All Chapters of 美人上司に甘やかされる毎日が、残業よりつらい: Chapter 51 - Chapter 60

130 Chapters

第50話

結局、練は明確な答えを明かそうとはせず、ただ颯斗自身で考えるよう促しただけだった。帰路の途中、颯斗は脳裏でその問いを幾度となく反芻していた。そこで、ふと気づく。今日、練が自分を連れ出したのは、単なる再診の付き添いが目的ではなかったのかもしれない。むしろこの一件を通じて、自分に何らかの示唆を与えようとしているのではないか、と。それから数日、颯斗は仕事と教習の合間を縫っては、ミュンヒハウゼン症候群や代理ミュンヒハウゼン症候群に関する膨大な資料をインターネットで渉猟し、図書館へも足繁く通った。日々の移動だけでもかなりの時間を費やす慌ただしい毎日だった。地下鉄やバスに揺られる所在ない時間には、スマートフォンでN.Nの漫画を読んで過ごすのが常だった。ある日、颯斗はN.Nの出世作である『深海』を改めて繙き始めた。この作品を境に、N.Nの作風は百八十度もの大転換を遂げたのである。正直なところ、初めて目にした時はほとんど理解できなかったのだが、今改めて読み返してみると、意外なほどすんなりと内容が頭に入ってきた。『深海』の物語そのものは、ことさら複雑なわけではない。二人の主人公、その一方は自閉症を患い、もう一方は「社交飢餓」とでも言うべき状態にある。正反対の性格を持つ二人が、一連の愛憎劇の果てに、互いを傷つけ合う関係から救済し合う関係へと変貌を遂げていく物語だ。物語自体に高尚さはなくとも、意識の流れを汲んだ映画的なコマ割り、大胆かつ前衛的な構図、そして叙情詩のように美しい台詞が、ともすれば陳腐なメロドラマになりかねない筋書きを、見事に芸術の域へと昇華させていた。だが、なぜだろう。読了後、颯斗の胸には言い知れぬ不快感がさざ波のように広がった。何か得体の知れない澱が、言葉にならない鬱屈となって胸の内にわだかまる。その正体を探るべく、颯斗はふとレビューサイトで『深海』の評価を検索してみた。案の定、その画才に対しては、ほとんどの人間が賛辞を惜しまなかった。もちろん賛否はあり、議論の的は主に物語と登場人物に集中していた。そんな中、一際多くのコメントを集めるある批判的なレビューが、颯斗の目に留まった。「みんな自閉症の『受け』を不憫がり、『攻め』を薄情だと非難しているけれど、私に言わせれば、この受けは攻めを精神的に支配しているだけではないかしら。愛しているだの、
Read more

第51話

颯斗は内心息を呑み、ニュース記事を素早く目で追った。奏が見知らぬ女性とホテルへ出入りする姿が何者かに盗撮され、その写真がN.Nのファンコミュニティに投稿されたらしい。投じられた一つの石が起こした波紋のように、その一件は瞬く間にSNS上で大きな騒動へと発展していた。「今やこの一件で、トレンド入りまでしている」練はそう言いながら地下駐車場へと向かった。「睦弥が心配で、さっきから何度も電話やメッセージを送っているんだが、一向に返信がない」その険しい表情から、颯斗は事の重大さを痛感させられた。「記者からの電話を嫌がって、一時的に電源を切っているだけでは?」「電源が切れていれば、その旨を伝えるガイダンスが流れるはずだ。それに、俺がかけているのは睦弥の個人用のスマートフォンだ」練はかぶりを振った。睦弥ほどの有名人ともなれば、多忙を極めるがゆえにスマートフォンを二台持ち歩くのも不思議ではない。仕事用と、プライベート用と。こうした事態で仕事用の電源を落とすのは理解できる。だが、個人用まで繋がらないというのはどうにも腑に落ちなかった。練がこんな夜更けに飛び出してきたのも当然だろう。睦弥の身に何かあったのではないかと、本気で案じているのだ。「ただ単に、着信に気づいていないだけかもしれない。俺ももう一度かけてみる」練と共に車へ乗り込むと、颯斗は自身のスマートフォンを取り出し、睦弥の番号を呼び出した。やはり、最初の数回は応答がなかった。スピーカーモードに切り替えたスマートフォンから無機質な呼び出し音が流れ、静まり返った車内に虚しく響き渡る。その音が、かえって胸の内の不安を煽るようだった。諦めきれない颯斗は、何度も執拗にリダイヤルを繰り返した。練が駐車場を出て十分ほどが過ぎた頃だろうか。その粘りが功を奏し、不意に呼び出し音が途切れて電話が繋がった。「……もしもし」スピーカーから、ひどく疲れ切った声が聞こえてきた。「もしもし、鳴海です」睦弥の声だとわかった瞬間、颯斗は安堵のあまりスマートフォンの筐体を強く握りしめた。「先生、今どちらですか」「……僕?」睦弥は力なく応じる。「家にいますが。何か御用ですか」「先生、お加減は大丈夫ですか」颯斗はちらりと練に視線を送る。練が静かに頷くのを確認し、颯斗は言葉を続けた。「今、霧生さんとご自宅へ向かっているところ
Read more

第52話

練と颯斗が睦弥の自宅マンションの下に到着した時、時刻は既に夜の八時四十五分だった。ここへ来る道中、颯斗は合間を縫って不倫騒動に関するニュースやコメントを検索していた。予想外だったのは、事件がわずか数時間で急速に炎上していたことだ。今やSNS上では、奏に対する一方的な批判に加え、睦弥に対する嘲笑や皮肉まで現れ始めていた。例えば、睦弥は顔と炎上商法でのし上がったとか、新刊が出るたびに整形やカミングアウトなどのスキャンダルが出るとか言われている。さらに、今回の不倫暴露も話題作りのための意図的な売名行為で、発売されたばかりの新作の注目度を上げるためではないかと推測する者までいた。次々と湧き出る悪意に満ちた書き込みを目にして、颯斗の不安は募るばかりだった。ただでさえ睦弥の精神状態は限界に近いというのに、もしこんな言葉を目にしてしまったら、それこそ追い打ちをかけることになるのではないか。そんなことを考えているうちに、練と颯斗は睦弥の家の玄関前に着いた。颯斗はドアをノックし、「N.N先生」と何度か呼びかけたが、返事はなかった。「いないのかな? 先生、出かけてるのかな」颯斗は戸惑った表情を見せた。練は無言でスマホを取り出し、睦弥に電話をかけた。発信ボタンを押して一秒後、部屋の中から着信音が聞こえてきた。ドア越しでも、それが睦弥の携帯の音だと、二人にははっきりと分かった。しかも音は近く、反響しているように聞こえる。いち早く反応したのは練だった。彼は強張った声で言った。「浴室だ。音がバスルームから聞こえる」「えっ!?」颯斗も焦り、ドアに耳を押し当てた。「でも水音がしないし、お風呂に入ってるわけじゃなさそうだよ」「まずいな」練は顔色を変え、低い声で言った。「管理会社の人を呼んで鍵を開けてもらえ!」「すぐ行ってくる!」颯斗も事態の深刻さを察し、すぐにきびすを返してエレベーターへと走った。一方、練は数歩下がると、勢いよくドアを蹴りつけ、中に向かって叫んだ。「星野先生! 霧生だ! 中にいるなら返事をしろ!」しかし、睦弥の家のドアはあまりにも頑丈で、練がどれだけ蹴ってもびくともしなかった。五分後、颯斗が管理会社のスタッフを連れて戻ってきた。練が責任を持つと再三説得した末、スタッフはマスターキーでドアを開けた。ドアが開くや否や、練は浴室へ直行し、そ
Read more

第53話

練は、あっけにとられていた。缶を握りしめたまま、目の前の男がまるで別人に変じてしまったかのような、奇妙な感覚に襲われる。練がしばし呆然としているのを、承諾をためらっているのだと解釈したのか。颯斗はさらに突飛な行動に出た。あろうことか、颯斗は練の前に片膝をつくと、先ほど練が買い与えたばかりの缶コーラを恭しく捧げ持ち、真剣な眼差しで練を見つめて言った。「弟子入り……してくれないかな」練の思考は、一瞬にして白く染まった。白昼堂々、衆人環視のなかで跪かれたことなど、生まれてこのかた一度もない。三秒ほど立ち尽くしていただろうか。周囲のざわめきが耳に届き、好奇の視線が突き刺さるのを感じて、ようやく我に返った。常に感情を殺しているその貌に、珍しく焦燥の色が浮かんだ。「早く立て」練は動揺を隠すように顔を覆い、声を潜めて窘めた。「みっともない。ドラマの撮影のつもりか」「承諾してくれるまで立たない」颯斗は頑として譲らない。練は、こめかみに鈍痛を覚えた。「わかった、わかったから。約束する。だから、とりあえず立て。これ以上、恥をかかせないでくれ。頼む」颯斗はぱっと顔を輝かせると、ようやく立ち上がり、上機嫌にプルタブを弾いた。自分のコーラを練の缶にこつんと軽く打ちつけ、勢いよく一口呷る。「約束だからな!」「わかったと言ってるだろう!大声を出すな。お前は平気でも、俺は恥ずかしいんだ」颯斗の腕をぐいと引いて座らせ、練は顔を横に向けて、隣の男を改めてじっくりと観察した。整ってはいるがどこか武骨な輪郭。人懐こく柔和な目元は、近所の兄貴といった気安さを感じさせる。さっぱりとした短髪からは、場違いなアホ毛が数本、ぴんと跳ねていた。颯斗と知り合ってしばらく経つが、練はこれまで彼をまじまじと見つめたことはなかった。練の怜悧な審美眼をもってすれば、颯斗は息を呑むほどの美貌の持ち主というわけではないからだ。第一印象を点数化するならば、百点満点で、辛うじて及第点といったところか。だが、と練は認めざるを得ない。颯斗の顔立ちは、見るほどに味わいを増す類のものなのだ。特にその笑顔は、さながら分厚い雲の切れ間から射し込む一筋の陽光のようだ。焼き尽くすほどの苛烈さはないが、そこには何物にも代えがたい温もりがあった。「師匠……」颯斗が練を見つめて言う。「その呼び方はやめろ」練は口元を引き
Read more

第54話

奏は練と颯斗のもとへ歩み寄り、血走った目で二人を睨みつけながら、喉の奥から掠れた声を絞り出した。「睦弥は……どうなったんだ」「リストカットだ」正面に立つ練の声は冷え切っていて、そこには一片の温度もなかった。奏の視界が暗転する。ただでさえ悪かった顔色が、みるみる土気色に変わっていく。「だが、駆けつけるのが早かった。今は救命処置中だ」颯斗は内心にわだかまりを抱えつつも、この旧友に対してはまだわずかな情が残っていたのだろう。奏の肩を抱き、ベンチへと座らせた。「奏、一体どういうつもりなんだ。あんな状態の先生を、どうして一人で家に置いてきた。今ネットがどれだけ荒れてるか、知らないわけじゃないだろ」「知ってるに決まってるだろ!」堪忍袋の緒が切れたように、奏は怒鳴り声を上げた。待合スペースにいた全員がぎょっとして振り返る。「俺にどうしろって言うんだ!あいつが自分で招いたことだろ!」奏は拳を固く握りしめ、目尻を裂くほどに見開いて、一語一語を叩きつけた。「すみません、もう少しお静かにしていただけますか」看護師が近づいてきて、控えめに声をかけた。だが奏は狂犬のように「失せろ!」と吠え、裏拳で彼女を突き飛ばした。悲鳴が上がり、周囲の人々は疫病神を見るかのように怯え、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。練は即座に身を乗り出し、倒れかけた看護師を抱き留めて転倒を防ぐ。その隙に、颯斗が背後から奏に飛びつき、両腕を羽交い締めにした。練は眉をひそめた。激しく揺れる奏の瞳の奥で、何か黒いものが蠢いているのを感じ取ったのだ。練は躊躇なく歩み寄ると、奏の頬を強く挟んで口をこじ開け、懐から取り出した錠剤を素早く放り込んだ。さらに耳元へ顔を寄せ、聞き取れないほどの小声で何事かを囁く。その瞬間、奏の瞳孔が急激に開き、抵抗の力が一気に抜けて、ぐったりと練の胸にもたれかかった。十分後、奏はようやく完全に落ち着きを取り戻し、疲労困憊の様子でベンチに身体を預けていた。颯斗はまだ高鳴る動悸を抑えきれない様子で奏を見やり、それから練に視線を移す。練は顎に手を当て、かつてないほど険しい表情を浮かべていた。「練、奏のやつ……一体どうしちまったんだ。まるで別人が乗り移ったみたいだったぞ」「おそらく、睦弥の自殺未遂の衝撃が大きすぎたんだろう。精神状態が極端に不安定になっている。
Read more

第55話

ふと、颯斗は言い知れぬ喪失感に囚われた。「俺たちは相棒だろ。そう言ったのは練じゃないか。それとも何か?俺じゃ頼りなくて、信用できねえとでも言うのか?」「お前というやつは……たまに、どうしようもなく鬱陶しい」練はうんざりしたように額を押さえ、ため息を落とした。鬱陶しい!?脳天を貫くような衝撃。颯斗は青天の霹靂にでも打たれたかのごとく、見るからにしおなだれた。「鬱陶しい」の一言に撃沈され、部屋の隅でいじける颯斗を尻目に、集中治療室の方でようやく動きがあった。手術室の扉が開いた途端、先ほどまでベンチで死んだように身を横たえていた奏が、弾かれたように飛び起きて入り口へと駆け寄る。ストレッチャーに乗せられた睦弥が運び出されてきた。搬送された時とは打って変わり、その顔には血色が戻っている。どうやら手術は成功したらしい。「睦弥!」奏は睦弥のそばへ駆け寄り、その手を握ろうとしたが、すぐさま傍らの看護師に制止された。「落ち着いてください。患者様は術後間もないため、まだ衰弱しておられます。ご家族の方でしたら、こちらで入院の手続きをお願いいたします」「あ……は、はい」奏はうわの空で頷いた。「ついて行ってやれ。また何かやらかされると面倒だ」練が低い声で颯斗に告げた。「了解」颯斗は頷くと、奏の後を追ってその場を離れた。颯斗の姿が見えなくなると、練はポケットからスマートフォンを取り出し、連絡先画面を開いた。ある名前のところでスクロールを止め、親指を宙で数秒彷徨わせた後、意を決したように画面に触れた。聞き慣れた呼び出し音が耳元で鳴り響いた瞬間、練の指先は氷のように冷たく強張った。『もしもし?』電話口から、低く魅力的な声が聞こえてきた。練は一つ深呼吸をして、告げた。「俺だ」受話器の向こうで一瞬の沈黙が流れ、やがてくぐもった笑い声が漏れた。*颯斗は奏に付き添い、睦弥の入院手続きに向かった。鎮静剤が効いているのか、道中、奏が騒ぎ立てることはなく、颯斗は安堵の息を漏らした。睦弥はすでに生命の危機を脱していたが、念のためあと三日は入院し、経過を観察する必要があった。外部からの刺激による精神的負担を避けるため、奏のたっての希望で、病院側は睦弥のために特別個室を用意した。案の定と言うべきか、二人が手続きを終えた矢先、病棟の入り口付近
Read more

第56話

「記事のことか?」颯斗は一瞬言葉に詰まったが、すぐに合点がいった。奏が口にしているのは、自分が女性とホテルへ入るところを撮られた、あの件に違いない。颯斗は困惑し、口ごもった。まずい――。本当のことを話すべきか否か、内心で激しく葛藤する。下手に口を開いて奏を刺激し、言い争いにでもなれば、たちまちあの記者どもに嗅ぎつけられ、逃げ場を失うだろう。「今はそんな話をしている場合じゃない。また今度にしよう」颯斗はそう言って話を逸らそうとした。「いやだ!」奏は咄嗟に颯斗の手を掴んだ。「頼む、知りたいんだ」意表を突かれた颯斗は、その澄みきった瞳を見つめ返した。「どうしても、今でなければだめか」「ああ。今、この場で」奏は懇願するような眼差しで彼を見つめた。「教えてくれ。お前の目には、俺がどんな人間に映っているんだ」颯斗は諦めたように息を吐いた。「わかった。正直、今の奏のことはよくわからない。だが、大学時代のことは覚えている。バスケ部のキャプテンで、人望が厚くて女子にもよくモテた。誰もが何か困ったことがあると、決まってお前に相談を持ちかけていたな」「俺が……そんな人間だったと?」奏は訝しむように眉根を寄せた。「当たり前だ。お前に世辞を言って、俺に何の得がある」そこまで言って、颯斗はふと何かを思い出したように、ぽんと手を打った。「そうだ。覚えているかわからないが、大学三年の時、みんなでキャンプへ行ったのを憶えているか?」「キャンプ……?」奏は小首を傾げて記憶を辿る。「廃工場を探検した、あの時のことか」颯斗はぱっと顔を輝かせ、大きく何度も頷いた。「そう、それだ!あの時、みんなで手分けして行動することになって、俺とお前は二人組だっただろう」その言葉に、奏の瞳にも徐々に光が戻ってきた。「……ああ、思い出した。たしか、あの日は午前中の快晴が嘘のように、午後から空が急変して土砂降りになったんだ」颯斗は彼の言葉を引き継いだ。「俺たちは廃工場の二階のテラスで雨宿りをしていたんだが、足元の階段が突然崩れ落ちて、二人して地面に叩きつけられた。俺は足を捻挫して動けなくなり、お前がずっと背負ってくれた。みんなと合流して初めて気づいたんだ。お前の足も、ひどく腫れ上がっていた。実はお前も捻挫していたのに、俺を気遣って痛いとも言わなかった」その話に、奏の目元がわずかに和
Read more

第57章

これまで颯斗は、練と共に奏と睦弥の関係に一定の介入をしてきたものの、所詮は当事者ではない。すべてを理解しているなどと口が裂けても言えず、二人の感情のもつれに上から物を言うつもりも毛頭なかった。それに、直感ではあるが、あの澄んだ瞳を取り戻し、冷静な判断ができる今の奏であれば、睦弥との間に横たわる問題もきっと乗り越えられるはずだ。双方が冷静でさえいれば、事態がこれ以上悪化することはないだろうと、そう信じていた。しかし、恐れていた事態はついに現実のものとなった。睦弥の自殺未遂は瞬く間にSNSで拡散され、奏の不倫騒動と相まって、連鎖爆発のごとき巨大な反響を呼んだのだ。それから数日間、奏はメディアの執拗な追及を振り払いながら、睦弥の傍らで看病に明け暮れた。睦弥は手術後に一度、束の間だけ意識を取り戻したものの、再び深い昏睡状態へと陥ってしまった。このままでは、奏の方が先に壊れてしまう。病室の入り口に立ち、日に日にやつれて頬のこけていく奏を案じながら、颯斗は思わず溜め息を漏らした。すでに三日目の深夜だというのに、睦弥は依然として目を覚まさない。今日の昼間、睦弥は一瞬だけ目を開いた。だが、奏がいくら耳元で呼びかけても、その瞳は虚ろに宙を彷徨うばかりで、まるで魂が抜け落ちたかのように何の反応も示さなかったのだ。病室の隅には、ファンから睦弥へ贈られた花束や千羽鶴が、山のように積み上げられていた。ところが昨日、颯斗は耳を疑うような報せを受けた。奏が病院の入り口で、何者かに硫酸をかけられそうになったというのだ。幸い、そばにいた警備員が素早く犯人を取り押さえたため惨事には至らなかったものの、一歩間違えば取り返しのつかない事態に陥っていただろう。颯斗は奏に、ここ数日は外出を控え、家から一歩も出ぬよう忠告した。しかし奏は首を横に振り、頑として睦弥の病室を離れようとはしなかった。刻一刻と時間は過ぎ、日付が変わるまであと五分。颯斗の懸命な説得がようやく功を奏し、奏は重い腰を上げて病室を後にした。颯斗は半ば強引に奏の腕を引いて病院の玄関まで連れて行くと、タクシーを拾い、睦弥と暮らす自宅へと送り届けた。病院を離れた途端、奏はまるで魂の抜け殻のようになり、颯斗が支えなければ一歩も前に進めない有様だった。家に着く頃には、奏は意識を手放す寸前まで疲れ果てていた。颯斗は彼をベ
Read more

第58章

「どうした?何か見つけたのか」練が訊ねる。颯斗は、一枚の原稿を前にして息を呑んだ。そこに描かれた光景が、脳裏に焼き付いて離れない、あの場面そのものだったからだ。深い霧が立ち込める夜更け。白銀の鎧を纏い、深紅のマントを翻す男が、傲然とそこに立ち尽くしている。その眼前には、空を埋め尽くさんばかりの黒い怪鳥の群れが蠢いていた。「あ……アルベイン?」我知らず声が漏れる。颯斗は信じられぬものを見るかのように目を見開き、その絵を幾度となく見返した。そこに描かれているのは、紛れもなくアルベイン。そして、あの黒い鳥は「鬼鴉」に違いなかった。「アルベインが、どうしたというんだ?」電話の向こうで、練が戸惑いの声を上げた。状況を飲み込めずにいるのだろう。「原稿だ!N.N先生の原稿の中に、アルベインがいたんだよ!」颯斗はそうまくし立てると、床に散らばる原稿の山を掻き分け始めた。「アルベインだけじゃない。鬼鴉も、リド大陸も、フォグレインの街も……牧師と狼まで……」呟きながら、颯斗は他にも数枚の原稿を次々と手繰り寄せた。それらを時系列に沿って並べてみれば、登場人物はおろか、物語の筋書きまでもが、自分たちが睦弥の心界で経験した出来事と寸分違わず一致していた。電話の向こうの練は、光景を目の当たりにせずとも瞬時に事態を悟ったのだろう。やがて、思案するような声が返ってきた。「つまり……俺たちが心界で経験したことはすべて、睦弥が描いた物語だったということか?俺も、お前も、奏でさえも、物語の登場人物に過ぎなかったと」「ああ、間違いない。N.N先生の漫画は粗方読んできたが、こんな作品が世に出た記憶はない」「ボツ原稿だろうな。この手の題材は、初期の睦弥が得意としたジャンルだ。この作品を描いていた頃、彼はちょうど作風の転換期にあったのかもしれない」ふと、ある考えが颯斗の脳裏をよぎった。「だとしたら……もしこの漫画の続きを見つけて、次に何が起きるか事前に知ることができれば、また心界に入った時に僕たちが圧倒的に有利になるんじゃないか?」「有利どころか、反則技だな。無論、見つかればの話だが」「すぐ探す!」それだけ言い放つと、颯斗は一方的に電話を切り、再びうずたかい原稿の山へと分け入った。通話の切れたスマートフォンを眺め、練はひとつ溜息を落とす。次の瞬間、彼は猛然
Read more

第59章

夕陽の残照が、黄昏時のフォグレインの街を血のように禍々しく染め上げていた。通りを歩く颯斗は、行き交う人々の喧騒に、束の間、現実の感覚を失いかける。前回、睦弥の心界に訪れた際のフォグレインは、寂として冷え切った街であった。だが、今この目に映る街は、以前とは比べものにならぬほど活気に満ち、通りには馬車や人々が溢れかえり、露店がずらりと軒を連ねている。「いい匂いだ……」道端から漂う肉の焼ける香ばしい匂いが、颯斗の食欲を否応なく刺激し、口の内にじわりと唾が湧く。彼は周囲を窺い、誰も見ていない隙に、つややかに脂の乗ったローストチキンへ手を伸ばしかけた。だが、その瞬間、すかさず練にぴしゃりと手首を叩かれた。「この食いしん坊狼。きょろきょろと、何を油を売っている」牧師の装束に身を包んだ練の細められた目が、射るように颯斗を捉えた。口の端にたまった唾を、颯斗は慌ててずるりと啜る。「いや、そんなことは。話の続き、ちゃんと聞いてる」「ほう?」練は腕を組み、疑念に満ちた眼差しを向けた。「では、俺が今何と言ったか、言ってみろ」颯斗の心臓がどきりと跳ねた。職務怠慢を上司に咎められた部下さながら、颯斗はきまり悪く視線を彷徨わせる。「ええと、つまり……ルアン氏は今や時の人。リード大陸中にその名を知られた大画家で、彼の絵を手に入れるためなら大金も惜しまない輩が山ほどいる、とか……」言い進めるうちに、颯斗の声は尻すぼみになっていく。「続けろ」意地の悪い笑みを浮かべて、練が先を促す。「なぜ黙る?」颯斗はとうとう白旗を上げた。「すまん。これ以上、口から出任せを続けるのは無理だ」練は額に手を当て、深い溜息を吐いた。「時々、お前のその勘の良さには呆れる。見当違いなことを言っているようで、大筋は合っているのだからな」照れ臭そうに鼻の頭をこすりながら、颯斗はへらりと笑う。「いやあ、それほどでも」「褒めてはいない」練はぴしゃりと言い放った。「話を戻す。今宵、このフォグレインで競売会が開かれる。ルアンの作品が出品されるのだ」「ここで?」颯斗は改めて周囲を見回した。いつの間にか、二人は街の中心に位置する広場へと辿り着いていた。夜の帳が下り始めた空の下、灯りのともる広場を目指して、四方から人々が絶え間なく流れ込んでくる。さほど広くもないそこは、すでに黒山の人だかりで埋め尽くされ
Read more
PREV
1
...
45678
...
13
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status