All Chapters of 美人上司に甘やかされる毎日が、残業よりつらい: Chapter 61 - Chapter 70

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第60章

颯斗はあたりを見回した。「そういえば、アルベインはどこにいるんですか?まさか、彼もどこかへ行ってしまったとか?」睦弥は静かに首を横に振る。「いいえ。アルベインはずっとこの街に留まり、療養しています」アルベインの名が出た途端、睦弥の瞳はみるみる曇っていった。睦弥の話によれば、練と颯斗が去ってからのこの一年、彼はアルベインを治療するため、リド大陸中を渡り歩き、名医や秘薬を求めて奔走してきたという。だが、どういうわけかアルベインの傷は癒えるどころか、日に日に悪化する一方だった。「アルベインの病状は悪くなるばかりで……薬代だけでも、相当な金額が必要なんです」睦弥は目尻を赤くしながら語った。「つまり、今夜のオークションはアルベインのため、ということですね」練が問いかける。睦弥は小さく頷き、縋るような眼差しを練に向けた。「牧師様……無理なお願いだとは分かっています。でも、どうか……どうかアルベインを助けていただけませんか」「牧師として、病める者を救うのは聖なる義務ですから。ただ……僕は神ではありません。確かな保証はできませんが、最善は尽くしましょう」その言葉を聞いた瞬間、睦弥の瞳にほのかな希望の光が宿った。「ありがとうございます!アルベインは僕の恩人なんです。たとえわずかな望みでも、諦めたくありません」「そうと決まれば、何をもたもたしてるんですか!」二人の話がまとまったのを見て、颯斗も勢いよく後に続こうとした。しかし次の瞬間、練にガシッと狼の尻尾を掴まれ、脇へ引き戻される。「お前は残れ。ここで留守番だ」練が耳元で囁いた。「留守番?どうして?」颯斗は不思議そうに目を見開く。「別動隊だ。オークションは今夜のメインイベント。お前がここに控えていれば、万が一何か起きた時でも対処できる」颯斗は心配そうに練を見つめた。「でも、一人で大丈夫なの?危険じゃないのか?」「常に意識共有でお前とリンクしておく」練は自分の眼鏡を指差した。「危険だと判断したら、何らかの方法で脱出するよ」そう言い終えると、練は颯斗の頭をぽんと軽く叩き、睦弥と共にその場を後にした。夜の闇に溶け込んでいく二人の背中を見送りながら、颯斗の胸にはなおも不安が渦巻いていた。だが考えてみれば、自分と相棒になる前、練はずっと一人で心界を渡り歩いてきたのだ。つまり、練は決して戦えないわけではな
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第61章

そうこうしているうちに、一作目の競売が始まった。スポットライトが舞台中央の絵画を照らし出し、司会者が情熱を込めて、この「抗争」と名付けられた作品を観衆に紹介する。歪んだ線が形容しがたい恐怖を描き出し、乱雑な色の染みは水面に浮く油のように、鮮やかさの中に不快な不気味さを漂わせていた。颯斗にはさっぱり理解できなかったが、何でもこの絵は病の苦痛に苛まれる患者を描いたものらしく、開始価格は十万リドルからだという。これが本当に、あの睦弥の作品なのだろうか。次々と上がる入札の声を聞きながら、颯斗は首を傾げた。目の前の絵に比べれば、最初に出会った時に見たあの少女の絵の方が、よっぽど好きだ。芸術的センスも審美眼もない颯斗だが、これだけは断言できる。もし一千万積まれても、この絵を家に飾るのだけは御免だ。夜中にトイレに起きた際、壁の絵に驚いて腰を抜かす自分が見える。結局、その絵は八十八万リドルで白髪のコレクターの手に渡った。八十八万でこんな絵を……颯斗は自分の想像を超えた世界に、思わず気圧されてしまった。「噂では、あの絵のモデルはルアンさんの恋人らしいぞ」その時、近くから話し声が耳に飛び込んできた。颯斗は狼の耳をピクつかせ、人々の噂話を聞き漏らすまいと集中する。「ああ。かなりの手練れだったらしくて、フォグレインの鬼鴉を全滅させたのは彼だっていう話だ」「ただ、その時の戦いで治らない病を患っちまったらしい。今回のオークションも、彼を救う資金集めのためにルアンさんが開催したんだとか」「苦難を共にした真実の愛ってやつだな」名もなき英雄。それはアルベインのことだろうか。どうやら、彼が重病だという話はここでは公然の秘密のようだ。この一年、睦弥がアルベインのために奔走してきた姿は誰もが目にしていた。睦弥の絵がこれほど注目を浴びているのも、アルベインという存在が大きな要因の一つなのかもしれない。そういえば、練がさっきから無反応だ。颯斗は口元を手で覆い、小声で呼びかけた。「練?練!アルベインには会えたか?おーい!」何度か呼びかけるが、脳内は死んだように静まり返り、返答はない。「練!?ちょっと、聞いてる!?どうしたんだ?今どこにいるの!?」焦燥に駆られた声が虚空に響き渡る。どれほど時間が経っただろうか、ようやくあの聞き慣れた声が戻ってきた。『……ここにい
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第62章

だが、そんな不気味な怪物を前にしても、睦弥の表情は平静そのものだった。恐怖の色など微塵も見せず、それどころか相手を宥めるように、静かにこう言った。「腹が減ったのか?焦るな、すぐに飯にありつける」辺りの空気はいっそう冷え込み、危険がいつの間にか忍び寄っていた。練は睦弥を凝視しながら、警戒を緩めることなく、じりじりと後ずさる。「ルアンさん、これは一体……」「すまない、牧師さん」睦弥は振り返り、闇の奥から練を見据えた。その背後では、アルベインという名の怪物が不穏に蠢いている。「だが、アルベインはもう空腹で限界なんだ。頼む、彼を救ってやってくれ」練はアルベインの足元に広がる白骨の山に視線を落とし、背筋に冷たいものが走るのを感じた。「あなたの言う『救い』ってのは、まさか私をあの骨の山の一部にするってことですか?」睦弥の瞳に、かすかな哀切の色が浮かぶ。「残念だが、他に方法がない。アルベインは僕にあまりにも多くのものを与えてくれた。金、名誉、地位。そして何より大切な、尽きることのないインスピレーションを」「インスピレーションだと?」練は睦弥の背後にいるアルベインを睨みつけた。いや、もはやその名で呼ぶのは適切ではないだろう。大量の鬼鴉を貪り食ったアルベインは、今やこの心界における最強の魘――『ディープコア』へと進化を遂げていた。ディープコア化した魘は、もはや単なる精神由来の投影体ではない。心界の構造そのものと結合し、患者の深層記憶と情動回路を直接書き換える存在――すなわち、心界において絶対的な力を誇る存在へとなり果てていたのだ。「それで、こいつをこの下水道で飼い慣らし、罪もない人々の命を好き放題に奪わせるのが、あんたなりの恩返しだって言うのですか?」「恩返し?」睦弥は首を横に振った。「僕とアルベインは、君が考えているような関係じゃありません」地響きのような揺れとともに、アルベインがその巨体を起こした。その時になってようやく、練はその腹部が鱗に覆われ、四本の爪が生えていることに気づく。だが、その姿をまじまじと観察している暇などなかった。怪物はすでに猛然と練に襲いかかっていたのだ。警戒していた練は、とっさに身を翻してその一撃を間一髪でかわす。しかし体勢を立て直す間もなく、太く長い尾が薙ぎ払うように迫ってきた。しまった、と直感した
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第63章

いつの間に、自分はこれほどまでに練に依存してしまったのだろうか。だが、こんな情けない自分が、果たして彼の「相棒」を名乗る資格などあるのだろうか。再び、練からの応答が途絶えた。アルベインとの応戦に余裕がないのか、あるいは自分を心配させまいと、あえて沈黙を守っているのか。いずれにせよ、練が絶体絶命の危機に瀕していることは間違いなく、自分はただ手をこまねいて見守ることしかできない。颯斗は無意識に拳を握りしめた。情けなさと苛立ちが渦巻く中、心の奥底でこんな声が聞こえた。――無駄な足掻きはやめろ。練ですら手に負えない相手に、何も知らないお荷物のお前が何をしたところで変わらないさ!「九十万、一回!」司会者の高らかな声が、颯斗の乱れた思考を引き戻した。彼はハッと顔を上げ、ステージ上で競りに出されている二枚目の絵に目を向けた。おぞましくも繊細な筆致で、今まさに繭から這い出そうとする蝶が生き生きと描かれている。まるで次の瞬間、絵の中から飛び出してきそうなほどの躍動感だ。「実に見事な傑作だ」不意に、すぐ耳元で低い声がした。颯斗が声の主を追うと、いつの間にかシルクハットを被った貴族風の男が隣に立っていた。男は目深に帽子を被っており、目は見えないが、高く通った鼻筋と精悍な横顔が伺える。颯斗がまじまじと観察していると、男は独り言のように続けた。「ある遠い国で、私も一人の画家に会ったことがある。その男が筆を一振りすれば、百花繚乱の景色から魑魅魍魎に至るまで、瞬く間に紙の上で実体となって動き出すのだ。私が描画の秘訣を尋ねると、彼は何と答えたと思う?」俺に話しかけてるのか?颯斗は男を見つめたまま、呆然と首を横に振った。「彼はたった一言、こう言った」男は帽子の端を少し持ち上げ、深淵のような瞳を覗かせた。「――『筆を糸とし、画を傀儡とす』とな」視線が交わった瞬間、颯斗の脳裏に電光石火の如く見覚えのある情景が浮かんだ。午後の陽光が複雑なステンドグラスを通り抜け、静かに祈りを捧げる男の背中を照らしている。この目鼻立ち、この佇まい……間違いない。練の心界で出会った、あの男だ。名前は、確か「テツ」といったはずだ。「おっと、ヒントを出しすぎたかな」男は口角を上げると、再び帽子を深く被り直し、音もなく数歩後退した。「待ってください、テ……」颯斗がその名を呼ぼうと口
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第64章

颯斗は何も答えなかった。ただ、絵の中で今にも弾けようとする繭を凝視し、一歩、また一歩と歩み寄ると、肺腑の底まで空気を吸い込むように深く息を継いだ。直後、彼は衆目を凍りつかせるごとき暴挙に出た。固く握りしめた拳を振り上げ、あろうことかその絵画へ、真っ向から叩きつけたのだ。拳撃はキャンバスを貫き、そこには無惨な風穴が開けられた。一瞬の静寂が満ち、次いで会場は蜂の巣をつついたような大騒乱に包まれた。時を同じくして、地下水道でアルベインと対峙していた練の肌にも、奇妙な波動が伝播した。次の刹那、アルベインは何かに触発されたかのように激しく身を捩り、地下道全体を震わせる鋭い咆哮を上げた。狂乱したアルベインの衝撃で、地下道は地鳴りを上げて揺らぐ。その巨躯を閉じ込める檻を破壊せんばかりに、幾度となく頭部を天井へと打ち付けたのだ。頭上からは瓦礫が降り注ぎ、濛々と立ち込める土煙の向こうで、石壁に無数の亀裂が走る。「牧師様、アルベインに何が起きたんですか!?彼は死んでしまうのですか?」睦弥は狼狽し、練の衣服の裾にしがみついた。「いや、外へ出たがっているんだ」練は血の混じった唾を吐き捨てる。言葉が終わるや否や、巨大な黒影が頭上から猛然と迫り来た。「危ない!」練は渾身の力で睦弥を突き飛ばしたが、自身はアルベインの突き上げを食らい、宙高く跳ね飛ばされた。落下の刹那、練は咄嗟に手を伸ばし、アルベインの表皮を覆う一枚の鱗を死に物狂いで掴み取った。アルベインがいかに狂乱し身を捩ろうとも、死んでも離すまいと指先にありったけの力を込める。衝突のたびに石壁の亀裂は広がり、宙吊りの体は激しく揺さぶられ、練の握力は限界に達しようとしていた。そして轟音と共に、ついにアルベインが天井を突き破る。練をその身にぶら下げたまま、地上へと飛び出したのだ。悲鳴と怒号が飛び交う中、大地は巨大な顎門を開いたかのように崩落し、逃げ遅れた人々を無慈悲に飲み込んでいく。恐慌を来す群衆を眼下に、アルベインは瓦礫と砂塵を纏いながら一気に空へと舞い上がり、練を遥か高みへと連れ去った。非情にも、その時は訪れた。ガチリ、と不吉な音を立て、練が掴んでいた鱗が根元から浮き上がったのだ。(嘘だろ……)練の背筋に戦慄が走る。見れば、掴んでいる箇所のみならず、アルベインの全身の鱗が次々と剥落し始めていた。も
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第65章

「馬鹿な狼だな、お前のせいじゃない……っ!」颯斗の舌が胸元を掠めた瞬間、練は思わず声を漏らし、深く息を呑んだ。練に言葉を挟ませまいとするかのように、柔らかな舌が執拗に露出した胸の尖りを弄ぶ。敏感なそこは、舐め回されるうちにぷっくりと円く潤い、硬く屹立して水光を放った。ほどなくして、練の胸元はぐっしょりと濡れそぼってしまった。その不埒な狼の爪が、ついに練の臀部の割れ目へと滑り込んだ時、練は驚いてその手をがっしりと掴んだ。「何を考えてる!?」「深層治療を……あだっ!」言い終わる前に、練の二本の指が颯斗の眼窩を容赦なく突いた。「何が治療だ!どさくさに紛れて俺の体を貪ろうとしただろう」「だって、間違ってないでしょ?練だって前はあんなに……」颯斗は顔を押さえ、心外だと言わんばかりの顔で練を見つめた。練は平然と衣服を整え、軽やかに立ち上がる。不思議なことに、彼の傷はすでに大半が塞がっていた。流石は練だ。回復の速度まで常人離れしている。颯斗が本番を始める前に終わってしまうとは、なんとも虚しい治療であった。「時と場合を考えろ。今、どんな状況か分かっているのか!?」練は両手で颯斗の顔を挟み込み、その狼の頭を無理やり別の方向へと向けさせた。夜空の下、細長くしなやかな尾を引きずり、頭には一対の触角を戴き、鬼鴉のような鋭い嘴を持つ巨大な怪物がいた。その背には蝶のように妖しく絢爛な羽が広がり、深紅の眩い光を放っている。その巨躯は颯斗と練の存在に気づいたかのように、凄まじい咆哮を上げ、こちらへ向かって猛スピードで急降下してきた。「来るぞ、構えろ!」練が緊張した声で叫ぶ。危機一髪の瞬間、颯斗も息を呑み、精神を集中させた。尾が間近に迫った瞬間、時間の流れが不自然に遅くなる。練は颯斗の項を掴み、翻ってその背に跨った。風を切る音が響いた時には、颯斗は空中で鮮やかな宙返りを決めていた。先ほどまで二人がいた場所は、アルベインの尾によって無残に粉砕されていた。攻撃が空振りに終わったことで、アルベインは怒り狂い、咆哮とともに羽、爪、尾を交互に振り回し、怒涛の勢いで襲いかかってきた。その攻撃は疾風迅雷のごとく、目にも留まらぬ速さだったが、颯斗はそれらすべてを紙一重で回避する。高低差のある屋根や街路樹を跳ね回り、最後は広場の中心にどっしりと着地した。「危なかった……
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第66話

薄暗い地下室で、睦弥はイーゼルの前に座っていた。額からはびっしょりと汗が噴き出している。小鎮の上空には人々の悲鳴と怪物の嘶きが交錯していたが、睦弥はそれらに一切耳を貸さず、震える手で筆を握り、キャンバスの上を走らせていた。画面の中では、一艘の小舟が静かな湖面に浮かんでいる。遠くの青々とした山並みも、深い森も、すべて睦弥の記憶にある通りの光景だった。焦燥に満ちた空気の中、眉尻を伝って落ちた汗が目に入り、視界が水霧に覆われる。その滲んだ視界は、ゆっくりと五年前の記憶へと重なっていった。それは、睦弥が初めて奏を自分の作品に描き込んだ時のことだ。当時、睦弥は作風の転換を考えていた。出版社に四回もネームを送ったが、結果はすべて落選。相次ぐ挫折と打撃の中で、睦弥は深い自己嫌悪に陥っていた。自分はこの業界に向いていないのではないか、絵を描くこと自体が間違いだったのではないかとさえ思い詰めていた。そんな状況が、奏の出現によって一変した。当初、奏はただのアシスタントだった。しかし、あまりに睦弥の生活能力が低いのを見かねて、奏は睦弥の家に住み込み、身の回りの世話を焼くようになった。長い時間を共に過ごすうちに、二人の間には自然と恋心が芽生えていった。奏の説得もあり、睦弥は痛みをこらえて決断した。得意としていたファンタジーを捨て、当時流行していたBL作品に挑戦することにしたのだ。創作の資料集めと気分転換を兼ねて、二人は絵のように美しい湖畔の避暑地を訪れた。昼間は二人で街を歩き回ってネタを探し、夜は湖畔のコテージに戻って、議論を重ねながらペンを走らせる。そうして一ヶ月が経った頃、睦弥はようやく五度目のネームを書き上げた。「……どうかな」睦弥は、恋人でありマネージャーでもある奏の顔を不安げに覗き込んだ。奏が手にしているのは、睦弥が三晩徹夜して仕上げた最新のネームだ。もしこれでも駄目なら、今度こそ本当に筆を折るつもりだった。「……信じられない」ネームを読み終えた奏は、長く深い溜息をついて顔を上げた。「睦弥先生、これ、本当に先生が描いたんですか」睦弥は一瞬、呆気に取られた。「え?」「あ、誤解しないでください。疑ってるわけじゃないんです」奏は言葉の足らなさに気づき、慌てて頭を下げた。「あまりに作風が変わっていて、古参ファンの僕でも一瞬誰の作品か分からないくらい驚いた
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第67話

幸いなことに、五度目のネームは無事に審査を通過した。 出版社側からのフィードバックは「設定が斬新で、キャラクター造形が非常に生気にあふれており、感情描写が繊細である」というものだった。 担当編集の提案で大がかりな修正こそ加わったものの、どうにか成功への軌道に乗ることができたのだ。 それ以来、睦弥のキャリアはロケットのごとく急上昇し、破竹の勢いで突き進んでいった。新連載は大好評を博して瞬く間に人気が沸騰し、SNS上でも睦弥は「美少年漫画家」として世間の注目を集めるようになる。 一度目があれば、二度目、三度目もあった。その後、睦弥は何度も何度も奏を作品に描き込み、彼を「画中の人」へと変えていった。 奏も最初は半信半疑だったが、やがてそれが日常となり、最後には喜んでそれを受け入れ、その役割を享受するようになった。 睦弥が望む姿に、奏がなりきる。たとえ傍目には、二人の互いに対する認識が常軌を逸しているように見えたとしても、睦弥にとってはそれこそが彼と奏の「真実」だったのだ。 今のアルベインと同じように。鬼鴉との戦いの中で幾度も変容を遂げ、もはや原形を留めていない今の彼は、果たして本来の自分を覚えているのだろうか。 バリバリッ、と不意に響いた雷鳴に睦弥の手が跳ね、筆が床に落ちた。その衝撃が睦弥の意識を現実に引き戻す。 屋外では激しい雨が降り注ぎ、怪物の嘶きがいまだに小鎮の上空に木霊している。 睦弥は必死に耳を貸すまい、気にすまいと自分に言い聞かせていたが、アルベインの声が響くたびに、それが自分自身の手で創り上げた「最高傑作」であることを突きつけられるようだった。 睦弥は腰をかがめ、床の筆を拾おうとした。しかし、その手は制御不能なほど震え、目と鼻の先にあるはずの筆に、どうしても指が届かなかった。&nbs
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第68話

激しい雨が無情にも血痕を洗い流していく。 フォグレインの広場は、度重なる激闘と衝撃によって大地が引き裂かれ、いたるところに無残な爪痕が残されていた。 瓦礫の山と化した廃墟の中で、颯斗はいまだにアルベインと死闘を繰り広げ、一進一退の攻防を続けていた。 練が去ってから、どれほどの時間が経っただろうか。練は立ち去り際、「俺が戻るまで、必ず持ちこたえてくれ」とだけ言い残した。 颯斗はあの時、自信満々に「任せてください」と答えたものの、肝心の練はいまだに姿を見せない。 だが、これまでの経験を経て、今の颯斗は以前よりも冷静だった。練なら必ず睦弥を説得できると信じていたからだ。 そして自分も練を失望させたくはない。何があろうと、この怪物をこれ以上睦弥に近づけさせはしない。 しかし、アルベインは流石に心界の支配者というべきか。たとえ弱体化しているとはいえ、その体内に秘められたエネルギーは世界を滅ぼしかねないほど強大だった。 狼の姿である颯斗は、リーチや高さにおいてどうしても不利を強いられる。おまけに練が不在の今、一瞬の油断も許されない。 颯斗は持ち前の身軽さと、まだ使い慣れない拘束系のスキルを駆使して攻撃を回避し続け、好機を待った。 時間が経つにつれ、町はアルベインの手によって見る影もなく破壊されていった。颯斗が「あとどれくらい持つか……」と不安に駆られたその時、不意に雨が止んだ。 雨雲が晴れ、赤く染まった空に一条の光が差し込み、リード大陸では滅多に拝めない太陽の光が降り注いだ。 (夜が明けたのか?) そう思った瞬間、颯斗はフォグレインの方向に異常な輝きがあることに気づいた。 
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第69話

九月五日。その日は雲一つない快晴で、空はどこまでも澄み渡り、日差しもそれほど毒々しくはなかった。 空港へと続く高速道路。 助手席に座る練は窓を全開にし、秋の気配を含んだ涼やかな風に短い髪をなびかせていた。 「おい。高速に入ったんだ、もう少しスピードを上げたらどうだ?」 練は窓枠に肘をつき、隣の男にけだるげに問いかける。 「話しかけないで!俺がよそ見して事故起こしたらどうするんだ?」 颯斗はハンドルを握りしめ、まるで不倶戴天の敵を前にしているかのように前方を凝視していた。 上司である練のムチに打たれ、この一か月で颯斗は必死に免許を書き換えた。だが新米ドライバーの彼は、ろくな路上経験もないまま、練に半ば強引に高架道路へと引きずり出されたのだ。 今の彼は緊張のあまり呼吸することさえ忘れそうで、掌は汗でびっしょりだった。ほんのわずかな油断が悲劇を招くのではないかと、生きた心地がしない。 練という男は、いつもこうだ。仕事に無駄がなく、口数も少ない。理屈をこねる前にまず行動する。 かつて颯斗が心界について何一つ知らず、ソウル・エージェントが何者なのかも分かっていなかった時でさえ、練は説明など一切せず、有無を言わさず彼の潜在意識へ踏み込んできた。 そんな練と相棒を組む以上、超人的な適応力が求められる。臨機応変に動き、窮地にあっても泰然自若としていること――それが条件だ。 練と最初の任務を完遂したあの日、颯斗はその意味を痛いほど思い知らされた。 あの日、二人が睦弥の心界を離れた時、空は白み始めていた。その三十分後、睦弥もまた深い眠りから目を覚ました。 練はすぐに奏へ電話をかけようとしたが、睦弥はそれ
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