All Chapters of 輝く私の背中に、夫は必死に追いつこうとした: Chapter 811 - Chapter 820

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第811話

大女優の望美がこんな連中を怒らせてしまったのだから、これからの日々は決して平穏なものではないだろう。ドアがカチャッと閉まった後、成哉は再び、虚ろな目をしている望美へと視線を向けた。成哉は思わず軽く鼻で笑った。「刺激を与えてはいけない、だと?」望美はハッとして視線を動かした。てっきり成哉が自分のことを心配してくれているのだと思ったのだ。望美が口を開くよりも早く、成哉の陰湿で冷たい声が響いた。「刺激を与えちゃいけないって言うなら、なぜ結婚式の前に控え室であんな刺激的なことをしたんだ?それともお前は、それほど男に飢えていたのか」その言葉を聞いた瞬間、望美の全身は氷水を浴びたように冷え切った。望美は今の成哉の姿を見て、ただひたすらに見知らぬ他人のように感じていた。――この男は、本当に自分がかつて愛したあの人なのだろうか。それとも、成哉は記憶を取り戻したというのだろうか。望美は声を詰まらせた。「成哉、あなた……もう私のことを愛してないの?あの動画は合成されたものだって言ったでしょ。どうして信じてくれないの?私も一緒に調べるわ。お願い、一度だけチャンスをちょうだい」望美はお腹に手を当て、さりげなく成哉の反応を確かめた。「成哉、私のお腹には、私たちの赤ちゃんがいるのよ。あんなに喜んでくれたのに、全部忘れちゃったの?」成哉は鼻で笑った。「望美、俺は記憶を失っただけで、脳みそまで失くしたわけじゃない。俺があの動画を調べていないとでも思っているのか」望美はハッとして顔を強張らせた。そうだ、いくら記憶を失っているとはいえ、成哉は天野グループの社長なのだ。体に染み付いた習慣だけでも、あの動画の真偽を調査しに行くことなど容易に分かるはずだ。望美が偽造工作をするのを待ってくれるわけがない。「それで、まだ本当の事を言う気はないのか」望美は唾を飲み込み、最後は開き直ったように言った。「何を言えばいいの?」成哉の視線がゆっくりと動き、望美を隅々まで見据えた後、最後は望美のお腹の上で止まった。「決まっているだろう……」望美は、お腹を押さえる手に少しだけ力を込めた。嫌な予感がした。案の定、成哉の嘲るような声が響いた。「その子は、一体誰の子だ」望美の目がわずかに揺れた。まさか、最後にまたこの
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第812話

「ええ、死んでやるわ!あなたが信じてくれないなら、私なんかが生きていたって何の意味があるの」望美はさらに声を荒らげて叫んだ。彼女は絶望に打ちひしがれた様子で、乱れた髪が蒼白な顔の片側に垂れ下がっていた。美しい伏し目からは、大粒の涙が顎を伝い、ぽろぽろと床にこぼれ落ちていく。そのあまりにも痛々しく、庇護欲をそそる姿に、成哉の心は激しく揺さぶられた。望美の脆く儚げな様子が、彼の記憶の中にある彼女の姿とぴたりと重なったのだ。彼は小さくため息をつき、結局のところ見捨てることはできなかった。成哉は歩み寄ると、望美を横抱きにしてベッドへ寝かせた。「もういい、この話はまた後にしよう。まずはゆっくり休め」そう言い残し、成哉は部屋を去ろうとした。だが、望美は彼の袖をぎゅっと掴んだ。その瞳には涙がキラキラと光っている。「……また私に会いに来てくれる?」成哉の心に迷いが生じた。底知れない黒い瞳が、病院の布団越しに望美の膨らんだお腹へと落とされ、複雑な感情が渦巻いた。成哉は薄い唇を引き結び、短く答えた。「そのうちな」拒絶もせず、かといって承諾もしなかった。しかし、そんな彼の態度に、望美はかえってホッと胸をなでおろした。少なくとも、まだ挽回の余地は残されている。彼女はそこでようやく、成哉の袖を握っていた細い指を名残惜しそうに離した。「じゃあ、気をつけて帰ってね」成哉は「ああ」とだけ短く応え、身を翻して部屋を出て行った。その動作は流れるようにスムーズだった。病室のドアが再び閉められたのを確認すると、望美はそっとお腹に手を当てた。その瞳の奥には、底知れない暗い光が宿っていた。やはり、先ほどの賭けは正解だった。成哉が自分を止めてくれた。それだけで、まだ形勢を逆転できる可能性がある証拠だ。涙の使い方なら、これまで数え切れないほどカメラの前で演技してきた大女優だ。どの角度で泣けば最も男の心を揺さぶれるのか、手に取るように分かっている。「私がそう言い続ければ、この子はあなたの子になるのよ!」望美は唇をぎゅっと噛み締めた。――病院を後にした成哉の頭の中は、先ほどの望美の言葉でいっぱいだった。――まさか、俺は本当に彼女を誤解していたのだろうか。先ほどの望美のあの決死の形相は、本気で死を
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第813話

望美は言葉を失った。自分が入院しているのに、来るべき人は来ず、憎い人間ばかりが訪ねてくるとは、本当に皮肉なものだ。望美はたまらず冷笑を漏らした。「目的がそれなら、あなたたちに話すことは何もないわ。何を聞かれても、私は何も知らないから」望美にははっきりと分かっていた。紬がここに来たのは、間違いなくあのチンピラの一件のためだと。紬は芽依と悠真を連れて望美の前に立ち、見下ろすように言った。「今のあなたを見て思うのは、自業自得ってことだけよ」紬が左右に視線を向けると、子供たちも察して顔を上げ、紬と目を合わせた。「私がこの二人を連れてきた理由は――あなたがかつて私の子にした仕打ちを、今ここで思い知らせてやるためよ」最後の言葉で、紬の口調は明らかに強まった。望美の瞳の奥に恐怖がよぎった。「紬、やれるもんならやってみなさいよ!何にしても、私は天野家の嫁で、成哉の妻よ!あなたがそんなことをすれば、天野家の面子を潰すことになるのよ?そんな無謀な真似ができると思ってるの?」その言葉を聞いて、紬が何かを言うよりも早く、芽依が真っ向から反論した。「望美さん、そんな馬鹿な夢を見るのはもうやめたら?あなたとパパの結婚式はもう中止になったの。それに、おじいちゃんもあなたを認めないし、おばあちゃんなんてあなたのせいで怒って病院に運ばれたんだから。そんなことも知らないの?」悠真は腕を組み、いっぱしの大人のような態度で言い放った。「そうだよ、あんなことがあったのに、まだ嫁げると思ってるの?あざとい女はどこまで行ってもあざといね。妄想の内容まで、僕たちとは全然違うみたいだよ」紬は理玖の方を向き、二人は息を合わせたように「ふっ」と吹き出した。まさか、芽依と悠真がここまで毒舌だとは思わなかったのだ。紬は軽く肩をすくめ、理玖に視線を送った。普段の芽依たちは、こんな話し方をするタイプではない。つまり、自然とああいう言い回しを身につけたのだろう。望美は二人の容赦ない言葉に、ひどく腹を立てていた。胸を押さえ、震える指を突き出す。「あんたたち……」芽依はようやくやり返すことができた。「私たちが何?言っておくけど、もうあなたのことなんて怖くないんだから!前に私が突き飛ばしたって嘘をついて、二回も私をいじめてもいいと思って
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第814話

望美はふっと口角を上げ、もうどうなってもいいという態度で言い放った。「それがどうしたの?まさか、私一人であなたをいじめていたとでも思っていたの?あなたのパパとあのババアの黙認がなければ、私がこんなに簡単にやれたとでも?首を絞めたあの時だって、あなたの大好きなおばあちゃんが本当に見ていなかったとでも思ってるの?見ていたとしても、あのババアは何も言わなかったじゃない」望美は涙が出るほど大声で笑い飛ばした。紬は「首を絞めた」という言葉を聞き、心臓を跳ね上がらせた。紬は芽依を引き寄せ、注意深く首元を確かめた。すると案の定、そこにはまだ完全には消えていない赤黒い痕が残っていた。「芽依ちゃん、この女、あなたに手まで上げていたの?」芽依は下唇をぎゅっと噛み締め、紬の心配そうな眼差しを受けてようやくゆっくりと頷いた。「うん、でもそれ、ずっと前のことだから。ママ、心配しないで」紬の気遣うような視線と交わり、芽依はただ心の底がポカポカと温かくなるのを感じた。――私は誰からも必要とされない子供なんかじゃなかった。私を愛してくれるママがいるんだ。紬はベッドの上で狂ったように笑う望美を見据え、たまらず立ち上がると一歩を踏み出した。理玖はまるで紬の意図を見透かしたかのようだった。理玖は手を伸ばして紬の手首を掴むと、首を横に振って合図した。「紬、落ち着いて」紬は大きく深呼吸をし、理玖の灰色の瞳と視線を合わせてようやく冷静さを取り戻した。そして、握りしめていた拳をゆっくりと開く。たった今、確かに我を忘れていた。何しろ、ここはまだ病院の中なのだ。紬の冷ややかな瞳がベッドの上の望美へ向けられる。その目の奥には冷静さが戻っていた。理玖が止めてくれて本当によかった。そうでなければ、自分が何をしでかしていたか分からない。ましてや、ここには二人の子供がいる。母親として手本を見せなければならないのだ。望美は冷たく鼻で笑った。「どうしたの?ぶつ勇気もないわけ?」紬は望美の耳元に顔を寄せて囁いた。「好きに言えばいいわ。あなたが私にしたこと、全部しっかり覚えているから。安心して、退院したあなたを待っているのは、新しい地獄よ」望美は紬のその眼差しに見つめられ、心の底から震え上がるのを抑えきれなかった。「この泥
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第815話

成哉の瞳の奥に、深い思惑と戸惑いがよぎった。以前起きた出来事について、彼はますます好奇心を掻き立てられていた。断片的なことはいくつか思い出したものの、脳裏にある記憶の大部分は、まるで濃い霧に覆われているかのように、依然として何があったのかはっきりと見えなかった。その感覚が、成哉の心の底にどうしようもない挫折感を生み出していた。成哉は薄い唇をきつく引き結び、心の中で一つの決断を下すと、ようやくその場を立ち去った。一方、病室の中では、紬もこれ以上留まるつもりはなかった。顔色を悪くしている望美を横目で見やり、彼女はただ一言だけ残した。「せいぜい自分の行いを悔い改めることね」そして、二人の子供を連れて病室を後にした。悠真も望美を睨みつけ、無言のまま紬と芽依の背後に立ちふさがった。その庇うような態度は、誰の目にも明らかだった。その光景を目の当たりにして、望美の唇から苦笑いが漏れた。この連中のことは、一人残らずこの頭に刻み込んでやる。一度の失敗など、何の意味もない。形勢逆転のチャンスさえあれば、必ず狂ったように復讐してやる。もし視線を物理的な刃に変えることができたなら、紬は今頃、望美の眼差しによって全身穴だらけにされていただろう。病室を出ると、紬の顔にようやく笑みが浮かんだ。彼女は手を伸ばし、芽依の柔らかな小さなほっぺたをつねった。「どう、少しは気分が晴れた?」芽依は弾んだ声で答えた。「うん、すごくスッキリした!あの悪い女が、あんな惨めな姿になってるのを見たら、すごく嬉しくなっちゃった」悠真も嬉しそうに同調した。「そうだよ、あんなことがあったんだから、パパも絶対にあの女とは結婚しないはずさ」紬の顔に浮かぶ笑みは変わらなかった。二人の子供の顔に再び笑顔が咲いたのを見て、彼女も安心したのだ。そして理玖もまた、傍らで無言のまま紬たちに寄り添っていた。彼は自然に長い腕を伸ばし、紬の肩を抱き寄せた。「安心して。望美については、俺が証拠を集めてきっちり対処するから」紬は理玖の好意に感謝しつつ言った。「りっくん、ありがとう。でも、自分で決着をつけたいこともあるの」何しろ、望美が彼女に与えた傷は、決して消せるものではないのだから。あのチンピラたちのことは、今でも記憶に新しい。
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第816話

芽依は素直にこくりと頷き、分かったという意思を示した。ママが時間の問題だと言ったのだから、絶対に大丈夫なはずだ。紬は芽依の小さな頭を優しく撫でた。「いい子にしていれば、天野家の人たちもきっと優しくしてくれるわ。だって、芽依ちゃんは天野家の子どもなんだから。これだけは、永遠に変わることのない事実よ」「分かったわ、ママ」芽依は紬と繋いでいる手に、少しだけ力を込めた。ママとパパが離婚していなければよかったのに。心の底からそう後悔していた。顔を上げると、視界の隅に、理玖が紬を甲斐甲斐しく気遣っている姿が映り、芽依は呆然とした。ママの言う通り、過ぎてしまったことはもう取り返しがつかない。これまでママを大切にできなかった分、これからの時間で、しっかりと埋め合わせをしていこう!――病室。望美は掛け布団をぎゅっと握りしめ、固く閉ざされたドアを見つめながら、胸の内に幾重にも苦い思いを募らせていた。納得がいかない。どうして彼女が、こんな惨めな境遇に陥らなければならないというのか?望美の脳裏に、成哉が自分をベッドに抱きかかえて寝かせてくれた時のことが蘇った。間違いない。今の成哉は、まだ記憶を取り戻していないはずだ。この状況を、絶対に上手く利用しなければ。ましてや、今のお腹の中には子どもという強力な切り札があるのだから。上手く使えば、子どもを理由に確固たる地位を築ける。望美は瞳の奥にどす黒い光を宿し、極限まで掠れた声を絞り出した。お腹を撫でる手にも、じわじわと力がこもっていく。「この子が誰の子であろうと関係ない。今は、成哉の子でなければならないのよ」深く息を吸い込み、無理やり自分を落ち着かせる。ふとあることを思いつくと、瞳の光がにわかに静まった。続いて、望美は口角を吊り上げた。「そうよ、どうしてこんな重要なことを忘れていたのかしら?成哉、私は絶対にあなたと離れたりしないわ」点滴のボトルを交換しにやって来た最初の看護師は、望美の針が刺さっている周囲がぷくりと膨れ上がり、青紫色に腫れ上がっているのに気がついた。白い肌の上では、それがひときわ痛々しく、恐ろしいほどだった。看護師の脳裏に、病室へ入ろうとした際、ドアの前に立っていたあの冷酷な表情の男のことが不意に浮かんだ。本来ならいく
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第817話

一方、その頃。「なんだって、あの馬鹿息子がまたあんたのところへ行ったって!?」「そうだよ」渉はすでに生きる気力を失ったかのような口調だった。「姉さん、お願いだから、今後こういう厄介なことは僕に頼まないでくれないか。本当に、もう手に負えないんだよ」もともと黒澤家の会社には、それほど強固な基盤があるわけではなく、神谷家と比べれば、蟷螂の斧も同然だ。その上、理玖から標的にされ、意図的とも無意識ともつかない圧力を受けている。これでは、神様であっても、もはやこの家業を救うことはできないだろう。しかし、喜久子は納得がいかなかった。「前から言ってるじゃない。あの紬とかいう女が神谷家に嫁ぐのを、黙って見過ごすわけにはいかないのよ!」喜久子の言葉を聞きながら、渉の心はすでに麻痺し始めていた。このままなら、そろそろ家族に話をして、喜久子と少し距離を置くことを考える時期かもしれない。渉はきっぱりとした口調で口を開いた。「姉さん、本当にこれ以上は無理だ。そういうことでよろしく。今後、紬さんのことには、僕は一切手出ししないからな!」理玖の今回の一連の動きによって、会社はまたしても巨額の損失を被ったのだ。渉自身も、理玖のやつが間違いなく何かに感づいていると痛感していた。そうでなければ、これほど正確に狙いを定めて、海外の大型プロジェクトを阻止してくるはずがない。なんといっても、あのプロジェクトは黒澤グループに二兆円もの収益をもたらすはずだったのだから。あの時、紬に手を出すべきではなかったのだ。今この瞬間、渉は後悔してもしきれなかった。喜久子はまだ諦めきれない様子だった。「渉、私はあんたの姉よ!」「もうやめてくれ!姉さんが姉だってことくらい分かってる。でも、この件はこれで終わりだ。もう手助けはしない。あとは自分で何とかしてくれ。それから、弟として言わせてもらうけど、理玖はもう大人だ。一人前の大人として、自分の考えを持っている。どうしてもう少し口出しを控えられないのか?」「いくら大きくなっても、私の子よ!」喜久子は高圧的な口調で言い放った。「私が気に入らない女なら、例え嫁に入ったとしても、絶対に離婚させてやるわ!」それを聞いて、渉は喜久子にはもはや救いようがないと悟った。この瞬間、自分が笑
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第818話

文人はそう言いながら、理玖の顔色を窺っていた。それにしても、社長の叔父である渉――こいつも、かなり不運な人間だ。何かあるたびに、すべて彼に飛び火してくる。結局、最後に痛い目を見るのは、いつも決まって渉だった。誰の目にも、黒幕が喜久子であることは明らかだった。だが、どうしようもない。相手は理玖の実の母親なのだ。まさか、実の母親を血祭りに上げるわけにもいかない。だからこそ、叔父である渉が、格好の八つ当たり要員となってしまうのだ。文人の言葉を聞いても、理玖の表情はピクリとも動かなかった。むしろ、滑稽だとすら思っているようだった。「こうなる日が来ると分かっていながら、よくもあんな馬鹿げた真似をしたな。恥知らずめ」容赦なく吐き捨てる理玖に、文人は言葉を失った。――社長、毒舌すぎて身内にまで牙を向けるんだから、いつか誰かに刺されやしないかと気が気でない。文人は聞こえないふりをしながら、言葉を続けた。「それでは、収集した工場の資料ですが、今すぐネットに公開しますか?」理玖は、どうしても喜久子がこのまま引き下がるとは思えなかった。あの手この手で、必ずまた紬に危害を加えようとしてくるはずだ。「まだいい。保管しておけ。後で必要になった時に出す」「承知いたしました」これぞ、未然に防ぐということだ。「用がないなら出て行け」理玖の追い払うような態度は明白で、文人は空気を読んで退室した。どうせ社長は用済みの人間をすぐ切り捨てる。そんな振る舞いには、もうすっかり慣れっこだ。まあいい。文人としても、その方が気楽でいいのだ。それにしても、社長の「妻を口説き落とす作戦」は、一体どうなっているのだろうか。あれから随分と時間が経つというのに、何の進展も耳に入ってこない。文人は生えてもいない顎髭を撫で、名探偵のような思考ポーズを取りながら呟いた。「おかしいですね……理屈から言えば、私がこれほど時間をかけて準備した攻略法なら、とっくに効果が出ているはずなんですが……」だが、あの理玖の何の喜びも驚きもない様子を見る限り、一目で成功していないことが分かる。――間違いなく社長自身の問題だろう。文人はお手上げといった様子で首を横に振った。心の中ではひたすらツッコミを入れ続けていたが、もちろん仕事の手を止めることはなかった。
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第819話

拓海も、自分の息子がこれほど大きな驚きをもたらしてくれるとは、思いもしなかった。治は多くを語ろうとはせず、ただ口をついて出たように言った。「あの老いぼれが俺を海外にやりたいって言うんだから、その通りにしてやればいいじゃないか。俺を監視している連中の警戒も解けるしな」「お前は一足先に海外へ行って、向こうの人間と上手く引き継ぎをしておけ」拓海の瞳の奥に、治と似たような陰惨な光が走った。「あの成哉がどうやってお前と張り合うつもりなのか、見せてもらおうじゃないか」治は立ち上がると、ふと何かを思い出したように振り返って言った。「そうだ、父さん。望美のお腹にいる子供、無事に出産させてやってくれ」拓海は言葉を失い、驚愕の表情で治を見つめた。「お前、まさか……」治は肯定も否定もせず、軽く眉を上げて言った。「わかっているなら、しっかり面倒を見てやってくれよ」そう言い残すと、治は部屋の奥へと歩き去っていった。拓海は動揺を鎮めようと、テーブルの上の湯呑みを手に取り、一気に飲み干した。それでもなお、事態を飲み込めずにいた。自分は知らないうちに、おじいちゃんになっていたということか?結婚式の日、治が自信満々に放った言葉の数々を思い出し、拓海は思わず顔を覆った。――この馬鹿息子は、一体なんてでたらめなことをしてくれたんだ?それに、成哉たちは、まだこのことにまったく気づいていないようだった。もし知られでもしたら、長男である自分の顔に泥を塗ることになる。治の孤高な後ろ姿を見送りながら、拓海は力なく椅子にへたり込んだ。――スタジオ「Nirvana」のオフィス。新古典主義デザインコンペ優勝の余勢を駆って、紬はさっそく会議を開いた。コンペ以降、このところネットユーザーたちは、「刹那」の新たな動向にずっと注目していた。何しろ、あの時の衣装は、一目で人を虜にするほど美しかったのだから。紬が会議を取り仕切り、作成したプレゼン資料を映し出す。「まずは、新古典主義デザインコンペでの優勝を、心よりお祝い申し上げます。皆さん、本当にありがとうございました」カナが率先して拍手を送り、パチパチと手を叩いた。会議室は、格別に和やかな雰囲気に包まれていた。紬は少し改まった口調で言った。「今回のコンペでは
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第820話

雅乃がそう言うと、紬も感心したような眼差しを彼女に向けた。「雅乃の言う通り!だからこそ、このチャンスを絶対に掴まなければならない。新古典主義デザインコンペは、絶好の突破口になるわ」カナも何度もうなずいた。自分の言葉は、どうしても大雑把すぎたのだ。彼女は雅乃の肩をポンと叩いた。「やっぱり雅乃の言うことは説得力があるね。これからは私も、あんたから話し方のセンスを学ばせてもらうよ」雅乃はにっこりと微笑んだ。「もう、カナったら。人にはそれぞれ持ち味があるじゃないですか。それに、今一番重要なのはブランドショップをオープンさせることですよ」千鶴も同調した。「その通りです!私も、今ブランドショップを立ち上げるのが最高のタイミングだと思います!ネットでも、紬さんのランウェイの動画がバズり続けてますから!」彼女は憧れの眼差しで紬を見つめた。「紬さん、本当にプロのモデルよりも素敵です。ネットの人たちもみんなそう言ってますよ。お姫様のようだなんて言葉じゃ、紬さんを表現するには月並みすぎます」「ネットのコメントは大袈裟ですから、そんなに気にしなくてもいいですよ」紬はかえって少し照れくさそうにした。「今回の動画は、ネットでの顧客獲得に一役買ってくれました」紬はカナに視線を向けた。「カナ、これからのネットの顧客管理は、あなたにお願いしてもいいかしら」「任せてくださいよ!」カナは真剣な顔で、自分の胸をポンポンと威勢よく叩いた。その様子に、一同は思わず吹き出し、おどけるカナを温かく見守った。「はいはい、ふざけるのはそこまで」紬は雅乃に向き直り、少し真剣な表情を浮かべた。「雅乃、これから少し負担が増えるわよ」雅乃も姿勢を正し、真剣な面持ちで続きを待った。「実店舗をオープンするにあたって、高級ショッピングモールとの提携交渉を雅乃にお願いしたいの」紬は企画書に目を落としながら言った。雅乃は、事前にリサーチして共有フォルダにアップロードしておいた、海原で有名な高級ショッピングモールのリストを開いた。会議室のスクリーンに映し出し、紬と他のメンバーに向けて説明する。「こちら、事前に調べてまとめておいたリストです。この中で、紬さん、条件に合いそうなモールはありますか?」紬は軽く眉を上げ、他のメンバ
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