All Chapters of 美人上司に甘やかされる毎日が、残業よりつらい: Chapter 71 - Chapter 80

130 Chapters

第70話

練と颯斗が傍若無人に口喧嘩を繰り広げていると、傍らにいた奏が不意に口を開いた。 「でも、睦弥もそんなに長く海外に滞在するわけじゃないよ。十五日間の観光ビザだから。ね?」 睦弥は小さく頷いた。 「航空券も、片道しか買っていません」 「では、目的地は一つではないということですか?」 練が問う。 睦弥の瞳には、微かな光が宿っていた。 「体が許す限り、この世界のあらゆる隅々まで歩いてみたいんです」 その瞬間、颯斗は条件反射的にアルベインの姿を思い出した。「さらばだ友よ」と手を振り、夕陽の中へと遠ざかっていった、あの男を。 気のせいだろうか。そう語る睦弥の表情も、その眼差しも、あの時のアルベインと瓜二つだった。 保安検査口の向こうへ睦弥の背中が消えていくのを見届けた後、颯斗はふと湧き起こった野次馬根性に負け、奏にこんな質問を投げかけた。 「……ってことは、これから二人は遠距離恋愛になるの?」 ところが、奏は苦笑しながら首を横に振った。 「いいえ。俺たち、別れたよ」 「ええっ!?」 颯斗は目を見開いて練を振り返ったが、練も「初耳だ」と言いたげに肩をすくめた。 「本当に、別れたの?」 「嘘をつく必要はどこにある」 「でも、結婚したばかりじゃ……」 「ええ。本当は退院してすぐに離婚届を出すつもりだったんだけど、手続きにはわざわざオランダま
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第71話

「もしかして、親に捨てられたんじゃ……?あんな小さな子が一人で立ってるなんて、周りに大人もいないし危険だよ。ちょっと聞いてくる」 颯斗がそう言った。 「待て、颯斗……!」 練が制止する間もなく、颯斗は有無を言わさず駆け出していた。 「こんにちは。何か手伝おうか?」 少女の前まで走り寄ると、颯斗は軽く手を振った。 少女は気だるげにまぶたを持ち上げ、ひと言も発さず彼を見つめ返した。その視線は、まるで無機物でも眺めるかのように冷え切っている。 自分のことを覚えていないのだと悟り、颯斗は慌てて自己紹介を始めた。 「俺は鳴海颯斗。ほら、前にも会っただろ?喫茶店で君のコーヒーをこぼしちゃった時の。覚えてるかな?」 「……ナルミ……ハヤト……?」 少女の声は氷のように冷たく、そこには感情の揺らぎが一切感じられなかった。 「そうそう!君は?名前はなんていうの?どうして一人でここにいるんだい?お父さんとお母さんはどこ?」 「……お父さん……お母さん……」 少女はレコーダーのように、颯斗の言葉を機械的になぞるだけだった。 (これはまずいな) 颯斗は胸の内で呟いた。何らかの認知障害があるのかもしれない。空港の警備員に引き合わせたほうがいいだろう。 「怖がらなくていいよ。お兄さんと一緒に警備員さんのところ
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第72話

少女の顔にはいかなる感情の色も浮かばず、ただ淡々と数歩後ずさった。 「颯斗!颯斗!!」 練は颯斗の体を強く抱き寄せ、まず鼻先に手を当てて呼吸を確かめ、続いて頸動脈に指を添えて脈拍を測った。 「霧生さん!?颯斗はどうしたんですか?」 奏も駆け寄り、練と並んで颯斗の肩を支える。 「心拍が少し乱れている。仰向けに寝かせて、まぶたの上から眼球を指で静かに圧迫しろ」 「分かりました!」 奏が指示通りの処置を始めるのと同時に、練は素早くスマートフォンを取り出し、119番へ通報した。通話しながらふと顔を上げると、あの少女はすでに踵を返し、エレベーターホールへ向かって足早に去ろうとしているところだった。 練は電話を切り、奏の肩をぽんと叩いた。 「救急車は呼んだ。颯斗を頼む!俺はあの女を追う!」 「えっ……」 奏の返事を待つこともなく、練は人混みの中を遠ざかっていく黒い影を追い、走り出していた。 「待て!」 少女がエレベーターに乗り込むのが見えたが、追いついた時には、扉はすでに目の前でゆっくりと閉まりかけていた。 「チッ……」 練は舌打ちし、きびすを返して脇のエスカレーターへと駆け出した。安全かどうかなど構っていられない。四、五段を一気に飛ばす勢いで階段を駆け下りる。 少女の乗ったエレベーターは止まる気配がない。練は息つく間もなくいくつものエスカレーターを駆け抜け、ついに最下層の駐車場へと到達した。 エレベーターから現れた
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第73話

「これほどの騒ぎを起こして、一体何のつもりだ?まさか昔話をしに来たなどとは言わせないぞ」 練は込み上げる怒りを押し殺し、声を低くして言った。 「そう熱くなるなよ、レン」 哲は手を払いのけられてもなお、練のこめかみに散った髪を一房、愛おしむように指先で整える。 「かつての師であり、同業者として近況を伺いに来ただけだ。それがいけないか?」 「貴様とはもう何の関係もない。関心など不要だ」 練は冷淡に言い放った。 「何の関係もない、か」 哲は滑稽な冗談でも聞いたかのように肩を揺らし、低く笑った。 やおら上着のポケットから煙草を取り出して火を点け、無造作に咥えて一服すると、白い煙を吐き出す。 練はその匂いを嫌悪するように眉をひそめ、顔を背けた。 哲は悠然と言葉を継ぐ。 「……無関係な人間の電話番号を、連絡先に残しておくものなのかね?」 「ああ、そうか」 練は余計な議論を嫌い、その場でスマートフォンを取り出した。哲の目の前で、迷いのない操作で彼の番号を削除する。 「助言に感謝するよ」 端末をポケットに放り込み、練は顎を上げた。 「別れてからというもの、目が回るほど忙しくてね。こんなゴミを消し忘れていた」 哲は目を細め、興味深げに教え子を眺める。 「さすがは俺の自慢の門下生だ。クリニックの経営も順調のようだな。いくつか客を紹介してやろうかとも思ったが、その必要はな
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第75話

「それから、誰かに思いっきり背中を突き飛ばされたような感覚があって……。次に目が覚めた時は、もう病院のベッドの上だった」 救急外来の裏手にある並木道は人通りもまばらで、鳥のさえずりが聞こえるほど静まり返っている。練は道端の石椅子に腰かけ、車椅子の颯斗と向かい合っていた。 あの奇妙で恐ろしい体験を思い出すたび、颯斗は今でも背筋に冷たいものが走るのを感じる。 もしあの時、断頭台の刃が本当に落ちて自分の体を真っ二つに断ち切っていたら、一体どうなっていただろうか。 目覚めた後の彼は、医師から「原因不明の悪性心律不全」と診断された。薬物中毒、アレルギー、あるいは強い精神的ストレスが引き金になることもあるという。 今回は搬送が早かったから良かったものの、一歩間違えば突然死していてもおかしくなかった。 「いやあ、俺も今回ばかりは三途の川が見えたよ、あはは……」 颯斗は自嘲気味に笑ってみせた。だが、ふと顔を向けると、そこには笑いも温度も一切宿っていない練の瞳があった。 「……面白くない、か?」颯斗が気まずそうに声を落とす。「すまん、忘れてくれ……」 「お前は事の重大さを全く分かっていない」練が低い声で言った。「俺たちはとんでもない相手、それも極めて厄介な相手に目をつけられたんだ」 颯斗は虚を突かれた。「厄介な……相手?」 「あの女の名はカノン。お前と同じ、SAだ」 「何だって!?」颯斗は驚きのあまり車椅子の上で飛び上がらんばかりに身を乗り出した。「あの子も、SAなのか!?」 「それだけじゃない。あの子は
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第76話

「奏と睦弥の関係は、あのカノンという女の子に出会ってから歪み始めた可能性が高いと見ている。だが、あいにく手元の情報が少なすぎる。敵の正体が見えない以上、今の俺たちはあまりにも受動的だ」 練の言葉を聞きながら、颯斗は深く息を吐いた。 練が病院に来てからずっと思い悩んでいる様子だった理由を、ようやく理解した気がした。 自分たち以外にもSAが存在し、しかもその手法が自分たちとは正反対であるなど、想像すらしていなかった。 どうやらソウルエージェントの世界は、颯斗が思っていたほど単純なものではないらしい。 「だが、完全に手詰まりというわけでもない」 練は手の埃を払い、こちらへ振り向いた。 「少なくとも確かなのは、カノンが身体接触を通じて他者の心界に侵入している可能性が高いということだ。だから、次にあいつに会った時は……」 「指一本触れさせない!」 颯斗は即座に言い切った。 「それだけじゃない」 練は身を乗り出し、颯斗の車椅子のハンドルに両手をついた。 「あいつとは三メートル、いや五メートル……いや、十メートルは距離を取れ!とにかく、あいつのそばには絶対に近寄るな!」 あまりの剣幕に、颯斗は返す言葉を失い、ただ目の前で恐ろしい形相を浮かべる美人上司を呆然と見つめることしかできなかった。 「返事は!?」 練が鋭く問い詰める。 その声に飛び上がりそうになった颯斗は、慌てて背筋を伸ばし、勢いよく敬礼した。 「イエス・サー!
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第77話

行き場を失った手が、緊張のあまり車椅子のハンドルを固く握りしめた。 何かを言わなければならない。 あるいは、何かをしなければならない。 そう思うのに、練の黒曜石のような瞳に見つめられると、まるで呪縛をかけられたかのように身体が動かなくなる。 その後の記憶は、不意に曖昧になった。 はっきりと言葉で説明することはできない。ただ、唇の上に何かがゆっくりと重なった感触だけが、鮮明に残っている。 タンポポの綿毛のように柔らかく、淹れたての茶のような甘みの奥に、わずかな渋みを含んだニコチンの味。 人生で初めて経験するその感触はあまりにも奇妙で、颯斗の心臓に激しく長い動悸をもたらした。 これは本当に現実なのだろうか――と、颯斗は思う。 もしここが心界であれば、練の行動も「治療」という名目で説明がつく。 だが、ここは現実だ。 ならば、今目の前で起きているこの出来事は、いったい何を意味しているのか。 「契約の証明だ」 颯斗の動揺を読み取ったかのように、練は静かに唇を離し、そう告げた。 「契……約……?」 「俺は、俺だけのSAをずっと探していた」 練は颯斗の手の甲にそっと手を重ね、静かに言葉を紡ぐ。 「俺を心から信頼し、そして俺もまた、心から信頼できる人間を」 「信頼……?」 颯斗は呆然と練を見つめた。心臓の鼓動が
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第78話

深夜の誰もいないオフィス。本来なら万物が静まり返る時間帯だが、ここでは情欲に満ちた別の光景が広がっていた。中央に置かれた広々とした社長机以外に余計な家具はない、ガランとした部屋だ。見晴らしの極めて良い全面ガラス張りの窓には、きらびやかに輝く高層ビル群や車の往来が激しい通りと、窓に映る一人は座り、もう一人は跪く二つの人影が重なり合っている。鳴海颯斗は椅子の背もたれに頭を預け、目を閉じて、極楽に昇るような快感を全身全霊で味わっていた。一人の男が彼の両足の間に跪き、その勃起した性器を口に含んでいる。男は深さを変えながら、津々浦々としゃぶり舐め、巧みな唇と舌使いで颯斗の欲望に献身的に奉仕していた。颯斗は思わず吐息を漏らし、目をうっすらと開けた。股間の人物がいまどれほど情欲に乱れているのかを鑑賞するため、彼は手を伸ばし、男の額にかかる汗に濡れた髪を一房かき上げた。言葉こそないが、男は颯斗の心を読んでいたかのように、奉仕を続けながら濡れた目尻を上げ、颯斗を見つめ返した。よりはっきりと見せるかのように、男はあえて動きを緩め、鮮やかな赤い舌先で丸みを帯びた亀頭の上を優しく円を描くように這わせる。その薄い瞼は、制御できずに微かに痙攣していた。恥も外聞もなく口で自らを悦ばせているこの男が、まさか颯斗の直属の上司であり、心理診療所の所長である霧生練だとは、誰が想像できようか。他人はおろか、颯斗自身でさえこの淫らな光景があまりに非現実的だと感じていた。しかし、ソウルエージェントである二人にとっては、紛れもない現実であり、日常茶飯事の光景でもあった。颯斗はSAであり、練は彼のSPなのだ。今日も彼らは患者の「心界」に侵入し、ペアを組んで任務を遂行していた。今回の患者は過酷な勤務に蝕まれた社畜であり、その精神世界は、昼夜を問わず不眠不休で稼働するオフィスビルだった。この高層ビルには無数の魇が徘徊していた。それらは心身ともに疲弊した社員であったり、利己的な資本家であったりした。ここで二人は、無数の魇たちと幾度にもわたる激戦を繰り広げたのだ。此刻、颯斗はすでに満身創痍であり、練による治療を早急に必要としていた。ただ、唇と舌による慰めだけでは到底足りなかった。颯斗は練の髪を掴んで軽く押し退けると、腕を引いて立ち上がらせた。同時に、もう一方の手を練の腰に回し、
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第79話

月曜日の午後四時半。セラピーを終えてほどなくして、患者は意識を浮上させた。現在、練はソファで患者と肩を並べ、一冊の絵本を広げている。そこに描かれた情景から何が見え、何を感じるか、患者に一つひとつ言葉にさせていた。患者の胸部と頭部には、鼓動や情緒の揺らぎを精緻に捉えるデバイスが装着されている。その向かいに腰を下ろした颯斗は、機器の数値に目をやりつつ、心ここにあらずといった体で患者の応答を淡々と記録していた。颯斗が上の空になるのも無理はなかった。つい先ほど、心界の中で目の前の男と激しく肌を重ねた記憶が、一幕ごとに鮮烈な残像となって脳裏に焼き付いているのだから。あれほど熾烈な情事の直後だというのに、今の練の語り口や佇まいは冷静沈着そのもので、まるで何もなかったかのようだった。心界で見せた、あの艶然として奔放な姿とは、もはや別人と言っても過言ではない。対照的に、颯斗の意識はずっと微睡みの中を漂ったままだ。体こそこの場に留めてはいるものの、練と患者が交わす言葉は鼓膜を虚しく滑り落ちていくだけだ。デバイスの数値など目に入らず、視線は練の襟元から覗く鎖骨に釘付けになっている。手元の作業がいつ止まったのかさえ、自覚がないほどだった。はっと我に返ったときには、すでに診察は幕を閉じていた。練は椅子から立ち上がり、患者を送り出そうとしているところだった。颯斗も慌てて席を立ち、練の背を追うように入り口へ向かう。平静を装ってその背後に立ち、エレベーターの扉が閉まるまで、共に患者を見送った。患者の姿が見えなくなると、練は軽やかに身を翻し、人差し指で颯斗の額をぴしゃりと突いた。「オーナーの目の前で、仕事中にサボりとはいい度胸だな」練は射抜くような鋭い眼差しで、颯斗をじっと見据えた。後ろめたさに苛まれた颯斗は、あからさまに視線を泳がせる。「……そんなこと、してたか?」練が楽しげに目を細めた。「自覚がないなら、どうしてそう顔が赤いんだ?」颯斗はぎょっとして、無意識に自分の顔に手をやった。確かに、熱を帯びて火照っているのがわかる。「その間抜けな面を見る限り、どうせまた何か破廉恥な場面でも反芻していたんだろう?」「そんなわけないだろ!」颯斗は即座に背筋を正し、心外だと言わんばかりの表情で言い返した。「それに、なんだよ『また』って。まるで俺が一日中、お前のことで卑猥な妄
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