All Chapters of 美人上司に甘やかされる毎日が、残業よりつらい: Chapter 91 - Chapter 100

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第90話

夕暮れどき、颯斗は車を走らせ、診療所へと帰る道をたどっていた。先ほどから助手席に座る練は一言も発さず、バックミラー越しに後部座席の男をじっと見据えている。鎮静剤を打たれた青峰は、いまだ昏睡したまま、ぴくりとも動かない。颯斗はちらりと練の横顔を盗み見て、唐突に口を開いた。「……今日はどうしたんだ?」「何がだ」「さっきの皆川先生の家だよ。あんなふうに激昂するお前、初めて見た」「そうか?」練は淡々と言った。「普通だと思うが」「あんなに言葉を荒らげることなんて、今まで一度もなかったじゃないか。まして当事者の目の前で。……いつものお前らしくない」練は無表情のまま顔を背けた。「……随分と俺のことを知っているような口ぶりだな」その言葉が放たれた瞬間、車内の空気は氷点下まで冷え込んだ。バカでも分かるほど、颯斗は練の「地雷」を踏み抜いてしまったのだ。「そうだね」颯斗は二秒ほど沈黙したあと、自嘲気味に笑みを浮かべた。「俺はただの、何も分かっていない助手だから」表向きは、練が上司で颯斗が部下。そして心界においては、互いに信頼し支え合うパートナーであるだけでなく、常軌を逸した肉体関係さえ持っている。だが現実の練は、自分のことを語ることがほとんどない。知り合ってから今日まで、颯斗は練の過去をほとんど知らない。いや、「無知」と言ってしまっても過言ではないほどだ。それはまるで、水面に映る月のようだった。すぐ近くにあるように見えるのに、手を伸ばして触れようとすれば、波紋が広がってその姿をぼやけさせてしまう。はっきりと見ることも、突き止めることもできない。まして、その掌に掴み取ることなど到底かなわない。颯斗にとって、練とはそういう存在だった。とはいえ、このまま険悪な空気で黙り込んでいるわけにもいかない。颯斗がどうやって場を取り繕おうかと思案していると、後部座席から不明瞭なうめき声が聞こえてきた。「ようやく目が覚めたか」練が冷ややかな目でバックミラーを睨む。青峰は割れるような頭痛に顔をしかめながら、ゆっくりと上体を起こした。虚ろな目で辺りを見回す。「ここは……どこだ?」「青峰一真、と言ったな」練は回りくどいことはせず、単刀直入に告げた。「今日からしばらく、俺たちと一緒に暮らしてもらう」「あんたたちと?」青峰はわけが分からないという顔
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第91話

青峰は呆気に取られたまま反射的に名刺を受け取ったが、すぐさま練が遠回しに自分を「病人」扱いしていることに気づき、カッと顔を紅潮させた。「俺の頭はまともだ!」「不眠、神経衰弱、情緒不安定に過度なストレス。これらは現代人なら誰もが抱える精神的なトラブルだ。誰だって心の安らぎを必要としている。お前も例外ではないでしょう」青峰をなだめるべく、練はひとまずもっともらしい口実を口にした。何があっても、本人の前で居候させる「真の理由」を明かすわけにはいかない。それは、皆川の安全を確保するためだけではなく、ナナミからの依頼で数日間にわたるカウンセリングを行う目的があったからだ。今回の音信不通騒動は結果として空振りに終わったものの、皆川にとって青峰の存在は時限爆弾に等しい。もし青峰がその歪んだ性格を改めず、独りよがりな行動を続けるようなら、いずれ取り返しのつかない事態を引き起こしかねない。むろん、青峰には練が腹の底で何を企んでいるかなど知る由もなかった。彼はただ無言で手元の名刺を見つめ、何事かを考え込むように押し黙った。その後、車内は静まり返った。三人がそれぞれの思惑を抱えたまま帰り着いた頃には、診療所の周辺はすっかり夜のとばりが下りていた。「ここが俺たちの診療所です。一階が仕事場で、二階が居住スペースになっています。リビングと二つの寝室のほかに、奥にはワークルームもありますよ」かつて颯斗がここに身を寄せた時も、練は同じように診療所を案内してくれたものだ。あれから半年以上が過ぎ、今度は颯斗が新たな同居人を案内する番になったのだから、運命の巡り合わせを感じずにはいられない。入る前はあれほど不満げだった青峰だが、ひとたび足を踏み入れるなり、その目つきは一変した。「……広いな。それに、綺麗だ」青峰は物珍しそうに室内を歩き回り、あちこちに視線を巡らせている。「いいでしょう?」颯斗は少し得意げに胸を張った。「毎日掃除しているのは俺ですからね。他はともかく、清潔さにはかなりの自信があるんですよ」「それで?俺はどこで寝ればいいんだ」青峰は遠慮する素振りも見せずに尋ねた。「数日なら、俺の部屋を使ってください」颯斗が二階を指差す。「ちょうどよかった。ついこの間、大掃除をしたばかりなんですよ」「あんたの部屋?じゃあ、あんたはどこで寝るんだよ」「俺は……」颯斗は誤魔化すよ
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第92話

昼間の出来事もそうだった。あの時の練はあからさまに不機嫌で、言葉の棘も相当なものだったはずだ。それなのに颯斗は怒るどころか、はははと笑って自らフォローを入れ、その後も練の顔色をうかがうように、終始気を遣いながら話しかけてきた。「……悪かった」練の呟きはひどく小さく、ドライヤーの稼働音と、隣で響くいびきにかき消されてしまいそうだった。それでも、颯斗はその微かな声を決して聞き逃さなかった。「え?」彼はいきなりドライヤーを止め、こちらを振り返った。「今、何か言った?」(こいつ、犬並みの耳でも持っているのか)練は心の中で密かに毒づいたが、当然そんなことはおくびにも出さない。「いや、別に。空耳だろ」「嘘だ!絶対に何か言ったよな」練は押し問答を早々に切り上げ、手にしていた本を放り出すと、布団を引き寄せてその中に潜り込んだ。「もう寝る。おやすみ」そのまま強引に狸寝入りを決め込む。だが当然、颯斗がそれであっさりと引き下がるはずもなかった。ドライヤーのコンセントを抜いて引き出しに押し込むや否や、ベッドに這い上がり、練の隣へと潜り込んできたのだ。同居を始めて半年以上が経ち、心界では既に何度も肌を重ねてきた二人だが、現実世界の同じベッドで眠るのは、思い返せばこれが初めてのことだった。「寝るの早くない?まだ十時だよ」「俺は老人だからな。お前ら若者みたいに夜更かしはできないんだ」「……子供の頃の話、聞かせてくれよ」「俺の子供の頃の?」練は不意を突かれたように振り返った。「……藪から棒だな。急にどうした」颯斗は真剣な眼差しで練をじっと見つめ返し、静かに口を開いた。「さっきのお前が言った通りだと思ったんだ。俺は、お前のことを何も知らないくせに、知ったような顔をして口を挟んだ。……傍目八目というか、当事者の苦労も知らない気楽な立場からの、無責任な物言いだった」練はしばらく沈黙を保っていたが、やがて諦めたように深い溜息をついた。「お前というやつは……面の皮が厚いと言われたことはないか?」「あるよ、高校の時の先生にな。あの頃から俺の図太さは折り紙付きだ」練は呆れたように口角を引き攣らせた。「……威張るな」「これでも反省してるんだよ」颯斗は真っ直ぐに練を見つめて言った。「だから、お前を知るチャンスをくれないか。過去の話を、聞かせてほしいんだ」その言
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第93話

皆川の邸宅で見せた青峰のあの常軌を逸した振る舞いを思えば、これほど厄介な人物と同じ屋根の下で暮らすのは前途多難であり、困難の連続に違いない――颯斗はそう、最悪の事態を覚悟していた。ゆえに翌朝、リビングへ降り立った際に目にした光景は、彼に己の目を疑わせるに十分だった。キャットタワーの前で無骨な体を屈め、フロイトに向かって熱心に猫じゃらしを振る青峰の姿があったのだ。一夜明け、フロイトの青峰に対する剥き出しの敵意は、幾分か鳴りを潜めたようだった。とはいえ、元は野良の身。その根底には、人間への強い警戒心が根深く沈殿している。青峰がどれほど甲斐甲斐しく猫じゃらしを操ろうとも、フロイトは泰然自若として座ったまま、一瞥だにせず彼を無視し続けた。微塵も愛想を振りまこうとはしない。「……お前、一体何を食えばそんなに太るんだ?」青峰は強面で無愛想な表情を崩さぬまま、手元の猫じゃらしを動かし、独り言のようにフロイトへ語りかけている。その姿は、彼が纏う「クールな男」という硬質な雰囲気からは、あまりにもかけ離れたものだった。「『フロ』と呼んであげないと、見向きもしてくれませんよ」颯斗が歩み寄り、棚からキャットフードを取り出した。その音を聞きつけるや、フロイトはようやくその高貴な前足を上げ、大きく伸びをした。そして颯斗の足元まで悠然と歩み寄ると、淡々と「下僕」が供する食事を待ち始めたのである。人の気配に気づいた青峰は、即座に猫を愛でる素振りを霧散させ、いつもの無表情に戻って傍らに立った。しかし、その視線は隠しきれず、時折フロイトの方へと吸い寄せられている。ほどなくして、南国の果実を思わせる芳醇な珈琲の香りがリビングに満ちた。見ずとも、練が台所で豆を挽き、丁寧に淹れているのだと知れた。毎朝のハンドドリップは、練にとって欠かすことのできない神聖な儀式だ。練という男は、普段から「美食を愛するが、指一本動かそうとしない」性分で、家事の類いはすべて颯斗に丸投げしているが、こと珈琲に関しては決して他人の手を借りようとしなかった。「青峰さんも、猫がお好きなんですか?」餌を与えながら、颯斗が何気なく尋ねた。「……まあな」青峰の返答は、意外なほど素っ気なく、しかし明確な肯定だった。「意外ですね」颯斗は素直な驚きを口にする。「失礼ながら、ペットには興味がないタイプだと思っていました」
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第94話

青峰は小さく頷いた。「当時、ある時代劇で主役のアクション吹き替えをやっていてね。有栖は脚本家として、よく撮影現場に顔を出していた。俺たちはそこで知り合ったんだ」「でも、妙ですね」そこまで聞いて、颯斗も拭いきれない違和感を覚えた。顎に手を当て、記憶をたぐるように思い返す。「確かあの日、皆川先生は青峰さんのことを『高校の同級生だ』と言っていましたよ」「高校の同級生?」青峰は心底腑に落ちないといった顔つきになった。「……それは、本当に俺のことか?」「それに皆川先生は、お前が去年、彼を頼ってこの東雲市へやって来たとも言っていたぞ」練が畳みかけるように告げた。「あの日、彼がはっきりと口にしたことだ」「だが、俺の言っていることも本当だ!ちゃんと証拠だってある!」青峰は負けじとスマートフォンを取り出し、画像フォルダを開くと、素早い指つきで画面をスクロールさせた。「撮影がクランクアップした後、有栖が役者仲間を飲み会に誘ってくれたことがあってな。その時の写真が……あった、これだ!」そう言って、青峰は二人の眼前にスマートフォンの画面を突き出した。光量が足りず、ピントも甘い写真だったが、背景から居酒屋のような場所であることは窺えた。皆川は七、八人のグループの中心に陣取り、他の面々と同様にグラスを掲げ、カメラに向かって快活に微笑んでいる。だがただ一人、端に座る青峰だけはレンズに目線を向けず、真っ直ぐに正面の皆川を凝視していた。「……こんな写真一枚では、何の証明にもならないな」練が冷ややかに切り捨てた。颯斗も困惑を隠せない様子で同調した。「確かに。ここに写っている人は一人も存じ上げませんし、もし『同級生の集まりだ』と言われたら……そう見えなくもありませんからね」その言葉に、青峰は一瞬、二の句を継げなくなった。「……つまり、あんたたちは俺が嘘をついていると言いたいのか?」青峰の声のトーンが、急激に低く沈んだ。「いえ、決してそういうわけじゃなくて……」颯斗が慌ててフォローに入ろうとしたが、隣の練がそれを遮るように口を開いた。「無論、早急に結論を出すつもりはない。俺たちはお前のことも、皆川先生のことも、深くは知らないからな。俺たちに判断できるのは、目の前にある明白な事実だけだ。つまり、お前か皆川先生か、どちらか一方が確実に嘘をついているということ。──お前な
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第95話

青峰は意気揚々と皆川のマンションへ乗り込んだものの、完全にあてが外れてしまった。当の皆川が留守だったのである。実のところ出発に際し、練は皆川とナナミにメッセージを送り、青峰が向かっている旨をあらかじめ報せていた。それを知った二人は即座に避難を決め、近所のカフェへと身を潜めていたのだ。そんな事情など知る由もない青峰であったが、やすやすと引き下がるつもりも毛頭ない。皆川が不在ならば、戻ってくるまでマンションのエントランスで待ち続けるまでのことだ。練と颯斗にしても彼を放っておくわけにはいかず、結局その傍らに付き添う羽目になった。昼食も交代で手早く済ませ、常にどちらか一方が青峰のそばに控えるようにした。それだけでなく、二人は水やパン、チョコレートなどを差し入れたが、青峰に食欲がないのか、それらに一切口をつけることはなかった。こうして三人は、白昼から夕暮れ時まで「株を守りて兎を待つ」が如き膠着状態を続けた。どこから聞きつけたのか、あの日の管理会社のスタッフまで駆けつけ、青峰の顔を見るなり根掘り葉掘り問い詰めてきた。その執拗な尋問にすっかり辟易した青峰は、一日を徒労に終わらせた疲労も相まって、ついに練と颯斗の説得に折れ、マンションを後にしたのである。散々振り回された末、帰路につく頃にはとっぷりと日が暮れていた。練は、霜に打たれた茄子のようにうなだれる青峰を見かねて、行きつけの焼肉店へと二人を連れ立った。注文の際、颯斗がメニューを青峰の前に差し出し、何を食べたいかと尋ねた。青峰はしばらく沈黙を守っていたが、やがて「……酒が飲みたい」とだけこぼした。颯斗は困り果てて練に視線を送ったものの、練は鷹揚に手を振り、「構わない、好きなだけ頼め」と告げた。やがて肉が次々と運ばれてくると、颯斗は甲斐甲斐しく網の上で肉を焼き、切り分け始めた。しかし青峰はうつむいたまま一言も発さず、ただ黙々と酒を煽り続ける。見かねた颯斗が、ジューシーに脂の乗った厚切り牛タンを数切れ皿に取り分けてやると、青峰は力なく箸で掴み、一口かじった。「どうですか、お味は」颯斗が顔を覗き込むようにして訊ねる。青峰は無言のまま食べ続けたが、咀嚼を繰り返すうちに、突如として何の前触れもなく大粒の涙をこぼした。「えっ、ちょっと!なんで泣いてるんですか!?」颯斗はパニックに陥り、どうしていいか分
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第96話

「ナナミさん?」颯斗と練は同時に瞠目した。皆川とナナミがそういう仲だったとでもいうのか?いや、まさか。あの二人の間に、そのような気配は微塵も感じられなかった。青峰の戯言にどう応じるべきか練が思案していると、青峰は不意に練の襟首を掴み、犬のように執拗にくんくんと匂いを嗅ぎ始めた。「この煙草の匂い、前回と違うな……また別の銘柄に変えたのか」今日の昼間、青峰に付き添っていた際、練は時間を持て余して喫煙室で煙草を数本燻らせた。その残り香が衣服に染みつき、今になってもまだ消えずにいたのだ。練が返答に窮していると、青峰は独りごちるように言葉を漏らした。「そうだよな。お前の身の回りにある物も、周りにいる人間も、何もかもが次から次へと取り替えられていく。いつか俺も、あのガラクタみたいに、お前に捨てられるんだろうな」感情の昂ぶりに伴い、青峰の声はいつしか嗚咽に変わっていた。人は酔うと本音を漏らしやすいとよく言う。青峰のこの戯言がどこまで本気なのか颯斗には計りかねたが、彼の心の奥底に渦巻く無念さと不安は、ひしひしと伝わってきた。「言っとくがな、有栖、俺を振り払えると思うなよ。今生も、来世も、そのまた次の世までも、お前は永遠に俺、青峰一真のものなんだからな」颯斗はたまらず、もう一度バックミラーに目をやった。そこには、青峰に抱きつかれるがまま、我儘な子供をあやすように優しくその背を撫でる練の姿があった。その眼差しには、呆れとどこか優しさが入り混じっている。感情とは、伝播するものなのかもしれない。颯斗はふと、訳の分からない苛立ちを覚えた。その正体を突き詰める間もなく、彼はアクセルを踏み込んだ。エンジンの轟音を響かせ、車は夜の帳が下りた路上を疾走していく。「青峰さんは今は落ち着き、眠っていますよ」クリニックに戻るやいなや、練は皆川からの電話を受け、簡潔に青峰の状況を伝えた。「霧生先生、今日は本当にご苦労様でした。何とお礼を申し上げたらよいか……」「お気になさらず。依頼である以上、我々の務めですから。ただ皆川先生、不躾ながら一つお尋ねしたいことがあります」「何でしょうか」「まず、一つ確認したいことが」練は一拍置いて、切り出した。「皆川先生と青峰さんは、どのようなご関係で?恋人同士、なのでしょうか」受話器の向こうで一秒ほどの沈黙があり、やがて静かな声が
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第97話

皆川が事態を呑み込む間すら与えられず、衣服を無残に引き裂かれ、ズボンは膝下まで乱暴に剥ぎ取られた。青峰は無言のまま、強引に皆川の両脚の間へと割り込んできた。「青峰!何を……っ」悲鳴にも似たその声が途切れるよりも早く、青峰の熱く昂った質量が、何の潤滑もない皆川の最奥へと容赦なく突き入れられた。下半身を貫いたあまりの激痛に、皆川の意識は一瞬白く弾け飛んだ。次に視界が結ばれたときには、青峰は獣のように荒い息を吐きながら、彼の上で猛然と腰を打ち付けていた。長年の付き合いから、皆川は青峰の根底にある優しさをよく知っていた。情事の最中であろうとも、皆川が微かな苦痛の声を漏らせば、即座に動きを止めて気遣うような男だった。だが、あの夜だけはまるで違った。青峰が初めて、なりふり構わず腕力に任せて皆川を蹂躙したのだ。猛り狂う凶器が体内を暴力的に抉り、彼を痛みと快楽の入り混じる歪な絶頂へと幾度も突き落としていった。次に目を覚ましたとき、皆川の体は隅々まで丁寧に拭き清められ、体内の名残すら綺麗に処理されていた。だが、傍らから伝わるはずの体温はとうになかった。這い起きるようにして周囲を見渡せば、青峰の荷物まで影も形も消え失せている。夜が明けるとともに、青峰はただの一言も告げずに彼のもとを去ったのだ。咄嗟に電話をかけた皆川の耳に飛び込んできたのは、「これ以上お前のそばにいたら、自分が何をしでかすか分からない」という悲痛な声だった。「……僕は君が思うほどヤワじゃないよ」「それでも、俺自身が怖いんだ!」電話越しに青峰は声を荒らげた。皆川は押し黙り、やがて絞り出すような低い声で尋ねた。「……じゃあ、僕たちはこれで終わりってこと?」受話器の向こうに、重苦しい沈黙が横たわる。「……ただ、少し一人になって頭を冷やしたいだけなんだ」「わかった。……お互い少し離れて、冷静になる時間が必要なのかもしれないね」皆川は深く息を吐き出し、そう言い残して自ら通話を切った。---「……僕が知っていることは、すべてお話ししました」静かな語り口で、長く重い告白を終えた皆川の声は、電話越しであっても微かに掠れて聞こえた。「……分かりました」練は一つ、深く息を吸い込んだ。「皆川先生、最後にもう一度だけ確認させてください。今お話しいただいた内容は、すべて紛れもない事実ですね?
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第98話

日盛りの頃、渡し場近くの市場は人々の熱気にあてられ、喧騒に包まれていた。船着場では人足たちが各地から届いた荷下ろしに追われ、軒を連ねる街道は、ふらりと茶屋や飯屋の暖簾をくぐる者、連れ立って賭場や色街へと繰り出す者など、大勢の遊客で埋め尽くされている。そんな喧騒の中、青色の道袍を身に纏い、鼻梁に眼鏡を載せた練は、街角の古い榎の木に背を預けていた。鸞の紋様が刻まれた玄鉄の剣を腕に抱き、行き交う人波の向こうにある一軒の書画を商う露店と、そこに佇む一人の書生をじっと見据えている。書生は一幅の美人図の前に足を止め、四半刻もの間、食い入るように眺めてはその場を離れられずにいた。画中の美人は、薄黄と藍をあしらった雅びやかな羅裳に身を包み、白玉の杯を片手に、まどろむように長椅子へ身を横たえている。口元に浮かべた笑みは酷く艶やかでありながら、どこか人を呑み込むような妖しい危うさを孕んでいた。「実に見事だ。まるで仙女が舞い降りたかのように、気高く、美しい」書生はすっかり心を奪われた様子で、ほうと溜息交じりに感嘆の声を漏らす。「お目が高いですね、若旦那」書画屋の店主は、四十手前の小太りな男であった。書生の心酔しきった様子を見て取ると、揉み手をしながら、顔いっぱいに胡散臭い愛想笑いを浮かべた。「この『月下美人図』は、画聖と名高い張公望先生の真筆でしてね。先月、私が大枚をはたいて手に入れた、うちの一番の秘蔵っ子でございますよ」「ほう?」書生はそれを聞き、ぱっと顔色を明るくした。「まさかこんな街角で、それほどの宝にお目にかかれるとは。さぞかし値も張るのでしょうな」「それはもう」店主は得意げに顎を反らせ、三本の指を立ててみせた。「仕入れの元手だけで、銀三百両は注ぎ込みましたからな」「さ、三百両……!?」書生は驚愕の声を上げた。「それは……いくらなんでも手が出ない」「若旦那、ご冗談を。張公望先生といえば宮廷の御用絵師、その真筆が俗世へ流れるなど、そう滅多にあることではございません。三百両など、むしろ安すぎるくらいですよ」「道理は分かっている。分かってはいるのだが……」書生の言葉には、濃い落胆と未練が滲んでいた。明らかにこの画に心底惚れ込んでいるものの、懐具合が許さないらしい。店主は、書生
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第99話

その言葉が発せられた瞬間、現場は鼎の沸くような騒ぎとなった。通りがかりの者たちが次々に足を止め、書画を商う露店を幾重にも取り囲む。人々は月下美人図を指さしながら、口々に無責任な憶測を飛び交わせ始めた。店主の顔が怒りと焦りでどす黒く引きつるのを見て、練は自らの確信を深めた。彼は書生へと向き直り、静かに問いかける。「……先ほど、この画を見て何を感じた」「感じた、ですか?」『人を殺す画』という言葉に呆然としていた書生は、不意を突かれて思わず本音を漏らした。「……ただ、あまりにも生々しくて。瞬きをする間にでも、この美人が画の中から歩み出てくるのではないかと、そんな錯覚に陥ったのです」練は深く頷いた。「やはりな。あんたが感じたその『実在感』は、名だたる絵師の神業などによるものではない。この画に描かれているのは墨で引かれた姿ではなく、化生して画に宿った『化け画』そのものだからだ」「あ、あやかし……?」書生は震え上がり、慌てて二、三歩後ずさった。信じられないといった面持ちで、恐る恐る月下美人図を凝視する。「その通りだ。この『化け画』は人の精気を喰らう魔物であり、特にあんたのような若く陽気に満ちた者は絶好の獲物となる。これに憑かれれば、軽傷であっても精神を病んで昏睡し、重篤となれば文字通り骨と皮ばかりになり、精を吸い尽くされて死に至る」「出任せを抜かすな!」店主は激怒のあまり顔を蒼白にし、口髭を震わせて練を睨みつけた。「この詐欺師め!真昼間から根も葉もない噂を流しやがって。俺の宝を化け画だと言うなら、証拠を見せろ、証拠を!」「証拠か。そんなもの、造作もないことだ」練は平然とした振る舞いで、無造作にその画をひっつかんだ。「この画を焼けば、真偽はすぐに分かる」もし本物の画であれば、火にくべれば焦げ、やがて灰に帰すだけだ。だが、もし化け画であれば、無傷で残るか、あるいは正体を現す。至極単純な理屈であり、説明するまでもなくその場にいる誰もが理解した。しかし、店主は血相を変えて喚き散らした。「ふざけるな!これは三百両もした真筆なんだぞ!燃えてしまったら、お前に弁償できるのか!?」すると練は、その言葉を遮るように呵々大笑した。「……お前が持っているガラクタの値段など知ったことではないが。たかだか三百両程度で、何を血迷って大騒ぎしてい
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