結局、練は明確な答えを明かそうとはせず、ただ颯斗自身で考えるよう促しただけだった。帰路の途中、颯斗は脳裏でその問いを幾度となく反芻していた。そこで、ふと気づく。今日、練が自分を連れ出したのは、単なる再診の付き添いが目的ではなかったのかもしれない。むしろこの一件を通じて、自分に何らかの示唆を与えようとしているのではないか、と。それから数日、颯斗は仕事と教習の合間を縫っては、ミュンヒハウゼン症候群や代理ミュンヒハウゼン症候群に関する膨大な資料をインターネットで渉猟し、図書館へも足繁く通った。日々の移動だけでもかなりの時間を費やす慌ただしい毎日だった。地下鉄やバスに揺られる所在ない時間には、スマートフォンでN.Nの漫画を読んで過ごすのが常だった。ある日、颯斗はN.Nの出世作である『深海』を改めて繙き始めた。この作品を境に、N.Nの作風は百八十度もの大転換を遂げたのである。正直なところ、初めて目にした時はほとんど理解できなかったのだが、今改めて読み返してみると、意外なほどすんなりと内容が頭に入ってきた。『深海』の物語そのものは、ことさら複雑なわけではない。二人の主人公、その一方は自閉症を患い、もう一方は「社交飢餓」とでも言うべき状態にある。正反対の性格を持つ二人が、一連の愛憎劇の果てに、互いを傷つけ合う関係から救済し合う関係へと変貌を遂げていく物語だ。物語自体に高尚さはなくとも、意識の流れを汲んだ映画的なコマ割り、大胆かつ前衛的な構図、そして叙情詩のように美しい台詞が、ともすれば陳腐なメロドラマになりかねない筋書きを、見事に芸術の域へと昇華させていた。だが、なぜだろう。読了後、颯斗の胸には言い知れぬ不快感がさざ波のように広がった。何か得体の知れない澱が、言葉にならない鬱屈となって胸の内にわだかまる。その正体を探るべく、颯斗はふとレビューサイトで『深海』の評価を検索してみた。案の定、その画才に対しては、ほとんどの人間が賛辞を惜しまなかった。もちろん賛否はあり、議論の的は主に物語と登場人物に集中していた。そんな中、一際多くのコメントを集めるある批判的なレビューが、颯斗の目に留まった。「みんな自閉症の『受け』を不憫がり、『攻め』を薄情だと非難しているけれど、私に言わせれば、この受けは攻めを精神的に支配しているだけではないかしら。愛しているだの、
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