All Chapters of 協議離婚したら、忘れていた夢が叶い始めた: Chapter 551 - Chapter 560

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第551話

「政夫さん、そんな横柄な口を叩くなら、わしとて黙っておらんぞ」「おやおや。ここ何年も相手にしてやらなかったから、また血が騒いできたのか?」「チッ!あのとき握り飯をもう一つ食べておけば、肝心なところで力が抜けることもなかったんだ。そうなれば、政夫さんがどうなっていたか分からんぞ」「やるか?」「やってやろうじゃないか!」合わせれば二百歳にもなろうかという二人の老人が、今にも取っ組み合いを始めそうな勢いで睨み合っている。杏奈は苦笑するしかなく、万が一骨でも折れやしないかと、ただはらはらしていた。杏奈は慌てて立ち上がり、二人の間に割り込んだ。二人の腕をそっと引きながらなだめる。「まあまあ、もう争うのはやめてくださいな。私は、お二人どちらの孫娘でもあるんですから」まるで子どもをあやすようなその言葉に、二人は拍子抜けしたように顔を見合わせ、やがて噴き出した。先ほどの言い争いはどこへやら。今度は代わる代わる「かわいい孫娘よ」「うちの杏奈」と、目尻を下げてにこにこと話しかけてくる。とろけるような愛情攻勢は、杏奈にとって嬉しくもあり困りもする、まさに嬉しい悲鳴といったところだった。場がすっかり和んだ頃、執事の井上が言いにくそうな顔つきで、おずおずと近づいてきた。「旦那様」「何事だ?」「実は……」井上の視線が、ちらりと三浦家の一同へと流れた。この場で口にしてよいものか、迷っている様子だった。政夫は眉を寄せ、厳しい声で叱りつけた。「ぐずぐずするな!ここにいるのは皆、身内も同然だ。用があるならはっきり言え。ここで隠し立てする必要などない」「はい」井上は小さく頷くと、声を潜めてひと言告げた。「あの母娘が、また騒ぎに来ております」三浦家の一同は、しばらく黙り込んだ。井上の言葉は、まるで何かの謎掛けのようだ。母娘……?いったいどこの母娘だ?それに、天下の吉川家に乗り込んでくるほど肝の据わった人間がいるとは。だが、杏奈だけは違った。何か心当たりがあるように、じっと考え込んでいた。政夫の表情がたちまち険しく曇り、普段は滅多に使わない荒々しい言葉が口をついて出た。「恩を仇で返すような恥知らずどもが、よくも平然と顔を出せたものだ!たたき出せ!」「はい」そう答えた井上が踵を返し、外へ向かいかけたところを、政夫が鋭く呼び止め
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第552話

「何をぼんやりしてるんだ?」祐一郎が肘で軽くつついた。はっと我に返った杏奈は、蒼介の鋭い視線と真正面からぶつかった。だが、表情を変えることなく静かに頷く。「ええ、それでは行きましょうか」「俺も連れて行ってくれ」祐一郎が袖をしっかりと掴んで離さない。仲間外れにされまいとばかりに。杏奈は呆れたように苦笑した。「お兄ちゃんったら、誰も置いていくなんて言ってないよ?」祐一郎はポンと手を打った。「そうか。じゃあ何をぐずぐずしているんだ、行こう!」そうして一同が一斉に腰を上げ、連れ立って外へと向かった。そのただならぬ様子を見た他の者たちも、事情が呑み込めないまま慌てて後に続いた。連鎖反応のように、気づけばきょとんとした野次馬の群れができあがっていた。台所で出汁を取っていた恵理子までが、たまらず外へ飛び出してきたほどだ。「ねえ、私たち、いったいどこへ向かっているの?」「わからない。でも、みんなが出て行ったんだから、ついて行けば間違いないだろう」……屋外では、左手に杖をつき、右手に点滴のパックを提げた政夫が、井上に付き添われながら、慌ただしく駆けつけてきた母娘と対面していた。ほんのしばらく見ない間に、二人は見る影もなく落ちぶれていた。身にまとう衣服はひどく粗末で、髪を手入れしてくれる使用人もいなくなったのか、無造作に垂れ下がった毛先は潤いを失ってパサパサに傷んでいる。特に瑞枝の顔には、短い間に幾筋もの深い皺が刻み込まれ、ひと目でわかるほど急激に老け込んでいた。美南も似たような有様で、肌はすっかり乾いてかさつき、目は真っ赤に血走っており、その全身からは隠しきれない疲弊感が滲み出ていた。互いの体を支え合いながらやってきた二人は、政夫の姿を認めるや否や、まるで蜘蛛の糸にすがるような勢いで、すっ飛んで駆け寄ってきた。涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、口々に哀れっぽい泣き言を並べ立てた。「お義父さん!私がこの吉川家のために、二人を産み育てた、どうかその一点だけでも考慮してくださいませ。どうか、どうかまたこの家に戻らせてほしいのです!」「おじいさん、私はあなたの孫娘じゃないですか!間違いはちゃんと認めていますから、どうか私を吉川家から追い出さないでください!」だが政夫の目には、二人の流す涙など、うわべだけの空涙にしか映らな
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第553話

そもそも、今回の件はすべて美南が独断でやったことだ。仮にそうでなかったとしても、瑞枝が娘の身代わりなど引き受けるはずがなかった。雲の上からどん底へと叩き落とされたこの数日間の過酷な生活で、もともと希薄だった瑞枝の母性は、すでに跡形もなく消えていたのである。娘がこの先どうなろうと、吉川家がどうなろうと、もう知ったことではない。ただあの頃の、満たされた贅沢な暮らしに戻りたい。彼女の頭の中にあるのは、ただそれだけだった。そう心に決めると、瑞枝はぎりっと歯を食いしばり、美南が息を呑んで見つめる中、政夫のすぐ前へとずかずかと進み出た。そして自分に都合のいいように事の一部始終を一気に話し、さらにこう続けた。「お義父さん、隠さずすべて申し上げました。私に多少の過ちがあったとしても、決して大したことではありません。長年、この家のために身を粉にしてきたのですから……」いまだ厚かましく長年の苦労を盾に取ろうとする瑞枝に、政夫はついに堪忍袋の緒が切れ、よろめきながら怒声を張り上げた。「もう十分だ!二人とも、いい加減に黙らんか!」その雷のような一喝に、母娘はびくりと首をすくめ、ぴたりと口をつぐんだ。しばらく荒い呼吸を整えてから、政夫は深い落胆の滲む声で言った。「今の浅ましいやり取りを見て、このわしの目が節穴だとでも思っているのか?同じ家族なのだから、仲良く助け合うのが道理だろうに、お前たちと来たら……」そう言いながら、政夫はだんだんと怒りと情けなさで言葉に詰まっていった。胸が激しく上下し、絞り出すような声もわずかに震えている。「……とにかく、もうお前たちに言うことは何もない。吉川家には、お前たちのような疫病神を置いておく場所などないのだ」瑞枝はなおも諦め切れず、もう一度泣きすがろうとした。だが、当の美南はすっかりやけを起こしていた。「くたばりぞこないの老いぼれに、私をこの家から追い出す権限があるって言うの?」そんな暴言を吐かれても、政夫は意外なほど怒りを見せなかった。おそらくもう、この見下げ果てた孫娘には欠片ほどの情も残っていないのだろう。ただ冷ややかな目で一瞥しただけで、次に彼が口にした言葉は、美南の顔色を瞬時に青ざめさせた。「今は兄が吉川の実権を握っているから、隠居のわしの言葉など関係ないと言いたいのだろうが——お前は考えたことが
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第554話

風が吹き抜ける中、あたりに重い静寂が張り詰めていた。美南はそんな空気を意に介す様子もなく、衆人の前で藁にもすがる思いで杏奈を指差し、臆面もなく言い放った。「兄さん、私はあなたのためにやったのよ。あの女が嫌いなんでしょう?だから追い出してあげたのに、どうして喜んでくれないの?この人が出て行けば、紗里さんが……」言葉は次第に熱を帯びていった。この数ヶ月の観察で、兄が紗里に入れ込んでいるのはわかっていた。紗里の名を出せば、兄も怒りを収めるはずだと信じて疑わなかったのだ。しかし彼女は気づいていなかった。蒼介の普段は無表情な顔が、今は恐ろしいほど暗く沈んでいることに。言い終わるより早く、蒼介が鋭い声で遮った。「もうやめろ、黙れ!」その一喝に、美南は息を呑んで固まった。呆然と蒼介を見つめ、なぜ彼がこんな反応を示すのか理解できなかった。蒼介は美南を無視し、漆黒の瞳に隠しきれない緊張を滲ませながら、ちらりと杏奈へ視線を向けた。まるで彼女に言い聞かせるかのように、口を開く。「俺はそんなことを言った覚えは一度もない。俺と紗里は……っ」言い訳めいていると自覚したのか、一瞬言葉に詰まった。だが、杏奈がこちらを見向きもしないのに焦りを覚え、少し早口になる。「あいつとはただの上司と部下の関係だ。それだけだ」こんな言葉は、美南はおろか、その場にいた誰一人として信じる者などいなかった。正式に入籍した妻を家に置き去りにしておきながら、紗里を連れ立ってあちこちの高級会員制クラブへ出入りし、まるで妻であるかのように振る舞わせておいて——それが普通の上司と部下の関係だと?どこまで人をなめているのか。「ふっ……!」誰かが堪えきれず吹き出した。その笑い声が引き金になったかのように、後から来た三浦家の人たちも、事情を知る屋敷の使用人たちも、次々と失笑をこぼし始めた。美南も思わなかった——財界で絶大な権力を握る兄が、こんなにも子ども騙しな言い訳を口にするとは。「その言葉……」美南の唇の端に、嘲るような弧が浮かんだ。「自分で自分の言葉を信じてるの?」自分が信じているかどうかはどうでもいい。肝心なのは——杏奈が信じるかどうかだ。蒼介はそっと杏奈へ視線を移した。反応を確かめたかったのだが、彼女は眉一つ動かさなかった。最初から最後まで、まるで自分とは
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第555話

美南はさすがに恐怖に顔を引きつらせ、首をすくめて口をつぐんだ。しかしその目は毒々しい憎しみに満ち、杏奈をぎりぎりと睨みつけた。まるで今にも噛みつきそうな勢いで。杏奈は心の中で首を傾けた。——この人、どこかおかしいんじゃないかしら。私はひと言も口を開いていないのに、恨むなら蒼介を恨むべきでしょう。「杏奈、さぞかし嬉しいでしょうね?」茶番——もとい、一連の騒動が片付いて、もう帰ろうとしていた一同が、美南のその言葉にまた足を止めた。政夫が怒りで顔を真っ赤にし、叱りつけようとした。しかしそれより先に、杏奈の落ち着いた声が響き渡った。「ええ、嬉しいよ!」杏奈は堂々と頷き、美南の目をまっすぐ見据えながら、一言一言はっきりと言い切った。「嬉しいなんてものじゃないわ。これほど晴れ晴れとした気分は初めてよ。今すぐ赤飯を炊いて祝ってやりたいくらい」その容赦のない言葉に、美南はあわや卒倒しそうになった。「あんたって女は……!」指を突きつけようとしたが、蒼介と政夫から注がれるじりじりと冷えるような眼差しに、結局何も言い返せないまま口を閉じた。「……美南、もうやめなさい。早く行きましょう」瑞枝が青ざめた顔で袖を引っ張った。もはや居残れる望みはない。これ以上こじれれば、自分たちの首を絞めるだけだ。それに、ここで大人しく引いておけば、停止させられたカードが復活するかもしれない。以前のような暮らしとは比べられないにせよ、衣食に困らない程度の生活くらいはできるはずだ。「お義父さん、蒼介、それから隆正さん、今日は失礼しました。美南には私がしっかりと言い聞かせますので」瑞枝は皆に向かって引きつった微笑みを浮かべ、そそくさと挨拶すると、まだ杏奈に食ってかかろうとする美南を力任せに引きずっていった。美南は火のついたように、いくら押さえつけられても無様にじたばたし続けた。「お母さん、何で引っ張るの!?まだ言いたいことがあるのよ!杏奈のやつ、何様のつもりよ!この何年も、吉川家の金で養ってもらっていた分際で……!」みっともない叫び声が次第に遠ざかっていく。残された者たちは、ただ顔を見合わせるばかりだった。あまりにも気まずい沈黙だった。政夫は長年の戦友にどう顔を向ければいいのかもわからなくなり、皺だらけの顔を羞恥と後悔に染めた。声が重く、沈
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第556話

杏奈は笑うに笑えなかったが、せっかくの好意を無下にするわけにもいかず、困ったように微笑みながら一人一人に頭を下げた。すっかり大悪人扱いされた蒼介は、さすがに顔を引きつらせていた。しかしそれでも、久しぶりに見る杏奈の心からの晴れやかな笑顔を目にした瞬間、胸の奥でひっそりと思った——それでも、彼女が笑ってくれるならよかった、と。「後悔しておるのか?」しわがれた問いかけが耳に届き、振り返ると、政夫がいつの間にか傍らに立っていた。年老いた濁った目は、それでもすべてを見透かしているかのように深い。声には残酷なまでの確信があった。「後悔してももう遅い。あの子は一度決めたら、絶対に後ろを振り返らない強さを持っておる。お前は取り返しがつかないほど彼女の心を傷つけた。だから彼女はもう……」政夫は静かに首を振り、長く息をついた。それ以上は言わなかった。言葉にしたところで、もはや遅いのだから。蒼介は苦渋に満ちた低い声で口を開いた。「どうすればいい?」どうすれば取り返しがつく。どうすれば修復できる。どうすればもう一度、彼女の心を取り戻せるというのか。政夫は答えなかった。ただ穏やかな眼差しで、向こうで皆に囲まれて笑い合っている杏奈を静かに見つめていた。もう余命いくばくもない。若者の心を無理に動かそうとする気力も、とうの昔に枯れ果てていた。残された最後の時間、ただ自分が見守ってきたあの娘が、穏やかに、幸せに生きてくれさえすればそれでよかった。それ以外のことは——もう、いいのだ。返るはずのない沈黙も、時に答えになる。蒼介は薄い唇をきつく結んだまま、遠くの杏奈を痛切な眼差しでひと目見つめ、無言で踵を返して屋敷の中へと戻っていった。「さあさあ、みんなもういつまでもここに突っ立っていないで。台所の鍋がまだ火にかかってるでしょう。それぞれ用事に戻って」井上の声に促され、やがて一同は杏奈を囲んで屋敷の中へと流れ込み、食事が出来上がると、賑やかに食卓を囲んだ。食べ終えた後、それぞれ名残惜しそうに暇を告げて帰路についた。「杏奈」政夫が、ふと呼び止めた。「はい、何かありましたか?」杏奈は立ち止まり、振り返った。政夫はこくりと頷いたが、詳しくは言わず、ただ静かにこう言った。「書斎まで来なさい。少し話がある」「わかりました」杏奈はまず隆正たちに
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第557話

「かつての私は、あなたのために身を粉にして働き、まるで神様のように奉り続けてきた。あなたの母と妹からどんな理不尽な意地悪をされても、一度として愚痴一つこぼさなかった」昔のことを思い返しながら、杏奈はどこか感慨深げに言葉を続けた。「あの頃の私は、誠心誠意尽くし続ければ、いつかきっとあなたの凍りついた心を溶かせると信じていたの。でも、結果はどうだった?」杏奈の目がすっと冷えた。その声は氷のように冷え切り、鋭かった。「あなたは、私の気持ちなんて見向きもしなかった。あの二人も、私の献身をただの当たり前だと思っていた。七年よ。たった七日じゃないの。積み重なった一つ一つの絶望が、頭を下げて、間違いを認めて、ただ謝ったくらいで簡単に帳消しになるなんて思わないで!」静かに、しかし断固として言い切られ、蒼介はただ黙り込むしかなかった。杏奈も彼からまともな言葉が返ってくるとは思っておらず、そのまま背を向けて立ち去ろうとした。するとふと、背後からひどく掠れた声が届いた。「じゃあ俺……どうすればいい?」本当にわからないのか、それともわかっていてはぐらかしているのか、杏奈には判断がつかなかった。だがどちらにせよ、この機会にはっきり伝えておくべきだと思った。「あなたが心を入れ替えようが、紗里とこのままずるずる続けようが、もう私には一切関係のないことよ。離婚が正式に成立したら、お互いに別々の道を歩んで、次にどこかで顔を合わせた時にはただの他人としてすれ違えたら——それだけが、私の唯一の望みなの。吉川家を出てから今日まで、私の行動がそれを示してきたはず。これで、十分わかってもらえるのかしら?」夕暮れ時の空は赤く染まり、天窓から差し込む金色の光が杏奈の体に降り注ぎ、彼女を柔らかな光のヴェールで包み込んでいた。その息を呑むような美しさに、しかし蒼介は何も感じることができなかった。彼女の冷酷なまでの言葉が、鋭い棘のように胸の奥深くに突き刺さっていたからだ。しばらくして、蒼介はゆっくりと首を縦に振った。「……わかった」「約束が守られることを願っている」杏奈はその一言を残し、もう一度も振り返ることなく、部屋を後にした。……書斎に入ると、政夫の顔がかすかに青ざめているのがすぐ目に入った。杏奈を見つめる瞳には複雑な色が混じり、その奥には深い
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第558話

コツン、と。乾いた音を立てて、杏奈はサイン用のペンを机に置いた。顔を上げ、まっすぐ政夫を見た。「すみません、これはさすがに受け取れません」政夫が慌てた。「受け取れないとは何だ。これはじいさんが死ぬ前に、可愛い孫娘に少しばかりの後ろ盾を残してやりたい、ただそれだけのことだろう。杏奈、あんたはサインするだけでいいんだ。誰にも文句なんか言わせないから」ただそれだけ、じゃないでしょう……杏奈は困ったように苦笑した。もしこの書類が表に出れば、濱海市の財界で大騒ぎになるのは火を見るより明らかだった。名門の連中が血眼になって奪い合い、どんな泥沼の修羅場になるかわかったものではない。「おじいさん」杏奈は優しく呼びかけ、頭を痛めたような声で言った。「誤解させてしまいましたね。私が誰かから面倒を起こされるのが怖いわけじゃないんです。問題は、この書類そのものが持つ意味にあるんです」この株式譲渡契約を受け入れるということは、吉川グループの社長である蒼介と、永遠に縁が切れなくなることを意味する。それだけは、絶対に嫌だった。政夫はすぐに理解した。その目に一瞬、翳が差した。杏奈にこれ以上の重荷を負わせたくなくて、彼はにっこりと頷いてみせた。「わかった。じゃあ、これはおじいさんがとりあえず預かっておこう」「おじいさん……」「いいから、これはわしに任せなさい。あんたの気持ちはよくわかったから、無理なことはさせない。どうしてもと言うなら、あの馬鹿に市場価格で買い取らせて、その金はそっくり杏奈に渡してやる。あいつには一円たりとも渡さん」「ふふ……もう、わかりましたよ」杏奈は笑いながら宥めた。胸の奥がじんわりと温かくなった。それ以上長く話し込むことはしなかった。政夫の顔色がすぐれず、体もだいぶ疲労しているようだったので、杏奈は頃合いを見て静かに暇を告げた。……屋敷の外に出て自分の車に乗り込み、さあ帰ろうとエンジンをかけようとしたところに、大地からの着信が入った。「三浦さん、今お時間があれば病院まで来てもらえませんか。例の被害者に動きがありました」杏奈は思わず声を張った。「何があったんですか?」「何者かが命を狙ったようです。電話では少し説明しにくいので、まずは来てもらえますか」「わかりました」杏奈はすぐにエンジンをかけ、病院
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第559話

大地は深く息をついた。「今こうして彼女を押さえているだけでも、正直なところ規則違反スレスレなんです。このまま時間が経てば、最終的には釈放するしかなくなります」杏奈には法律的な細かい規定などはわからない。ただ率直に尋ねた。「私を呼んだのは、何かしてほしいことがあるからですか?」大地は首を振った。「まず、この状況を把握しておいてもらいたかったというのが一つです。それから、被害者の身元が判明したんですが——」彼は杏奈の顔をじっと見て、探るような目で言った。「その人物が、あなたと無関係ではないんです。桐島明奈さんです」杏奈は目を丸くした。「どうして彼女が?」大地も素直に首を傾げた。「実を言えば、私も同じ疑問を持っています。こちらで調査した情報によれば、桐島家とあなたの関係は、あまりよくないようで……」杏奈は苦笑した。よくないどころか、ほとんど敵同士と言ってよかった。明奈が以前訪ねてきて、その後ふっつりと姿を消したことを思い出し、杏奈は事の経緯を大地に話してから言った。「あの時のことですが、もしかして誰かに連れ去られたんじゃないでしょうか」そうでなければ、明奈があれほどのひどい怪我を負っている説明がつかない。大地はそれを聞くや、すぐに表情を引き締めた。「重要な手がかりになりますね。ただ、事の全容はもう少し調査が進まないとわかりません」「わかりました。よろしくお願いします」杏奈は頷いた。大地は手を振って笑った。「市民の安全を守るのが私たちの仕事ですから」軽く話を切り上げ、大地は真剣な顔つきに戻って続けた。「三浦家に、優秀な家庭医がいると聞いています。しばらくの間、彼女を預かってもらえませんか?」杏奈は首を傾けた。「なぜですか?」大地は眉間を押さえながらため息をついた。「そもそも今回の件は、正式な被害届が出ていないんです。私が個人的に動いているだけで、厳密には公的な捜査ではないんです。だから、この病院の安全を四六時中確保するだけの人手が、どうしても足りないんです。今日は看護師が薬を混入しようとした。明日は、黒幕が次にどんな手を使ってくるか、誰にも読めません」少し気まずそうに杏奈を見て、続けた。「資産のある方は、優秀なボディガードを雇われていることも多いと思いますので、しばらくあなたの家で保護していただけれ
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第560話

夜の闇は墨を流したように濃く、ヴィラの門前に車を止めると、杏奈がドアを開けるより早く、知らせを受けて待ち構えていた祐一郎が駆け寄ってきた。「本当にここに置くのか?実家じゃなくていいのか?」祐一郎の問いに、杏奈は静かに首を振った。「おじさんたちに知れたら余計な心配をかけてしまうわ。今は会社のことだけでも手一杯なんだから、これ以上の負担をかけたくないの」何より、平穏な家族を危険な渦中に巻き込みたくはなかった。その意志の固さを汲み取ったのか、祐一郎もそれ以上は追及せず、ただ短く応じた。「わかった、ひとまずここに落ち着かせよう。腕の確かな家庭医もすぐに手配する」「使用人と護衛も、一緒にお願いできるかな?」「ああ、わかった。すぐに手配しよう」杏奈はほっとして笑みを浮かべた。「ありがとう、お兄ちゃん」「礼なんていいから、心配をかけないでくれ。こういう面倒なことは、一人で抱え込むな。何があっても、お前の安全が最優先だ。他のことは、後からどうにでもなるんだからな」「ええ、わかっているわ」祐一郎の小言を、杏奈は柔らかな微笑みで受け流した。「よし、では中へ運ぼう。部屋の準備はできている」「ええ」車のドアを開け、後部座席に横たわる明奈を運び出そうとしたその時。冷たい夜気に紛れて、どこか聞き覚えのある声が暗がりから響いた。「お二人揃って……死体を解体して、証拠隠滅の真っ最中ですか……?」その声は驚くほど平静で、言葉の物騒さとは裏腹に、微塵の動揺も感じさせなかった。杏奈と祐一郎は思わず肩をすくめ、声の主へと振り返った。薄暗い街灯の下、ベストにシャツを合わせ、ベレー帽を被った海斗が、濃い影の中にシルエットになって立っていた。そこから覗く瞳は、固まった二人をじっと見つめ、どこか楽しげな好奇の色を湛えている。まるで、自分の不穏な推測に、少しばかりの期待を寄せているかのようだった。「お手伝いしましょうか?」そのひと言が、場に漂っていた緊張を奇妙な形で打ち破った。杏奈は思わず頬を引きつらせた。自分が何を口にしているのか、この男はわかっているのだろうか。祐一郎もまた、似たりよったりの表情を浮かべていた。国内に、こんな突拍子もないことを言う人間がいようとは。「坂口さん、誤解です」杏奈は気を取り直し、苦笑混じりに説明
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