All Chapters of いつか白髪になる日まで: Chapter 1 - Chapter 10

19 Chapters

第1話

斉藤若葉(さいとう わかば)は、地震で半身不随になった白石翼(しらいし つばさ)を、60年ものあいだ介護した。天真爛漫だった女の子は、すっかり白髪になっていた。若葉は、翼が自分と結婚し、養子を二人迎えたのは、心から愛してくれているからだと思っていた。そして、あの地震の時、命がけで彼を助けた自分の恩に報いてくれたのだと信じていた。しかし死の間際になって、翼は最後の力を振り絞って彼女の手を振りほどいた。代わりに彼は一本のペンを胸に抱き、それに愛おしそうな眼差しを向けたのだ。「若葉、君が俺を助けたと嘘をつき続けたことは許してやる。君のせいで、俺の人生は台無しになった。来世では頼むからもう俺を解放して、薫のそばにいかせてくれないか?だって、俺の本当の命の恩人は、彼女なんだからな!」そして若葉が手塩にかけて育てた養子たちまでが、翼の側に立ち、諭すように言ったのだ。「おばさん。血は繋がってないけど、僕たちはおじさんを本当のお父さんだと思ってる。だから、お願い、おじさんを、僕たちの本当のお母さんと一緒のお墓に入れてあげて!」「そうよ、おばさん。あの時、おじさんが母の足手まといになりたくないと思わなければ、あなたと一緒になるはずなかったの。私たちを養子にしたのもそのため。そのおかげで、あなたも私たちにそばにいてもらえたんだから、感謝すべきじゃない?まだ満足できないの?」そうか。自分が彼の命の恩人だと言っても、翼は一度も信じてくれていなかったんだ。60年以上も続けた自分の献身的な介護は、彼が落ちぶれていた時に初恋の人がくれた、たった一本のペンに比べても劣るということなのか。自分が母として注いできたつもりの愛情でさえ、病弱な初恋の人では子供を育てられないと心配した彼の計算ずくによるものだったなんて。その瞬間、若葉は一生をかけて注いできた深い愛情がすべて踏みにじられたような気分になった。彼女は、ひと口の血を吐き出すと、無念のあまり、目を開いたまま息絶えた。それなのに養子たちは、待ってましたとばかりに彼女の遺体を火葬し、遺灰を海に撒いた。自由にしてあげた、などという聞こえのいい言葉を添えて。怨霊になりかけた若葉は、心の中で誓いを立てた。もし来世があるなら、二度とあんな恩知らずな家族のために、馬鹿な献身などするものかと。……「若
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第2話

静香のオフェスを出ると、若葉は自転車に乗って家に帰った。帰り道、彼女はずっと昔の記憶を思い出していた。かつての人生では、静香の忠告を聞き入れず、翼に頼まれて仕事をやめてしまった。そして、自分の仕事を菅原薫(すがわら かおる)に譲ったのだ。安定した仕事を失ってからは、両親が残してくれた遺産で二人の生活を支えるしかなかった。それだけでは足りず、彼女は家政婦などのアルバイトをして家計を助けていた。翼は毎日車椅子に座って、本を読んだりお茶を飲んだりするだけ。なのに、彼はいつも自分のことをみっともないとか、薫を見習えとばかり言っていた。そんなふうに毎日見下されて、若葉は自分が製鉄所で一番期待されていた若手だったことを忘れかけていた。自分は翼のために将来を捨てたのに。彼に自分をどうこう言う資格なんてあるの?そう思いながら、若葉は自転車に鍵をかけると、深く息を吸い込んで、家のドアを開けた。この家は両親が残してくれたもの。でも、家の中には招かれざる客がいた。薫が翼の足元に寄り添って、二人で親密そうに同じ本を読んでいた。翼が怪我をしてから、若葉はあんなに近くに寄れたことなんて一度もなかった。物音に気づいた薫は瞬きをすると、若葉の落ち込んだ様子には気づかないふりをして、待ちきれない様子で尋ねてきた。「若葉さん、仕事の件、どうなった?私、明日からでも出社できるわ」だけど、若葉は何も言わずに、部屋に増えている荷物に目を向けて、眉をひそめた。彼女の顔色が良くないのを見て、薫はまたぺろっと舌を出した。「ごめん、若葉さん。翼さんからもう聞いた?私の家、製鉄所からめっちゃ遠くて、だから翼さんが、私が長い距離を通勤するのを心配してくれて。ここに住みなよって言ってくれたんだけど……迷惑じゃないよね?」彼女がそう言うと、若葉が答える前に、車椅子に座った翼が口を挟んだ。「大丈夫だよ、薫。若葉は気にしないさ。君は俺の命の恩人なんだ。この家も寂しいもんだから、君みたいな明るい子がいてくれたら、若葉だって嬉しいに決まってる」そう言って若葉に視線を移すと、翼の声は少し冷たくなった。「若葉、そこでぼーっと突っ立ってないで、さっさとご飯の支度をしろ。お客さんが来てるんだぞ」かつての人生でも、彼はいつもこんな口調だった。「若葉、俺の
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第3話

「翼さん、私、どのお部屋使えばいい?」若葉の声は、突然大声で尋ねてきた薫の声にかき消された。翼はすぐに車椅子を動かして、薫と一緒に部屋を選び始めた。「この部屋がいいね。日当たりもいいし、君にぴったりだ」「本当?翼さん、どうして私がこの部屋を一番気に入ったって分かったの?」薫は嬉しそうに言うと、ドアを開けて中に入っていった。その瞬間、若葉は全身の血が頭に逆流するような感覚に襲われた。そこは、自分の亡くなった両親の部屋だったからだ。ダメ、絶対にダメ。若葉は狂ったように部屋に駆け込んだ。でも薫は、彼女が宝物のように大切にしていた家族写真を、すでに手に取っていた。「早くそれを置いて!」だけど、薫は若葉を一瞥すると、わざとらしく手を滑らせた。すると、写真立ては床に叩きつけられて粉々になった。そして、飛び散った破片の一つがちょうど薫のすねをかすめた。薫は悲鳴をあげた。「きゃっ、足から血が!」それを見て、翼はすぐに我を忘れて車椅子を動かした。そして、床に落ちた写真をそのまま踏みつけていった。「薫、大丈夫か。今すぐ病院に連れて行っててやる!」彼はそう言って慌てて薫を連れて出て行った。その傍らで取り残されて呆然としている若葉には、まったく気遣うことなく。若葉はゆっくりと床に膝をついた。鋭いガラスの破片が散らばっているのも構わず、両親と写ったたった一枚の写真を拾い上げた。若葉は必死で写真を拭いた。でも、優しい両親の顔には、車輪の跡が二本、黒く残ってしまっていた。「お父さん、お母さん、ごめん!」若葉は写真を抱きしめ、誰もいない家で、子供のように泣きじゃくった。でも、彼女を一番愛してくれた二人は、ただ写真の中から、優しい眼差しを向けてくるだけだった。それから、若葉は一人で部屋の惨状を片付けた。彼女は破片を一つ一つ拾い集めて綺麗にすると、ドアにしっかりと鍵をかけた。もう二度と、誰にも両親の安らかな眠りを邪魔させない。すべてを終えてから、若葉は自分の足もガラスで切れていることにようやく気が付いた。血がだらだらと流れていて、見るからに痛々しい傷だった。彼女が自分の部屋に戻って手当てをしようとしていると、翼がまた慌てた様子で飛び込んできた。彼は若葉の足の酷い傷には目もくれず、いきなり引き出し
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第4話

「冗談はやめろよ、若葉。君はご両親に甘やかされて育ったお嬢様じゃないか。力仕事もできないのに、俺を助けられるわけがないだろ?あの地震の時、君は出張で遠くに行ってて、戻ってこなかったはずだ。もし薫が何度も外で歌ってくれなかったら、俺はもうダメだった。彼女は自分の危険も顧みずに俺の命を救ってくれたんだ。君は、その恩まで横取りするつもりか?」そして、自分の言い方が少しきつかったと気づいて、翼はこめかみを揉みながら、一歩下がったように言った。「まあいい。俺が薫を気にかけているからって、君は嫉妬してるんだろ。考えすぎるなよ。俺の両親も亡くなる前に、君のことを大事にしろって言っていたし、君との結婚は予定通りするからさ」若葉は、ただ心が冷えていくのを感じた。長年の付き合いなのに。翼は、薫の隙だらけの嘘を信じて、自分のことは信じようとしない。若葉ははっきりと覚えている。翼が瓦礫の下敷きになったと聞いて、自分は無我夢中で夜通し駆けつけた。崩れ落ちた壁を見て、転んでできた体の傷も構わずに、素手で瓦礫を掘り起こし始めた。白くきれいだった両手は、あっという間に傷だらけになって血が滲んだ。それでも、自分は決して諦めなかった。ようやく翼の弱々しい声が聞こえると、自分は二人が子供の頃に聞いた童謡を何度も歌った。声がかすれるまで歌い続け、とうとう気を失ってしまった。しかし、自分が目を覚ました時に、翼は薫の手を握って彼女が命の恩人だと言ったんだ。あの時翼が薫に向ける眼差しは、感謝に満ちていた。そればかりか、言葉にできないような優しささえも含まれていた。あの日から、翼はまるで別人のようになってしまった。同じ足の怪我にしても、薫のはただの小さなかすり傷だ。なのに、彼はこんなにも慌てているなんて。自分の足にはいくつも傷があるというのに、翼はそれを見ようともしない。昔は、自分が少し皮を擦りむいただけでも、翼は心配してくれたのに。自分が15歳の時、学校の同級生数人にいじめられたことがあった。その子たちは、花壇のバラの棘を摘んで、自分のカバンに入れたんだ。自分は気づかずに、指を刺してしまった。その日、いつもは模範生だった翼が、喧嘩で退学になりかけた。彼が顔中あざだらけで自分に会いに来た時、まだ無邪気に笑っていた。「若葉、もう
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第5話

一方で、翼は薫を連れて、午後いっぱい街を散策した。暗くなる頃、二人はたくさんの買い物袋を手に下げて帰ってきた。薫は午後の口論なんてすっかり忘れた様子で、家に入るなり若葉のそばに駆け寄り、甲高い声でまくし立てた。「若葉さん、このネックレス、すっごく綺麗でしょ。翼さんが買ってくれたの!このワンピースも!すごく似合うって言ってくれたんだけど、本当に私に似合ってるか、見てくれる?」薫の子供じみた挑発を、翼は分かっていながら止めようとしなかった。ただ、愛おしそうに彼女を見つめるだけだ。二人とも、若葉が怒り、取り乱し、ヒステリーを起こすとでも思っていたのだろう。翼は、ポケットに小さな箱を忍ばせていた。薫にネックレスを買ったついでに手に入れた、銀のピアスだ。若葉が癇癪を起こしたら、これを渡して機嫌をとるつもりだった。そうすれば、今日の気まずさも帳消しにできるはずだ。しかし、若葉は彼らの予想に反して、騒ぎ立てることはなかった。彼女は薫が見せびらかすネックレスとワンピースにちらりと目をやり、ただ静かに「いいじゃない、すごく似合ってるわ」とだけ言った。そう言われて、薫はまるで相手にされなかったように感じで、すっかりつまらなくなった。そして、彼女はまたふと何かを思いついたように、わざと若葉の前にぐっと身を乗り出した。「じゃあ、若葉さん、この腕輪も見て。翼さんのお家に代々伝わる宝物なんだって。特別に貸してもらったの!」その言葉に、若葉の表情が初めてかすかに揺らいだ。薫がつけているその腕輪には、見覚えがあった。以前は翼の母親がつけていたものだ。代々、嫁に受け継がれる大切な品だと聞いていた。自分もそれとなく欲しいと何度も伝えたが、翼はいつも話をはぐらかした。しまいには、腕輪は失くしてしまったとまで言っていたのに。なるほど。本当に結婚したい相手に、とっくに渡していたというわけか。翼も、若葉があの腕輪の意味を理解していると分かっていた。だから、慌てて口を開こうとした。「若葉、誤解するな。これはただ薫に貸してやっただけで……」しかし次の瞬間、薫が後ろに大きくよろめいた。その倒れ方は、まるで誰かに突き飛ばされたかのようだった。彼女は床に強く体を打ち付け、不満そうに声を上げた。「若葉さん、どうして私を押すの?
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第6話

若葉の額に巻かれたガーゼを見ると、翼の硬い表情が少しだけ和らげて言った。「若葉、昨日は俺がカッとなりすぎた。たいしたことなくてよかったよ。でも、最近の君はちょっとやりすぎだ。俺たちはどうせ結婚する仲なんだし。薫は命の恩人で、これからは本当の妹みたいに大切にするって、前に話しただろ。だからもう少し大人になって、彼女に意地悪するのはやめてくれないか?」そう言う翼は、声のトンを下げてはいなかった。するとそれを聞いた行き交う同僚たちが、若葉に奇妙な視線を向けてきた。その視線に、若葉はちくちくと胸が刺されたようだった。そして、周りのひそひそと話の声も、彼女の耳に入ってきた。「若葉さんって、こういう人だったんだ。そんな風に見えなかったけど、本当は嫉妬深いんだね」「そうよね、命の恩人まで目の敵にするなんて、ちょっとひどすぎるわ」「普段は猫をかぶってるだけかもね。だから私たちには本性が見えないんだわ。なんたって、翼さんは彼女と20年も付き合ってるんだから」幼馴染で婚約者でもある翼が、他の女のために若葉の評判を落とすようなことをするなんて、誰も思わなかった。若葉の耳に入る声は、当然、翼にも聞こえていた。でも、翼は何も説明しようとはしなかった。明らかに、彼女に灸を据えるつもりなのだ。そして、隣にいた薫も口を開いた。「翼さん、若葉さんを責めないで。たぶん、仕事を私に譲りたくないだけだから。若葉さんの気持ちも分かるし、大丈夫、私が我慢をすればいいだけだから」薫の健気な言葉を聞いて、製鉄所の男性同僚たちが次々と彼女の肩を持ち始めた。「若葉さん!たかが仕事一つのために、こんなか弱い子をいじめるのかよ!」「そうだそうだ。仕事を彼女に譲ったって、どうってことないだろ。あなたは金持ちなんだから、食いっぱぐれる心配もないだろう」若葉は、彼らの醜い顔を見て、クスっと笑った。「仕事一つだって?そんなに気前がいいなら、あなたたちの仕事を譲ってあげたらいいじゃない?仮に彼女が人助けをしてたとしても、相手は翼でしょ。私に何の関係があるの?なんで私が仕事を譲らなきゃいけないわけ?」その言葉を聞いて、さっきまでのひそひそ話がぴたりと止んだ。若葉の言うことにも一理ある、と多くの人が思った。確かに自分だって、簡単に仕事を他人に譲った
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第7話

結局若葉は、ひどい怪我で気を失ってしまった。次に目を覚ました時、そこは病院だった。彼女は震える手で、ガーゼに覆われた自分の顔にそっと触れた。じんわりとした痛みで、自分の顔はもう元には戻らないのかもしれない、とはっきりと分かった。「若葉……」翼の声に、若葉は顔を向けた。彼は車椅子に座っていて、申し訳なさそうな顔をしていた。「よかった、目が覚めたんだな。3日間も意識が戻らないから、本当に心配したんだぞ」翼は若葉の手を強く握りしめた。その目元には、彼女を失わずに済んだという安堵の表情が浮かんでいた。隣のベッドにいた中年女性が、その様子を見てにこやかに話しかけてきた。「あなたが事故にあったあと、この子は寝ないでずっと看病してくれてたのよ。本当にあなたのことを大事に想ってるのね。私たちが見てても感心するくらいよ」でも若葉は、翼に握られた手をさっと引き抜いた。そして、そばにあったハンカチで、汚いものでも付いたかのようにゴシゴシと手を拭いた。それを見て翼の表情は暗くなった。それでも、彼は無理に笑顔を作った。「若葉、俺が悪かった。もう分かってる。もう日取りも決めたんだ。来週、結婚しよう。結婚してくれたら、後はもう好きなように俺を責めてくれていいからさ。な?薫はちょっとどうかしてただけなんだ。ほんの些細な間違いなんだよ。だから、嘆願書にサインしてくれないか?」若葉は聞き返した。「彼女は、逮捕されたの?」翼はしばらく黙り込んだ。そして、言いにくそうに口を開いた。「あれは誤解なんだ、若葉。俺が部品をいじってたら、薫がうっかりいくつかに触っちゃって……ほんの、ちょっとしたいたずらのつもりだったんだ。まさか、こんな大ごとになるなんて思わなかった。でも、君はもう大丈夫なんだし。薫もまだ子供なんだから、何も分かってなかったんだ。だから、許してやってくれないか?」翼のあまりに身勝手な言い分に、若葉は鼻で笑った。彼が忘れているみたいだけど、自分と薫は同い年で、たった数ヶ月、自分が先に生まれただけだ。それに、自分たちとももう20歳を過ぎているのに、どこが「子供」だっていうのだろう。若葉がなかなかうんと言わないので、翼は少しイライラし始めた。薫は連行される時、わざとじゃない、と泣きじゃくっていた。あの
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第8話

若葉はさらに2日間入院した。会社からはひっきりなしにお見舞いの人が来たけど、あの日病室を出ていった翼だけは、全く顔を見せなかった。連日お見舞いに来てくれた静香は、翼が来ないことに腹を立てていた。「若葉さん、あんな連中のせいで顔にひどい怪我までしたのに、どうして嘆願書になんてサインしたの?」それを言われ、若葉は力がぬけたように笑いながら、翼に返してもらった懐中時計を撫でた。「山田さん、もうそんなことはどうでもいいんです」静香は一瞬きょとんとしたが、すぐに若葉の言いたいことを察したようだ。「そうね。どうせ、もうすぐここを発つんだものね」その時、ドアの外から翼の声が聞こえた。その声は、なぜかひどく慌てていた。「発つ?どこへ行くんだ?若葉、出張でもあるのか?」静香は、翼が何も知らないことに驚いて、思わず彼の方を見た。でも若葉と目が合うと、すぐに彼女の考えを理解した。「ええ、そうなの。彼女は、もうすぐ出張に行くことになってるのよ」それを聞いて翼はほっと息をついた。彼が何かを言いかける前に、車椅子を押していた薫が口を挟んだ。「若葉さん、嘆願書のこと、ありがとう。私、とっても怖かったの。だから翼さんが慰めるために、K市に海を見に連れて行ってくれるって。綺麗な貝殻、お土産に持ってくるね!」彼女は無邪気で明るい口調で、それが自慢だと気が付いていないようなふりして言った。翼は軽く咳払いをすると、まだベッドに横になっている若葉に目を向けた。「若葉、君も体が良くなったら、海へ連れて行ってあげるよ。安心して。旅行は3日間だけだから。帰ってきたら、結婚の準備をしよう」静香は呆れて、何か言おうとしたが、若葉に腕を引かれて口をつぐんだ。「行ってらっしゃい。楽しんできてね」若葉の言葉を聞いて、翼もずいぶん気が楽になったようだった。「若葉、なんだか前より物分かりが良くなったな」若葉はただ微笑むだけで、何も言わなかった。物分かりがいい?泣きも喚きもせず、翼に八つ当たりすることもなく、彼と薫のすることに無関心になったのは、ただ愛が冷めてしまったからだ。これから赤の他人になる男のために、自分の感情をすり減らす必要なんてないから。それに、自分だって、もうすぐここを離れるのだ。翼は事故の後ずっと自
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第9話

電車の中で、翼は何にでも興味津々で楽しそうにはしゃぐ薫の姿を、どこかぼんやりと眺めていた。若葉と初めて電車に乗った時も、彼女はこうやって自分の手を引いて、あれこれと質問してきたっけな。ふと、出発する前に見せた、若葉のあの虚ろな笑顔を思い出すと、翼は急に不安になった。このところ、若葉の様子はどうにもおかしい。口では、彼女も大人になったんだな、なんて言ってみたものの、彼は心の中で、どこか寂しさを感じていた。若葉はもう、昔みたいに自分のことを想ってくれていないんじゃないか。翼はずっとそんな気がしていた。「翼さん?何を考えているの?」薫が目の前で手をひらひらと振ると、翼ははっと我に返った。彼は申し訳なさそうに薫を見た。「ごめん、薫。ちょっとぼーっとしてた。薫、若葉って最近なんだか変だと思わないか?俺に対して、少し冷たいような……」それを聞いて、薫の瞳に一瞬、暗い影がよぎったが、すぐにいつもの純粋な表情に戻った。「翼さん、女の子同士だから、若葉さんの考えてること、私にはわかるよ。あれは駆け引きよ。ほら、ちょっと冷たくされると、あなたも彼女のことがもっと気になるでしょ?」薫の言葉で、翼の心にあった不安はすっかり消え去った。むしろ、なんだか笑えてきた。なるほど、若葉は自分のことを気にしすぎるあまり、こんな不器用な方法しか思いつかなかったのか。やっぱりあいつは、昔と変わらず自分のことを想ってくれているんだ。そう思うと翼はほっと胸をなでおろした。薫と若葉。一人は恋心を抱いている命の恩人。もう一人は、昔からの許嫁で、結婚しなければならない相手だ。どちらか一方だけを贔屓するわけにはいかない。なにしろ、薫は初めて都会に来た時、羨ましそうにこう言ったのだ。若葉は都会で何不自由なく育って、両親に愛されて、家も裕福で、すべてを手にしているのだから。それにひきかえ薫は、田舎の出身で家族からも大切にされていない。自分の他に、いったい誰を頼れるというのだろう?このところ、若葉に辛い思いをさせていることは、翼自身もわかっていた。ただ、どうしても言い出せないことがあった。あの日、若葉は自分を助けに戻ってこなかった。病院で生死の境をさまよっている時でさえ、彼女は姿を見せなかった。そのことが、翼の心にずっと引っかかって
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第10話

翼はその箱をそっと撫でながら、口元を緩めた。若葉が喜ぶ顔が、もう目に浮かぶようだった。一方、薫は、まるで平手打ちでも食らったかのような顔をしていた。こんなに綺麗で高そうな金のピアスを、翼はまさか若葉に贈るつもりなの?若葉のどこがいいっていうのよ。彼女の内心は嫉妬で燃え上がっていた。でも、薫はいつも物分かりのいい子を演じていたから、何も言えなかった。ただ、翼の後ろについて、店員の探るような視線を感じながら、買ってもらったアクセサリーを腹立たしげに持ちながら店を出るしかなかった。他も沢山買ってもらったというのに、なぜかあのピアスだけは彼女の頭から離れなかった。その頃、翼は、若葉との結婚式を心待ちにしていた。地元の駅に着くと、彼はまっすぐ家に帰らず、レストランへ駆けつけて宴会の予約をしたのだった。それから彼がプレゼントを渡すのに若葉に会いに行こうとすると、また薫に引き止められた。「翼さん、結婚式の前にプレゼントを渡したらつまらないでしょ?あとでサプライズにしてあげたらどう?」そう言われて翼は、きょとんとした顔になった。「確かにそうだな、じゃ、明日の朝、迎えに行く時にでも渡すから、それまで君が少し預けててくれないか?」薫は笑顔で頷いて、快く承諾した。それから、彼女が斉藤家に行ってみると、門には鍵がかかっていた。その足で製鉄所に向かうと、そこから静香がウェディングドレスの包みを抱えて出てくるところだった。それを見た途端、薫はとっさにある考えを思いついた。「山田さん、そのウェディングドレスは、若葉さんのものですか?」静香は、若葉と翼の間に割り込んでくるこの薫という女に、良い印象を持っていなかった。だから彼女に話しかけられても、いい顔はしなかった。「あなたには関係ないでしょ?」薫は内心で舌打ちをしながらも、笑顔を崩さずに言った。「若葉さんに届けるところですよね?彼女は留守みたいですけど。よかったら、私が代わりに届けましょうか?」その抜け目のない目つきを見て、静香は、彼女が何か企んでいるとすぐに察した。しかし、若葉が去る前に、薫が問題を起こそうとしたら、そのままにしておくようにと特には言っていた。結局、静香は何も言わずに、ウェディングドレスの包みをそのまま彼女に渡した。一方でウェディングドレスを
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