしょ。それに、私があなたと一緒に『我慢』したいかどうか、考えたことある?」千晃は笑った。「お前が嫌がるなら、無理やり同意させるまでだ。どうだい?」「そんなことしたら警察を呼ぶわよ」「警察署なら何度も世話になってる。一回増えても痛くも痒くもない」千晃の言葉に、澪は腹が立ってきた。自分のスピーチが、まさかこんな厄介者を呼び寄せることになるとは夢にも思わなかった。そもそも、千晃がLDジュエリー・ファッションウィークのショーを見ていること自体、予想外だった。だが、千雪が参加しているのだから、彼女の味方である千晃が見ていても不思議ではないと思い直
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第263話

「ごめんなさい」澪が素直に謙に謝ると、千晃が横から口を挟んだ。「こいつが文句を言ってるのは俺にだろ。なんでお前が謝るんだよ」澪は思わず苦笑した。結局、千晃は謙の部屋に転がり込むことになった。翌日の早朝、三人は連れ立ってホテルを出たが、千晃はなぜか澪のすぐ隣を陣取っていた。今日、澪は雑誌の撮影とインタビューの予定が入っており、謙はアシスタントとして同行していた。澪は千晃を邪魔だと思ったが、いくら追い払おうとしても彼は動こうとしなかった。千晃は邪魔をするわけではなく、ただ静かに美しい男として傍らに立っていたが、その視線は常に澪に粘り付いていた。今日澪が撮影するメインの雑誌は、ミランダの「GLORY」だった。澪がメイク直しをしていると、スタジオにまた新たな人物が入ってきた。「GLORY」はファッション誌だがビジネス系のコーナーもあり、特に財界の大物の中でファッションに精通し、スター顔負けの容姿を持つ人物が取り上げられることがある。たとえば、洵のように。澪の目に真っ先に飛び込んできたのは洵だった。洵は今日もスーツ姿だったが、撮影用に特別に用意された白いスーツを着ていた。しかし、澪は思わず眉をひそめた。洵の腕の怪我……スーツを着るべきではないのに。続いて、澪は洵の隣を歩く千雪に気づいた。千雪も入念にドレスアップしており、ヌードピンクのセットアップはオートクチュールの新作だった。しかし、今日の撮影に千雪は全く関係がない。スタジオにいる全員の中で、千雪に視線を向けたのはおそらく澪だけだった。千雪は千晃と同じく、ただの美しくて静かな置物と化していた。昨夜の晩餐会を経て、千雪は今回のLDジュエリー・ファッションウィークでの自分のショーが失敗に終わったことをはっきりと悟っていた。だが、まだ諦めてはいない。彼女には洵がいる。洵のそばにいれば、人脈やリソースに困ることはないのだ。澪と洵は、特集が異なるため、本来は別々に撮影とインタビューを受ける予定だった。しかし個別の撮影が終わった後、ミランダが突然思いつきで、澪と洵のツーショットを撮ると言い出した。さらに、二人のために新しい衣装とスタイリングまで用意させた。澪と洵がそれぞれメイクルームに入った後、千雪は自ら千晃に近づいていった。
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第264話

若作り。千晃はハッとした。自分が千雪をそんな風に評価する日が来るとは、夢にも思わなかった。「千晃、そんなに見つめないでよ!」千雪は千晃の袖を引っ張って甘えた。我に返った千晃は、千雪に問い返した。「ミランダとは知り合いだが、何か用か?」「私……私もミランダさんに写真を撮ってもらいたいの。雑誌に載りたくて……ダメかしら?」千雪は話すにつれて、どんどん自信なさげな声になっていった。もちろん、計算してのことだ。千晃が「弱みを見せる女」に弱いことを熟知しているのだ。「なぜ洵に頼まないんだ?」千雪は顔を上げ、少し驚いたように千晃を見た。今日の千晃は、昔とどこか違うような気がした。昔の千晃なら、こんな余計なことは聞かなかったはずだ。彼女が望み、必要とするなら、自ら進んで何でもしてくれたのに。「私……あなたを頼ってみたかったの……ダメ?」千雪は潤んだ大きな瞳で千晃を見つめた。「もちろんいいさ」千晃が折れたのを見て、千雪は内心で安堵の息をついた。彼女が洵に頼まなかったのは、以前一度頼んで失敗しているからだ。あの時、洵はミランダを紹介してくれたが、ミランダは千雪を見向きもしなかった。もしまた洵に頼めば、澪だけが雑誌に載るのが悔しくてたまらないのだと見透かされてしまう。それに、「澪に劣っているだけでなく、負け犬の遠吠えをする女」という印象を洵に与えてしまうかもしれない。だから千晃に頼んだのだ。自分が「GLORY」に載りさえすれば、洵の目には澪が特別ではなくなるはずだ。千晃は義理堅い男で、千雪に約束した後、すぐにミランダの元へ行った。彼がミランダに何と言ったかは分からないが、とにかくメイクアップアーティストが千雪のスタイリングをするためにやって来た。澪がメイクルームから出てきた時、ちょうど洵も出てきたところだった。二人は顔を合わせた。澪は、洵の服と自分の新しい衣装が、どう見てもペアルックであることに気づいた。だが、これは「GLORY」の撮影であり、すべてはミランダの指示だ。澪は何も言わなかった。カメラマンの要求で二人は並んで立ち、そのポーズは次第に親密なものになっていった。撮影が終わった後、澪は少し躊躇したが、やはり洵に聞かずにはいられなかった。「腕の怪我、ど
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第265話

「どうやら……メイクの腕だけの問題じゃないようだな……」雑誌のページをめくっていた洵は、レンズの前で媚を売るようにポーズをとる千雪をちらりと見上げ、淡々と独り言を呟いた。その後の二日間、千晃は謙と同じようにアシスタントと化し、澪の仕事を手伝った。LDジュエリー・ファッションウィークの最後の二日間は、ビジネス商談に充てられるからだ。澪はジュエリーデザインスタジオのオーナーであり、デザイナー本人でもあるため、すべての商談を自らこなさなければならなかった。帰国後も、澪に息つく暇はなかった。今回のLDジュエリー・ファッションウィークへの参加は実り多いものとなり、澪は揺るぎない名声と大量の注文を手に入れた。半月後、「GLORY」の最新号が発売された。澪はミランダと「GLORY」の業界における地位を重々承知していたため、自分の写真は目立たない片隅に小さく載るだけだろうと思っていた。しかし、まさか「GLORY」最新号の表紙が、自分と洵のツーショット写真になるとは夢にも思っていなかった。洵はもともと、メディアへの露出が多い財界の超大物だ。彼の性格自体は控えめであっても、メディアへの露出を拒まない限り、彼の顔は常に群衆の目に触れることになる。金と美貌と権力を兼ね備えている以上、目立たずにいることなど不可能なのだ。そして新鋭デザイナーである澪が、そんな大物と肩を並べて「GLORY」の表紙を飾ったとなれば、たとえ彼女がゴミのようなデザインしかしていなくても、間違いなく話題の的になる。ましてや、澪のデザインはゴミなどではない。彼女の特集は、ミランダによって雑誌の最も重要なページに組まれていた。彼女個人の写真よりも、彼女がデザインした「茨のバラ」シリーズのジュエリー写真の方がさらに人目を引き、LDジュエリー・ファッションウィーク特集全体のトップ画像として使われていた。「GLORY」の発売を皮切りに、バタフライ効果が連鎖していった。ますます多くのラグジュアリーブランドのバイヤーが澪に接触してきたり、ハイブランドからのコラボレーションの打診が舞い込んだりした。ネット上でも、ファッション系インフルエンサーや有名配信者がこぞって澪の話題を取り上げ、それが逆に彼女の影響力をさらに拡大させる結果となった。ピーターも、FYの専
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第266話

澪は郵便物を受け取った。マチつき封筒で、一式三部の離婚協議書を入れるのにちょうどいいサイズだった。オフィスでは開けず、家に帰るまで辛抱強く待った。夜更け。美崎町の古いアパートに明かりが灯る。澪は机に向かい、封筒の中身を取り出した。「離婚協議書」という大きなタイトルが、真っ先に目に飛び込んできた。澪は一枚一枚ページをめくった。記憶力にはそれなりに自信がある。前回の協議書の内容も覚えている。少なくとも前半部分は、前回と全く同じだった。どうやら洵は、あれほど時間をかけて作り直したにもかかわらず、こっそりと不利な罠を仕掛けたりはしなかったようだ。しばらく読み進め、ついに後半部分に辿り着いた。予想通り、内容が変わっていた。だが、その変更点は澪の予想とは違っていた。洵はやはり「離婚後、篠原グループの10%の株式を譲渡する」という条項を残していた。しかし、その前提条件が大幅に増え、数多くの制限が課されていたのだ。例えば、澪が離婚後にこの10%の株式を無断で譲渡すること、無償贈与することも、有償での売却も明確に禁じられていた。澪は髪を掻きむしった。苛立たしかった。前回、千晃に株を渡す約束をしたことであんなに激怒したくせに、なぜこれほど時間をかけて作り直した協議書に、また同じ条項を残したのか理解できなかった。前回のことで、洵は自分に失望したはずだ。自分が彼の信頼を裏切ったと思ったはずだ。協議書を読み終え、澪は思わずため息をついた。結局、洵はこれほどまでに抜け目のない制限を設けてまで、篠原グループの10%の株式を渡そうとしてくれるつもりなのだ。考えすぎはいけないと分かっている。それでも、澪は思わずにはいられなかった。洵は、どうしても離婚後も自分と何らかの繋がりを持っていたいのだろうか、と。澪は首を振り、ペンを取り出すと、一式三部の離婚協議書に自分の名前をサインした。その隣には、すでに洵のサインがあった。相変わらず、力強く流麗な字だった。洵は今回の協議書に絶対の自信を持っており、自分も必ず同意すると確信していたからこそ、先にサインを済ませていたのだろう。サイン済みの協議書をしまい、スマホを手に取ると、ちょうど洵からラインが届いた。【明日午前十時半、役所で】簡潔で明確
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第267話

今や、澪は名声を高め、どんどん業界の外にまで影響力を広げている。一方、自分のスタジオからは大勢の社員が辞めて他へ移り、あまつさえ洗面所で社員たちがこっそり自分を笑い者にしているのまで聞いてしまった。「あんな三流雑誌の表紙になるなんて」「自分のデザインが安物レベルだってこと、本人もよく分かってるのね」と。「もういいでしょ、千雪。そんな些細なことでそこまで怒るなんて、子供みたいよ!」百合代が見かねて口を挟んだ。ここ数日、千雪はずっとこんな調子で、ヒステリックで情緒不安定になり、仕事にも行かず、ただ当たり散らしている。「これが些細なこと!?お母さん、私がどれだけ恥をかいたか分かってるの!?」「だから何だっていうの?」百合代は千雪の不甲斐なさに呆れた。「もう済んだことよ、怒って何になるの!確かに今、夏目は飛ぶ鳥を落とす勢いで目立っているわ。でもそれは、あの女に仕事運が向いているだけかもしれないじゃない?あなたが今すべきこと、分かってるでしょう?」百合代の言葉で、千雪は少し冷静さを取り戻した。「お母さん、それって……」「洵くんのことよ!」百合代はローテーブルを何度も叩いた。「あの女に仕事運があるなら、あなたはあの女から男を奪って、恋愛面でドン底に落としてやればいいのよ」「男を奪うって……元々洵は私のものよ!洵が先に出会ったのも、愛しているのも私なんだから!」千雪は腰に手を当て、憤然と言い返した。「なら話は早いわ!夏目の仕事の成功に腹を立てている暇があるなら、洵くんに働きかけて、さっさと夏目と離婚させてあなたと結婚させなさい……千雪、夏目のブームなんて一過性のものよ。一介のデザイナーにどれほどの資産があるっていうの?篠原グループの資産と比べ物になる?」千雪は耳をそばだてて百合代の分析に聞き入り、その大きな目をクルクルと動かした。「あなたが篠原グループの女主人の座に就けば、夏目なんて眼中に置く必要もなくなるわ。その時、名声も利益も手にするのはあなたよ。夏目には何が残る?結局、愛も財産もすべて失うのよ」百合代の言葉は見事に千雪を慰めた。千雪は深呼吸をし、ここ数日の鬱憤がすっかり晴れるのを感じた。化粧を直し、篠原グループへ洵に会いに行こうと準備していた時、何気なくスマホで見たトレンドニュースに、彼女は
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第268話

澪の正体が暴露されたのだ。今や、すべての人が知っている――篠原洵の妻が、彼女、夏目澪であることを。澪はスタジオに入ることもできず、ビルの警備員の助けを借りて、ようやく記者と個人メディアの包囲網から逃げ出した。車を発進させる前に、スマホを取り出した。案の定、ネット上は彼女のニュースで溢れ返っていた。【GLORY寵児・夏目澪、実は名門のセレブ妻!?】【篠原グループ総帥・篠原洵は既婚 妻は夏目澪】【新鋭デザイナーの背後には篠原グループの資本が?】【才子佳人?それとも才女佳男?篠原グループ、ついに女主人の存在を公式に認め】【最強のタッグ!財界の大物と新鋭デザイナー、実は以前から家族だった】一夜にして、ネット上は「澪は洵の妻である」という報道で埋め尽くされた。以前にも一度、不鮮明な結婚写真から噂になったことはある。あの時、洵は否定も肯定もしなかった。結局うやむやに終わった。ネットの世界には記憶がなく、新しいトレンドが次々と古いものを上書きしていくため、時間が経てば誰も気に留めなくなるからだ。しかし今回は違った。今回は明らかに、誰かが事前に記事を買い、全ネットに同じ内容が一斉に配信された。さらに続いて、篠原グループの公式アカウントが全プラットフォームでその記事を「認める」発表をしたのだ。つまり、篠原グループが一方的に「澪は洵の妻である」と公式に認めたことになる。それは事実ではある。最初、洵と結婚した時、特に「秘密結婚」の契約を結んだわけでもない。しかし、澪がずっと家で専業主婦として過ごしてきたため、ごく一部の人間を除いて誰も彼女の正体を知らず、篠原家も洵との関係を大々的に発表したことはなかった。澪には、今回の騒動の意図が全く理解できなかった。自分が洵の妻だと暴露される可能性は以前から考えていたが、篠原グループ側が認めさえしなければ、前回のように自然消滅するはずだった。しかし今回の篠原グループの反応は、あまりにも予想外だった。むしろ、篠原グループ自身が仕組んだ自作自演にしか見えない。澪が思い当たる黒幕は、洵しかいない。サイン済みの離婚協議書を渡してきた直後に、ネット全域に記事を配信し、「篠原夫人」としての澪の地位を確定させる。こうなれば、彼と離婚するのはさらに困難になる
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第269話

洵は沈黙を守った。「お前も知っての通り、星鋭(せいえい)をはじめとする複数の企業が、我が篠原グループを空売りしようと狙っている。このタイミングで対外的に好材料となるニュースを流せば、奴らは強制ロスカットに追い込まれ、我々の勝利だ。今の株価がどれだけ跳ね上がっているか、お前も分かっているだろう? 今は絶対に澪と離婚してはならん。離婚しないだけでなく、彼女を連れてもっと公の場に出なさい。彼女の勢いを利用して、我が篠原の価値をさらに吊り上げるんだ。星鋭の連中に一泡吹かせて、全財産を失わせてやる!」業が豪語を放つ間、洵は電話が切れているのではないかと思うほど静かだった。だが、業は洵が聞いていることを知っていた。「洵、ビジネスのためなら、利用できるものは何でも利用するんだ。澪との離婚を許さんと言っているわけじゃない。澪は変わってしまった。以前のように大人しくしていない以上、確かに篠原家には相応しくない。だが、彼女が今注目を浴びている以上、『篠原洵の妻』として公表することは会社にとって利益になる。まずは彼女を繋ぎ止めておけ。利用価値がなくなってから捨てればいい……たかが女一人だ。お前なら簡単に手懐けられると信じているぞ」電話を切り、洵は椅子の背もたれに寄りかかり、軽くまぶたを閉じた。その時、社長室のドアがノックされた。「社長、佐々木です」「入れ」佐々木がドアを開け、資料を洵に手渡した。「こちらはオーシャン・ブリスのプロジェクトの進捗報告です。もう一つは、DSスタジオのAIに関する調査報告書です」「ああ」洵は受け取らず、二つの資料をデスクに置くよう指示した。資料を置いた後、本来なら退出するはずの佐々木は、無言で洵のデスクの前に立ち尽くしていた。「まだ何か?」洵が淡々と尋ねた。「いえ」佐々木は首を振った。「ただ、社長……少しお疲れではないかと思いまして」「俺が疲れているように見えるか?」「……少々」洵は静かに口角を上げた。「俺が、一人の女に振り回されて疲弊しているように見えるか?」「……いえ、ただ社長にはお体を大切になさっていただきたいと存じまして」口ではそう言いながら、佐々木は内心で「たった一人の女ですか?」とツッコミを入れていた。「ちょうどいい、佐々木。スカリンダの予
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第270話

百合代に叱られ、千雪はさらに惨めな気持ちになった。前回、百合代とじっくり話した時にも、洵に薬を盛るよう勧められた。だが、千雪は同意しなかった。一つには、自分にまだ自信があったからだ。洵はいずれ自分を抱きたいという衝動を抑えられなくなるはずだと信じていた。高校時代、二人が付き合っていた頃、洵は彼女に手を出さなかった。彼は「まだ学生だから、お前を大切にしたい」と言っていた。そして今、洵はやはり彼女に手を出さない。これまで、千雪は何度も自分から誘惑した。明らさまに、あるいは遠回しに。彼の家に転がり込んだことさえあったのに、洵はどうしても寝室を共にしようとはしなかった。まさか、自分から洵を露骨に誘惑するわけにもいかない。そんなことをすれば、自分が安っぽく見えてしまう。その結果、彼女は洵と一度も肉体関係を結んだことがないのだ。千雪は焦りで狂いそうだった。しかし、薬を使う勇気はない。彼女は洵をよく知っている。洵は非常に鋭い。薬を盛られたと分かればすぐに気づくし、その結果、たとえ肉体関係を持てたとしても、洵は彼女と結婚するどころか、彼女を捨てるだろう。洵は、自分を陥れるような女を絶対に許さないからだ。「千雪、これを持っていなさい」百合代は小瓶を千雪の手に押し付けた。「知り合いの薬剤師に特別に調合してもらったのよ。一錠で十分。じわじわと効いてくるタイプだから」千雪は小瓶を握りしめ、指の関節が白くなった。「お母さんには、あなたが何をそんなに怖がっているのか分からないわ。もし洵くんにバレたとしても、どうってことないじゃない。あの子はあんなにあなたを愛しているのよ。既成事実を作ってしまえば、万事解決じゃないの!」百合代の無責任な言葉を聞きながら、千雪は押し黙った。彼女は誰にも、百合代にさえ言っていない秘密があった。洵が本当に深く愛しているのは、「雪」だということを。「千雪、人生においてチャンスは絶対に逃してはいけないわ。今、夏目は仕事も順調で、洵くんの妻だということまで暴露された。これが誰の仕業であれ、篠原家が夏目の地位を認めた以上、あなたはその座を『奪う』しかないのよ。どんな手段を使ってでもね……」百合代の助言を聞いているうちに、千雪の目から次第に涙が引いていった。夜七時。スカリンダ
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