All Chapters of 協議離婚したら、忘れていた夢が叶い始めた: Chapter 251 - Chapter 260

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第251話

政夫に嫌われても仕方がない。「おお、杏奈、よく来たな」政夫は目尻を下げて相好を崩すと、温かな声をかけた。「まずは円香を連れて、中へ入りなさい。あんたたちのために、料理人に腕を振るわせて特製の薬膳料理を用意させた。温かいうちに食べてきなさい」「おじいさま」円香はぱぁっと顔を輝かせた。「本当にお優しいんですね」まさか老境に入った今になって、若い娘から無邪気に称賛されるとは思ってもみなかったのだろう。政夫は苦笑いを浮かべるしかなかった。「はいはい、お世辞はよせ。冷めないうちに、さっさと杏奈と中へ入りなさい」「はーい。では、お先に失礼しますね」「おじいさんも、早く来てくださいね」と杏奈も言った。和やかな空気の中、二人の背中が屋敷の奥へと消えていく。しかし、彼女たちの姿が見えなくなった瞬間、政夫の顔からすっと笑みが消え失せた。代わりに全身から滲み出たのは、刃のような鋭い気配だ。見えない重圧が、その場に残された者たちに重くのしかかる。中でも、美南が受けている威圧感は凄まじかった。政夫の氷のように冷え切った視線が、まっすぐに彼女を射抜いていたからだ。「お、おじいさん……」美南は怯えきった声で、かろうじて言葉を絞り出す。政夫は冷たく鼻で笑った。「気安くおじいさんと呼ぶな!今日、円香が話してくれなければ、お前が裏でこそこそと、あのような不届きな真似をしでかしていたとは知らぬままだったわ!」抑えきれない怒りが爆発し、政夫の怒声が広大な屋敷の隅々にまで響き渡る。美南の肩が、びくりと大きく跳ねた。吉川家に代々伝わる過酷な折檻を恐れているのは、誰の目にも明らかだ。今や、吉川グループの実権はすでに蒼介が掌握している。「吉川家当主」という肩書きは、美南たちにとっては、ただの老人をなだめるための名目上の飾りに過ぎない。それでも、この老いた獅子が本気で彼らを罰すると決めたなら、逆らって止められる者などこの家には一人としていなかった。「お、お義父さん……」瑞枝が許しを乞おうと震える唇を開いたが、政夫は、その言葉を容赦ない怒号で遮った。「長男が早くに逝ってしまったとき、残されたお前が女手一つで子を育てるのはさぞかし苦労だろうと、わしは何事もお前の好きにさせてきた。この家のことだって、お前に一任してきたはずだ。
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第252話

「謝らんか!」政夫は冷徹な顔のまま、身悶えする美南の姿を見下ろしている。見守る瑞枝の目には、たまらず涙が浮かんでいた。「美南、おじいさんの言う通りになさい。早く杏奈……いや、お義姉さんに謝って……」この騒動の中、蒼介だけがまるで自分には無関係の芝居でも見ているかのように、無表情を貫いていた。ただ、その冷ややかな視線が杏奈の姿をかすめた一瞬だけ、瞳の奥底でかすかに何かが揺らめいた。「お、お義姉さん……ごめんなさい」結局、骨の髄まで響く痛みに抗えず、美南は屈辱に唇を噛みながら頭を下げた。杏奈は静かに応じた。「……ええ」「杏奈よ、今の謝罪で気が済まなければ、もう一発、キツいのをくれてやるぞ」政夫が再び杖を振り上げようとしたその時、杏奈がそっと手を伸ばしてそれを制した。彼女は笑みを浮かべて首を振ると、あくまで淡々と言葉を紡ぐ。「おじいさん、過ぎたことはもういいんです。これ以上心を煩わせるつもりもないから」この家で積み重ねてきた過去の努力は、すべてドブに捨てたも同然なのだ。「そうか……」政夫は小さくため息をついた。空中に留まっていた杖がゆらりと揺れ、やがて力なく下ろされる。「……なら、まあ、それでよかろう」去る決意を固めた人間を、力ずくで引き止めることなど誰にもできない。美南をどれだけ激しく打ち据えて見せたところで、杏奈の固い意志が揺らぐことはないのだ。政夫には、それが痛いほどわかっていた。だからこそ、野暮な引き止めはしなかった。ただ、こうして杏奈の傷ついた心がほんの少しでも慰められればと、それだけを切に願ったのだ。杏奈の気分は、それほど悪くはなかった。ついいつもより多く食べてしまったほどだ。食後、円香を連れて席を立とうとしたその時だった。政夫がすがるような、どこか寂しげな眼差しで杏奈を見つめてきた。「せっかく顔を見せてくれたんじゃ。今夜一晩だけでも、ここに泊まっていかんか?」杏奈がいなくなってからというもの、この広すぎる屋敷はひどく静かで冷たい場所になってしまった。気兼ねなく話せる相手すらいないのだ。老人の哀愁に触れ、杏奈が返事に迷っていると、蒼介がおもむろに口を開いた。「泊まっていけ」「ああ、ありがとう、ありがとうよ!」政夫は顔をほころばせ、相好を崩した。「今すぐ、執事に寝室を整えさせよう。今夜は
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第253話

「だって……ママはママだもん!」小春はしばらく口ごもっていたが、結局はいつもの幼稚な言い訳しか口にできなかった。彼女の小さな頭では、気の利いた言葉をひねり出すことができなかったのだ。「へえ、ママねえ」円香は片眉を吊り上げ、鼻で笑った。「自分が甘えたい都合のいい時だけは『ママ』で、邪魔になったら途端に『嫌いな女の人』扱いってわけ?随分と便利なママね」痛いところを突かれた小春は、反射的に頷きかけてハッとした。慌てて小さな唇をギュッと引き結び、気まずそうに視線を泳がせる。「ちが……そんなこと、ないもん」「まあ、いいわ。好きになさい」底知れぬ虚しさが胸に広がった。おそらく、この子のねじ曲がった性根は、もう決して真っ直ぐに矯正されることはないのだと、はっきりと悟ってしまったからだ。彼女は、隣でずっと黙りこくっている杏奈へと視線を向けた。「杏奈、もう二階へ上がって休まない?私も、なんだかどっと疲れちゃったわ」「……うん。そうね」杏奈は静かに頷くと、もはや赤の他人も同然の父娘には一瞥もくれず、立ち上がって円香とともに足早に階段を上がっていった。遠ざかる二人の話し声が、うっすらと階下までこぼれ落ちてくる。「あんなの、気に病むことないわよ。あんな子、もういいじゃない。新しく子供を作ればいいだけの話よ。その時は私が名付け親になって、どこに出しても恥ずかしくない、しっかりとした礼儀正しい子に育て上げてみせるから」「……うん」「そうよ、あんな恩知らずな子一人のために、思い悩む必要なんてどこにもないわ。今は自分の体や目を大切にして。よくなったら、一緒に遠くへ旅に出ましょう。美しい場所が、いくらでもある素敵な国なんだから」「……うん、そうだね」間もなく、二人の後ろ姿は階段の踊り場の奥へと吸い込まれ、完全に姿を消した。取り残された小春は、不満げに唇を尖らせながら、不安を押し殺すように蒼介を見上げた。「パパ……ママ、最近ずいぶん変わっちゃったよ。もうあたし、ママの一番じゃなくなっちゃったのかなぁ。抱っこもしてくれないし、泣いてもなだめてくれないし、お話もしてくれなくなっちゃった……」言葉にするうちに、幼い胸にどんどん心細さと悲しみがこみ上げてきたらしい。「ママは、もうあたしのこと、嫌いになっちゃったの……?」「……
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第254話

「……確かに」杏奈は素直に頷いた。実のところ、蒼介の真意はずっと前から問いただすつもりでいたのだ。しかし、次から次へと予期せぬトラブルが舞い込み、ことごとく機会を逃し続けてしまっていた。だが、このままずるずると先延ばしにしたところで、事態が好転するわけではない。「いい?ちゃんと私の目を見て聞いて」円香は念を押すように、真剣な眼差しで顔を寄せた。「明日、あの男に丸め込まれたり、決心が鈍ったりしないで。もし万が一、本気で『離婚したくない』なんて戯言を抜かそうものなら……」そこで少し間を置き、円香はスッと目を細めた。「容赦なく法廷に引きずり出してやるわ。こっちが握ってる証拠も全部ぶちまけてやる。私の放つ渾身の一撃に、天下の吉川グループの株価がどこまで暴落するか、見ものね」杏奈は思わず苦笑を漏らした。「あの人に恨まれるのが怖くないの?」円香は「ふん」と勝ち気に鼻を鳴らした。「何が怖いもんですか。あなたをあの泥沼みたいな地獄から救い出せるなら、相手が誰だろうと関係ないわ。こっちは正々堂々と、特大の一発をかましてやるだけよ」「円香……」じわりと、温かな波が胸の奥底から広がり、杏奈の心を満たしていった。何か感謝の言葉を紡ごうとしたが、喉の奥が熱く震えて声にならなかった。代わりに、杏奈は親友の華奢な体をぎゅっと強く抱きしめた。そして、円香の首筋に顔をうずめ、甘えるようにすりすりと頬をすり寄せる。「もう、もうっ。わかった、わかったから」円香はくすぐったそうに身をよじらせながら、まるで小さな子どもをあやすような優しい声を出した。「あなたが感動してるのは痛いほど伝わったから、髪の毛が当たってくすぐったいからやめて。もう、笑いすぎて死んじゃう!」「やだ」杏奈は顔を埋めたまま、わざと意地悪く言い返した。数秒のうちに、円香の反撃の手が杏奈の脇腹の急所を突いた。「ひゃははっ!ちょっと円香、やめてよ!」「どう?反省した?」「した、したから!」「もうすり寄ってこない?」「しない、しない!」先ほどまでのしんみりとした空気はあっという間に吹き飛び、二人の屈託のない笑い声が、重苦しかった夜の静寂を塗り替えた。この古い屋敷が、かつての活気を吹き返したかのようだった。……翌朝、円香は日の出とともに早々と起き上がり、
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第255話

「わかったわ」二人は吉川の屋敷では朝食を摂らず、政夫に短い挨拶だけを済ませて早々に出発した。通りがかりに見つけた定食屋に立ち寄り、おにぎりと、湯気を立てる味噌汁を受け取った。「味はどう?」おにぎりをかじりながら、円香が尋ねる。杏奈は少しだけ表情を和らげて頷いた。「悪くないわね。この味噌汁、けっこう美味しいわ」「じゃあまた今度一緒に来よう」「そうね」そんな他愛のない会話をのんびりと交わしていると、突然、杏奈のスマホが振動した。画面には裕司の名前が表示されている。杏奈が電話に出ると、向こうで裕司が少し訝しげな声を上げた。「今、どこにいるんだ?ずいぶん周りが賑やかみたいだが、病院の病室じゃないよな」「先輩。今、円香と一緒に外で朝ごはんを食べているんです」すると円香が横から口を挟んだ。「裕司先輩、おにぎりいります?もし病院にいらっしゃるなら、ついでに買って持っていきますよ」「いや、いいよ。今は病院にいないから、どっちみち食べられないしな」「そうですか。じゃあ、何かお急ぎの用件ですか?」杏奈が先を促す。「実は、君にちょっとお願いしたいことがあってね。お昼に、一度会社まで来てもらえないかな」「わかりました。伺います」用件だけを簡潔に伝え合い、通話を切った。円香が不思議そうに首を傾げる。「裕司先輩、何の用か全然説明しなかったわね?」「うん。円香、本当に悪いんだけど、お昼に私を会社まで車で送ってもらえるかしら?」「何言ってんの、そんなの大したことじゃないわよ」朝食を済ませて病院へと戻り、杏奈が自分のベッドに横たわると、円香はそわそわと立ち上がった。「杏奈、あなたはここで少し寝て休んでなさい。私、ちょっと様子を伺ってきてあげる」円香の言う「偵察」の標的が紗里に関することであるのは、もはや言わずもがなだった。杏奈は呆れて苦笑しながらも、あえて止めはしなかった。正直なところ、杏奈自身も気になっていたのだ。順調に回復段階に入っていたはずの紗里の銃創が、なぜここへ来て急に悪化したのか。しばらくして病室に戻ってきた円香は、興奮を抑えきれない様子で、顔を紅潮させていた。ドアを閉めるや否や、吹き出すように大笑いする。「ははっ!ねえ杏奈、聞いてよ。あの女、やっとバチが当たったみたいよ!」「……何があったの?」
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第256話

驚いて入り口へ振り向くと、開け放たれたドアの向こうに二人の男が並んで立っていた。蒼介の腰巾着である涼平と真紘だ。二人とも、こちらを睨みつける目は、まるで大罪人でも見下すかのように険しい怒気を孕んでいた。彼らは紗里の急変を聞きつけて慌てて病院へ駆けつけたところ、偶然にも杏奈が同じ病院に入院しているという事実を知り、すぐさま怒鳴り込みに来たのである。誰かが意図的に細工でもしない限り、さっきまでピンピンしていた人間が突然階段から転げ落ちるはずがないと、端からそう決めつけ、そしてその卑劣な「誰か」とは杏奈に違いないと、彼らは微塵の疑いもなく確信していた。真っ先に口火を切ったのは涼平だった。「お前ってさ、蒼介を取り戻すためなら手段を選ばないんだな。紗里さんみたいに心優しい人にまでこんな陰湿なマネをするなんて、本当に反吐が出るよ!もし紗里さんの身に何かあったら、俺たちが絶対に許さないからな!」隣の真紘も冷ややかな視線を向けて凄んだ。「あんたのデザイナーとしての技術や才能は、素直に認めている……だが、その卑劣な人間性となると、到底、見過ごせるものではないな」杏奈が反論の口を開くより早く、円香が盛大に鼻で笑い飛ばした。「ちょっとあんたたち、デタラメばかり並べ立てるんじゃないわよ」「鈴木円香、ふざけるな!お前も共犯だろうが!」涼平が顔を真っ赤にして食ってかかった。「紗里さんがまた手術室に運ばれるハメになったのは、間違いなくこいつが手を下したせいだろうが!」「……え?」あまりの言いがかりに、杏奈は心底呆気にとられた。「彼女が再手術になったことと、私がここで寝ていることに、一体何の関係があるっていうの?」「白々しい嘘をつくなよ!紗里さんがお前にとって死ぬほど目障りな存在なのは、誰だって知ってるんだ!彼女が怪我して弱っている隙を突いて、邪魔者を排除して蒼介を独り占めしようと企んだんだろ!」涼平は「お前の小細工なんて、すべてお見通しなんだよ!」と言わんばかりの得意げな顔で、そう決めつけた。円香は心底おかしそうに、腹を抱えて笑った。「あーらら、裁判官だってちゃんとした証拠がなけりゃ人を裁けないっていうのに、あんたたちは自分のおめでたい妄想だけで有罪判決を下すわけ?何様なのよ!」杏奈も静かに言い放った。「信じるか信じないかは、あなた
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第257話

元は円香の軽口など相手にせず、ただ真っすぐに杏奈を見つめていた。彼女の静かな瞳に軽蔑や怒りの色がないと確かめると、ようやく張り詰めていた心の糸が解けるのを感じた。なぜかは自分でもわからない。ただ、この人に誤解されるかもしれないと想像しただけで、胸が締め付けられるように痛むのだ。その緊張した視線を受け止め、杏奈は少し不思議に思いながらも深くは詮索せず、静かに礼を述べた。「ありがとうございます」「いや、別に……」短い言葉がぎこちなく交わされ、病室に再び重たい静寂が下りた。円香が鬱陶しそうに眉を吊り上げる。「まだいるの?」「あの……」元は口を開きかけては、また閉じた。どう切り出していいのかわからないらしい。その様子を察した円香が、ピシャリと言い放つ。「ちょっと待って。そんなに言いにくそうにためらってるなら、いっそ最初から言わなくていいから」元は内心呆気にとられた。普通、相手がもじもじとしていたら「どうしたの?」と聞いてくれるものではないのか。「まあ、いいわ」杏奈が円香を遮り、元へ向き直った。「何か言いたいことがあるなら、はっきり言ってちょうだい」また円香に口を挟まれる前にと、元は、せき立てられるように本題を切り出した。「今日、モモの学校で授業参観があるんだ。もしよかったら、一緒に来てもらえないか?」「またなの?」円香が心底呆れ果てたような声を出した。「今日はどうして授業参観に杏奈を引っ張り出したがる人ばっかりなわけ?あんたもそうだし、例の男もそうだし、事前に口裏でも合わせてきたわけ?」「例の男……?」元は少し考え、それが蒼介のことだと察した。そこから小春の授業参観があることに思い至り、杏奈にはすでに行くべき場所があるのだと静かに飲み込む。ほんの少し胸が沈んだものの、元はそれ以上無理に誘おうとはしなかった。「そうか。小春の授業参観があるなら、仕方ないな」「ゆっくり休んでくれ。じゃあ、俺はこれで」そう言って踵を返した。冷たい蛍光灯の光の中へと消えていく後ろ姿は、どこか深い寂しさをたたえていた。病室に残された二人は、それを見送りもしなかった。元が出ていくと同時に、バタンと冷たい音を立てて扉が閉まる。「杏奈」円香が真顔で忠告した。「ああいう頭の弱い人たちとは、あんまり関わらない方がいいわよ。バカがうつ
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第258話

オフィスビルのエントランス前では、裕司が今か今かと待ち受けていたようで、二人の姿を見るなり早足で近づいてきた。まず何よりも杏奈の目の状態を心配そうに確認し、完治に向かっているとわかり、ようやく本題に入った。「実はね、向こうから直々にコラボの話を持ちかけてきた人がいるんだ。君がデザインした『モーニング・ライト・キスシリーズ』の件なんだけどね」「どなたですか?」「隣市の成海家の長男、成海蓮だよ」「あの人が……」杏奈は少し驚いた。裕司も意外そうに目を見開いた。「彼と知り合いだったのかい?」「先輩、前に横井那月に連れていってもらったパーティーの話をしたじゃないですか。あの集まりを主催していたのが彼なんです」杏奈は簡潔に説明した。裕司はそのパーティーの話自体は聞いていたが、主催者が蓮だとは知らなかった。話を聞きながら、裕司は何となく胸の中で引っかかるものを感じた。相手は純粋なコラボ目的で来たというより、目当ては別にあるのではないか。「どうかしましたか?」杏奈が尋ねる。「いや、何でもないよ」裕司は小さく首を振り、その妙な胸騒ぎをひとまず心の奥にしまった。「今日の商談は、君の気持ち次第で決めてくれていい。やりたければ進めればいいし、少しでも乗り気になれないなら、その場で断ってしまって構わないからね」「わかりました」話しながら、三人はエレベーターに乗り込み、最上階の応接室へと上がった。広々とした部屋の中央で、蓮は白いスーツを纏い、胸元には一輪の黒薔薇のブローチをあしらっていた。無造作に乱れた黒髪と、涼しげな眉。その瞳は、入ってきた杏奈だけを熱烈に射貫いていた。まるで彼の世界には、今この瞬間、杏奈という存在以外、何もないかのように。裕司は内心、確信を深めた。当の杏奈はといえば、そんな熱に浮かされたような視線を正面から浴びても、表情をピクリとも変えなかった。隣に控える円香はなおさらだ。杏奈のそばにいる時の彼女の信条はただ一つ。杏奈に手出ししようとする者は、誰であろうと絶対に容赦しない。「杏奈さん、お久しぶりですね」蓮は優雅な動作で立ち上がり、手を差し出した。杏奈は軽く握り返し、礼儀正しくも明確な距離を感じさせる笑みを浮かべた。「お久しぶりです、成海さん」「さあ、どうぞおかけください」裕司が促して全員が席
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第259話

「どうぞ」杏奈は静かに頷いた。「『モーニング・ライト・キスシリーズ』は、いつ頃完成する予定ですか?」「来週には」スケジュールを頭の中で弾き出し、杏奈は確信を持って答えた。「遅くとも、今月中には必ず」目が完全に回復するまでにあと二日ほどかかる。それが終われば、ルミエールの「ソーン・ティアーズシリーズ」の仕上げと、兄の祐一郎の友人から依頼されたシリーズの製作が控えており、どちらも時間が必要だ。「モーニング・ライト・キスシリーズ」はどうしてもその後にならざるを得ない。「……もう少し、スケジュールを早めることはできませんか?」蓮はかすかに眉を寄せた。その表情には、どこか焦燥感が滲んでいるように見えた。「できる限り急ぎます、としかお約束できません」杏奈は冷ややかに答えた。身内である蒼介でさえ順番を待ってもらっているのだから。外部から来た蓮ならなおさらだ。「……わかりました」蓮はひとまず引き下がったが、口にした次の言葉が、杏奈の表情をわずかに険しくさせ、裕司の背筋までを張り詰めさせた。「しかし、うちとしては、独占契約を希望します」要するに、他社には一切介入させず、自社のみとの提携を求めているということだ。杏奈は不快げに眉をひそめた。「成海さんのご要望は、ずいぶんと強欲ですね」「ええ」蓮は悪びれもせずにっこりと微笑んだ。「俺はほかに誇れるような取り柄はないのですが、欲しいものを手に入れる執念だけは、人一倍旺盛でしてね」裕司がすかさず冷ややかな声で引き取った。「食欲が旺盛でも、それに見合う力がなければ何の意味もありませんよ」先ほど、蓮が成海家のリソース活用について聞かれた際に一瞬の間を置いたのを見て、裕司はすでに読んでいた。この男の成海家内部における立場は、表向きに見えるほど盤石なものではないのだと。名家の内側では、血を分けた肉親同士が腹を探り合い、権力を奪い合うのは珍しいことでも何でもない。蓮は裕司の言葉にも一切迷いを見せなかった。「相応の実力がなければ、そもそもこうして交渉の席に着いてなどいません」「成海家の後継者争いをされているんですか?」裕司が不意に核心を突いた。蓮の完璧な笑顔にほんの微かな亀裂が走ったが、すぐに平静を取り繕った。「河原社長、おっしゃっている意味がよくわかりかねますね。成海家は常に一枚岩です。そ
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第260話

しかも、蓮の両親はずいぶん前の事故で他界しており、彼には確固たる後ろ盾など皆無だった。各方面から露骨に排除され、圧力をかけられ続けた末、彼はやむなく遠く離れた濱海市まで足を延ばし、外部の援軍を探すことにしたのだ。いわば、致命傷を負う前に自分のための「退路」を確保しておくためである。もしこの権力争いに敗れた時、敗者が「自ら命を絶つよう冷酷に追い込まれる」ような事態だけは、何としても避けなければならない。由緒ある名家で育った人間の心が権力のためにどれほど暗く冷酷になれるか——それを決して甘く見てはいなかった。裕司は蓮の放った皮肉など意に介さず、静かに笑みを浮かべた。「成海さん。どの道を選ぶかは、君ご自身次第ですよ」「……わかりました」蓮はひと言だけ残して立ち上がり、優雅な足取りで応接室を出ていった。廊下の奥にその後ろ姿が消えてから、円香がきょとんとした顔で口を開いた。「え、どういうこと?結局あの男、承諾したの?しなかったの?私にはさっぱりわからなかったんだけど」「さあね」裕司は軽く肩をすくめ、特に気にした様子も見せなかった。ビジネスの世界において、その場での言葉だけには何の意味もない。実際に動いてみて初めて、本気かどうかがわかるのだ。「まあ、いっか」円香も、面倒な推測をあっさりと放棄した。自分はただの付き添いの脇役だ。小難しい商談の駆け引きなど、知ったことではない。そんな中、杏奈がふと眉を寄せ、ポツリとつぶやいた。「なんとなく……あの人、もう承諾しているような気がするわ」「へえ?」裕司はその思いがけない一言に目を輝かせ、すかさず身を乗り出して尋ねた。「どうしてそう思うんだ?」「だって、さっき私、『なんとなく』って言いましたよね」裕司は見事に絶句した。てっきり彼女がビジネスの深層を鋭く見抜いたのかと期待してしまったが、まさか本気で「なんとなく」の直感だったとは。それでいて、肩透かしを食らったようで何も言い返せないのが、また何とも言えない敗北感だった。目がまだ完全には回復していない杏奈のぼやけた視界にも、裕司の顔に浮かんだ苦り切ったような苦笑はしっかりと見えたらしく、彼女は少しばつが悪そうに笑った。「先輩がこうしてちゃんと全体を見て守ってくれているんだから、私が余計な心配をしなくても大丈夫じゃないで
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