All Chapters of 協議離婚したら、忘れていた夢が叶い始めた: Chapter 31 - Chapter 40

100 Chapters

第31話

「大丈夫、きっと大丈夫なんだから……」翌朝、夜明け前。杏奈はすでに目を覚ましていた。昨日のショックから悪夢にうなされ、まどろみの中で何度も意識を引きずり戻された。まともな眠りなど得られるはずもなかった。枕元の携帯で確認する。まだ、夜明けには遠い。重い瞼を閉じ、もう一度眠りに落ちようとしたその時、寝室のドアを苛立たしげに叩く音が響いた。続いて聞こえてきたのは、幼い子供特有の――いや、耳を突き刺すような、あの甲高い声だ。だがそこには、隠しきれない苛立ちが滲んでいる。コン、コン、コン!「ママ、まだ起きてないの?何時だと思ってるの!」コンコンコン!「ママ、早く起きて!お顔、洗ってよ!」コン、コン、コン!「ねえ、ママー!」まるで地獄の獄卒が眠りを切り裂く断罪の声に、杏奈は意識を無理やりベッドから引きずり出された。「小春、こんなに早く起きてどうしたの?」ずきずきと脈打つ頭痛をこらえながら、杏奈はなんとか体を起こしてドアを開けた。「もう少し寝ていればいいのに」「あたし、ママみたいに怠け者じゃないもん」小春は口を尖らせると、杏奈を押し退けるようにして部屋に入ってきた。「ほら、早く顔洗わせて。紗里……」そこで、小春が慌てて口をつぐむ。言ってはいけないことを口走ったと気づいたのか、気まずそうな視線を杏奈に向けた。だが、母の表情に変化がないのを見ると、ほっとしたように、小さな胸をなでおろした。危なかった――もう少しで、今日、紗里ちゃんが遊園地に連れて行ってくれることをママに知られるところだった。もし知られたら、絶対に許してくれない。いや、たとえ許されたとしても、無神経に付きまとってくるに決まっている。想像しただけで、小春は胸がむかつくような息苦しさを覚えた。けれど、小春は知らない。昨日、病室で交わされた約束を、杏奈もすべて聞いていたということを。自分を欺けたと思い込み、内心でしめしめと笑っている幼い娘。その様子を見ていると、杏奈は乾いた笑いがこみ上げてくるのを抑えられなかった。自分の娘が、母親の具合などこれっぽっちも案じていない。それどころか、自分を歯牙にもかけないあの女のために、実の母親を騙そうとしている。世の中に、これほど滑稽なことがあるだろうか。そして、私以上に哀れな
Read more

第32話

小春には、それ以外に思い当たる節がなかった。案の定、杏奈が否定もせず頷くと、小春の感情は一気に爆発した。「ママ、やっぱり空気が読めないね!あたしとパパの関心を独り占めしようなんて!紗里ちゃんはあんなにいい人なのに、どうして仲良くできないのよ!」矢継ぎ早に繰り出される言葉は、どれもこれも滑稽なものばかりだった。杏奈は自嘲気味に口角を上げたが、答える気力すら失せ、ただ冷ややかに突き放した。「それで。結局行くの?行かないの?」蒼介は昨夜、用事があると言って出かけていった。「パパがいない」と知った時、小春は顔を真っ青にして絶望したはずだ。パパ、またあたしに内緒で紗里ちゃんのところに行ったんだ!自分も連れて行ってほしかった。けれど、幼い子供が一人でタクシーを拾うのは難しく、少し離れた場所にいる紗里ちゃんを訪ねるなど到底不可能だ。だからこそ、小春は屈辱に耐えて母に送ってもらう道を選んだのだ。小賢しい娘は、本当の目的地を杏奈に告げなかった。遊園地の近くで降ろしてくれればいいと言い、パパが迎えに来ると嘘をついた。紗里と一緒に遊ぶためなら、これほどまでに用意周到に立ち回るのだ。もし真実を知らなければ、私はまたこの子に騙されていただろう。「ママなんて、やっぱり大嫌い」逃げ出そうとした足を止め、小春がぶつぶつと悪態をつく。これから車を出してもらわなければならないことを思い出したのだろう。「やっぱり、紗里ちゃんが一番いい」声は小さかった。ママを怒らせて、送ってもらえなくなるのを恐れている。それでも杏奈の耳には、その残酷な言葉は十分すぎるほどに届いていた。悲しくなったり、胸が締め付けられたりするだろうと、どこかで思っていた。けれど実際には、何も感じなかった。とっくに壊れてしまった心に、いまさら感情に波風が立つはずもなかった。……階下に降りると、リビングは静まり返っていた。執事と使用人たちが、朝食の準備に追われているだけだ。二人の姿を見て、執事が慌てて駆け寄ってきた。「奥様、お嬢様。もうお発ちになるのですか?」「ええ。この二日間、お世話になりました」杏奈は頷いた。「旦那様とご家族のお世話を申し上げるのは、私共の務めでございますから」執事は穏やかに微笑むと、ふと思い出したように言葉を継いだ。「……ところで
Read more

第33話

叱っても響かず、殴っても懲りない。政夫にはもう、打つ手がなかった。「行きなさい」政夫の精気が、見る間に萎んでいく。全身を覆っていた威厳は影を潜め、弱々しい一人の老人の姿がそこにあった。「もし会いたくなったら、いつでも電話をくれ。わしが会いに行く」この吉川家が、わしが手塩にかけて慈しんできた、大切な孫娘を苦しめる場所というのなら、もう来なくていい。そのほうが、あんたのためだ。「……わかりました、おじいさん」杏奈の視界が、にわかに熱くなった。鼻をすする音に、堪えきれない嗚咽が混じった。それ以上は言葉にならず、杏奈は小春の手を引いて、振り返ることなく外へと歩き出した。少しでも長く居れば、心が揺らいでしまう。こんなに優しくしてくれる人と、離れがたくなってしまう。「旦那様、もし杏奈様がご心配でしたら、無理にでもお引き止めしては……」「いや、いい」政夫は力なく手を振り、執事を制した。「大切にしない者に、絆を繋ぎ止める資格はない。わしももう長くは保たん。生きているうちに、あの不憫な子の力に少しでもなれれば、それで十分じゃ」「……かしこまりました」リビングに、再び静寂が戻る。政夫はただ、朝の光の中に溶けて遠ざかっていく、二つの後ろ姿をいつまでも、いつまでも見送っていた。「……はぁ」空しい溜息が、虚空に消えた。……車を走らせ、遊園地の全景が遠くに見えてきた頃。窓に顔を押し付けていた小春が、弾かれたように叫んだ。「ママ、ここで止めて!」「わかったわ」杏奈はゆっくりと車を路肩に寄せ、小春のシートベルトを外してやった。けれど、車を発進させる気配はない。「ママ、帰らないの?」小春が疑わしげに眉をひそめる。まさか、あたしと紗里ちゃんの邪魔をするつもり?「パパが来るまでよ」杏奈だって、一刻も早くここを立ち去りたかった。けれど、母親としての最低限の責任が、幼い子供を一人残すことを許さない。せめて、蒼介の姿を確認するまでは。だが、その一言が小春の確信を強めた。ママはやっぱり、あたしと紗里ちゃんのデートを壊す気!「ママは空気読めないね。パパに構ってほしいからって、今じゃなくてもいいでしょ」幼い声には、無邪気さの欠片もない。ただ、人の心を深く抉り取る、鋭利な刃だけがそこにあった。「あたしが今日、ど
Read more

第34話

杏奈は無言で車を降りた。外の冷たく澄んだ空気を吸い込むと、肺の奥に澱んでいた憂鬱が、少しだけ晴れた気がした。蒼介が来たら、すぐに消えよう。「ママ!」小春が追いかけてくる。「早く帰ってよ!」「言ったでしょう」杏奈は眉をひそめた。もう、向き合うことすら億劫だった。「あなたのパパが来たら、帰るわ」その声が少し険しかったせいか、小春の顔が怯えに歪んだ。あるいは、紗里が来る前に杏奈に何かされるのを恐れたのか。小春は真っ赤な顔をして、親の仇を見るような目で叫んだ。「ママなんて、大っ嫌い!」あいにくね。私も、全く同じ気持ちだわ。何年も、自分を殺して尽くしてきた。気づけば、自分の心の中には「私」の居場所などなくなっていた。何かトラブルが起きるたび、たとえ自分が被害者であっても、「私のどこがいけなかったのか」「どうすれば彼らに好かれたのか」と自問自答する日々。自分自身のことなど、とっくの昔にどこかへ捨ててきてしまった。だが今、胸の奥から湧き上がるこの苛立ちを、杏奈は意外にも心地よく感じていた。そうか。私にも、怒る権利があったのだ。私だって、不快になってもいいのだ。「あなたが楽しければ、それでいいわ」杏奈は小春を見下ろし、静かに微笑んだ。好きにすればいい。何を叫んでも構わない。もう、どうでもいい。母親としての、最後に残った僅かな義務さえ果たせば、それで十分だ。その反応は、小春の予想とはかけ離れていた。あたしが不機嫌になれば、ママは泣いて謝って、あたしの言うことを聞くんじゃなかったの?今までは、少し顔をしかめるだけで、あんなに慌てふためいていたのに。あろうことか――ママが、笑っている。その笑顔を見た瞬間、小春は耐え難い怒りに突き動かされた。自分がもう、ママの心の中で一番大切にされていないような、そんな得体の知れない不安。だったら、あたしだって。「帰って!もうママなんていらない、早く消えてよ!」小春は、小さな体でありったけの力を込め、杏奈の足を蹴り飛ばした。大した衝撃ではない。杏奈の体は微動だにしなかった。騒ぐ小春を諫めようとした、その時――「グルルッ、ワンッ!」地を這うような獰猛な唸り声が響き、周囲の通行人が蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。泥にまみれた黒いシェパードが、どこからか姿を現し
Read more

第35話

「ママ、どこ?ママ……小春、足が痛いの。早く来てよぉ」かつての小春は、転ぶたびにそう言って泣いた。そんなときはいつも、杏奈は優しく娘を抱きしめ、柔らかな声でその傷を癒した。幼い娘もまた、世界で一番愛くるしい笑顔を母親に返してくれたはずだった。「グルルッ、ワンッ!」思考が過去の残影に沈みかけた瞬間、狂犬の唸り声が現実へと引き戻した。「もういいから、そこを動かないで」杏奈はもう、小春を見なかった。自身の腕に縋り付く手を冷徹に振りほどくと、迷いのない足取りで少女のもとへ向かった。「……ねえ、琴音ちゃんっていうの?」唐突に現れた女性の、どこまでも穏やかな声。女の子は、少しだけ安堵を取り戻したようだった。涙の痕が残る小さな顔を上げ、こくりと頷く。「おばさん、どうして私の名前を?」「さっき、あなたがそう呼ぶのが聞こえたからよ」杏奈は高木琴音(たかぎ ことね)の意識を逸らしながら――犬を刺激するような不用意な動きを慎みつつ――慎重に距離を詰めた。「琴音ちゃん、いい子ね。そのまま動かないで。今、助けてあげるから」本当はすぐにでもしがみつきたかったけれど、おばさんが「いい子にして」と言ったから、琴音は我慢した。言うことを聞かない子は、いい子になれないから。琴音は必死に「うんうん」と首を振った。「おばさん、私、すごくいい子だよ。動かないよ」「えらいわね」杏奈が微笑んで褒めると、琴音は恐怖を忘れ、照れくさそうに笑った。あと少し、手を伸ばせば届く。そう確信した刹那――黒いシェパードが不意に二歩踏み出し、鼻先を鳴らして二人を嗅ぎ回った。剥き出しの牙。杏奈は心臓が凍りつくのを感じた。「琴音ちゃん、いい?今は絶対に動いちゃダメよ!」張り詰めた声で念を押す。琴音もまた、震える体を懸命に抑え、か細い声で応えた。「おばさん、私……」――ガンッ!突如として飛来した小石が、張り詰めた静寂を打ち砕いた。驚いて振り返ると、少し離れた場所に立つ小春が、すでに二つ目の石を拾い上げ、再び投げつけようとしているところだった。ふん、ママはあの子の方が好きなんでしょ。だったら、邪魔してやるんだから!ママはあたしだけのもの。誰にも渡したくない。杏奈と目が合うと、小春は満足げに、嬉々として笑った。自分の行動が最悪の事態を招くことな
Read more

第36話

小春は不満を隠そうともせず「ふん」と鼻を鳴らすと、ぷいと顔を背けた。やっぱり、紗里ちゃんの方がいい。ママみたいに裏切ったりしないもの。あたしっていう娘がいるのに、よその子を抱っこするなんて。それなのに、あたしにこんなひどい言い方をするなんて!もう、ママに愛を注いであげるのはやめよう。あたしの愛は、全部紗里ちゃんのものだ!そう思うと、小春は無敵になったような気分で、にんまりと笑った。「何がおかしいの?」杏奈には到底、信じられなかった。どうしてこんなに捻じ曲がってしまったのか。「教えてあ〜げない」小春は口を尖らせる。杏奈は深く、娘の瞳を見つめた。何かを言いたかった。諭したかった。その歪んだ性根を、今ここで正すべきではないのかと。けれど、ここ最近の娘の振る舞いを思い返した途端、すべてが無意味に思えてきた。諭したところで、何になる。一時的に言い聞かせたところで、紗里が現れれば、すべては呆気なく消え失せてしまうのだ。もういい。疲れてしまった。「琴音ちゃん、どうして一人でこんなところにいたの?パパとママは?」杏奈は無理やり思考を遮断し、琴音に視線を落とした。琴音は小さな頭を掻きながら、申し訳なさそうに囁いた。「琴音、遊園地に行きたかったの。でもパパとママ、時間がないって……」女の子は顔を伏せ、その声は消え入りそうなほど小さくなっていく。「だから……一人で来ちゃったの」迷子や、はぐれたといった答えを予想していた杏奈は、そのあまりに無鉄砲な理由に、言葉を失った。一人で家を飛び出すなど、なんて危なっかしい子なの。「そう。じゃあ、琴音ちゃん。おばさんと一緒に少し待ってくれる?おばさんの用事が済んだら、お家まで送ってあげるから」「うん。ありがとう、おばさん!」琴音は、深々と頭を下げた。その光景は、端から見れば睦まじい親子のようにも映った。小春は、もうママなんて愛さないと決めたはずだった。なのに、その和やかな光景が、毒のように胸を刺した。「あっち行って!これはあたしのママよ!」小春が駆け寄り、琴音を突き飛ばそうとする。だが、杏奈の反応の方が一瞬早かった。琴音をさっと抱き上げると、その場から離れ、娘をひらりと避けた。「小春!」杏奈は眉を吊り上げ、声を震わせた。「さっきのことは不問に付したけれど、そ
Read more

第37話

「妻共々、ぜひ改めてお食事でもとお誘いしたいのですが、お忙しいとは存じますが……せめてこちら、私の連絡先です。何かお力になれることがあれば、必ずご連絡ください」「恐れ入ります。わかりました」相手の真摯な態度に、杏奈は断りきれず連絡先を交換した。琴音は家族の腕に抱かれ、何度も振り返って手を振りながら去っていった。再び、杏奈と小春だけが残される。辺りに、ふっと沈黙が戻った。今の杏奈には、時間など一秒たりとも無駄にはできなかった。業界を離れて久しいのだ。古巣のルミエールに戻り、かつての地位を奪い返すには、常人の何倍、何百倍もの研鑽を積まねばならない。焦燥に駆られ、杏奈は蒼介に電話をかけた。いつ到着するのかを確認するためだ。けれど、呼び出し音すら鳴らずに切れた。送ったメッセージも梨のつぶてだった。何の反応も返ってこない。仕方なく、杏奈は小春へ視線を向けた。「……パパに、いつ着くのか聞いてみて」小春は鼻を鳴らした。ママなど視界に入れたくもないし、一秒でも早く消えてほしい。けれど、紗里と遊園地へ行けるという甘い蜜を前に、不機嫌を抑えてキッズ携帯を操作した。数秒後、小春は返信を受け取った。「パパ、道が混んでるって。あと十分くらいで着くって」「そう。わかったわ」杏奈は頷き、小春に問いかけた。「車に戻って待つけれど、あなたはどうする?」返事はなかった。杏奈も深追いせず、一人で車内に戻ると、携帯を取り出した。先輩の裕司に依頼して集めてもらった、歴代のジュエリー展の傑作デザインを眺め、自身の感性を呼び覚まそうと、必死に画面を追う。どれほど時間が経っただろうか。不意に窓ガラスが叩かれた。顔を上げると、そこには見下すような、露骨な蔑みを湛えた瞳がこちらを覗き込んでいた。艶やかな紅を引いた唇が、優越感に満ちた角度で吊り上げられる。「もしジュエリーに興味があるなら、私のデザイン画を見せてもいいけど?」「……結構だわ」見れば、小春はすでに蒼介の腕の中にあり、親子で親密に語らっていた。もはやここに留まる理由はない。杏奈が車を発進させようとした瞬間、ドアの縁を掴む手に、強い力がこもった。「……何かしら?」杏奈は、掴まれた手に視線を這わせ、そのまま相手を睨み据えた。紗里が身を屈め、杏奈の至近距離まで顔を近づけ
Read more

第38話

杏奈がこれほどまで平然としていられるとは、紗里も計算外だった。演技だろうか。そうでなければ、かつてあれほど蒼介に心酔し、自分を失っていた女が、残酷な挑発をなぜこうも淡々と受け流せるのか。……ただ、私の前で弱みを見せたくないだけね。紗里は独りよがりに納得し、その口端がいっそう醜く歪んだ。「では、ゆっくりとお待ちになってくださいね」紗里はしなを作って立ち上がると、傍らで待つ親子のもとへ歩み寄った。わざとらしく甘い声を響かせる。「お待たせしちゃったかしら?」「紗里ちゃーん!」小春が小さな手を伸ばすと、紗里は手慣れた様子で彼女を抱き上げた。「あの人とずっと喋ってて疲れないの?あたし、もう呼びに行こうと思ってたんだから」「ごめんね、悪かったわ。小春ちゃんとパパが待っててくれたから、ちゃんとお礼を言いに行っていただけなのよ」「ふんっ!」それを聞いた小春の胸に、怒りがふつふつと再燃した。「あの人が勝手に待ってただけだもん!帰ってって言ったのに帰らなかったんだから、あっちが勝手にしたことだもん。それにね、さっき……」小春は憤慨しながら、先ほどの出来事をぶちまけた。自分が石を投げた事実には一切触れず、あたかもすべての非が杏奈一人にあるかのような、自分に都合よく捻じ曲げられた嘘。紗里は相槌を打ち、「まあ、ひどいわね」と大げさに同情してみせる。数言のやり取り。それだけで、ただでさえ溢れんばかりだった好意が、ついに堰を切って溢れ出したのだ。「やっぱり紗里ちゃん、大好き!」感動に瞳を輝かせた小春は、心に決めていた決別の言葉を叩きつけた。「あたし、もう決めたの。ママにあげてた愛、全部取り返してやるんだから」「取り返して、どうするつもり?」紗里が、獲物を追い詰めるような眼差しで尋ねる。小春は、誇らしげに宣言した。「決まってるでしょ?全部、紗里ちゃんにあげる!」「まあ!なら、私は世界で一番幸せ者ね」「小春もだよ!」額を寄せ合い、親密に語らう二人。その傍らで、蒼介は慈しむような微笑みを浮かべ、穏やかな眼差しで見守っている。そこには、絵に描いたような「幸せな家族」の縮図があった。車内に取り残された杏奈はその光景を、ただじっと目に焼き付けていた。もう吹っ切れたはずだ。そう自分に言い聞かせる。けれど胸の奥底では、錆びた刃で生身
Read more

第39話

「杏奈。困ったことがあるなら、怖がることはない。このおじさんがいるんだからな」電話の向こうから、横で聞き耳を立てていた叔父の、包容力のある声が割り込んできた。「おじさん、恵理子おばさん。大丈夫です」杏奈は喉の奥まで込み上げた熱い塊を無理やり飲み込み、平然を装った。「さっき運転を始めたばかりで、少し気が散っていただけですから」その言葉を証明するように、エンジンをかけ、ゆるやかに車を走らせた。「運転中だったの?」恵理子は驚いたように声を上げた。「ごめんなさいね。わかったわ、邪魔をしては悪いわね。気が散ると危ないから、この辺りで切るわ」「ええ。すみません」杏奈は、引き止めなかった。二人のまっすぐな慈しみに触れ続けると、長年せき止めてきた感情の堤防が決壊し、すべてが堰を切って溢れ出しそうだったから。今は少し、頭を冷やさなければ。二人をこれ以上心配させるわけにはいかないのだから。……「ママだって一人で運転したことくらいあるでしょ。何を心配してるのさ」電話越しに届く、母方の叔父のからかうような声に、小春は口を尖らせた。「おじちゃん、あたし今、遊園地で遊んでるの。邪魔しないでよ」「はいはい、悪かったな。じゃあ、明日は必ずママと一緒に家に来るんだぞ」「わかってるってばぁ!」語尾を放り出すように言い捨てて、小春は電話を切った。せっかく紗里ちゃんが付き合ってくれているのに。最初はママに、今度はおじちゃんたちに。どうして誰も彼も、あたしの邪魔ばかりするのか。「パパ」電話を置いた小春は、当惑したように父を見上げた。「おじちゃんが海外から帰ってきて、明日ママと一緒に家に来いって言ってるんだけど……」視線を泳がせながら、名残惜しそうに紗里を見つめる。明日はまた、別の場所へ連れて行ってもらう約束だった。パパも学校を休んでいいと言ってくれたのに。三浦家に行ったら、紗里ちゃんと一緒にいられない……曾おじいちゃんやおじちゃんたちには可愛がってもらってきた。だから、行かないなんて、そんなわがままは許されない。おじちゃんったら、どうしてよりによって今日なんて帰ってきたの。あと二日、遅ければよかったのに。「いいよ」娘の内心を見透かしたように、蒼介がその頭を優しく撫でた。「明日は、ママと一緒におじいちゃんの家へ顔を出し
Read more

第40話

「どうした。何か用事でもあるのか?」三浦祐一郎(みうら ゆういちろう)の声には、驚きを隠せない様子だった。「忙しいなら、俺が小春を迎えに行ってもいいぞ。あいつ、どれくらい大きくなったかな。久しぶりに会いたいしな」それから、少し拗ねたような口調で付け加えた。「杏奈、兄貴としての忠告だ。両親もおじいさんも、小春をどれだけ可愛がってるか知ってるだろ?頻繁に帰ってこいとは言わないが、せめて写真くらいこまめに送ってくれよ」杏奈は、胸の奥で乾いた笑いが漏れた。送りたくないわけではない。小春が、全身で嫌がるのだ。どれほど三浦家へ行こうと約束しても、紗里に何かあれば、娘は一瞬の躊躇もなく母親との約束を放り出し、あの女の元へ駆けていく。そのたびに、杏奈は身内に対して惨めな言い訳を繰り返してきたのだ。「杏奈。聞いているか?」「ええ、お兄ちゃん。聞いてるわ」込み上げるものを無理やり飲み込み、静かに答える。「わざわざ往復してもらうのも悪いから、明日は私が小春を連れて直接行くわ」「そうか。わかった、家で待ってるよ」電話を切ったあと、杏奈は小春へ連絡を入れた。明日の予定を、念押ししておかなければならない。どうせ紗里といたがって拒絶されるだろう――そう思っていたが、小春は意外にもあっさりと首を縦に振った。「もう!ママ、うるさい。今遊んでるんだから邪魔しないで。わかってるってば。明日、行けばいいんでしょ!」「……じゃあ、明日迎えに行くわね」杏奈は静かに問いかけた。「わかった、わかった。もう切るよ。紗里ちゃんが待ってるんだから」微かに、女性の柔らかな笑い声と、隠しきれない興奮に満ちた娘の声が聞こえた。直後、耳を刺す無機質な通話終了音が響き、ぷつりと通話が切れた。杏奈は携帯を置いた。凪いだ湖面のような静けさの中、その心には波風ひとつ立たなかった。もう、慣れたのだ。いや、慣れるしかなかったのだ。今はただ、一刻も早くルミエールへと戻り、止まっていた時間に火を灯したい。それ以外の些細なことなど、表面上の平穏さえ保たれれば、もはやどうでもよかった。暗闇の中で、パソコンの画面だけが白々と光を放っている。その光を反射する杏奈の瞳は、かつてないほどに、研ぎ澄まされていた。……翌日。杏奈は約束の時間通り、吉川家の門前に車を
Read more
PREV
123456
...
10
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status